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「母様、カレヴィアって誰?」

 ある日、アレクサが意外な質問をしてきた。

「え?」

「母様竜族の前だと違うひとだよね。カレヴィアって誰なの?」

「・・・」

 アスティは屈んでアレクサの目を見た。

「そうね・・・どこから話したらいいかな」

 彼女は娘の肩に手を回しながら庭へ歩いて行った。

「母様は地上にいた頃、呪われた運命の宿主だったの」

 彼女は話して聞かせた---------その呪われた運命が、近しい者もそうでない者も無作為に選んで悉く死に至らしめたということを。それで傷つき、何度も死のうとして、とうとう死にきれなかったことを。肉体は幾度も限界を迎え、危機が迫り、とてもではないが精神の面倒まで見られなかったことまで。

「そうしていく内に、生存本能が心の中の番人を作り上げたの」

「生存本能ってなに?」

「生きたいと強く願う気持ち」

 アスティは小川の流れを見つめながらあの日々のことを思い出している。悲しみに彩られた、あの苦悩の毎日。

「ある日、記憶を失って、自分の名前も忘れて---------」

 カシルが《アスティ》と出会い、自分もその《アスティ》と話が通じ合うようになり、ある日身体を乗っ取られたこと。

「《アスティ》はこの身体を欲しがってた。でも、この身体の持ち主は母様なの」

「だからザドキエルは身体の主って呼ぶのね」

「そう。地上で死ぬ寸前、母様は自分に何が起こるか悟った。冥界には行かない、天上界で神になるって。でも、お父様のいない場所で神になっても意味なんてなかった」

 だから死の直前、《アスティ》に身体を譲ったの---------アスティは小川に手を入れながらそう結んだ。

「---------」

 アレクサは初めて聞く母の生前の話に、驚きを禁じ得ない。

「なんで?」

「うん?」

「神になれるのに、なんで身体をあげちゃったの?」

「母様にとってお父様がいることが生きていることの意味だからよ」

 迷いもせずそう言う彼女の強い瞳に、アレクサは戸惑った。

「---------」

「だから、母様はお父様とあなたたちと一緒にいる時だけ身体を返してもらって、そうじゃない時、天上界の住人がいる時は《アスティ》と入れ替わっているの」

 アスティはアレクサを振り返った。

「ごめんね。話が複雑で」

「ううん。でも・・・」

 アレクサはうつむいた。

「・・・よくわかんない」

「そうかもしれないわね。あなたの歳だったらわからなくても当然だわ」

 いつかわかるようになるのだろうか---------アレクサは母の横顔を見ながらそんなことを思っていた。

 彼女の思惑は外れ、そのいつかはすぐにやってくることになる。



 いつものように戦使族の祝福に出かけて行ったカシルが、家族に告げた時間よりも大幅に遅れて帰って来ない、夜になっても戻って来ないという知らせを聞いて、戦使族の年かさの者たちが青竜宮にやってきた。

「カレヴィア様」

「一体なにがあったというのでしょう」

「わからぬ。あの男は必ず夕食には帰って来られるよう出かけて行く。また、間に合わない時は身体の主にそう伝えるはずじゃ。何かがおかしい」

 慌ただしく戦使族の者たちが出入りしているのを見て、双子も不安そうである。知らない者たちが大勢行き交うのを見て、アルが警戒してテーブルの下に隠れた。

「とにかく探せ。嫌な予感がする」

「はっ」

 戦使族の者たちが出て行って、カレヴィアはアスティと入れ替わり、所在なげにそこへ佇んでいるアレクサとサラヴィスに向かって屈んで見せた。

「大丈夫よ。きっと帰って見えるわ。---------大丈夫」

 しかし、彼は次の日になっても帰って来なかった。

 聞き込みをしていた戦使族の者が、空を行く黒い透明な翼の持ち主が、どこからか飛んできた矢で射落とされ、連れて行かれたという話を持ってきたのは昼過ぎになってからであった。双子は父が心配で、今日は学校には行っていない。

「---------ルエ! 四氏族の長たちを呼べ」

 カレヴィアが怒鳴り、アスティと入れ替わって子供たちと待っている間、アレクサは父はどうなるのだろうとぼうっとしながら考えていた。父様がいなくなる。父様がいなくなったら、母様は・・・?

