第01話 「開封 − 消せなかった旋律」
朝の雨は、街の輪郭を少し柔らかくする。濡れたアスファルトにネオンサインが滲み、歩道の縁に小さな音符みたいな水滴が並ぶ。
この街では、つらい昨日を“最適化”できる。区役所の一角にある最適化窓口で申請し、担当AIが医療と倫理の基準に沿って、記憶の有害な棘だけを丸める。処理の痕跡と履歴は都市の中枢「MOTHER」に暗号化されて保存され、誰かの明日が生きやすくなるように設計されている。
それでも、消すことが救いにならない場面はある。誰かのために残しておきたい音、言えなかった言葉、差し出せなかった謝罪。そういう断片は、街角の「メモリーポスト」に預けられる。電柱の根元や駅前の陰に並ぶ無機質な投函端末。誕生日のメッセージも、遺書も、失効した鍵の再発行申請も、ここを経由する。
忘却配達人の仕事は、その“行き先を失った断片”を、本来の宛先へ届け直すことだ。法の灰色に立ちながらも、必要とされる仕事。依頼主から断片を預かり、ピコが倫理チェックを走らせ、凛が生体鍵と環境ハッシュで宛先を認証する。再配達は不可。ログは端末に残り、彼自身の記憶には残さない——原則として。
「配達先、確認。緯度経度、ずれなし。ついでに今日の降水は一日中だってさ」
肩口でピコが軽口を叩く。凛はフードを深くかぶり、躯体に比べて古い型の配送バッグを肩から下げた。バッグの内側には、掌より少し大きい黒いケース。表面のシールには、鉛筆で「L-SONATA」とだけ記されている。
「依頼主の名前は?」
「山名すみれ、七十六歳。元音楽教師。自選削除は一度、十年前。対象は“演奏の記憶”。」
「演奏を消して、演奏を頼むのか」
「演奏じゃなくて、“旋律を届ける”だって。細かいニュアンス、大事にしてね、配達人」
古びた集合住宅の前で立ち止まる。外階段を二階まで。呼び鈴は壊れている。軽くノックすると、金属の向こうから静かな足音が近づき、鍵が鳴った。
「……蒼井さん?」
「はい。お約束のものを」
山名すみれは、白い髪を短く揃え、皺の深さと同じだけ目尻に優しさを湛えていた。畳の匂いがする部屋には、紙で覆われたピアノ。カバーの隅から黒鍵がわずかに覗く。
「ここに」
凛はケースを取り出し、卓上にそっと置いた。すみれは両手を合わせ、深く息を吸う。
「演奏は、もう、できません。指が覚えていないから。でも……耳は、覚えていると思うのです」
ケースの封を切る。内部から薄いカードと、古い式の有線ケーブル。ピコが小声で段取りを読む。
「生体鍵は本人の耳介電位。外部スピーカー使用可。開封時に“宛先認証”必須。宛先は——」
「宛先は、夫です」
すみれの声には迷いがなかった。凛は頷く。
「ここに彼の名を、書いてください」
カードの隅に、小さく「山名雅夫」と書き込む。その字のかすれに、時間の重さが宿る。凛はケーブルをピアノの脇の小型スピーカーに接続し、カードリーダーに差した。
「ピコ」
「認証開始。耳介電位、OK。宛先、照合……一致。再生、行くよ」
最初の一音は、雨の音に似ていた。低くて、柔らかくて、少し冷たい。次の音で、凛は気づく。これはただの録音ではない。演奏者の呼吸、ペダルの軋み、鍵盤に置く前の指のわずかな躊躇。それらが音の隙間に生きている。
すみれは目を閉じ、椅子に座った。指は膝の上で、鍵盤の影をなぞるように動く。
「——この曲は、わたしが彼に捧げようとして、やめた曲」
弱く笑う。雨が窓を叩くリズムと、旋律が重なる。
「先生、どうしてやめたの?」
凛が問うと、すみれは首を振った。
「忘れたの。忘れようと、したの。わたしたちは、戦後まもなく一緒に音楽を始めて、途中で、彼が……」
言葉はそこで途切れ、音だけが部屋に満ちた。ピコが静かに通知を送る。「情動反応、上昇。無理な回想は避けて」と。
凛は頷き、余計な言葉を飲み込んだ。配達人の仕事は、運ぶことであって、掘り返すことではない。けれど、音は時々、言葉よりも先に真実を運ぶ。
中盤、左手の反復が、ふと乱れた。わずかな躓き。記録に残る“演奏者の迷い”。凛の左手が、無意識に古傷を撫でる。
「ピコ、タイムスタンプ」
「そこ、十七小節目。メタデータに、“挿入”の跡。改ざん?」
「違う。これは——空白だ」
旋律は、その空白ごと、最後まで進んだ。最後の和音が静かに消えると、すみれは手を胸に当てた。
「ありがとう。彼に、届いた気がします」
「宛先は——」
「ええ、あの人はもう、この世にいない。でも、宛先は“わたし”にしてください。彼に捧げられなかった音を、わたしが受け取る。忘れなかった罰として、忘れなかったご褒美として」
凛は黙って頷き、カードに二重の印をつけた。「再配達不可」「宛先変更」。ピコが小さくため息をつく。
「倫理モジュール的には、ぎりぎり。」
「ぎりぎりが、現実だ」
雨は少し弱まっていた。すみれは立ち上がり、ピアノのカバーを外した。埃の匂いとともに、艶のある黒が現れる。
「触れません。触れないけれど、見ることはできますから」
扉の前で、すみれが振り返る。
「蒼井さん。忘れるのって、悪いことかしら」
「悪くない。忘れないのも、悪くない」
「ずるい答えね」
「ずるい仕事なんですよ、配達人は」
扉が静かに閉じる。階段を降りる途中、ピコが囁く。
「さっきの空白、気になる?」
「少しな。十七小節目、誰かが“抜いた”。演奏者自身か、第三者か。……雨の音みたいに自然だった」
「白川からの未読、三件。『任意同行のお願い』だって」
外に出ると、路地の先で黒いドローンがゆっくり旋回した。楕円形のレンズがこちらをなぞる。凛はフードを深くかぶり直し、肩のバッグを握り直した。左手の古傷が、微かに疼く。
「配達完了。次は——」
「次は、“空白”の宛先だ」
雨の匂いの向こうで、街が息をしていた。忘れることを選んだ人と、忘れないことを選んだ人と、そのどちらにもなれない人たちのために、凛は歩き出す。
配達人の一日は、まだ始まったばかりだ。