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「母様、馬ってどんな生き物?」

「え?」

 アスティは学校から帰ってきたアレクサの問い掛けに振り向いた。

「馬?」

 娘はうなづく。

「学校で習ったの。天上界の住人は羽根や翼で移動するけど地上では移動の手段は徒歩か、馬でするって」

「そうねえ・・・」

「どんな生き物?」

「えーとね」

 アスティは地上にいた頃のことを思い出した。

「四つ足で、背が高くて、顔が長くて」

「背が高いって父様より?」

「もっとうーんと高いわ」

「それから?」

「力持ちで、目がおおきくてきょろきょろしてて、鬣があって」

「たてがみってなに?」

「うーん」

 アスティは困り果てて図書室の蔵書に思いを巡らせた。馬の挿絵のある本などあっただろうか。

「見せた方が早いな」

 カシルがそんな彼女を見て歩み寄ってくる。

「天上界に馬なんているでしょうか」

「探せばいるだろう。人間が住んでいることだし」

 カシルは天使たちに聞いて回って、どこで馬を見られるか尋ねた。人間が多く住む街の郊外に行けば、馬くらい見られるだろうということだった。

 そこで次の週末は馬を見に行くことになった。料理人が心得て弁当を作ってくれる。

「馬なんて何年ぶりかしら」

「軽く百年ぶりだ」

 街に着き、歩きながらふたりはかつて馬に乗っていた日々のことを思い出している。

「王はよく馬に乗って偵察と称しては王城を抜け出していましたね」

「息が詰まるからな。いい気分転換だった」

 あ、と前を行くサラヴィスが声を上げた。

「あれ?」

 遠くへ目をやると、確かに牧場らしき囲いの中に馬が数頭放されているのが見える。

「そうね」

 アレクサとサラヴィスは恐る恐る一頭の馬の近くに歩み寄った。

「そんなに恐がらなくても噛んだりしないわよ」

「頼めば乗せてもらえるだろう。乗ってみるか」

「いいの?」

「乗りたい」

 そこでふたりは牧場の人間に馬に乗せてほしいと頼んだ。ここで働いているらしい人間は、翼を持つ者たちが馬に乗りたいと言ってきたので訝しげに眉を寄せていたが、快く応じてくれた。

「手綱を持って、鞍に掴まらないようにして勢いをつけて乗って」

「地面を蹴るように飛ぶとうまく乗れるぞ」

 双子は苦労して鞍に乗った。

「そしたらもう片方の足を鐙にかけて、手綱を緩めて」

 アレクサが小さく声を上げた。馬がぽくぽくと歩き出したのである。続いてサラヴィスの馬も歩き始めた。

「なかなかうまいな」

「初めてにしてはそうですね」

 馬が馬場を一周するとアレクサとサラヴィスが馬を降りる。

「父様と母様は乗らないの?」

「えっ・・・」

「乗ってみたら。久しぶりなんでしょう」

 アスティはカシルと顔を見合わせた。

「いまだに乗れるものでしょうか」

「ちょうどいいから試してみるか」

 ふたりは軽々と馬に乗ると、小さく声を上げて馬を走らせた。馬は乗り手を得て歩き出し、足取りも軽やかに馬場を走り回った。奥から牧場で働いている人間たちが出て来て、感心したようにふたりの乗馬ぶりを眺めている。馬場を何周かしたあと、ふたりは乗った時と同じようにふわりと馬から降りた。

