第08話 「骨伝い − MOTHERの咳払い」
夜。街は雨の薄膜に包まれ、信号の赤だけが濃い。凛は薄荷の店に戻り、白川と向かい合った。カウンターの皿には、欠片が一つだけ。
「今日は嘘が少ない」
「嘘をつく余裕がない」薄荷は肩をすくめる。「骨の隙間を辿る準備はできた。だが、あっちもこちらを見てる」
「MOTHER?」
「あるいは、その影」
薄荷は端末を二つ並べ、片方で環境ハッシュを流し、片方で可変宛先カードの層を開く。二つの画面に、雨の波形が違う色で表示される。
「波形を合わせる。“雨”は、この街では共通鍵の一つだ。MOTHERに気づかれずに通るには、鍵の“揺れ”を真似る必要がある」
「倫理モジュール、黄赤」ピコが告げる。「推奨はしないが、阻止はしない」
凛は頷き、カードに左親指を置く。薄荷が示すタイミングで、呼吸を合わせる。十七、二十四、終止。小さな休符に体を沿わせる。
画面に、細い回廊が現れた。都市の骨の断面図。配達管、監視線、記録の流路。そこに、細い隙間が一本、淡く光る。
「ここだ」
「短い。人ひとりがやっと通れる」
「通るのは君じゃない。君の“宛先”だ」
薄荷はカードの層をひとつ深くし、宛先タグを仮固定する。『宛先:蒼井 凛/欠け:アトリエ(雨の日)』
「固定しすぎると、戻れない」白川が釘を刺す。
「固定しないと、辿り着けない」
凛はカードを胸に当て、目を閉じた。雨の匂い。コーヒーの苦味。冷たい金属。カッターマットの切り傷。二つの手。
回廊に、誰かの咳払いが響いた。機械の咳のような、スピーカーのノイズのような。MOTHERの咳払い。
「見られてる」ピコがつぶやく。
「見られてるなら、見返す」
凛は回廊に一歩、踏み出した。実際に体が動くわけではない。記憶の流れに、宛先の影を送り出す。軽い。軽すぎる。空白は、持ち運びに向いている。
最初の角で、影は一度、迷った。二つの方向。片方は明るく、片方は暗い。凛は暗い方を選ぶ。雨はいつも、光のあるほうへ落ちていくから。
暗い回廊の先に、小さな部屋があった。机。カッターマット。二つの手。影の指先に、細いリング。そして、机の角に、見覚えのある浅い傷。アトリエの机の傷と、角度が同じ。記憶は、形でも繋がる。
ノイズ。画面が白く跳ね、回廊が閉じる。薄荷が舌打ちする。「MOTHERの咳。こちらの揺れを掴まれた」
「だが、見えた」白川が画面を巻き戻す。「影の指。このリングの傷は、規格が古い。工業用ではない。手作りだ」
「鍛冶屋の槌目」凛が言う。「昨日の比喩、続き」
「比喩じゃないかもしれない」薄荷が端末に古いフォーラムのログを呼び出す。「昔、記憶タグを手打ちで刻む連中がいた。印面に癖が出る。君の影は、その手だ」
「名は」
「まだ、空白」
店の照明が一度だけ瞬き、雨が一段強くなった。ピコが背後のモニタに警告を出す。「外部スキャン。店の上を、何かが通った」
天井から落ちた一滴が、カウンターで跳ねた。薄荷はミントを噛み砕き、その音を合図にように端末の電源を一度落とす。「深追いすると、骨に噛まれる」
「噛まれたことがあるの?」
「ある」薄荷は皿の欠片をひとつ、指で弾いた。「嘘をつけなくなった夜があった。あれは、骨に触れた罰だ」
白川は黙っていた。彼の沈黙は、責めるためではなく、守るためのものに聞こえた。凛はカードを握り直し、封筒の紙片をもう一度、胸に押し当てる。
「続きは明日だ」白川が言う。「君の“宛先”が消える前に、もう一度、深く潜る」
凛はカードをしまい、封筒の紙片を指で確かめた。五線譜の空白は、まだそこにある。選び直す音は、明日も明後日も続く。
MOTHERの咳払いは、雨の中に紛れ、聞こえたり聞こえなかったりした。去り際、薄荷は店の戸口に小さな張り紙を残した。「本日、雨天短縮営業」。嘘ではない。真実でもない。彼はミントを一粒、凛に渡す。
「甘いほうが、深く潜れる夜もある」
店を出ると、川沿いの道に、小さな張り紙がいくつも風に揺れていた。野良ポストの場所を示す符牒。剥がされた跡に、別の紙が重ねられている。上書き。薄め。雪のやり方と似ている。凛はその一枚をそっと剥がし、裏面に自分の小さな印を残した。槌目のない、まっすぐな印。
「君は印を残した」白川が横に立つ。「追いかけるために」
「追いかけられるために」
その夜、凛は長く眠れなかった。雨の音が途切れるたび、回廊の白いノイズが耳に戻ってきた。ピコは黙って、メトロノームを表示し続ける。十七。二十四。終止。いつか、このリズムを抜いたのは誰だろう。抜いて、何を守ったのだろう。眠りの縁で、薄いリングが光った気がした。目を閉じるたび、アトリエの机の角が胸の内に触れた。