「カレヴィア様」

 アレクサはハッとした。四氏族の長たちが続々と青竜宮に集まってきたのである。

「夫の所在が知れません」

 アレクサは仰天した。母が、カレヴィアと、《アスティ》と入れ替わっていない。家族の前以外では、姿を現わさないと決めているはずの母が。

「探してください。その際どんな争いが起きようとも、星天竜が後始末をすると眷属の者たちに言いなさい」

「---------はっ」

 長たちはその声の違い、その言葉遣いで、カレヴィアではなく身体の主だと気がついたのだろう、顔を見合わせていたが、命令を受けて直ちに竜の巣へと戻って行った。

 しばらくして、若い竜人が何人も戦使族と連れ立ってやってきた。

「カレヴィア様。私共は互いに対を見つけた者たちでございます。バーバリュース様の捜索には、もってこいかと」

 アスティはうなづき、

「二人一組で探して。弓矢を能くする眷属のことも調べて。---------それから、竜族と戦使族に恨みを持つ者たちのことも」

「かしこまりました」

 対の者たちが去っていくと、青竜宮にはアスティと子供たちだけになった。

「母様・・・」

 サラヴィスが不安げにその青衣の裾を持つと、アスティは振り返って言った。

「・・・大丈夫よ。帰って来るわ」

 母様、どうしてカレヴィアと入れ替わらないの、とは、アレクサは聞けなかった。この緊迫した空気の中でそんなことを聞くのは、ひどく場違いな気がしたからだ。

「必ず帰ってくる」

 そんなアレクサの気持ちを見透かしたように、アスティはじっと目を瞑って噛みしめるように呟いた。



 一方のカシルは、左肩に激痛を感じて不快な目覚めを迎えていた。頭痛がする。肩も痛いぞ・・・何があった。彼はそっと目を開けた。

 あまりにも頭ががんがんするので頭に手をやろうと思ったが、手の自由が利かない。そこで、初めて自分が後ろ手に縛られているということに気が付いた。彼は顔を上げた。

 暗い、狭い部屋の中に、彼はひとりでいた。どうやら柱に縛られているらしい。悲鳴を上げるように、肩がずきずきと痛い。射られたのだ。

 ---------そうだ、祝福を終えて帰ろうとした時・・・

 後ろから空気を切るような音がして、同時に肩に鋭い痛みが奔って、・・・

 誰がこんなことをしようというのだ。

 彼は割れ鐘のように痛む頭を懸命に働かせて考え続けた。いつものように人間に間違われたわけではない、空を行っていたのだから。

 オレを戦使と知ってのことというわけか。

 めまいがする。それに、気分がひどく悪い、射かけた矢に毒でも塗られていたのか、とふと思った。

 彼は生前蛮族と戦う際、奴らの持つ毒の刃で何度も斬られた経験がある。

 アスティが行方不明だった二年間は毒の正体がわからなかったため、解毒は至難の技であったが、彼女がリザレアに戻ってからは、それも可能となった。だから、毒には耐性もあるし、自分の身体が毒されれば感覚でわかる。

