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 双子が七つになって、竜と戦使の子供が行く学校へ通うことになった。学校は竜の巣にあるという。

「何年通うことになるんでしょう」

「成人するまでだろう」

 そういえばいくつで成人するか、まだ聞いていないな---------彼は思った。地上では十八だが、それまで空を飛べないというのでは不便だろう。

 アベルとミルワが十八になった時、ふたりは一年修行の旅に出た。本来ならば成人と共に侯爵家を継ぐはずが、それは修行が終わるまで待つということになったことを思い出しながら、彼は水盤でリザレアの様子を見ていた。

 地上は間もなく春、四番目の月、万花の月である。

 その日、学校から帰ってきたサラヴィスは、アスティに向かって言った。

「かあさま、うみにいきたい」

「海?」

 学校で海のことを学んだという。

「海というとリザレアの海くらいしか知りません」

「しかし地上は今春だ。水はまだ冷たいし、それに翼を隠せないからな」

「どこかの星の海に行くしかありませんね」

 カシルは天使たちに聞いてまわって、リザレアの海に似た星を探した。翼を持っていてもなんとも思われずに、子供が遊べる海。それを探す作業は、難航した。カシルとアスティにとっては海といえばリザレアの海であるため、あの美しい青い海に似た場所を探すのはなかなかに難しいことであったのだ。

 そしてようやく同じような条件の海を探し当てた時、地上の季節は七番目の月、牡鹿の角の月となっていた。

 料理人が張り切って作った弁当を携えて、ふたりは双子を連れて海へ出かけた。空は水色、海はどこまでも青く、白い波が渦巻いている。

「あれ・・・あなたたち泳げる?」

「わかんない」

「泳いでみろ」

 試しに身体を支えて泳がせてみると、どうやらアレクサもサラヴィスも大丈夫なようだ。 しばらく一緒についていたが、双子はじきにひとりで泳げるようになった。ふたりは砂浜でそれを見守りながら、在りし日のことを思い出している。

「アベルとミルワを連れて海に行きましたね」

「ああ」

 それは、まだあのふたりが小さい頃。四人でひっそりと夏の海辺に行った。人目を忍んでのことであったが、王城と魔法院を行き来する二重生活の中で、それはふたりにとっても宝物のような思い出である。

 あの時もらった誕生日の贈り物の貝殻は、執務室の机の上に飾っていた。そうすれば、いつでも見ることが出来るからだ。地上で八十年が経って、自分たちの執務室や私室はどうなっているのだろう、アスティはちらりとそんなことを考えていた。国王が変わった時に、塔の私室の持ち主も変わったはずだ。しかし、参謀の執務室と私室はどうなったのだろう。 こんど見に行ってみようかな、そんなことを思った。

 アレクサがこちらに手を振っている。それに手を振り返して、あんまり深いところに行っちゃだめよ、と言う。

 太陽が中天に差しかかり、昼食の時間になっても、双子は上がって来ない。呼んでも、戻って来ない。ふたりが弁当を広げて準備していると、それに吸い寄せられるようにしてアレクサとサラヴィスはやってきた。

「おなかすいたー」

「ぺこぺこ」

「よく遊んだわね」

「おっと身体を拭いてくれ。食べ物の上に水が落ちる」

 タオルを渡し、弁当を広げ、空を見上げると、名も知らない鳥が悠々と飛んでいる。

 あの頃にはなかった解放感だ。双子は料理人が腕によりをかけて作った弁当をあらかた片付け、また海へ入って行った。

「そういえば王は泳げますか」

「泳げるとも。海辺の育ちだ」

 そうなんだ、と思った。彼は幼い頃のことを話さない。話さないのは話したくないからなのだろうと、アスティも聞かない。知っているのは、せいぜい四つの頃に剣を握り始めた、戦いに明け暮れた幼少時代であった、くらいであろうか。

