44 勇気
すべてが終わった後、レイヴィスは自室のソファで倒れるように寝てしまった。夜会の日から一睡もせず、不審者の調査に王城壁の修繕、使用人への聞き取り調査、帳簿の精査、そしてリリアーナへの植木鉢が持てるかの検証をしていたらしい。
せめて寝室で休んでくれたらいいのに。
そう思いながらリリアーナはレイヴィスの寝顔を見つめる。
少し前に様子を見にきて、寝ぼけながら引き止められて、流れで膝枕をすることになってしまって、彼はその状態のまま安心しきった顔で眠り続けている。
なのでとても動けないし、動く気にもなれない。
(無防備な人……)
微笑みつつ、リリアーナはそっと彼の髪を整えた。
そのとき、レイヴィスが僅かに眉を動かし、金色の瞳をゆっくりと開ける。
「……どれぐらい眠っていた……?」
「私が来てからは三十分ほどです」
リリアーナが答えた途端、レイヴィスの表情が硬直した。
まるでいまこの状態に気づいたかのように、目を丸くしてわずかに赤くなった顔でリリアーナを見上げている。そして急いで身体を起こし、ソファに腰を掛け直した。
「……ずっと、ここにいてくれたのか?」
「はい。まだお疲れなら寝室に行かれたほうが――」
リリアーナが言うと、レイヴィスは小さく首を振った。
「いや、もう充分だ……すまない、君の上で、寝てしまって……」
「いいえ、お気になさらず」
微笑んで言うと、レイヴィスの顔に少しだけ微笑みが浮かんだ。
「――レイヴィス様、ありがとうございました。私を信じてくださって……」
リリアーナは深々と頭を下げ、改めて感謝の気持ちを伝える。
何も言わずに座っていただけのリリアーナを、レイヴィスは信じてくれていた。
エリナの言葉に惑わされず、真実を見ようとしてくれた。
「俺は事実を確認し、真実を見つけ出しただけだ。それができたのは、君が周囲の人々の信頼を得ていたからだ。それに――」
一瞬、言葉を切り、リリアーナの瞳をまっすぐ見据える。
「君を信じるのは当然のことだ」
「……ありがとうございます」
その優しい言葉の裏にある冷徹な一面をリリアーナは知っている。
もし、リリアーナがもし本当に悪妻だったとしたら、レイヴィスは容赦なくリリアーナを断罪していただろう。
彼には、エルスディーン家を、一族を守る義務がある。血を繋ぐ義務がある。
そして、そんな彼を尊敬している。
冷酷さと厳しさ――その両方を理解しているからこそ、彼の「信じる」という言葉が特別だった。
「実家に送ってしまった資金は何とか返しますので……たとえ、一生かかっても」
リリアーナが告げると、レイヴィスはわずかに眉を上げ、静かに首を振った。
「いい。今回は、君の実家への援助ということにする」
「ですが、それでは……」
「ただしこれっきりだ。次からは必ず俺に相談するように」
「いいえ、これからはきっぱり断ります」
リリアーナが断言すると、レイヴィスの口元に薄い笑みが浮かんだ。どこか嬉しそうに、レイヴィスは口を開く。
「……それならいい。とはいえ、縁戚だ。使い道が正当なものなら手を差し伸べるさ。徹底的に精査して、ただの浪費ならば財産を処分させていく。それだけのことだ」
レイヴィスの冷静で的確な判断力が滲む言葉に、リリアーナは無意識に背筋を伸ばす。
「――ただ、君に直接接触してくるようなことがあったら、容赦しない。相手側に警告もしたから安心してくれ」
――いつの間に。
「他にも困ったことや悩み事があったら話してほしい。別に、夕食の献立の相談でも構わないからな」
穏やかな声に、リリアーナの心がふっと軽くなった。
だが同時に、大きな責任感が押し寄せてくる。
(私は、レイヴィス様にどう報いれば……)
ここまでしてもらえて。
寄り添ってもらえて。
