第02話 「任意同行 − 雨粒の間隔」
路地の端で待っていた黒いドローンは、凛の歩調に合わせて高度を下げた。楕円のレンズが一度、瞬きをするように光り、角から現れた男の肩口へと戻っていく。
「久しぶりだね、蒼井さん」
白川 透は、雨に濡れないよう透明のフードを被り、その下から正確な笑みを見せた。灰色の瞳は、測定器の光のように淡い。
「任意同行をお願いした覚えは?」
「送った。三通。未読のままだけど」
ピコが凛の耳元で「既読にしてあげたら?」と囁く。凛は無言で通り過ぎ、坂の下にある商店街のアーケードへ入った。雨音が遠ざかり、人の声が近づく。白川は二歩の距離を保ったまま、ついてくる。
「十七小節目の空白、見たね」
「見た」
「記録に“挿入”の刻印がある。演奏の迷いと同じ粒度で切り抜かれていた」
「犯罪の匂いを嗅ぎ分けに来たの?」
「匂いは雨に流れる。でも痕は残る」
白川は足を止め、アーケードの柱にもたれた。ドローンが肩で安定し、小さなプロペラが猫の喉のように鳴る。
「俺は敵じゃない。君が危ない橋を渡るのを、少しだけ遅らせたい。空白に触る人間は短命だ」
「脅し?」
「忠告」
凛は売店で紙コップのコーヒーを二つ買った。ひとつを白川に差し出し、ひとつを自分の左手に持つ。古傷が、熱で僅かに柔らぐ。
この商店街でも、朝と夕方にはメモリーポストの前に短い行列ができる。仕事の前に“重い昨日”を最適化に回し、帰り道に“伝えられなかった一言”を投函する。街は、忘れることと忘れないことの両方で回っている。
凛の仕事は、そのどちらにも触れる手順でできている。依頼主から断片を受け取り、ピコが倫理・法のチェックを走らせ、宛先の生体鍵を確かめる。環境ハッシュが一致し、本人性が立ったら——届ける。配達した瞬間に「再配達不可」の刻印が押され、ログは端末に残り、配達人の頭には残らない。残さないことで、次の配達に手を伸ばせる。
「空白の宛先は、いつも曖昧だ」白川はコーヒーに口をつけ、続ける。「今回は違う。宛先が『不明』ではなく、『変更』になっていた。配達人の裁量で」
「現場判断。規約の隅に、曖昧さは必要だろ」
「必要だ。だから君がいる。でも、誰かがその曖昧さを“使って”いる」
ピコが小声で「白川の語彙、今日は詩人寄り」と茶化す。凛は笑わない。店先のテレビには“メモリーポスト稼働率、今月も微増”の字幕。画面の隅に、地下マーケットの取り締まり映像が小さく流れている。
「野良ポスト、最近は?」
「潰しても潰しても生える。『薄荷』に聞けば早い」
その名に、雨の匂いとは別の薄いミントの味が舌に広がる気がした。嘘を吐くとタブレットを噛む癖の仲介屋。鍵と暗号の沼に棲む男。
「同行はしない。けど、情報は受け取る」
「じゃあ、これ」
白川は名刺より薄い透明シートを渡した。触れると、三つの点が浮かぶ。十七小節目、二十四小節目、そして無音の終止線。
「“空白”に同じ署名がある。作り手の癖みたいなものだ。同一人物が、複数の案件で、同じ手つきで音を抜いている」
「目的は?」
「それを知りたい。だから、君を呼んだ。君は音の隙間で息をする」
白川の視線が、凛の左手に落ちた。古傷を包む指先が、紙コップの縁をゆっくり撫でる。
「気をつけて。君の“宛先”が変えられるかもしれない」
別れ際、彼は飄々と手を振り、ドローンとともに雨に戻っていった。アーケードの端で雨粒の間隔が広がる。凛はその隙間を縫うように歩いた。
仕事場に戻る途中、メモリーポストの脇に小さな封筒が立てかけられているのを見つけた。茶色の古い紙。裏面に押された判子は、見覚えのあるミント色。
