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第05話 「記録室 − 地下に降る雪」

 庁舎の夜間口は、雨の幕で曇っていた。白川のIDで扉が開き、凛は金属の匂いのする廊下を進む。床は濡れていないのに、靴裏に雨の音がついてくる気がする。


「ここから先は監視が濃い。ピコは?」


「庁舎内は原則NG。けど、ローカルログは持ってる。何も“抜かない”約束は続行」


 地下二階。記録室は、冷気の層のように静かだった。壁一面のラックに、記憶媒体が雪のように積もる。白い、薄い、軽い。ラベルは細い文字。


「綺麗だろう。ここに来るたびに、冬を思い出す」


 白川の比喩は、今日はやさしい。端末にアクセスし、いくつかの検索条件を入力する。画面に、薄い履歴が浮かぶ。


『配達人:—』『蒼井 凛(照合薄)』『起点:—』『宛先:—』


「照合薄?」


「本来、ここにあなたの名は残らない。配達人の名前は記録の“縁”にしか触れないから。でも、薄い指が一度、ここを撫でた。そういう痕跡」


 白川は、指で画面の端を拡大する。小さなタイムスタンプが、雨粒のように並ぶ。ひとつ、十七小節目。もうひとつ、二十四小節目。そして、終止線。


「署名は?」


「ある。薄い。前に見せた“癖”と同じ。ただ、ここにもう一つ重なる署名がある」


「誰」


「MOTHER」


 凛の喉が、無意識に鳴る。都市インフラに組み込まれた記憶管理の根幹。通常ログに、MOTHERの署名は現れない。現れてはいけない。


「監査権限を横断して、ある時刻、ある範囲の記録を“薄めた”。削除ではない。薄めた。雪の上書き、みたいに」


 白川は一枚の媒体をラックから取り出し、読取台に置く。冷たい白。表面に、肉眼では見えないくらいの凹凸がある。


「あなたの“起点”に噛んでいる可能性がある。ここを見せたら、私はクビかもしれない」


「どうして見せるの」


「君に助けられたから。昔」


 その言葉は、雪の上に落ちた小石のように、音もなく沈む。凛は視線を白川から外し、読取台の表示に集中した。ピコが、グレーの通知を出す。「外部端末、読み取り専用でリンク」


 画面が、ゆっくりと満ちる。黒い画面に、一行の文字が浮かぶ。


『受領:未完/返却印:二重/理由:宛先変更(配達人裁量)』


「すみれの件」


「いや、もっと前。日付が合わない」


 次の行が現れる。遅い。雪に埋もれた文字を掘り出すように、滲み出る。


『付記:起点/立会:—/監査:白川 透(候補生)』


「候補生?」


「十年前。私はここにいた。けど、記憶は薄い。雪の上で昼寝した後みたいに」


 白川の手が、ほんの少し震えた。彼は嘘を吐かない。吐けない。その震えは、過去の自分にも向けられている。


「もう一段、潜る」


 白川が権限を積み、画面の奥を開く。警告が三つ、赤く点滅して消えた。ピコが小声で「倫理モジュール、黄赤」と言い、黙る。


 ノイズが去り、一枚の静止画が現れる。アトリエによく似た、小さな部屋。机。二つの手。片方は凛の左手。古傷。もう片方は、影になっている。


「これだ」


 凛は画面に近づく。呼吸が浅くなる。影の手の指先に、細いリングが光っている。指輪ではない。工具のリング。ケーブル束を束ねる古い習慣の名残。


「誰かの手癖」


「癖は署名になる」


 画面の端に、薄い注釈が浮かぶ。


『差出人:未記入(可変)/宛先タグ:個体適応型/備考:外部介入痕(微)』


「外部介入」


「MOTHERが手を入れたか、あるいは、それに準ずる何かが。君の“起点”は、都市の骨のどこかに結びついている」


 部屋の空気が、さらに冷たくなる。凛は、内ポケットのカードを指先で確かめた。軽い。なのに、沈む。


「行こう」


「どこへ」


「薄荷。彼は骨の隙間を通る道を知っている」


 白川は頷いた。読取台の媒体を丁寧に戻し、端末に鍵をかける。その手順は、雪に足跡を残さない歩き方に似ている。


 記録室を出る直前、天井のスピーカーが一度だけ小さく鳴った。誰かの咳払いのような、機械の溜息のような。


「今の、何」


「気のせいだといい」


 二人は地上へ上がる。雨音が、久しぶりの友だちの声みたいに、近づいてくる。


 凛は傘を開き、白川と別れた。空白に触れた指先は、まだ冷たい。薄荷の店へ向かう道は、雨でよく磨かれている。舗装の継ぎ目に水が溜まり、街灯の光を小さな池ごとに分けている。


 道の途中、メモリーポストの前で立ち止まる。投函口に、誰かの忘れた手紙が差し込まれていた。紙の封筒。表には、滲んだ文字で宛名がある。


『宛先:わたし』


 凛はそれを取り出し、封を切らずにポケットに入れた。封筒の紙は雨で少し柔らかい。指先に残るその柔らかさが、胸の奥の硬い部分をわずかに解かす。


 角を曲がると、路上演奏の青年がアーケードの軒先で濡れないようにギターを弾いていた。旋律は、すみれの再生で聴いた曲に似ているが、十七小節目で違う音を選ぶ。凛は立ち止まり、耳を傾けた。


「覚えているけど、選び直す音」


「定義の更新?」


「ただの感想」


 青年は帽子の中の硬貨を確かめ、軽く会釈する。世界は、選び直しでできている。忘れることも、覚え直すことも。


 薄荷の店の前に着くと、シャッターは半分だけ開いていた。鉄の隙間から、ミントの匂いが漏れてくる。インターホンを押す前に、内側から声がした。


「開いてる。閉まってるふりをしてるだけ」


 凛はシャッターをくぐった。薄荷は相変わらずカウンターにいて、白い皿にいくつかの欠片を並べている。皿の上の山は、今日は少し低い。


「嘘、減った?」


「君が来る日はね」


 凛はポケットの封筒を出し、カウンターに置いた。


「拾った。開けるべき?」


「宛先は『わたし』。開けるべきかどうかは、その『わたし』が誰かで変わる」


 薄荷は封筒を持ち上げ、光に透かした。中には、もう一枚、小さな紙片が入っている影。彼は封を切らずに戻し、皿の横に置いた。


「まず、骨の隙間の話からにしよう。MOTHERの骨は硬いが、継ぎ目は必ず柔らかい。君の“起点”は、継ぎ目に指をかけた誰かの仕事だ」


「誰」


「今夜、もう少し潜れば、指の体温まで分かるかも」


 薄荷はミントをひとつ、舌の上で溶かした。店内の古いスピーカーがわずかに唸り、雨の音が深くなる。


「準備はできてる。君の欠けは、君に任せる。俺は鍵穴を示すだけだ」


「鍵はある」


 凛は内ポケットのカードを取り出した。『宛先:——』の文字は、まだ形を持たない。だが、次に読むべき場所は、もう決まっている気がした。


 地下に降る雪の記憶は、地上の雨に少しずつ溶けていく。溶けた水は、必ずどこかへ流れる。その行き先に、宛先がある。


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