 なんという毒だ。どれくらいで全身に回る。

 彼は痛む頭を励まして考えた。どんな毒かわからない以上は、手の施しようがない。

 眷属の者たちはどうしている。アスティは。

 彼は心話を試してみた。

<アスティ>

<---------王?>

 声からして、彼女が焦っているのがわかった。

<どこにおいでです。無事ですか>

<どこにいるかまではわからん、縛られている。---------毒も身体を回っている>

<毒が?>

 アスティが混乱の内、声を上げるのが聞こえてくるようだった。

<両眷属総出で探しています>

<オレがいるのはどうやら正方形の部屋のようだ。暗くて狭い。それに、硫黄の匂いがする>

<それを頼りに探します>

 空を行く際、後ろから射られるとは---------誰かがそれを見たのならいいのだが。

 そんなことを考えている時、扉が軋み声を上げて開いた。誰かが入ってくる。

「おっ、気が付いてる。もうすぐ毒が全身に行きわたって死ぬだろう」

「戦使族は戦いにおいては無敵だがこうなると弱いもんだな」

 くつくつと笑う声。顔を上げたが、暗くてどんな男たちかまではわからない。

「・・・ここはどこだ」

「名もない星さ。オレたちが根城にしてる」

「なぜ硫黄の匂いがする」

「オレたちが食うためだよ」

 食う・・・? 硫黄をか。

 彼は力を振り絞ってアスティに心話でそれを伝えた。

「もうしばらく眠っててもらうぜ」

 そして棒のようなもので殴られ、彼は声もなく昏倒した。



「硫黄を食う、と言ったのですな、確かに?」

「はい。その後は気絶してしまったのか心話が通じません」

 竜族の長と戦使族の者は顔を見合わせた。

「天上界広しと言えど硫黄を食うなどという眷属はたった一つでございます」

「土流族でございます」

「どういう者たちなのです」

「なんてことはない、我々とはいささか違う生き方をしているだけの眷属でございます」

「はて、なにゆえバーパリュース様を・・・?」

「とにかく探して。どこかの星にいるはずよ。両眷属総出で土流族の動きを洗って」

「はい」

「かしこまりました」

 毒が身体を巡っているという。果たして無事なのか---------

 気が狂いそうだ。

 アスティはそっと唇を噛んだ。ふと、子供たちが不安げに自分を見上げているのに気づいて、無理矢理笑顔を作って歩み寄った。

「心配ないわ。もうすぐ見つかる。あなたたちは先に寝ててね」

「でも・・・」

「その代わり、明日も学校に行かなくていいわ。お父様が帰って来るまでは」

 アレクサはサラヴィスを促して子供部屋へ行った。しかし父が心配で、寝ようにも寝られない。双子は一晩中起きて、二人でどうしようどうしようと話し合っていた。



「カレヴィア様・・・!」

「何かわかったの」

「はい、空を行く戦使族を矢で射ってそのままいずこかへ連れていく土流族を見たという者がおります」

「どの方向に?」

「東だそうでございます」

「では両眷属で東にある星という星をしらみつぶしで探すのです。硫黄がある星よ。そう多くはないわ」

「かしこまりました」

「私も行きます」

「ですか・・・」

「行くったら行く」

 アスティは子供たちを振り返った。

「ふたりとも、ルエとここでお留守番してて。お父様と一緒に帰ってくるからね」

 そして、翼を広げて竜人たちと共に行ってしまった。

 捜索は難航した。

 宇宙は広い。硫黄がある星など、珍しくもない。それらを一つずつ探すのは、例え天上界一の数を誇る竜族と戦使族といえど、骨が折れた。

 アスティは心話でカシルに呼び掛けながら竜人たちと共に半狂乱で彼を探し回った。

 捜索を初めて六時間も経っただろうか、ある星へ降り立つと、渦の波動が微細ながらに感じられた。

 ここだ。

 アスティは直感した。

 硫黄のにおいが立ちこめるなか、彼女はカシルを探した。竜人たちも戦使族と共に来た。「王!」

 間もなく、硫黄の煙の向こうに粗末な石の小屋が見えてきた。あれだ---------アスティは目を細めた。濃い硫黄のにおいで、息が詰まる。

 小屋の中に入ると、はっきりと渦の波動を感じた。王はここにいる。

「王! どこです」

 あちらで、逃げ回る足音がした。誰かいるのだ。

「追って! 一人も逃がさないで」

 側にいた竜人に命じると、彼女は扉という扉を開けて回った。狭い、暗い部屋と言っていた。そんな部屋は、無数にあった。

 そして探し続けること数時間、いくつもいくつも扉を開け、ようやくある部屋に行き着いた彼女は、そこで柱に後ろ手を縛られているカシルの姿をみとめた。

「---------王!」

 慌てて駆け寄ると、首に手を当てた。脈はある。と、彼が力なく顔を上げた。

「・・・遅かったな。待ちくたびれたぞ」

 いらしたぞ! 後ろで誰かの声が聞こえた。縄をほどき、助け起こして立ち上がる。戦使族の誰かが、反対側に回って彼を支える。

「首謀者を探し出して。必ず、必ず探し出して」

 硫黄のにおいで息ができない---------むせかえるようなそのにおいの中、アスティは翼を広げて飛び立った。

「王・・・しっかりしてください」

「バーバリュース様・・・」

「・・・大事ない。無事だ」

 消え入るような声であった。

「とにかく青竜宮へ戻ります。支えて」

「はい」

 アスティは戦使族の若者と共にカシルを支えて青竜宮へ帰った。

 青竜宮は、竜族と戦使族でごった返していた。

「お戻りだ!」

「おお・・・!」

 みな口々に彼の無事を確かめに来る。そして、その土気色の顔を見て息を飲んだ。

「寝室へ」

 アスティは頭の中でどんな毒がどれだけ彼の身体の中に入ったのか、それだけに考えを巡らせながら寝室へ彼を運んだ。とりあえず、解毒しなくてはならない。

「医族を呼んで今から言う薬を取り寄せて」

 薬の名を告げると、竜人たちが消えていく。

「母様?」

「父様戻ったの?」

 子供たちが騒ぎで起きてきた。もう夜中だ。

「父様帰ってきたの?」

「お戻りよ。でも、今は会えないの」

「なんで」

「ちょっと具合が悪いの。休ませてあげて」

「カレヴィア様、首謀者らしき土流族の若者を捕らえましてございます」

「どんな手を使ってもいいからなんていう毒なのか聞き出して。なんでこんなことしたのかも、聞き出して」

「はっ」

 母様、竜人の前なのにまだ母様だ---------アレクサは寝ぼけ眼のままそんなことを考えていた。眠気など、吹っ飛んでいた。

 間もなく、言われた薬を医族から受け取ってきて、竜人たちが帰ってきた。

「とりあえずこれを飲ませます」

 アスティは寝室へ行くと、虫の息のカシルに苦労してそれを飲ませた。話しかけたが、一言二言なにか呟いたのみで何を言っているかまではわからぬ。彼女は歯噛みしながら寝室を出た。

「カレヴィア様」

 土流族の首謀者を見つけたと言ってきた竜族と戦使族の若者が近寄ってきた。

「わかった?」

「は・・・土流族はおとなしい眷属にございます。じきに吐くでしょう」

 そこへ、別の戦使族の者が走ってきた。

「わかりました。わかりましてございます」

 その若者が毒の名を告げると、それはどうやらアスティの知っている毒のようである。 彼女は自分の部屋へ行って戸棚を探し、該当する毒の解毒薬を見つけると寝室へ向かった。

「ルエに言って清潔な布を持って来させて。沢山いるわ」

「かしこまりました」

 その毒は、かつて地上にいたとき自分も飲まされた毒であった。経口ならいざ知らず、それが傷口から入っているのならば、毒の回りは早いはずだ。

 アスティは解毒薬をカシルに飲ませ、彼が咳き込むのにも構わず一気に口に注いだ。こうでもしなくては、身体に回った毒が全身を巡るのを止められない。失踪してから三日、急がなくては。

 間もなく、カシルの身体が熱くなってきた。解毒剤が効いて、身体が高熱を発しているのだ。すると、黒い汗が額を流れる。毒だ。毒の汗。

 アスティはベッドの脇に座ってそれが目にはいったり口に入ったりしないように丁寧に拭い続けた。敷き布は真っ黒に染まり、彼は目を覚まさなかった。部屋の中はあっという間に黒くなった布でいっぱいになった。

 双子は未だ帰って行く気配のない戦使族と竜族の多くを見つめながら、寝室に籠もるアスティの姿を扉の隙間から見つめていた。

「・・・」

 懸命に汗を拭い続ける、その横顔。アレクサの胸がつまった。

 母様のこんな顔を、今まで見たことがない。

 黒い汗は三日三晩出続けた。アスティは夜も眠らず、食べることも忘れてカシルの側にいた。

 そしてようやく熱が引き、汗がふつうの色に戻って、カシルの顔色も明るくなったように見える五日目の朝、アスティはカレヴィアと入れ替わって表に出てきた。

「カレヴィア様・・・」

「バーバリュース様は・・・」

「峠は越した。今はよう眠っておる。者ども、ご苦労であった。帰ってよいぞ」

 口々に安堵の声を上げ、安心した面持ちで帰って行く両眷属の者たちを見送ってから、カレヴィアはアスティと入れ替わった。部屋にいるのはアスティだけとなった。

「・・・」

 彼女はため息をついて部屋を見渡し、寝室へ入った。

 黒い汗に染まったベッドの中で、カシルが安らかな寝息をたてて眠っている。その寝顔を見て、アスティは安堵のあまり涙が流れるのを抑えられなかった。

 ---------よかった・・・間に合ってよかった

「母様?」

 アレクサとサラヴィスが扉を開けてこちらを窺っている。慌てて涙を拭い、顔を上げた。

「どうしたの」

「父様起きた?」

「まだ当分は起きないわ。寝かせてあげて」

「明日は学校に行ってもいい?」

「そうね。もう一週間以上も行っていないものね。行ってきていいわ」

 双子は眠る父の姿を見てほっとしたように子供部屋に戻って行った。

「母様、」

 戻り際、アレクサは振り返って母に言った。

「カレヴィアと入れ替わらなかったね。竜族の前なのに」

「・・・そうね。そうだったわね」

「なんで?」

「---------入れ替わるだけの余裕がなかったのよ」

 さ、あなたももう寝なさい、と言われ、アレクサは歩き始めた。産まれてからずっと、母は天上界の住人の前に姿を現わさなかった。あの天使が遊びにきても、眷属の誰が来ようと、決して出てこようとしはなかった。

 しかし、父の危機に際して、母は躊躇することなく出て来て指揮を執った。それがどういうことなのか、何を意味するのか、小さいながらもアレクサにはわかるような気がした。 三日後カシルが目を覚ました時、アスティは彼の傍らの椅子に座り、彼の枕元で眠っていた。声をかけても、起きる気配はない。彼は窓の外を見た。

 ---------あれから何日が経ったというのだ

 彼は時刻が朝なのか夜なのかもわからないまま、アスティを起こさないようにそっと寝室を出ると誰かひとを探した。

「お目覚めでございますか」

「ルエ。今は何日目だ。オレはどれだけ眠っていた」

「毒が抜けるまでに五日ほど・・・その間カレヴィア様はひと時もお休みにならずにずっとお側に」

「五日も?」

「はい。それから後も一睡もせずに枕元についておいででした」

「・・・子供たちはどうしている」

「間もなく起きられましょう」

 わかった、と言ってルエを下がらせると、彼はすっきりした頭のなかで考えを巡らせていた。

 ---------誰がなんのためにあんな真似を?