 かつて地上にいた頃、彼の生活は戦いに満ち満ちていた。この男の気の安らぐ時はあるのだろうか、部下として考えたことがある。その内、時間ができると彼が書斎に籠もることを知り、そうしてひとりでいる時間こそが彼の心の洗濯の時間だと気が付いた時には、アスティは彼のその気休めの一部となっていた。それでいながら、そのことを彼女自身知らないでいる。

 カシルはアスティの横顔をしみじみと見つめていた。

 こんな日がやって来ようとは思ってもみなかった、それが彼の感想である。ひとは死後、冥界に行く。そこで生前の罪を償い、次の転生のための準備をするのだ。しかし、自分は死後天上界の住人となった。かつての、地上でのアスティの心が凍るほど悲しませた償い、妃に対する償いをしないまま、こうしてアスティと共にいる。

 それが良いことなのか、悪いことなのか、彼にとっては判断がつきかねた。しかし、幸せであることには間違いない。地上での彼女との結婚生活は短いものであった。そして今は、悠久の時を一緒に過ごすことになるのだ。

 一、二度の誤解やすれ違いがあったものの、アスティと明らかな仲違い、というものを、カシルは経験したことがない。アスティが我慢しているのだろうか、なにしろ彼女は部下であったから--------と、思わないでもないが、アスティは自分の意見がある時は物怖じせずに言う。

 それは、地上にいた時部下であった頃から今までも変わりのないことだ。育児に関しての意見の違いは、ふたりはあまりない。のびのびと、本が好きな人生を送ってくれればいいと思っているのだ。アベルとミルワを地上で育てる彼のやり方のいちいちを、アスティは水盤で見ている。そして、それに関して何か思うところがあったことも、ない。

「日が暮れて来たな。そろそろ帰るか」

「はい」

 アスティが双子を呼びに行く間、彼は片付けを始めた。アレクサもサラヴィスも、なかなか帰って来ようとしなかった。ようやくふたりが戻ってきた時、日は海の向こうに消えようという頃であった。

 青竜宮に戻って、まずは海水にまみれた身体を真水で洗うことにした。

「ふたりともお風呂入っちゃって」

「はーい」

 双子が入浴している間、ふたりは着替えた。

「日に灼けたな」

「そうですね」

 地上にいた頃は、そんなに長い間海にいることは出来なかった。なにしろ彼は国王で彼女はその部下であったから、---------顔が知られていたので---------家族でどこかに行くなどということは、皆無であった。

「かあさまー」

「あがったよー」

「はーい」

 アスティがタオルを持って浴室に向かう。

「ふたりとも海のにおいがするわ」

「うみのにおい? どんなにおい?」

「潮の香り」

「なにそれ」

「海のにおいよ」

 夕食を食べながら、水中にいた魚らしきもののことで話が弾む。海で出遭ったあんなことやこんなこと、双子の話は尽きない。

 興奮冷めやらぬアレクサとサラヴィスがようやく寝静まって、ふたりは香茶を飲みながら今日一日のことを話した。

 死後やっと手に入れた平安な生活に、ふたりは満足していた。



 ある日、怪物どもがやって来そうだ、その数が多いようなので、眷属の王たるふたりに来て頂きたい、と知らせがきた。

「行きましょう」

「ああ」

 立ち上がって、カシルは思いついた。そこへ立ち止まる彼に、

「王?」

「---------子供たちも」

「え?」

「子供たちも連れて行こう」

「---------」

 アスティはちょっと驚いたように彼を見た。

「竜と戦使として戦うところを見ていた方がいいかもしれない」

 彼は戦いに参加しない戦使族の者の内から年長の者に頼んで、双子を見ていてくれるように言った。

「いい? あなたたち。母様とお父様がすることを見ていてね」

「これが竜と戦使のあり方だ」

 アスティはその瞬間カレヴィアと交代し、竜に転身する---------それを見計らい、カシルが黒い霧に転じる。戦いはあっという間にも感じられ、永遠に続くとも感じられた。 双子は、戦使族の者と手を繋ぎながら、その戦いぶりをじっと見つめていた。