「身体が覚えているものだな」

「自分でも驚きました」

 アレクサとサラヴィスは驚き、あきれたように父母が話すのを見ている。

「なーんだふたりとも」

「?」

「覚えてないかもなんてうそばっかり」

「あら」

「普段は翼を使うからな。馬の乗り方なんて忘れてると思っていた」

 側にいた人間に礼を言って手綱を渡すと、どこかで昼食を食べようということになった。「太腿がだるい。お尻が痛い」

「馬に乗ると、鞍を足で締めるから腿が疲れるのよ」

「初めての馬はどうだった」

「うーん」

 アレクサは食べながら空を仰いだ。

「乗れたのはいい経験だったけど、どうしても乗りたいってわけじゃないかなあ」

「翼で行く方が簡単。身体痛くならないし」

「魔法院で乗馬を始めるのは何歳ごろだ?」

「十になるといっせいに始めます」

「十か。竜に乗る方が早いんだな」

「竜に慣れるのには数をこなさなくてはなりませんから」

「竜? 竜に乗るの? 地上で?」

「地上に竜族がいるの?」

 双子が身を乗り出してくる。

「えーと・・・竜族とは別種の竜がいるのよ」

「地上の竜は三種類に分けられるんだ。竜騎士は下位の竜に乗ることで知られていた。魔法院の院生たちは異次元から中級の竜を召喚し乗りこなしていた。そして、上位の竜というのが、星天竜ほどの大きさもある竜だと言われている。彼らの多くは山に住み、人語を解し、古代から生きていると言われている」

「見たことある?」

「竜騎士が乗る竜と院生たちが召喚する竜は見たことがあるが上級竜はない」

「上級竜は人が嫌いだと言われていて、滅多に人間の前に出てこないものなのよ」

「母様はその竜に乗ってたの?」

「そうよ」

「父様は?」

「時々な」

「乗ってみたい」

「え?」

 アスティは思わず聞き返した。

「その竜、乗ってみたい」

「だってあなたたち飛べるじゃない」

「それでも乗ってみたい」

「・・・」

「よいではないか。これも経験だ」

 アスティはカシルを見上げた。

「・・・天上界にも召喚できるんでしょうか」

「異次元から召喚するというからにはどこにでも通じているんじゃないか」

 試してみろ、と言われ、アスティはしばらく考えていたが、やがて立ち上がって離れたところへ行くと、印を結んで詠唱を始めた。

 三人が固唾をのんで見守っていると、突然アスティの前方の空間が裂けたかと思うと、黒い円がぽっかりと口を開けた。そしてその向こう側から、竜が飛んでくるのが見られる。「わあっ」

