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第03話 「宛先 − 薄荷の指先」

 地上のポストが規約に縛られているぶん、地下にはいつだって“野良”が生える。メモリーポスト庁の目が届かない投函端末、拾った鍵の裏引き、宛先を持たない断片の売買。薄荷の店は、その薄暗い流通と正式の手続きのちょうど境目にある。鍵と暗号の話をするなら、ここがいちばん早い。


 地下へ降りる階段は、雨の日ほど混む。濡れた靴底がコンクリートに描く音の模様を、凛の耳は無意識に数えた。二十七段目で、ミントの微香が鼻先に届く。


「時間ぴったり。配達人は時間に正確、というステレオタイプ通りだ」


 薄荷は、古いゲームセンターを改造した店のカウンターに肘をついていた。唇の片端でミントタブを噛み、白い皿に砕けた欠片を並べている。嘘の数だけ、皿の上に小さな白い山が増える。


「冗談は後。これ」


 凛はカードを差し出した。白い面に黒い矩形、刻印のような細い文字。薄荷は指先で縁を撫で、顕微鏡のようなレンズを瞳の前に下ろす。


「『宛先:空白』。趣味が悪い。……でも、文字は綺麗だ。書いたのは一人。角度の癖が一緒」


「読み解ける?」


「宛先欄は飾り。本当の宛先は、別の層に隠す。君も知ってるだろ。鍵と鍵穴の位置、時々入れ替わる」


 薄荷の指が、カードの背でリズムを刻む。雨の三連符。ピコが凛の肩口で「心拍、微増」と囁く。


「緊張してる?」


「してない」


「嘘だ」


 皿にひとつ、白い山が足された。薄荷は笑い、端末を立ち上げる。暗号の森に潜るときの、彼の姿勢はいつも美しい。無駄がなく、指先が音楽家のように滑らかだ。


「生体鍵は後。まずは環境ハッシュ。……ふむ。これは外で書かれた。屋外、雨。温度は低め。君が拾った場所の近くで間違いない」


「署名は?」


「白川の言う“癖”は確かにある。同じ手つき。けれど、それだけじゃない。これは、君の手の跡も拾ってる」


 凛は眉をひそめた。カードに触れたのは、拾ったときと、ここに持ってくるまでの数回だけだ。


「触れた人すべての跡が残る。でも、重みが違う。君の跡は“馴染む”。まるで、元からそこにあったみたいに」


 薄荷はミントを噛み砕き、唇で砂糖の欠片を追いながら、画面に新しい層を表示させた。黒い矩形の下に、さらに細い、髪の毛一本ぶんの線。


「ここを、押す」


 彼が指示した位置を、凛は左手の親指でそっと押した。古傷が微かに疼く。刹那、カードの裏面に青い光が走り、刻印が反転する。


『宛先:——』


「未入力?」


「違う。可変。宛先は、読み手によって変わる。読んだ人の“欠け”に合わせて」


 ピコが低く唸る。「倫理モジュール、赤寄り。危険な構造だよ」


「危険は甘い。だから人は噛む」


 薄荷は新しいタブレットを取り出し、カードを重ねる。二つの端末が同期し、小さな音が鳴った。店内の古いスピーカーが、雨の遠雷を拾う。


「もう一段、潜る。……おや」


 薄荷の声が、そこでわずかに低くなる。彼の目がレンズの奥で揺れ、凛を見る。その視線は、いつものからかいを失っていた。


「出た。ここに、微細な宛先タグ。普通は見落とす。読み手が、ある条件を満たしたときだけ、文字が立ち上がる」


「条件?」


「傷」


 凛の左手に、視線が落ちる。古傷が、雨に触れた鉄の匂いを思い出させる。


「読んでみるかい、配達人」


 薄荷は席を立ち、店の奥の静かなブースへと案内した。壁は吸音材で覆われ、外のざわめきが遠のく。凛は深呼吸し、カードを掌の中心に置く。ピコの通知が、静かに色を変えた。「心拍安定。倫理モジュール、黄色。自己責任」


 親指をもう一度、さきほどの髪の毛の線に当てる。音もなく、文字が浮かび上がる。


『宛先:蒼井 凛』


 喉が、乾く。薄荷が息を吐いた。


「君の“欠け”に合わせて、宛先が現れる。誰かは君に“空白”を届けようとしている」


「差出人は」


「今はまだ、空白」


 ブースの外で、古いゲーム機が勝手に起動し、ピコが「演出過多」とぼやく。凛は笑わなかった。カードは軽い。なのに、掌が沈む。


「これを配達したら、何が抜ける?」


「抜けるとは限らない。埋まるかもしれない。空白は、いつも『欠け』の形をしてる。君の欠けは、君にしか分からない」


 雨が強くなる。地下なのに、屋外の雨脚が聞こえる気がした。凛はカードをケースに戻し、薄荷に礼を言う。


「代金は後払い。嘘の数で割引はしない」


「また増やすの?」


「君が来ると、どうしてもね」


 階段を上がると、夜の街はすでに水に縁取られていた。屋台の湯気が白く立ちのぼり、路面の光を乱反射させる。凛は屋台でスープ代わりの薄い粥を受け取り、立ち食いした。喉を通る温度で、掌の軽い痺れがほどけていく。


「食べると決めたら早いのに、決めるまでは遅い」


「栄養の話?」


「選ぶ、という行為の話」


 ピコの声は湯気と一緒に少し柔らぐ。隣で、若いカップルがメモリーポスト庁の話題で小さく口論している。「忘れるのは逃げだ」「いや、生き残る方法だ」。その往復に、凛は返す言葉を持たない。


 白川から新しい通知が届く。「任意同行、再度のお願い」。ピコが勝手に未読に戻す。


「どうする、凛」


「宛先が書かれている。配達人は、配達する」


 凛は歩き出した。自分に宛てられた“空白”が示す先へ。途中、古いレコード店のウィンドウに、見覚えのあるアルバムが飾られているのが目に入り、足が止まる。ジャケットに記された色褪せたバンド名。音は流れない。それでも、脳の奥で一音が弾む。


「知ってる?」


「知らない。知っていたかもしれない」


 曖昧な答えの縁に、薄い痛みが走る。ピコが静かにモニタを切り替え、「深追いは明日」と告げる。凛は頷き、ガラスに映る自分の影を追い越していった。


 そして彼女はまだ気づいていない。十五話のある日まで、自分の“起点の配達”を思い出せないことに。


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