 間もなく、彼が目覚めたとルエから連絡をもらった戦使族の何名かがやってきた。カシルは事の次第を聞いた。

「土流族・・・?」

「はい。すでに首謀者は捕らえてあります」

「何か言ったのか」

「は・・・なんでも、昔戦使族の娘に横恋慕したものの、袖にされたのが忘れられなくて戦使族を襲った、と」

「それが眷属の王だとは知らなかったと申しております」

「・・・」

 彼は少しの間考えていた。

「どうなさいますか。示しをつけなくてはなりません」

「眷属の者たちには復讐など考えてはならんと伝えろ。戦争になる」

「ですが・・・」

「戦いに長けた六億五千もの戦使族と戦っては相手が誰であろうと滅んでしまうだろう。 それは避けなくては」

「かしこまりました」

 眷属の者たちが帰って行って、ルエが朝食の準備が出来たと伝えに来た。間もなく、子供たちが起きてきて、久しぶりに顔を見せた父の姿を見て歓声を上げて走り寄ってきた。

「父様!」

「もういいの?」

「母のおかげですっかりいいぞ。お前たち今日は学校だな」

「父様がいない間学校はなかったの」

「だから行かなかった」

「そうか・・・では今日は行かねばならんな」

「父様母様は?」

「疲れて眠っている。寝させてやれ」

 それから朝食を子供たちととり、彼は寝室のアスティの元へ行った。そして彼女を抱き上げると、黒くなっていない方の敷き布の上に彼女を横たえた。疲れの濃いその寝顔を見つめ、それからそっとその額を撫でた。

 アスティは一昼夜の間眠っていたが、やがて目を覚ましてきた。子供たちもカシルもいないので、彼女は食堂へ向かった。

「あ、母様だ」

「起きたのね」

 カシルも彼女を見た。

「起きたか」

「・・・はい」

「不眠不休で看病していたそうだな。無理をするなと言ったではないか」

「時と場合によります」

 まったく、と彼は首を振った。ルエがやってきて、寝室の敷き布を交換致します、と言う。食事を出してもらって、カシルと子供たちと共に食べる。何事も起きなかったかのような平和な食卓であった。

「傷はいかがですか」

「まだ痛むが大したことはない。また傷が増えた」

 包帯の巻かれた肩を叩きながら、彼は笑顔で言った。

 子供たちが学校に行ってから、アスティは土流族のことを彼に話した。

「眷属の者に聞いた。戦使族に恨みがあったようだ」

「竜族も巻き込まれました。両眷属とも、事の始末をつけたがるでしょう」

「しかし下手をすると三つの眷属で戦いとなる。それだけは避けなくてはならん。オレが土流族の長の元へ行って話をつける」

「---------」

 アスティはそっと息をついた。ようやく彼はもう大丈夫だと納得してほっとした瞬間、涙がぽろりと流れた。

「---------」

 慌てて涙を拭う。しかし、涙は次から次へと流れてくる。アスティは両手で顔を覆った。

 泣くな。

 カシルは立ち上がって彼女の側へ行った。

「泣くな。お前が泣くと、オレはどうすればいいかわからない」

 また泣かせてしまった---------自分の胸にすがって泣き始めたアスティの肩を抱きながら、彼は悔恨のため息をついた。

 その晩、カシルは彼女を求めた。

「いけません」

 初め、アスティは彼を拒んだ。

「傷に障ります」

 しかし、彼は手を止めない。耳元で何事か囁いているが、それは彼の国の言葉でアスティにはわからなかった。唇で唇を塞がれて、彼女は観念した。

 愛し合う時間が過ぎて、その腕に抱かれながら、アスティは自分が寄りかかるその肩の包帯に血がにじんでいるのに気が付いた。

「・・・血が出ています」

「なんてことはない。じき止まる」

 ぎゅ、とアスティがしがみつくのがわかった。彼には、アスティのその気持ちが痛いほどわかった。

 ---------またあなたを失うかもしれない。

 その恐怖が、アスティを惑乱させた。

 お互いのいなかったあの十七年間、あの時は、いつか地上での死を迎えるという終わりのある期間であったからこそ待てたものの、また彼を失うことになったら。死してのち、神となったとはいえ肉体が滅んだら。

 その恐怖が、彼のいない一週間近くの間アスティを襲っていた。

「心配するな。オレは死なん」

「・・・」

 またも、アスティが自分の胸にしがみつくのがわかった。彼は黙ってその肩を強く抱き寄せた。

 夜が更けていく。



「友達とけんかしちゃった」

 ある日アレクサが思い詰めた顔でそんなことを言った。

「どうすればいいかわかんない」

「・・・」

 アスティは黙ってそこへ座った。かつて、自分にもそんな悩みがあった。その喧嘩の多くはラウラとの間のものであった。気の強いラウラ、一旦言い出したら聞かないラウラ。「どっちが悪いかわかんないからなんにも言えないけど・・・」

 アスティは肘をつき、掌の上に顔を乗せて呟くように言った。

「相手が笑っていても傷ついていないとは限らないし、大丈夫って言ってても大丈夫じゃないかもしれない。想像力が足りないと、いつもひとを傷つけることになっちゃうわ」

 ラウラと言い合いになると、大抵はアスティがラウラを言い負かしたものだった。親友はぐっと言葉に詰まり、ぷい、と部屋を出て行ってそのまま一日戻らないことが大半だった。そしてどちらが謝るというわけでもなく、いつの間にか部屋に戻ってきて、ぽつりぽつりと話しかけてくる。その頃にはアスティの気持ちも収まっていて、そんなラウラを受け入れる。それが常であった。

「想像力ってどうやったら育つのかなあ」

「いっぱい本を読むことね。物語を想像すれば、人の気持ちだってわかるようになる。私はそうだった」

「うーん」

 アレクサは唸りながら立ち上がって、そして子供部屋に行ってしまった。

「喧嘩か」

 カシルが座ったままのアスティに歩み寄って話しかける。

「こればっかりは本人が解決するしかないので私としても言いようがありません」

「なに、その内元気になるさ。ミルワもそうだった」

 アスティはもういない娘に思いを馳せた。娘との記憶は、彼女が二歳の時止まり、そして十九歳の時まで一気に飛んでしまった。恋の悩みは聞いたことはあるが、彼女の思春期に、自分はいなかったのだ。いてやれば、どれだけ力になれただろう、そんなことをうっすら思った。

