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第04話 「試投 − 雨窓の実験」

 夜の仕事場は、雨の音を拾いやすい。窓際に置いた古いラジカセのマイクを、凛は外に向け、拾った雨脚をスピーカーに返す。単純な反響で、部屋の輪郭が少しだけ柔らかくなる。


「実験?」


「試投。可変宛先の“宛てる側”を、こちらで用意する」


 薄荷の店で見た、髪の毛一本ぶんの線。その上に指を置けば、宛先は読み手の欠けに合わせて変わる。ならば、欠けを誘導できるか。凛は、机の上に三つの印象を並べた。音、匂い、触覚。雨音、コーヒー、冷たい金属。


「自分を偽装するってこと?」


「厳密には、焦点をずらす。宛先が“私個人”から“私の中の一部”へ向くように」


 ピコが慎重に沈黙したのち、小さく了解音を鳴らす。「倫理モジュール、黄色。続行可能」


 凛はカードを取り出し、左手の親指を線にそっと触れた。窓の外の雨音を少し上げ、コーヒーカップを鼻先に寄せ、机の上のボルトに触れる。心拍が、規則正しく二拍、揺れた。


『宛先:——』


 文字がにじみ、やがて別の形に結ぶ。


『宛先:アトリエ(雨の日)』


「場所指定?」


「意図的に曖昧だ。“人”ではなく“場”。欠けているのは、そこで起きた何か」


 凛は立ち上がり、コートを羽織った。アトリエと呼んでいる、半分物置の作業部屋は建物の別棟にある。屋外廊下を渡る間、雨が額に散った。


 アトリエは、窓の少ない四畳半。壁に工具。棚にケーブルと古い端末。中央の机に、使い込んだカッターマット。凛は部屋の電気をつけず、雨窓からの明かりだけで動いた。暗さは、記憶を静かにする。


「ここで、何かを失った?」


「覚えていない。それが空白」


 カードを机に置き、ポータブルのスピーカーを接続する。ピコが小声で手順を読み上げ、認証の準備を進める。「生体鍵は一致。環境ハッシュは雨。宛先タグ、場に固定。投函を開始する?」


「始めて」


 再生ではない、投函。音が鳴る代わりに、空気が少し沈む。部屋の温度が一度、下がった気がした。雨音が、薄い膜の向こうへ退く。


 見える。と、思った。暗い机の上に、二つの手の影。片方は自分の手。もう片方は、少し大きく、爪の形が違う。二つの手の間で、何か小さなものが揺れている。鍵か、リングか、薄いメモリカードか。


「誰?」


 声に出た瞬間、影は割れ、雨音が戻る。ピコの通知が鳴った。「割り込み検知。外部からのスキャン」


 白川だった。アトリエの外、廊下の角にドローンの影が見える。


「任意同行のお願いは三度目だ」


「仕事中」


「知ってる。だから止めに来た」


 扉を挟んだ会話。白川の声は、雨に薄められて穏やかだが、芯がある。


「可変宛先を場に固定して、自分で投函する。危険な遊びだ。戻れない可能性がある」


「戻る必要がない。ここは私の場所」


「場所は、人の印でできてる。印は消せる」


 凛はカードをポケットに入れ直し、扉を開けた。白川の傘の縁から落ちた水滴が、足元で跳ねる。


「君に何が見えた」


「二つの手。私と、誰か。何かを渡していた」


「起点の配達か?」


 その言葉に、胸の奥がわずかに縮む。起点。自分が“配達人になった理由”。思い出せない穴。


「行こう。記録室まで。任意同行じゃなく、同行。記録を見せる」


 白川の瞳は揺れていない。彼は嘘を吐かない。吐けない。ピコが「男性の心拍、平常」と呟く。


「記録室?」


「メモリーポスト庁の地下。公式の記憶が積もる場所。君の名が、そこに薄く残っている」


 雨は相変わらず降っていた。凛は一歩、廊下に出た。足元の水たまりが、室内の暗がりを映す。


「条件がある。私が戻るまで、何も“抜かない”と約束して」


「約束する」


 白川は傘を少し傾け、凛に差し出した。二人分の雨粒が、同じリズムで傘を叩く。


「ピコ、留守番」


「了解。アトリエのログを守る。侵入があれば、薄荷に連絡」


 凛は階段を降りた。可変宛先のカードは内ポケットで静かに重みを主張し、左手の古傷は、雨に触れた鉄の匂いを思い出させ続けた。


 記録室で何が見えるのかは、まだ分からない。ただ、見に行くことだけは、決めた。


 仕事場に鍵をかける前に、凛は机の隅をもう一度見渡した。カッターマットの切り傷の配列。工具の位置。それらは毎回、ほとんど同じだ。違うのは、ほんの少しの角度。右に一度、左に半度。癖は署名になる。


「凛、顔色」


「平常」


「強がり」


 ピコは嘲らない。ただ、観測を告げる。凛は笑みの代わりに、作業用の古いリングを指先で転がした。薄い金属音。胸の奥で、失われた音の空洞が同じ形で共鳴する。


 階段を下りると、隣室の老夫婦が植木にビニールをかけていた。雨よけ。老婦人が凛に気づき、小さく会釈する。


「夜更けに、お仕事?」


「はい」


「雨が味方だといいね」


 味方。雨はいつも、中立だ。濡らすものを選ばない。凛は礼を返し、白川と並んで歩いた。傘の内側に二人分の呼吸が溜まり、端から少しずつ零れていく。


「君は、自分に何を届けたい」


 唐突な問い。凛は答えない。答えは、宛先に触れたとき、勝手に形になる。配達人は、言葉の前に行為がある。


 曲がり角で、白い猫が雨宿りしていた。片耳が切れている。凛は少しだけ歩調を緩め、猫は少しだけ目を細めた。それだけで、世界はほんの少し、まろやかになった。


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