第06話 「骨の隙間 − 野良ポストへ」
薄荷のカウンターで、ミントの欠片が白い皿に三つ。嘘は三つ。薄荷は欠片を指先で並べ替え、右から左へ転がした。
「骨の隙間を辿るなら、まずは“野良ポスト”だ。正規系はMOTHERの監視が濃い。継ぎ目を通る癖は、野良のほうが露骨に出る」
「署名の癖を追う」
「そう。君のカードと同じ“癖”が、いくつかの野良で見つかってる」
薄荷は端末に地図を出す。雨に濡れた街の骨格。橋、線路、地下の配送管。点滅する三つの赤い点。十七、二十四、終止のリズムで点滅している。
「演出過多」ピコがぼやく。「でも分かりやすい」
凛はカードをポケットに収め、封筒『宛先:わたし』を胸ポケットに移した。薄い紙の角が、胸骨に触れて位置を主張する。
「君一人は危ない」薄荷が言う。「護衛を頼む?」
「任意同行は、今日は私のほうから頼む」
白川にメッセージを送り、既読になった瞬間、店のシャッターの外でドローンが一度だけ低く鳴いた。合図。二人と一機で、雨の路地へ出る。
最初の野良は、古い公衆電話の筐体を改造した投函機だった。受話器は飾り。投函口は埃を被り、側面に小さなシールがある。楕円の刻印。修理屋で見たチップと同じ印。
「ピコ、環境ログ」
「温度低い、湿度高い、雨の混入。ファームは改造。署名の痕、微弱。……十七小節目相当の欠落を検知」
白川が手袋をはめ、検査棒で内部を軽くなぞる。棒の先が“ふっ”とわずかに軽くなる。空白の手触り。
「ここで誰かが抜いた。指の癖は—」
「同じ」凛が重ねる。「薄いリングの擦れ跡」
二つ目の野良は、地下道の壁に半ば埋まった郵便受けだ。投函口は狭く、人ひとりの指先しか入らない。そこにも同じ印。そして、同じ休符。
地下道には、手書きの落書きが幾層にも重なっていた。古い世代のスラングと、新しい暗号。凛は文字の縁を指先でなぞり、インクの厚みから書かれた順番を当てる。十七、二十四、終止。休符の後に書かれた言葉は、たいてい短い。「またね」「ここにいる」「忘れたくない」。
「忘れたくないのなら、なぜ野良に?」白川が訊く。
「ここでしか届かない宛先がある」
「危険だ」
「危険を選び直す人がいる」
「三つ目は?」
「川沿い」
橋脚の影に、誰かが置いていった鉄の箱。錆に覆われ、蓋は半分だけ閉まっている。凛はためらい、白川は首を横に振った。
「俺がやる」
手袋の指先で蓋を持ち上げた瞬間、箱の中で小さな火花が散った。警報音は鳴らない。代わりに、雨音がわずかに遠くなった。
「静音化トリガ」ピコが低く言う。「感知されにくいよう環境音を吸う」
箱の底に、白いカード。『宛先:——』。指で触れるまでもなく、うっすらと文字が浮かぶ。
『宛先:配達人』
「挑発?」
「招待状」
凛は左手でカードを持ち、古傷の上で角を軽く押した。髪の毛一本ぶんの線を探し当て、親指でゆっくり撫でる。空気が沈み、雨の匂いが変わる。
見えたのは、短い映像だった。アトリエに似た部屋。机。二つの手。薄いリング。リングの向こう側で、誰かの息が一度だけ浅くなる。
「そこだ」白川が呟く。「呼吸の癖。その呼吸を追え」
映像はすぐに切れ、カードはただの白に戻る。橋の下の闇が、雨の粒でざわめいた。
川面を渡る風が、濡れた髪を持ち上げる。凛は目を細め、橋脚の苔の匂いを嗅いだ。湿った石の匂いは、アトリエのコンクリートの匂いに似ている。記憶は、匂いで繋がる。
「君は匂いで過去に行く」白川が呟く。「俺は文字で過去に行く」
「薄荷は?」
「味で嘘を数える」
三人の歩幅が、しばらく同じになる。雨は、その歩幅に合わせてリズムを刻んだ。
「今夜はここまで」白川が言う。「君の“欠け”が疲れる」
「それでも進む」
凛はカードをケースに戻した。胸ポケットの封筒が軽く音を立てる。『宛先:わたし』。誰の“わたし”かは、まだ決めない。
帰り道、ピコが小さな声で歌った。雨の旋律。十七、二十四、終止。休符の位置に合わせて、呼吸を整える歌。
「息を合わせておくれ」
「合わせる」
夜は、まだ長い。
部屋に戻ると、アトリエの窓に水滴が連なっていた。凛は窓を少しだけ開け、外の音を部屋の中に入れる。雨は記憶を薄めるが、輪郭を消すわけではない。窓辺に置いたカップの水面が、雨のテンポに合わせてわずかに震える。
「明日も、野良?」
「明日は骨の隙間。薄く、深く」
「じゃあ、寝る前に呼吸練習」
十七。二十四。終止。ピコが小さなメトロノームを表示し、凛の呼吸はそれに合わせてゆっくりと波打つ。眠りに落ちる直前、胸ポケットの封筒が、心臓の拍動に合わせて軽く触れた。眠りは浅く、雨の音が子守歌になったり、警報になったり、交互に役割を変えた。