「薄荷から?」
封を切ると、硬質カードが一枚、掌に落ちた。白い面に、黒い矩形。中央に、刻印のような細い文字が走る。
『宛先:空白』
ピコが息を呑み、すぐに喉清めのように咳払いした。
「定義矛盾。宛先が空白……これは冗談が悪いよ」
「悪い冗談ほど、本気で来る」
カードの縁に、微かな擦り傷がいくつもあった。誰かが何度も触れ、角度を確かめ、ためらいを刻んだ跡。凛はケースにしまい、バッグの中で位置を固定する。
「薄荷のところへ」
「倫理モジュール、黄色。違法区域」
「黄色は進める色だ」
雨は弱まり、夕方の街に、紫が混じり始めていた。凛はフードを上げ、足を速めた。空白に宛先を宛てる方法を知っているのは、あの男だけだ。
アーケードを抜けた先、トタン屋根の修理屋が雨どいを叩いていた。机の上には解体されたポスト端末の基盤。銅線の匂いと、微かに焦げたプラスチックの匂いが混じる。店主は凛を見ると、親指で背後の張り紙を示した。
「“記憶の無断投函、罰金十万”。笑えるよな。誰が見張るんだい」
「見張る人はいる。見張り切れないけど」
「じゃあ、頼りは君らだ」
店主は基盤を裏返し、一本だけ異なる刻印のチップを取り出した。楕円の刻印。白川のドローンに似た、冷たい目。
「最近、これが増えた。正規流通のラベルが付いてるのに、ファームがどこかおかしい。雨の日によく壊れる」
「預かる。薄荷に見せる」
「代金は要らない。雨が上がったら、コーヒーを一杯おごってくれ」
歩道に出ると、子どもがメモリーポストの前で口笛を吹いていた。旋律は、どこかで聴いたことのある輪郭を持っている。十七小節目で、わざと休符を入れる遊び。凛は足を止め、指で空気の鍵盤をなぞった。
「凛?」
「なんでもない」
ピコが、規約の抜粋を浮かべる。「配達人の判断により、宛先変更は可能。ただし、依頼者の最善利益に照らして合理的であること」。文言は中立的だ。中立は、時々、誰の味方でもない。
「最善って、誰の最善?」
「定義は人の数だけある。だから倫理モジュールは黄色になる」
「黄色は、立ち止まる色でもある」
「それでも、進むんだろ?」
凛は黙って頷いた。進まないと、届かない。届かないと、空白は広がる。広がった空白は、やがて匂いを消し、手触りを消し、最後には名前すら奪う。
交差点の手前で検問が張られていた。メモリーポスト庁の臨時チェック。係官が順にバッグの内側センサーを読み取っていく。凛の番になると、若い係官の手が一瞬、止まった。
「宛先未記入カードの反応……」
ピコが小さく咳払いをし、凛の耳元で素早く囁く。「合法範囲。可変宛先は未記入扱いじゃなく“遅延記入”。条文一二三の二」
「遅延記入。はい、確認しました」
若い係官は、少し赤面して頭を下げた。雨脚がふたたび強まり、検問の屋根に大粒が打ち付ける。凛は通り抜け、信号の向こうにある地下への階段を見やった。
「白川の言ってた“同じ手つき”の署名、どう思う?」
「プロの仕事。癖は隠すものだけど、消し切れないものもある。……鍛冶屋の槌目みたいに」
「鍛冶屋?」
「比喩。昔読んだ小説。良い槌目は、強さの証明になる」
「空白に、強さなんてある?」
「あるさ。空白は、人を守るときがある。忘れられなければ、人は折れることもあるから」
自分で言って、自分で戸惑う。誰に向けた理屈なのか。凛は階段の手すりに触れた。鉄が冷たい。左手の古傷が、雨の冷たさと同じ質で疼く。
そして凛は知らなかった。自分の宛先のいくつかが、すでに誰かの手で書き換えられ始めていることを。