 アレクサが声を上げた。

「呼べた・・・」

 アスティは顔をこすりつけてくる竜を放心して見つめている。

「こんな竜いるんだ」

「これで飛ぶのね」

「乗ってみる?」

 双子は顔を見合わせた。

「うん!」

 アスティがもう一頭竜を召喚し、それぞれを乗せ竜に合図すると、その巨体を翻して、竜は飛び立った。

 あっという間に二頭の竜が上空に消えていく。

「うまいではないか」

 空を旋回する竜を見上げながら、カシルが呟いた。

「なかなかそうはいきません。うまくいくと思った途端に」

 と、アレクサとサラヴィスがほぼ同時に竜に振り落とされるのが見えた。

「・・・あんな風に」

 かつて勇女軍の騎竜隊に訓練していた頃を思い出しながら、アスティは子供たちが落ちてくるのを眺めていた。

「あなたたち、落ちるわよ」

「飛べ」

 ふたりの怒鳴り声に、アレクサもサラヴィスもはっとしたようだ、中空で翼を広げて落下をやめると、そのまま降りてきた。

「飛べるって忘れてた」

 竜がギャア、と鳴きながら降りてくる。その竜を異次元に返して、アスティは二人に聞いた。

「どうだった?」

「面白い」

「馬よりいい」

 カシルが笑い声を上げた。

「母の血だな」

「あらそんなことありませんわ。王だって竜に乗りますもの」

「オレはお前の後ろで乗るだけだ」

「七つの時から乗るの? すごい」

「怖くなかったの?」

「怖いよりわくわくのほうが勝ってたから大丈夫だったわ。落ちても導師様たちが守って下さるって知ってたし」

「守るってどうやって?」

「魔法の風で地場を作って落ちないようにするの」

 双子の質問は尽きない。昼食を片付け、青竜宮に戻るまで、子供たちはアスティに質問を続けていた。

「そういえば勇女軍の騎竜隊は今何人なんでしょう」

「見てみるか」

 ふたりは水盤で地上の様子を見てみることにした。

「オレがいた頃は七人だった」

 結成当時一人であった騎竜隊の隊員は、今はどうやら十八名いるようである。その訓練ぶりを見て、アスティは笑顔になった。

「訓練も相変わらず変わっていません」

「なによりだな」

 その夜、ふたりは久しぶりに地上での生活のことを話した。懐かしい人々、政務に追われる毎日、王城と魔法院の行ったり来たりの日々を。

「---------」

 アスティは話しながら、カシルの目がまた遠いものを見つめるようにどこかを見ているのに気づいた。

 忘れかけていた旅への憧れが、その黒い瞳に満ちている。

 それに気づかないふりをしながら、アスティはどうすれば彼の思いをかなえてあげられるか、それだけを考えていた。



 双子は十八になった。学校は卒業のようである。

「アレクサ表彰されたんだよ」

 帰ってきたサラヴィスが自分のことのように誇らしげに言った。

「成績が優秀だったからって」

「あら、サラヴィスだって勉強できるのに、いつも寝てるからよ」

 笑顔で話を聞いているアスティを横目で見て、カシルは、

「母親に似たんだな」

「え?」

「お前、魔法院で全課程を修了した時、同期の代表だったんだろう」

「そういえば・・・」

「そうなの?」

「何人くらいいるの、同期って」

「三百人くらいかなあ」

 アスティは当時を思い出すように目線を上げた。

「もうひとり代表がいたのよ。ヴェリと私で男女から選ばれて・・・」

「どんなことするの」

「特別なことはしないわ。みんなの前で名前を呼ばれて、前に出て、よくできましたって言われるだけ」

「それだけ?」

「その後黒いマントを賜るの。みんなそれのために二十年近く修行してきたから、感無量で泣いちゃう子もいるのよ」

 懐かしい、魔法院の日々。厳しい修行、難解な授業、しかし仲間たちとの毎日はきらきらと輝いていた。その多くはふつうの人間としての生を望み、死んでいったか、戦死したかのどちらか、そうでない者たちは導師になって自らの時を止め、今も魔法院で生活しているはずだ。

「魔法も使えるようになるんでしょ。でも使えないとどうなるの」

「魔法院は一年中魔法の霧で覆われていて、誰にも所在が知られていないの。そしてその霧の波動で、魔法院で育った人間は等しく能力を携わって育っていくの。だから魔法が使えないってことは滅多にないわ」

 それでも、自分は最初は魔法が使えなかった---------呪われた運命の波動のせいで、能力を封印されて。

 あの時の、どれだけ努力してもできないことがある、どうしてもできないことがある、という経験は、アスティにできない人間の気持ちを理解させるに足りるものであった。

 あの経験がなければ、自分はもっと自分の知らないところで弱者の気持ちがわからない、高慢な人間になっていただろう。

「それでも魔法が使えなかったり得意じゃないことがあったりしたらどうするの?」

「学びびとって言ってね。なんらかの事情で上位魔導師になれないひとたちのことをこう呼んでるんだけど、学びびとになって、外の世界で生きていくよう教育を受けるの」

 実は魔法院に拾われる孤児の大多数が学びびとである、上位魔導師になれるのはほんの一握りの人間だけ、と地上にいた時のカシルが聞いたときは、彼は天を仰いだものである。「それでもそういう子たちは色々な教育を受けていたから、他の子供たちよりは器用で、もらわれていく先も恵まれていたことがほとんどだったわ」

