第07話 「選び直す音 − 宛先:わたし」
朝、雨は弱く、街の輪郭は曖昧のまま保たれていた。凛は机に封筒を置き、椅子に深く座る。『宛先:わたし』。封を切るか切らないかの判断は、いつでも後回しにできる。だが今日は、後回しにしない。
「開ける前に、記録」
「了解」ピコがカメラを起動する。光は弱く、影は薄い。
封を切る。中から出てきたのは、薄い紙片が二枚。ひとつは短い文。ひとつは五線譜の断片。
『配達人へ——忘れたままで届くものがある。そのとき、あなたはどちらを選ぶ?』
五線譜には、雨のように点が打たれている。十七小節目で、一度だけ強く擦れた跡。指で触れると、紙が微かにざらつく。
「選び直す音」凛は呟く。「昨日、アーケードで聴いた青年の音に似てる」
「宛先は特定できる?」
「『わたし』は、今日の私だ。昨日の私でも、明日の私でもない」
凛は紙片を机に並べ、五線譜の“空白”に自分の呼吸を合わせる。ふっと一つ、息を抜く。次の瞬間、窓の外でバイクが鳴り、記憶は現在に引き戻された。
「仕事だ」
依頼は、配達の逆。取り戻し。依頼主は若い母親で、宛先は病院のNICUにいる赤ん坊。彼女は、自選削除の時に“泣き声の記憶”を薄めてしまった。うるささを。夜に泣き続ける音の重さを。今、彼女はそれを戻したいという。
「戻すの?」
「戻す。嫌いだった記憶も、愛情の輪郭の一部だから」
病院の白い音は、雨の音とよく似ていた。機械の規則正しいビープ音。足音。布の擦れる音。母親はマスクの上から目元だけを見せ、凛の前で指を揃えた。
「あのときは、眠れなかった。泣き声が怖かった。でも今は、あの音がないと、空っぽで」
凛はカードを取り出し、認証の準備をする。ピコが小さく「倫理モジュール、緑」と囁く。これは、戻すための配達だ。
再生が始まる。小さな泣き声。息を吸う前の間。喉の奥のくぐもり。母親の肩が、最初は強張り、次にほどけ、最後には震えた。涙は出ない。目の奥が熱いだけだ。
泣き声の合間に、別の音が混じる。父親の笑い声かもしれない低い息。古い木の床の軋み。夜の台所の時計。音の継ぎ目が、家という形を作っていく。母親は目を閉じ、頬に触れたマスクの布を指先で押さえた。
「嫌いだったのに、帰ってくると、こんなに」
「嫌いは、輪郭だ」
凛はカードを外し、記録に印を押す。「再配達不可」「宛先固定」。ピコが「規約に適合」と表示し、緑色の小さな丸が灯る。
「ありがとう」
「宛先は、あなた」
手続きが終わり、廊下に出ると、白川から通知が入った。短い文字。「十七/二十四/—。一致する新規案件」
「どこ」
「音楽学校。旧館のホール」
凛は封筒の紙片を胸ポケットに戻し、病院のガラス扉に映る自分の姿を一度だけ見た。『わたし』は、今この瞬間の輪郭を持っている。
音楽学校の旧館は、昼でも薄暗い。ホールの座席は赤く、舞台の床は黒く磨かれ、天井は低い。ピアノの蓋が開いている。鍵盤の上に、白い紙片。
「また、手紙?」
紙片には、短い譜面と、わずかな指示——十七小節目で息を止めろ、とだけ。
「君の呼吸を見てる」白川が舞台袖から出てくる。「宛先は、君の中にある何かを、確かめようとしてる」
「確かめたいのは、こっちのほうだ」
凛は舞台に立ち、ピアノの前に座る。弾かない。鍵盤に触れずに、五線譜の空白に合わせて、自分の呼吸を止める。十七。二十四。終止。止める。動く。止める。
その瞬間、舞台袖の暗がりに、薄いリングの光が走った。人影。逃げる気配。白川のドローンが低く鳴り、ホールの出口に回り込む。舞台の床がわずかに軋み、天井の低さが音を増幅する。
「誰」
返事はない。人影は、扉に手をかけた。その手の動きに、わずかな躊躇。凛の左手の古傷が、微かに疼く。
「追う?」
「追わない」
凛は立ち上がり、扉に手を添えた。人影の体温が扉に残り、雨の匂いと混ざる。中に誰かがいることだけが、はっきりしている。
「宛先:わたし」
凛は紙片を畳み、ポケットにしまった。選び直すのは、いつも今だ。
ホールを出ると、廊下に古い掲示板が残っていた。黄ばんだ紙に、合唱の歌詞。「忘れないことは、覚え直すこと」。手書きの丸文字が、ところどころに雨染みを作っている。凛は指で紙の端を持ち上げ、元通り押しピンで留めた。
「今日の『わたし』は?」
「少しだけ、やわらかい」
外は、細い雨。校門の陰に、白い猫が雨宿りしていた。片耳の切れたその猫は、凛を見ると一度だけ瞬きをし、すぐに視線を外した。覚えているのに、覚え直す仕草。凛はポケットの中の紙片を確かめ、白川に短いメッセージを送る。「選び直す音、回収」
「返信:了解。夜、薄荷にて」
凛は傘を畳み、雨の中に出た。呼吸は浅くも深くもなく、十七と二十四の間で揺れている。




