第09話 「印面 − 指の癖」
午前、雨は細く、路地の端で乾き始めている。凛は薄荷と白川と合流し、市場の裏路地に入った。電材屋、工具屋、古着屋、そしてケーブル屋。店先に、細い金属リングが無数に吊られている。
「ここだ」薄荷が囁く。「この店のリングは、昔の型。印面の打ち方が独特」
店主は初老の女性だった。指は細く、節が硬い。爪は短く、側面に薄い錆の色が残る。彼女は凛たちを見て、視線をリングに落とした。
「お探しは?」
「印面の癖を、見に来ました」
凛がカードの複製印面を見せると、女性は一度だけ瞬きをし、背後の作業台に案内した。作業台の上には、金属の刻印棒とハンマー。槌目が揃っているのに、揃いすぎていない。
「十年前、この街で流行った打ち方だよ。今はもう、やる人が少ない。骨に触る仕事は、長くはできないから」
「この癖、見覚えは」
女性はリングをひとつ指に通し、空を打つ仕草をした。彼女の動きに合わせて、金属の微かな響きが部屋に広がる。
「白い息を出す子がいた。冬でもないのに、息が白く見える。力の入れ方が独特でね。叩く前に、息を止める。十七、二十四、終止」
「名前は」
「柚。神崎 柚」
店主は作業台の奥から、古い手帳も取り出した。ページには、リングの注文と納品の記録。そこに、小さく「柚/整音」と書かれた欄が幾つか並んでいる。日付は十年前から、五年前にかけて途切れている。
「彼女は、音を“整える”前に、まず“聴く”子だった」
「聴きすぎると、薄くなる」
「そう。だから、優しい子は長くはできない。けれど、彼女の優しさは、道具を通して残る。癖として」
凛の喉が乾いた。設定のメモにある名前。自選削除経験者。企業と個人の狭間で“選び直す”と記した人物。
「今は」
「しばらく見ていない。骨の隙間に潜ると、みんな影が薄くなる。けど、君のカードの癖は、あの子の息だ」
店主は作業台の引き出しから、古い名刺を一枚取り出した。角が丸くなっている。
『KANZAKI YUZU — 修繕・刻印・整音』
白川が名刺を受け取り、裏面を光に透かす。薄い、波のような線が見える。
「環境ハッシュを印刷に紛れ込ませてる。巧妙だ」
「あの子は、音の整え方がうまかった。削るんじゃなく、薄める。輪郭を残す。だからこそ、骨に嫌われた」
凛は礼を言い、店を出た。外の光は少し強く、雨は弱い。
「柚は、何を守っている?」
「誰かの“宛先”。あるいは、君の」白川が言う。
「私の?」
「君の“起点”に噛んでいるのなら、君を守るために抜いた可能性がある」
薄荷がミントを噛み、舌で欠片を追う。「守るために抜く。残酷な優しさだ」
市場を抜けると、川沿いの遊歩道に出た。凛は名刺を指先で撫で、裏面の波を確かめる。波は、雨のテンポと似ている。十七、二十四、終止。橋の欄干に寄りかかると、遠くで学生の合唱が聞こえた。音はばらけ、やがて一つに集まって、またばらけた。
「合う前の音も、音だ」凛が言う。
「整えるのは最後でいい」白川が応じる。「まずは、聴く」
「会いに行く?」
「宛先があるなら、配達する」
神崎 柚の居場所は、名刺の連絡先に残っていなかった。電話は繋がらない。メッセージは届かない。だが、薄荷が細い道を一本、二本と選び、古い工場跡に辿り着いた。壁に、ミント色の小さな印。印の横に、手のひら大の白い跡。チョークで描いたような輪。扉の前に立つと、輪の中の粉がわずかに舞い上がる。
「癖のある人は、癖のある隠れ方をする」
鉄扉の前に、白いカードがひとつ置かれていた。『宛先:配達人』。凛は左手で持ち、親指で線を押す。画面のように、文字が浮かぶ。
『宛先:凛(雨の指)』
扉の向こうから、鍵の外れる音がした。
「入って」
声は若い。鈴の音を少し曇らせたような響き。凛は扉を押し、半歩だけ中に入った。薄暗い室内。机。カッターマット。二つの手の影。
「柚?」
「神崎 柚。ようこそ、配達人」
彼女はリングを指に通し、軽く触れた。叩かない。ただ、触れた。十七、二十四、終止。凛の呼吸と、同じリズム。部屋の隅に置かれた古いミシンが、一度だけ小さく軋んだ。ここで誰かが暮らしている気配。
「あなたが“空白”を」
「違う。私は、空白の“縁”を撫でただけ。抜いたのは、あっち」
「あっち?」
「骨。MOTHER。あるいは骨の影」
白川の瞳がわずかに揺れる。「証拠は」
「あるよ。けど、見せる前に、ひとつ配達してほしい」
「宛先は」
「『宛先:わたし』」柚は微笑んだ。「君の“わたし”に」
「君は、私の何を知ってる」
「知らない。知りたくない。だから“わたし”に宛てる。君が選び直すために」
柚の言葉は簡潔で、端が鋭い。その鋭さに、凛の古傷がわずかに反応した。痛みではない。合図だ。
凛は胸ポケットの封筒を握り、深く息を吸った。選び直す音が、また始まる。




