表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

第01話 「開封 − 消せなかった旋律」

 朝の雨は、街の輪郭を少し柔らかくする。濡れたアスファルトにネオンサインが滲み、歩道の縁に小さな音符みたいな水滴が並ぶ。


 この街では、つらい昨日を“最適化”できる。区役所の一角にある最適化窓口で申請し、担当AIが医療と倫理の基準に沿って、記憶の有害な棘だけを丸める。処理の痕跡と履歴は都市の中枢「MOTHER」に暗号化されて保存され、誰かの明日が生きやすくなるように設計されている。


 それでも、消すことが救いにならない場面はある。誰かのために残しておきたい音、言えなかった言葉、差し出せなかった謝罪。そういう断片は、街角の「メモリーポスト」に預けられる。電柱の根元や駅前の陰に並ぶ無機質な投函端末。誕生日のメッセージも、遺書も、失効した鍵の再発行申請も、ここを経由する。


 忘却配達人の仕事は、その“行き先を失った断片”を、本来の宛先へ届け直すことだ。法の灰色に立ちながらも、必要とされる仕事。依頼主から断片を預かり、ピコが倫理チェックを走らせ、凛が生体鍵と環境ハッシュで宛先を認証する。再配達は不可。ログは端末に残り、彼自身の記憶には残さない——原則として。


「配達先、確認。緯度経度、ずれなし。ついでに今日の降水は一日中だってさ」


 肩口でピコが軽口を叩く。凛はフードを深くかぶり、躯体に比べて古い型の配送バッグを肩から下げた。バッグの内側には、掌より少し大きい黒いケース。表面のシールには、鉛筆で「L-SONATA」とだけ記されている。


「依頼主の名前は?」


「山名すみれ、七十六歳。元音楽教師。自選削除は一度、十年前。対象は“演奏の記憶”。」


「演奏を消して、演奏を頼むのか」


「演奏じゃなくて、“旋律を届ける”だって。細かいニュアンス、大事にしてね、配達人」


 古びた集合住宅の前で立ち止まる。外階段を二階まで。呼び鈴は壊れている。軽くノックすると、金属の向こうから静かな足音が近づき、鍵が鳴った。


「……蒼井さん?」


「はい。お約束のものを」


 山名すみれは、白い髪を短く揃え、皺の深さと同じだけ目尻に優しさを湛えていた。畳の匂いがする部屋には、紙で覆われたピアノ。カバーの隅から黒鍵がわずかに覗く。


「ここに」


 凛はケースを取り出し、卓上にそっと置いた。すみれは両手を合わせ、深く息を吸う。


「演奏は、もう、できません。指が覚えていないから。でも……耳は、覚えていると思うのです」


 ケースの封を切る。内部から薄いカードと、古い式の有線ケーブル。ピコが小声で段取りを読む。


「生体鍵は本人の耳介電位。外部スピーカー使用可。開封時に“宛先認証”必須。宛先は——」


「宛先は、夫です」


 すみれの声には迷いがなかった。凛は頷く。


「ここに彼の名を、書いてください」


 カードの隅に、小さく「山名雅夫」と書き込む。その字のかすれに、時間の重さが宿る。凛はケーブルをピアノの脇の小型スピーカーに接続し、カードリーダーに差した。


「ピコ」


「認証開始。耳介電位、OK。宛先、照合……一致。再生、行くよ」


 最初の一音は、雨の音に似ていた。低くて、柔らかくて、少し冷たい。次の音で、凛は気づく。これはただの録音ではない。演奏者の呼吸、ペダルの軋み、鍵盤に置く前の指のわずかな躊躇。それらが音の隙間に生きている。


 すみれは目を閉じ、椅子に座った。指は膝の上で、鍵盤の影をなぞるように動く。


「——この曲は、わたしが彼に捧げようとして、やめた曲」


 弱く笑う。雨が窓を叩くリズムと、旋律が重なる。


「先生、どうしてやめたの?」


 凛が問うと、すみれは首を振った。


「忘れたの。忘れようと、したの。わたしたちは、戦後まもなく一緒に音楽を始めて、途中で、彼が……」


 言葉はそこで途切れ、音だけが部屋に満ちた。ピコが静かに通知を送る。「情動反応、上昇。無理な回想は避けて」と。


 凛は頷き、余計な言葉を飲み込んだ。配達人の仕事は、運ぶことであって、掘り返すことではない。けれど、音は時々、言葉よりも先に真実を運ぶ。


 中盤、左手の反復が、ふと乱れた。わずかな躓き。記録に残る“演奏者の迷い”。凛の左手が、無意識に古傷を撫でる。


「ピコ、タイムスタンプ」


「そこ、十七小節目。メタデータに、“挿入”の跡。改ざん?」


「違う。これは——空白だ」


 旋律は、その空白ごと、最後まで進んだ。最後の和音が静かに消えると、すみれは手を胸に当てた。


「ありがとう。彼に、届いた気がします」


「宛先は——」


「ええ、あの人はもう、この世にいない。でも、宛先は“わたし”にしてください。彼に捧げられなかった音を、わたしが受け取る。忘れなかった罰として、忘れなかったご褒美として」


 凛は黙って頷き、カードに二重の印をつけた。「再配達不可」「宛先変更」。ピコが小さくため息をつく。


「倫理モジュール的には、ぎりぎり。」


「ぎりぎりが、現実だ」


 雨は少し弱まっていた。すみれは立ち上がり、ピアノのカバーを外した。埃の匂いとともに、艶のある黒が現れる。


「触れません。触れないけれど、見ることはできますから」


 扉の前で、すみれが振り返る。


「蒼井さん。忘れるのって、悪いことかしら」


「悪くない。忘れないのも、悪くない」


「ずるい答えね」


「ずるい仕事なんですよ、配達人は」


 扉が静かに閉じる。階段を降りる途中、ピコが囁く。


「さっきの空白、気になる?」


「少しな。十七小節目、誰かが“抜いた”。演奏者自身か、第三者か。……雨の音みたいに自然だった」


「白川からの未読、三件。『任意同行のお願い』だって」


 外に出ると、路地の先で黒いドローンがゆっくり旋回した。楕円形のレンズがこちらをなぞる。凛はフードを深くかぶり直し、肩のバッグを握り直した。左手の古傷が、微かに疼く。


「配達完了。次は——」


「次は、“空白”の宛先だ」


 雨の匂いの向こうで、街が息をしていた。忘れることを選んだ人と、忘れないことを選んだ人と、そのどちらにもなれない人たちのために、凛は歩き出す。


 配達人の一日は、まだ始まったばかりだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