リリアーナはソファで眠るレイヴィスの寝顔を見つめながらずっと考えていた。
自分は彼に何を返せるだろうか――その答えは最初から決まっている。
(ここまでしてもらって……私が返せるものは、一つだけ)
せめてその一つは果たさないとならない。
リリアーナは深く息を吸い込み、覚悟を決める。
「あの、レイヴィス様……」
「ん?」
金色の瞳が静かにリリアーナを見つめる。
その瞳の中に映る自分の姿に、リリアーナは震える心を押し殺しながら言葉を紡ぐ。
「子どもを、作りませんか……?」
跡継ぎを産むこと――それがリリアーナに求められている役割。
感謝を返すには、それしかないと思った。
「…………」
部屋に、緊迫した静寂が満ちる。
レイヴィスの反応は、リリアーナの予想とは違っていた。
「――リリアーナ、気持ちは嬉しいが……言っただろう。君がいいと思ってくれるまで待つと」
「レイヴィス様にならいいです……!」
レイヴィスの瞳が、ほんの一瞬だけ揺らぐ。
「……本当にいいのか?」
「はい」
緊張で心臓がどくどく跳ねている。
リリアーナは手をぎゅっと握りしめ、勇気を振り絞った。
「私も、レイヴィス様の子どもが欲しいんです」
嘘偽りない気持ちだ。
子どもを生んで役割を果たしたい。
「…………」
沈黙が訪れる。
リリアーナの心に不安が広がっていく。
――何かを間違えてしまっただろうか。
緊張感の中で、静かな嵐が吹き荒れているような空気が漂っていた。
「……魔法学に、魔力共鳴という現象がある」
「は、はい……?」
突然の話題の転換に戸惑い、声が上ずる。
レイヴィスは真剣な表情で続けた。
「理論はあるが、俺は実際には見たことがなかった――前までは」
そう言うと、胸元から小さな六角柱の結晶を取り出した。
――それは、リリアーナがレイヴィスと作ったピラーだ。
「伝説では――魔力が高く、相性がいい男女が心から愛し合うと、その現象が起こることがあるらしい……」
レイヴィスの金色の瞳が、じっと結晶を見つめる。
「これには、君の魔力と俺の魔力が完璧に混ざり合っている。俺は、こんなに美しい結晶を他に見たことはない」
「…………」
リリアーナは息を呑む。
――何故だろう。
胸が苦しくなるほど恥ずかしい。
レイヴィスを好きな気持ちが形になり、いま、彼の手の中にある。
心臓が激しく鼓動する。まるで、自分の気持ちをすべて知られてしまったかのようだった。
「リリアーナ。これを、愛の証だと思っていいと思うか?」
「え、そ、その……」
突然の問いかけに、リリアーナの声が震える。
思考がぐるぐると駆け巡って、言葉にならない。
「――俺は、そうだと思っている」
レイヴィスの言葉は力強く、揺るぎないものだった。
――男女が心から愛し合った証。
リリアーナの目の前で輝く結晶。それは、リリアーナがレイヴィスを愛している証であり、レイヴィスが自分を愛してくれている証でもある。
レイヴィスは静かに結晶をリリアーナに手渡した。
(――きれい……)
リリアーナはそっと受け取り、その温かさに胸が熱くなる。
見える。
結晶の中に、自分の魔力とレイヴィスの魔力が、完璧に混ざり合っているのが。
リリアーナは深く息を吸い込み、頷いた。
「……はい。私も、思います……」
胸に溢れる感情のまま、リリアーナは自分の気持ちを言葉にした。
「好きです、レイヴィス様」
顔が真っ赤になっているのを感じながらも、リリアーナは真っ直ぐに彼を見上げた。
「この結晶を作った時も……そしていまはその時より、ずっと、ずっと――好き、です……」
レイヴィスの口元がわずかに緩み、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「俺もだ。君を心から愛している」