「魔法院で真剣を使い始めるのはいくつからだ?」

「え?」

 カシルが庭に目をやりながら聞いてきたので、アスティは考えを中断して顔を上げた。 庭で、木刀を持ってアレクサとサラヴィスが手合わせしている。

「十二歳くらいでしょうか」

「早いな。騎士団では見習いは個人の腕に合わせて真剣を持たせていた」

 子供たちにもそろそろ真剣を持たせた方がいいのだろうか、彼は言った。

「・・・真剣が必要でしょうか。なにしろ、竜と戦使です」

 天上界の戦いにおいて、竜も戦使も剣を必要としない。また、そんな場面に出くわすこともないだろう。

「しかしいつまでも木刀では緊張感がないのも確かだ」

「そうですね・・・」

 アレクサもサラヴィスも飛べるようになって成人した今、そろそろ真剣を持たせてもいいのかもしれない。

 そんなことを考えていたある日、竜族の男が青竜宮に乗り込んできた。その様子は怒り心頭、いらいらとして憤懣やるかたなしといった具合であった。

「どうした」

「どうやらサラヴィスのお友達のことで話があるようです」

 カシルが話を聞くと、サラヴィスの学校の友達の父親と名乗った男は、カレヴィア様には気が引けてこんなことは申し上げられない、しかし父親としてどうしても言わねばならないことがあるので来た、という。

 そこで部屋に通して詳しく聞くと、どうやら友達というのは女の子らしい。その女友達が妊娠した、父親はサラヴィスだと言ったというのである。

「あの子はまだ十六です。どうすればいいかわからなくなって・・・」

 カシルはため息をついた。

「わかった。息子に話を聞いてくる」

「バーバリュース様、ですが・・・」

「片方だけの話を聞いて鵜呑みにするわけにはいかない」

 そこで父親を待たせて子供部屋に行った。

「セゼラヴィントス」

 息子は本を読んでいた。

「父と話をしよう」

 そして座らせると、まず彼は聞いた。

「お前、いくつになった?」

「十四」

 ふむ。では女友達というのは年上か。

「アイシャという竜人を知っているか」

「知ってる。僕にしつこく構ってくるから側に来るなって言った」

「それだけか」

「それだけ。それ以来話してない」

 彼は息子の目を見た。

 かつて、国王として人々を裁いていた時。

 彼は裁かれる者たちの嘘を見破らねばならなかった。その多くは罪を逃れ、いかに罰を軽くするか必死になっていた。

 そして今、息子はと見ると、嘘をついているようには見えない。それに、十四で年上の娘を妊娠させるだけの手練手管が息子にあるかも疑わしい。

「わかった。行っていい」

 サラヴィスを解放すると、気が重いながらも彼は父親の元へと戻った。

「息子は知らないと言っている」

「ですが・・・!」

「そもそも妊娠したというのは本当なのか」

「---------それは・・・」

「娘と話させてくれ」

 渋る父親を説得して、アイシャという娘を連れてきてもらった。

「同じ竜族です。私が話しますか」

「いや、いい。眷属の王だと緊張するだろう」

 カシルは青竜宮に父親に連れて来られたアイシャという娘を見た。

 赤い髪、青い目。透き通るように色が白く、勝ち気そうな目元は自分は間違っていないとでも言いたげに吊り上がっている。

「さて・・・」

 彼は座りながらアイシャに言った。

「戦使族の王としてではなく、ひとりの父親として聞きたい。妊娠したというのは本当かな」

「・・・」

「サラヴィスは君とは話していないと言っている。父親としては、息子を信じてやりたい。 しかしもし君の言うことが本当なら、責任というものを明らかにしなければいけないのも事実だ」

「・・・」

「アイシャ、言いなさい」

 黙りこくる娘に、父親が囁く。部屋の中に沈黙が立ち込めた。カシルは穏やかな瞳でアイシャを見つめているのみで、何も言わない。

「・・・妊娠は、してない」

「お前・・・!」

「まあ待て」

 父親を止め、彼はアイシャに続きを言わせた。

「・・・好きだから構ってほしくて行ったのに、冷たくするんだもん。だからちょっと困らせてやろうかと思って」

「なるほどな」

 カシルはそっと息をついた。

「アイシャ!」

「叱ってやるな。年頃の娘だ」

 父親とアイシャが帰って行って、彼は待っていたアスティに話を聞かせた。

「・・・まあ」

「しかしあいつも隅におけないな」

 カシルは愉快そうに言った。

「父親に似たんでしょうか」

「オレは知らんぞ。身に覚えがない」

「自覚がないのも、よく似ています」

「おいおい」

 地上にいた頃、国王という身分も手伝ってか、彼の周りには女性がひっきりなしに集まってきた。彼女たちの秋波に、カシルはなびくということが一切なかった。

「そんなことは知らん」

「そういうことにしておきましょう」

 香茶を淹れながら、アスティは微笑む。そんな女たちが来るたび、彼女がそわそわしていたことも、カシルは知らないだろう。そしてアスティもまた、彼が女たちになびかなかったのは、彼女がいたからだということに気が付いていない。

「アベルの頃を思い出す」

 香茶を飲みながら、カシルの瞳が微笑んでいる。地上の息子も、よく異性にもてた。小さい頃から女の子たちが彼と遊びたくて集まって来ていたものだ。王になり父親と同じ立場になって、よくも独身を貫いたものである。