「みんな親がいないの?」

「事情があって孤児になった子がほとんどね。中には例外がいて家族がいるけどやむにやまれぬことがあったりして魔法院に来ることがあったわ」

「リューンなんてそのいい例だろう」

「そうですね」

「リューンて誰?」

「母様の大事な仲間のひとり。女の人みたいにきれいな顔してて、絵がすごくうまいの」 何かを思い出す顔になったアスティのその横顔を見ながら、カシルもかつて魔法院で暮らしていた時に見た、リューンの描いた絵のことを思い出していた。

 彼女の名が冠された題名のその絵は、溢れるような愛情に満ちたものだった。あの絵を美術室で初めて見た時、彼はリューンの彼女への想いを知り、同時に導師と特別院生に分かたれてしまった彼の無念を思ったものだった。

「そのリューンといつも一緒にいるのはミーラっていって、すごく背が高くて・・・」

 次々と仲間たちの話をしていくアスティの声をどこか遠くで聞きながら、カシルはラウラとモムラス以外は独身を貫いた彼らのことを、思い出していた。

「面白い仲間がたくさんいたのね」

「父上はそういう仲間はいなかったの?」

「オレか。オレはずっと一人だったな。たまに誰かとつるんだりはしたが基本的に一人で旅をしていた」

「なんで?」

「それが性なんだろう。だいたい一緒にいた誰かは住む場所を見つけて定住したり、好きな女ができて結婚したりしていたからな」

「父様も安住の地を見つけたんでしょ」

「まあな」

 彼は曖昧にこたえた。そう、オレはリザレアへ行き着いて、あの砂の地の美しさと人々の素朴さに惹かれて旅の暮らしをやめた。しかし、旅を棄てても、旅への思いを棄てたことは一度たりともなかった。

 その目が遠いものを見つめるようなものになって、アスティは彼が何を考えているかを悟った。大きな責任にとらわれて、自分の生き方を辞めてしまった彼。死して尚、それは続いている。

 どうにかできないものか---------アスティは誰にもわからないようにそっとため息をついた。



「母様、アルが息してないみたい」

 その朝、起きてきたアレクサがアスティにこんなことを言った。四人でアレクサの部屋へ行くと、老いた三毛猫は丸くなって眠るように逝っていた。

 アスティはその毛並みを撫でながら、

「苦しまなかったのね。よかった」

「十八歳か。ヴィセと同じだな」

「そうですね」

 四人は食事の前にその亡骸を庭の隅のヴィセの墓の隣に埋めてやった。前の猫の時は子供がいなかっただけに大層悲しげなアスティであったが、今度の時は自分でも納得したような、そんな表情をしていた。


 ある日、いつものように怪物たちがやってきて、カレヴィア様とバーバリュース様に来て頂きたい、と言われ、ふたりは支度しようと立ち上がった。立ち上がって、カシルはふと思った。