「似た者同士ですわね」

 サラヴィスは日に日にアベルの若い頃に似てくる。つまり、カシルに似てきたということだ。

「ミルワだって負けたものではない。ここから見ている限りでも、男たちが放っておかなかった。お前に似たのだな」

「あら」

 アスティは真顔になった。

「そんなに似てるかしら」

「あの娘は金髪だったからわからんかもしれないが、アレクサがどう似てくるか今から楽しみだ」

 うーん、とアスティが悩ましげに唸った。地上に降りて行って娘と言葉を交わしていた頃、娘が自分に似ているなどと思ったこともない。

 しかし、こんな苦情が来るようになるとは、そろそろサラヴィスにもあの話をしたほうがいいかな。

 彼はそんなことを考えていた。

 双子が十五歳になったある日、カシルは部屋で本を読んでいるサラヴィスに言った。

「セゼラヴィントス、話をしよう」

 彼は息子と庭に出た。

「お前、十五歳だな」

「うん」

「あと三年で十八だ。十八といったら結婚できる歳だ」

「まだ早いよ」

 笑うサラヴィスに、彼も笑いかけた。

「そうだな。しかし身体の成長はもっと早い。お前のことを好きだという娘とお前が、想い合う日がいつかやってくる」

 サラヴィスが顔を上げて自分を見るのがわかった。

「そして、その娘と寝たいと思う日もやってくる。しかし簡単に寝てしまってはいかん」「なんで」

「女の子は妊娠する可能性をいつも秘めているからだ」

 サラヴィスが何か呟くのに任せて、カシルは尚も続けた。

「望まぬ妊娠をしたら最後、娘の方は選択を迫られる。産むか否かの選択だ。産むという選択をした場合、その子の人生は大きく変わる。子供が産まれてから二十年は自分の時間が自由にならない。それが年頃の娘であっても、待ったなしだ」

「二十年?」

「そうだ。友達と遊びに行くことも、本を読むことも難しい。それがずっとしばらく続く。 そして産まない選択をした場合も、厳しい現実が待っている」

「---------」

「堕胎という選択をすると、女の身体は傷つけられる。暖炉の火掻き棒があるだろう」

「うん」

「あれに似たもので、足の間から胎児を掻き出すのだ」

 それを想像したのか、サラヴィスの顔が青くなった。

「痛そう・・・」

「痛い。父は男だからそんな目には遭ったことがないが、麻酔が覚めても痛みと出血は続く。それに、負った心の傷も深い。二度と立ち直ることは出来ないと言われている」

「---------」

「それに、妊娠すると次第に自分の身体が変わることも女の子は経験する。臨月の時の身体の重さは、そうだな、七キロの砂袋が腰に下がっていると思えばいい」

「重いね」

「それに、出産も命懸けだ。お前たちの母は妊娠期につわりで苦しみ、ほとんど食事が出来なかった。あんな身体でよく二人も産めたと思う」

 カシルは膝の上で手を組みながら、細かった彼女の身体がもっと細くなっていたあの日のことを思い出している。

「お前たちを産むのに、二日かかった」

「二日も?」

「そうだ。足の間から何千グラムという胎児を出すのに二日だ。飲まず食わず、ずっと全速力で走っているようなものだ」

「・・・」

「出血もひどかった。よくも無事でいてくれたと思う」

「---------」

「だから、好きな女の子ができても、むやみやたらと寝てはだめだ。相手が嫌だと言ったらやめること。その子のことが本当に大切なら、それは寝てもいい。しかし、それにはいつも責任が伴うことを覚えておけ。

 そして、自分には一切傷がつかないということもな」

「・・・」

 サラヴィスは何事か考えていたが、やがて顔を上げて彼に聞いた。

「誰かを妊娠させたことある?」

「知っている限りでは、お前の母以外にはいない」

 そっか、とサラヴィスが呟いたのが聞こえた。そういえばアベルにこの話をした時も、同じことを聞かれたな。あの時もう、アベルはオレが重婚していたことを知っていたはずだ。あいつはそれをどう思ったんだろうか。