「---------お前たち」

「え?」

 本を読んでいたアレクサとサラヴィスを見下ろして、彼は言った。

「来てみるか」

「---------」

「---------」

「互いに対なんだろう。だったら戦えるはずだ」

 アスティを見ると、彼女も双子を見てうなづいている。

「でも・・・」

「戦い方なんて、わかんない」

「竜としての本能が戦い方を教えてくれるはずだ」

「父様みたいに霧になるってどうやればいいの?」

「その時になればわかるわ。身体が勝手に動くわよ」

 アレクサもサラヴィスも戸惑いを隠せない。

「もし動けなかったら母が守ってくれる。行こう」

 カシルに誘われて、双子は迷いを隠せないまま階層の歪みまでついてきた。

 怪物退治を見るのは、子供の時以来である。

「来たぞ」

 見上げるような大きさの怪物が牙をむいて襲い掛かってくる。竜人たちが次々に竜へと転身し、対の戦使たちが黒い霧に変化する。

 母の姿が竜になった、と思った瞬間、母の身体の周りが黒い霧に覆われた。母が炎を吐き、その大きな足の鋭い爪で怪物たちを引き裂く。

 僕はどうすればいいんだ、だいたい竜のなり方なんてわからない---------サラヴィスがどきどきしながらそれを見守っていた時、彼は腹の中が突然熱くなるのを感じた。竜人が竜になるのを見て、自分もああなりたいと強く願う---------竜に転身したい、竜になって戦いたい、そう思っている内に、翼が大きくなっていくのが感じられた。視界が高くなっていく。目の前に迫ってくる怪物を見て、彼は戦わなくては、と反射的に思った。腹の中がまた熱くなって、気が付いたら彼は炎を吐いていた。アレクサはどうしたろう、と思う内、怪物がどんどん襲い掛かってくる。無我夢中で戦って、気が付いたら戦いは終わっていた。

「・・・」

 サラヴィスは自分の手をまじまじと見つめた。先程まで、怪物たちを引き裂いていたのはこの手ではなかったか。体中が痛いので何かと思えば、自分が傷だらけであるということに、彼はそこで初めて気が付いた。

「サラヴィス! 大丈夫?」

 アレクサが近づいてくる。彼はまだ何が起きたのかわからなくて、茫然としてアレクサを見ている。

「あ・・・」

「ちゃんと転身できたねー。すごーい」

 アレクサがはしゃいでいる。ということは、彼女も無事黒い霧になれたのか。

「初めてにしては上出来ね」

「ふたりともよくやった」

 父と母が、離れたところから自分とアレクサに話しかける。怪物たちの死骸は散り散りになり、やがて塵となって消えてしまった。

「帰って傷の手当てしなくちゃ」

 アレクサがサラヴィスの手を引いた。

 青竜宮に帰って、カシルはアスティの、アレクサはサラヴィスの傷の手当てをした。

「いって・・・」

「我慢して。なによ母様に比べればかすり傷じゃない」

「そう言ってやるな。なにしろ初めてのことだからな」

「アレクサはなんともないの?」

「体中痛いよ」

「痛いの?」

「霧になるということは身体に大きな負担をかけることになるんだ。オレも初めの頃は身体が痛かった」

「今は?」

「少し痛いだけでなんともない」

 鍛えればいいさ、と父が笑って、アレクサが不満そうな顔になる。それを見てくすくす笑いながら、母が父に手当てされている。

「そういえば竜人が女で戦使が男で対の場合傷の手当ては誰がするんだろ」

「恋人でもない男の前で衣を脱ぐのかしら」

「たいていは竜の巣に戻って、竜人に手当てしてもらうのよ。対の戦使に手当てしてもらうのなんて、私たちだけ」

 アスティが笑って言った。

「父様と母様ずっとこれをしてるの? 毎月?」

「そうね」

「そうだな」

 そしてこれからも---------アレクサは気が遠くなった。自分たちは対がいるからいい。 しかし学校にいた友達は、これから毎日のように自分の対を探すという作業にとりかからなくてはならないのだ。