「話は終わりだ」

「うん」

 サラヴィスは立ち上がった。

「ありがと」

 そう言うと、彼は戻って行った。

 カシルはしばらく庭の樹を見つめながら、もういない地上の息子のことを考えていた。



「母様」

「なあに」

「ケーキ焼いてみたい」

「ケーキ?」

 好きな男の子でも出来たかな、と思いながら、アスティは立ち上がった。

「いいわよ。厨房に行きましょ」

 ラウラもよく、モムラスに焼き菓子を作ってたっけ。ミーラはもてたから、院生たちからひっきりなしに何かもらってたわね。

「卵を割って・・・」

「粉って書いてある。小麦粉?」

 リューンもよくもてたけどいつも断ってたな。シルヴァは・・・

「母様?」

 呼ばれてハッとした。

「どうしたの?」

 アレクサが不思議そうにこちらを見ている。

「ちょっとね、昔を思い出してたの」

「むかしー?」

 アレクサが笑った。

「何歳ぐらいのとき?」

「そうねえ、十五歳っていうともう一年修行に出てたから・・・」

「一年修行ってなに?」

「そこから説明しなくちゃいけないわね。えーとね・・・」

 と、説明する内、ケーキが焼き上がった。

「誰かにあげるの?」

「あげない。ひとりで食べる」

「あら」

 アスティは意外に思いながらも、

「サラヴィスと半分こしてあげて」

「うん」

 と娘を送り出した。

 地上では八番目の月、天壇青の月のようである。リザレアの忙しい様を見ながら微笑するアスティに、カシルは呆れたような視線を送っている。

 ---------また忘れているな。

 自分のことなのに、なぜこんなに関心がないのだろう---------魔法院では修行に明け暮れて、言葉で祝いはしても物をもらうことはなかったという。

「誕生日なんて毎日の内の一日に過ぎません」

 天上界に来てから、いつかアスティがこんなことを言ったことがある。

 暦というものがない天上界ではまた、季節の移り変わりもわかりにくい。基本的に、暑くもないし寒くもないというのが天上界だからだ。

 その年のアスティの誕生日、カシルはいつものように街に出かけ、恰好の贈り物を見つけて帰ってきた。厨房では、アスティが料理をしている。

 求めてきた花を渡すと、ちょうど食事の時間のようである。

「家族でこうして食事できるのもあとどれくらいかしらね」

「ずっとだよ」

「そうとは限らん。お前たちもいつかは結婚するだろう。そうしたらここを出て新しい家族が出来る」

「私結婚できるかなあ」

「あら」

 アスティは意外に思ってアレクサに聞いた。

「なんで? 何か心配なことでもあるの」

「だって・・・」

 娘はどうしようかな、言おうかな、と考えて、そして父をちらりと見た。

「うん?」

 そしてため息をつくと、一気に言った。

「父様と母様がこんなに仲いいの見てたら、そこまで好きになる人なんてそう簡単にできるわけない。子供がいても平気でいちゃいちゃするし」

「あら?」

 アスティは考える顔になった。

「そうかしら・・・」

「自覚もないんだから」

「いちゃいちゃなんかしてないわよ。王、そうですよね。何か言って下さい」

「オレは知らん」

「逃げた」

「ずるーい」

「王、それはないです。ほら、何か言って」

「知らん」

 笑い声が洩れた。アルが不思議そうにアレクサを見ている。

「今年はこれだ」

 食事が終わり、入浴を済ませ、アスティが香茶を淹れている時を見計らって、カシルは今年の贈り物を彼女に渡した。

「お前、青が好きだろう」

 金むくの真円の下部に、横たわる三日月を彫刻したペンダント。三日月の上には青い石がふたつ嵌められていて、それは星なのだろうか、石の周りは輝きを表わすかのように彫られている。アスティは微笑んだ。

「つけてやる」

 アスティの手からそれを取って、彼は鎖を彼女の首の後ろでつけた。アスティはそれを見下ろしてから顔を上げ、

「ありがとうございます」

 と笑顔になった。ルビーの横で、金色の円が光っている。

「でも本当にいいんですのに」

「そうはいかない」

 そういえば、彼女に贈ったあの樹はだいぶ大きくなった。地上にいた頃、彼は毎年天壇青の月の末日に庭のあの樹を訪れて亡き妻をひとり想った。今は、共にその成長を見ることができる。

 今年も無事済んだ。そんなことを思いながら、彼はアスティを腕の中に迎えた。



 双子が十六になって、アレクサとサラヴィスは部屋を分けることにした。

「遅いくらいじゃない?」

 アスティはアレクサに言った。

「まだ一緒でもいいけど、着替えの時面倒だから」

「今までどうやって着替えていたんだ」

「えーとね」

 お互いに背を向けて着替え、いいよ、と言うまで見ない、というやり方を通していたようだ。

「アベルとミルワの時はもう少し早かったかな」

 カシルはその時のことを思い出しながら呟いた。あの頃娘は難しい年頃を迎え、ほとんど彼と口をきかなかった。十四であったように思う。

「アベルとミルワって誰?」

「私たちの地上にいた頃の子供よ」

「もういないの」

「いないわ。人間だったから」

 でも、今でも忘れない。毎日毎日思っている。

「やあ、二人とも大きくなったなあ」

 遊びに来た時、ザドキエルは感慨深げに言った。

「あんなに小っちゃかったのに」

「天使にとってはあっという間の年月であろう」

「親からしてもあっという間だった」

 カシルはカレヴィアに言った。あっという間でなかったのは、あの長い長い十七年間だけだ。

 ザドキエルはいつか土流族との因縁でカシルが失踪した際、身体の主が竜人たちの前で指揮を執ったという話を聞いて、オレもそこにいたかったなあ、と呟いた。

「身体の主と会ってみたかった」

「同じ顔だ。変わり映えはしない」

「そんなことはないだろう。なあカレヴィア」

「知らぬ。身体の主が姿を現わすのはあれきりじゃと言うておる」

「つれないなあ」

 ザドキエルはつまらなさそうに言いながら帰っていった。

「父上、これ開けて」

 サラヴィスが瓶を片手に彼に頼んできた。開けてやりながら、彼はいつの間にか自分が父上と呼ばれていることに考えを巡らせていた。

「アベルもそうだった。なぜかある年齢になると息子が父上と呼ぶ」

「威厳がそうさせるんじゃないんでしょうか」

 彼はアスティの方を見た。威厳だと?

「そんなものはない」

 彼女はふふ、と笑った。

「そういうことにしておきましょう」

 む、と唸る。気に入らん。

 ある日、サラヴィスが思い詰めた顔でカシルにこんなことを聞いてきた。地上での話を聞きたいという。

「いいとも」

 彼は息子の部屋に行き、椅子に腰かけながら在りし日のことを思い出していた。

「大図書館の本にあった」

 彼は息子の顔を見た。

「父上は国王だったって。・・・お妃がいたって」

「そうか・・・」

 あらゆる宇宙のあらゆる本があるという大図書館には、天上界の住人のことを記した本も当然置いてある。竜族の王星天竜カレヴィアの地上でのこと、聖戦使と呼ばれる自分の、地上でのこと。

「いつかこんな日が来ると思っていた」

 アベルもそうしてある日書斎にやってきた---------彼はそんなことを思い出しながら話し始めた。

「大図書館の本にある通り、オレはリザレアという国の国王だった。諸国を旅した果てに辿り着いた国だ」

 そこで何百年も対立を続けていた部族の片方について戦ったこと、その部族が戦いをやめるきっかけを作り、請われて王になったこと、旅の暮らしを棄てたこと。

「そんなある日、ひとりの上位魔導師がやってきた。お前たちの母だ」

 共に働く内、互いに惹かれ合っていったこと、日が過ぎるごとに、彼女がリザレアになくてはならない存在になっていったこと、ある日、領内の公国に彼女がさらわれていったこと。

「地上では、戦をするということは大変なことなんだ」

 しかしリザレアが徹底抗戦したこと、半年ののち、彼女がリザレアに無事戻ったこと、ちょっとした誤解が元で、すれ違っていた日々のこと。

「あれを泣かせた最初のことだった」

 今でも思い出せる、茶器を持つ彼女の手に落ちた涙、黒い瞳から流れる大粒の涙を。

 魔神倒伐の際、自分たちは対であるということを知らされたこと、そしてある日現われたひとりの魔導師にリザレアが襲われ、預言を探索する旅に出たこと、預言を求める者には苦難が襲うと聞いて、彼女がそれを追ったこと、追いつこうとして追いつけず、やっと追いついたと思ったらまた離れていったこと。