「十八ということは一人前ということだ。対もいる、戦いも経験した」

「そしたら着るものも変わってくるわね」

 アレクサは戦使の象徴である黒を纏い、サラヴィスは火の氏族だから、それに従って赤い衣を纏うことになる。

「今度火の氏族の長に言って誂えてもらうよう頼んでおくわ」

「オレも誰かに言っておこう」

 手当てを終えて、父と母が立ち上がった。

「行こうか。香茶を淹れてくれ」

「アレクサが焼いたクッキーがあります」

「そうか。それももらおう」

「ふたりとも香茶飲むの? 私も」

「僕はいいや。なんか薬っぽいもの」

 アスティが声を上げて笑った。

「地上にいた時もそう言って文句を言ったひとがいたわ」

「へえ、どんなひと?」

「フィゼっていう名前で、背が高くて・・・」

 香茶を淹れながら、昔話に花が咲いた。その話を聞きながら、カシルはまたひとり、旅の暮らしに思いを馳せていた。



「友達とでかけてくる」

 ある晩、アレクサが食事のあと出かけて行った。

「あら珍しいわね」

「酒場に行くんだって。お酒飲んでもいい?」

「もう十八でしょ。いいわよ」

「知らない男に気をつけろよ。誰かわからない人間から受け取った酒は飲まないことだ」

 父に忠告され、アレクサは振り返った。

「なにそれ」

「あと、席を立つときは杯を空にするのも大事よ」

「そうだ。何を入れられるか、わかったものではないからな」

「ふたりとも大袈裟」

 アレクサは笑いながら出て行った。サラヴィスは自分の部屋で本を読むようである。

「あなたは遊びに行かないの?」

「今度行くけど、今日は行かないよ」

「あらそう」

 片付けが終わり、アスティは本でも読むかな、とカシルを振り返れば、彼は入浴するようである。タオルを持って行ったついでに、彼女は地上の様子を水盤で見てみた。

 リザレアの港に、大きな大きな船が着いている。マハティエルからの船のようだ。

 ----------マハティエルか・・・あの時は大変だったな

 王妃様がさらわれて、それを追いかけて旅に出て・・・

「あ」

 アスティは叫びそうになった。

 ----------その手があった。

 胸がどきどきしてくるのが自分でもわかる。そうだ。そうすればいい。どれくらいになる? ・・・わからないけれど、でも、でも、これで一気に解決できる。

 カシルが浴室から出て来たのにも気が付かず、アスティは自分の思い付きに考えを馳せていた。

 アレクサは夜遅くまで帰ってこなかった。さすがに遅いので、ふたりは寝ないで待っていたのだが、夜中も過ぎた頃娘は帰ってきて、ぷりぷりに怒っている。

「どうしたのそんなに怒って」

「遅かったな」

「もーひどいったらないの」

 アスティが出した果汁を飲みながら、アレクサは何があったのかを話し始めた。

「父様と母様の言うこと聞いておいてよかった」

 アレクサが学校の友達と飲んでいると、知らない男たちが三人、彼女たちに話しかけてきた。お互い三人だし、一緒に飲まないかと誘われたのである。別に断る理由もないし、楽しそうだからいいか、程度の気持ちで、彼女たちは了承した。

「父様の言う通りだった」

 一杯、二杯と飲む内、アレクサは男たちが互いに目くばせしていることに気が付いていた。なんだ? と思いつつも、アレクサは母に言われた通り杯を空にして手洗いに立った。 そしてそこから帰って来ようとする時、男たちの内のひとりの手から何かが友達の杯の中に入れられるのを、彼女は確かに見た。

「----------」

 何を入れられるかわかったものではない----------父の言葉が脳裏に浮かんだ。

 アレクサはぎゅっ、と手を握り、自分たちの席に戻ると、薬らしきものを入れられた杯から酒を飲もうとする友達から杯を奪い取った。

「どうしたのアレクサ」

「・・・これ、飲んでみて」

 アレクサは低い声で男に言った。男たちは顔を見合わせた。

「飲んでみて」

「いや・・・」

「どうしたんだい」

 ごまかそうとする男たちに、アレクサは尚も詰め寄った。

「飲んでよ。飲めないの? ----------何を入れたの?」

「え----------」

「・・・」

「飲みなさいよ。飲めったら」

「アレクサ」

 男たちが立ち上がった。

「黙って聞いてりゃいい気になって」

「あ? やろうっての?」

「アレクサ」

「いい度胸じゃないの」

 そこでアレクサは三人の男たちを相手に大立ち回りを演じ、友達ふたりを送って帰ってきたのだという。

「だから遅くなっちゃった。ごめんなさい」

「勝ったの? さすがお父様の娘ねえ」

「オレじゃないぞ。お前に似たのだ」

「そんなことはありません。それに・・・」

「どっちに似ててもいいよ」

 いつものように仲のいい言い合いを父母が始めたので、アレクサは酒を飲んでいたこともあり、どうでもよくなって立ち上がった。

「お風呂入るね」

 アレクサを見送って、ふたりは寝室に入った。アスティの淹れた香茶を飲みながら、天上界という場所について、話が盛り上がる。

「来た当初は刺激のない退屈なところだとばかり思っていたが、なかなかどうして地上と変わりがないな」

「そういう意味では天上界の子供たちは世間知らずなので却ってよかったですわ」

「アベルとミルワだって魔法院育ちだからな。外の世界では苦労したらしい」

「それにしてもどこの眷属の男たちでしょう。戦使族を相手に喧嘩するなんて」

「大方若い娘だからと馬鹿にしたのだろう」

「まあアレクサは特別やんちゃな子ですから」

「小さいころからそうだったな」

 娘の幼い頃に思いを馳せながら、カシルは香茶を飲んだ。ミルワの思春期、地上の娘はほとんど口をきいてくれなかったが、天上界の娘はそんなことはないようだ。それは、母の存在があるかないかということになるのではないかと思っている。

 確かに、アスティが生きていれば、ミルワは父の重婚についてひとりであのような歪んだ解釈はしないで育っていただろう。必然、彼に対する態度も変わっていたはずだ。

「娘というのは難しいからな」

 彼は低く呟いていた。



 その天気のいい週末のある日、アスティは香茶を出しながらこんなことを言った。

「王、旅に出てみませんか」

「----------なに?」

 カシルは何を言われたかわからずに、香茶を飲もうとして固まった。

「旅に、出てみませんんか」

「----------」

 アスティが言い直しても、何を言われたのかまだわからない。彼女はにこにこと笑って自分のこたえを待っている。

「何を言う。ここでの務めはどうする。それに----------」

「【影】がいます」

「----------」

「あれから百余年、【影】を出す修行はやめてしまいましたが、今だって出せるはずです。 最後に出したのは、王城と魔法院を行き来している時でした」

 彼はその時のことを思い出していた。自分は、アスティが死んでのちも使っていた。

「時々休ませれば、【影】を出し続けることは可能です。・・・あの時のように」

「しかし・・・」

「眷属の者たちには既に話してあります。戦使族の年長の者の何人かと、竜族の四氏族の長たちに」

「・・・」

 カシルは彼女の思いもよらない提案に、どうしたらいいのかわからずまだ言葉がちゃんと出てこない。

「アレクサとサラヴィスはどうする」

「あの子たちはもう十八です。地上で言うなら成人。私たちがいなくても大丈夫ですよ」

 アベルとミルワもそうでしたよね、とアスティは笑って言う。

「----------」

 ----------旅に?

「王。王は地上にいた頃、自らを律して旅の暮らしを封印なさいました。時々城を抜け出すことが精一杯で、ずっと自分の心を殺して国王として務めを果たしてきました」

 アスティは彼に新しい香茶を淹れながら言った。

「そして地上での務めを終え、天上界にやってきても眷属の王となってしまって、王の気持ちは休まることがありません。でも、眷属の王なのですから、少しは休むことがあってもいいはずです」

「王というものはそれでは務まらん」

「それは地上での国王の在り方です。ここでは違う。ここは天上界です」

「しかし」

「でも、いつまでも留守にはできません。一年、と区切りをつけてみてはいかがでしょう。 一年あれば、私は大陸を一周できました。一年あれば、ゆっくりと心を休めることができる」

「----------」

「国王の時は、王は書斎で心を休められていた。眷属の王となってから百数年、もうそろそろ休暇をとってもいい頃です」

 アスティは相変わらず笑顔である。冗談を言っているようには、見えない。

 カシルは放心して彼女の言ったことを頭の中で反芻していた。

 その夜、アスティは寝床を共にしながら、彼がなかなか眠れないでいることに気が付いていた。何度もため息をつき、考えがまとまらず、彼は夜中過ぎまで物思いに耽っていたようである。



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