「そしてその男と対峙し、オレたちは敗けたことになる」

 彼女がすべてを賭けて彼を守ろうとしたこと、そして、空が赤く燃える日々、初めてふたりが結ばれた夜のこと、開かれた預言のこと。

「オレたちは預言を開ける唯一の人間だった。オレには地上で神になる選択があった。しかしそうしなかった」

「なぜ?」

「つまらんからさ。なんでもかんでも可能なことというのは、退屈なことなんだ」

 そしてリザレアに戻り、民を安心させるため、自分の心を殺して結婚したこと。

「それがどれだけあいつを傷つけるかなんて考えもしなかった」

 そのこころが凍ってしまうほど---------その悲しみで、自らの心を侵してしまうほど。「それで母様と結婚したの?」

「そうはいかなかった。あれは今まで通り何もなかったようにオレの部下として働き続けた。毎日泣きながら、それでも誰にも気取られぬように」

 ある日海底の神殿に呼ばれて行った、そして知る---------対たる自分たちは、痛みを分かち合うと。その【時】が来るまで、死ねないと。

 そしてある夜あの男はやってきて、オレにオレの国の言葉で侮蔑的なことを言った。その手に妃を抱えながら。

「---------」

「この女を返してほしくば一人で来い、その男は言った。選択肢はなかった」

 妃を取り返すため、ふたりで人知れず旅に出たこと、溢れる想いを抑えきれず、愛し合ったあの夜のこと。

「今でも時々思い出す。篝火に照らされたあの明るい部屋と、あいつの顔を」

「---------」

「それで出来たのがお前たちの兄と姉にあたるアベルとミルワだ」

 あの日の、突然の辞職。何も言わずに、彼女はリザレアを去った。

「何も言わずに? 妊娠したって言わなかったの?」

「そうだ。妊娠が知れれば、オレは必ずそれは自分の子供だと言っただろう。あれはそれをよくわかっていた。そうなれば、オレの国王としての信頼が地に落ちることもよくわかっていた」

 国王として民を裁く身でありながら、部下と通じて子供まで作った。人々の目には、そうとしか映らない。部族を統合するために妃と結婚したのに、その部族の者たちに囲まれて仕事をする以上、軋轢は避けられなかった。

「それを見越してあいつはいなくなったんだ」

 そして送った砂を噛むような虚しい日々の果て、彼は彼女の妊娠を知った。

「しかしそれだけではすまなかった。あいつは死のうとしていた」

「---------」

 サラヴィスは絶句した。

「なんで」

「あいつはオレがいないと生きていけない。子供を産むのに必要な栄養だけを計算して、出産と共にこの世を去ろうとしていた」

 そしてオレも、あいつがいないと生きていけない---------彼はそれをあの灰色の日々を味わって思い知った。

「あの夜のことは、間違いだとは思っていない。気の迷いでもない。確かな愛情を持ってあれを抱いた。しかし、妃がいる身でそれをしたのならそれは不義だ」

 命懸けで不義の子供を産もうとしていた彼女に、何もしてやれることがなかった。

「オレたちは対だ。片方が痛い思いをすると、もう片方も苦痛を味わう」

 彼は決断した。彼女が罪を背負って子供を産むという選択をしたのなら、また自分も罪を背負うと。

「それで結婚しようと思ったわけだ」

「---------」

 サラヴィスは何と言っていいのかわからず、足の間に手を持って行ってそこで手を握った。

「母様は喜んだ?」

「それどころの騒ぎじゃない。病室に行っても、顔を背けて口もきいてくれない日々が続いた」

「---------なんで?」

「リザレア国王として、オレは歴史に名前を残す。その国王が影で隠し子がいて、重婚なんてしていてはいかんというのがあいつの考えだった」

 彼は毎日病室を訪れては、結婚しようと言った。

「毎日?」

「毎日だ。そうでもしないとわかってくれないと思った」

 そして彼は、言おう言おうとしていたことをあの日とうとう言った。

「それでめでたく結婚さ」

 カシルはそう結んだ。サラヴィスは手を握ったまま、まだ言葉が出せないでいる。

「それで---------神になったんだね。大図書館の本にあったよ。父上を庇って現身昇神したって」

「そうだ。自分の生と引き換えにあいつが死んだという矛盾に不平も言えず、オレは地上での子供たちを育てる日々に追われた。荒廃したリザレアを立て直すのにも忙しかった」 そのおかげで、失意に満ちてはいるものの、なんとか気を紛らわせて生きていくことができた。

「しかしあいつは違っただろう。天上界には友も仲間もいない。頼れる人もいない。あれはずっとひとりで竜族を統治しながらその時を待った」

 長い長い十七年間の末、ふたりはようやく再会する---------あふれ出る思いをひた隠しにしてきた十七年間であった。

「どうだ、納得したか」

「---------うん」

 カシルは立ち上がった。話し始めたのは昼過ぎであったのに、部屋には夕日が射し込んでいた。

「じき夕食の時間だ。ちゃんと来いよ」

 出て行こうとする彼に、サラヴィスは言った。

「父上」

「うん?」

「母様と結婚して---------よかったと思う?」

 カシルは振り向いた。夕日がそこから射し込んできて、彼の顔が見えない。

「もちろんだ。人生で最高の選択だった」

 そう言うと、父は部屋を出て行った。

 サラヴィスはしばらく唖然として部屋の中にいたが、やがてアレクサの部屋へ行くと、その扉を開けてなかに入った。

「ちょっと、ノックくらいしなさいよ」

「アレクサ」

「ん?」

「僕も結婚する自信がなくなっちゃったよ」

「え・・・?」

 どこからか、時を告げる鐘の音が聞こえてくる。

「アレクサ、サラヴィス、夕食の時間よ」

 母が呼ぶ声がする。アレクサがそれにこたえ、行こ、と立ち上がっても、サラヴィスはしばらくそこから動けなかった。

 その晩、カシルは息子に語って聞かせた昔日の日々を思い出しながら、あの日アベルにも同じように語ったことを考えていた。アスティがこちらに背を向けて香茶を淹れている。「---------」

 あの日、自分が話して聞かせたことで、アベルは納得したようだった。王となったのち、彼は自分の父ほど母を愛していたひとはいなかった、それだけひとを愛する自信がないと言って生涯独身を貫いた。

 はて、サラヴィスはどうなるかな。待てよ、そうするとオレの話が原因で息子たちが結婚しないということになるな。果たしてそれはいいことなのだろうか。

「香茶が入りました」

 うむ、とこたえて香茶を受け取りながら、彼は思いを馳せた。

 地上での息子、天上界での息子に、重婚の理由を話して聞かせた。

 この先また子供が産まれて同じことを聞かれても、迷いなく同じように話すだろう。



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