 その黒い瞳を見開き、目をまん丸にして、一心に戦いを見ていた。

 戦いが終わると、傷だらけのアスティが側に寄ってくる。

「お待たせ」

「帰ろうか」

 カシルが近寄ってきてふたりを見てくれていた戦使族の者に礼を言う。

「傷の手当をしなくてはならんな」

 カシルはいつものように噴水の縁にアスティを座らせ、包帯を巻いたり軟膏を塗ったりしている。

「かあさま、いたい?」

「そんなに痛くないわ。もう慣れたもの」

「とうさまは?」

「身体が少し痛むが父は傷を負うわけではないからな。母に比べればなんてことはない」

 アレクサは包帯を巻くカシルの動きを注視し、サラヴィスは傷の手当てを受けるアスティをじっと見ている。

 竜と戦使として天上界で生きていくことがどういうことなのか、学校で教わってはいても、実際のことはわかっていなかった。しかし今、ふたりの戦いを目の当たりにして、双子は自分たちのあり方をまざまざと見せつけられたのだ。

 その日の食卓で、アレクサもサラヴィスもいつもと比べると無口であった。

「ちょっと衝撃が大きすぎたかな」

 寝酒を飲みながら、カシルは言った。

「仕方がありません。いつかは通る道です」

「何か感じるものがあったのならいいのだが」

 戦使であるアレクサと、竜であるサラヴィス。

 いつかはふたりのように戦いに参じる日が来るのだ。学校で教わる以上のことを知ってくれれば、との彼の願いであった。



「かあさま、きょうがっこうでついのことならった」

「対のこと? どんな風に?」

 ある日、アレクサが学校から帰ってきてこんなことを言った。

「えーと、りゅうとせんしはついのものがいて、おたがいにはなれられない、つよいきずなをもつものなんだって。わたしのついはサラヴィスなんだろうっておそわった。そうなの?」

「そうねえ・・・」

 アスティは注意して言葉を選びながらこたえた。

「あなた達は双子だから、多分そうでしょうね。産まれた時から、ううん、産まれる前から一緒の、強い絆を持っているから」

「かあさまはどうしてとうさまとついだってわかったの?」

「うーんとね」

 アスティはアレクサと同じ視線を合わせようと屈んだ。

「母様とお父様は地上にいた頃から対で、離れられない決まりだったの。どんなに離れていても、いつかは出会う運命だったの。母様が先に地上での生を終えて、天上界に来て、星天竜になって、母様はお父様をずっと待っていたわ。竜として完全体になるのには、お父様がいないといけなかったから」

 十七年---------十七年を、彼女は孤独なままひとりで過ごした。カシルは、アベルとミルワを育てるという義務を負い、また国王としての務めも負っていた。彼にとっての十七年も長かったが、それでも彼には気が紛れるだけのものがあった。アスティには、それがなかった。

「長かったわ。すごく長かった」

「じゃあ、いまはしあわせね」

「そうね。あなたたちもいるしね」

 サラヴィスが、庭でカシルと木刀を振るっている。その声に振り向いて、アレクサは庭に走って行った。

「サラヴィス、わたしもやる」

「来たなアレクサ」

 カシルが笑顔になる。アレクサが彼から木刀を受け取り、サラヴィスと打ち合いを始める。乾いた音が響き、笑い声が聞こえてくる。

 その日常のなんでもない光景を見ながら、アスティは彼を待っていた十七年間を思った。 そしてその時の孤独を振り払うように首を振ると、自分も双子の立ち合いを見ようと庭に出て行った。


 普段は透明なサラヴィスの翼が、ある日を境に色がつき始めた。それに気づいたのは、遊びに来たザドキエルであった。

「カレヴィアの翼が透明だから子供もそうだと思ってたが、違うんだな」

「それはそうじゃ。儂は唯一無二の星天竜、その星天竜の象徴は玻璃の如くの透明な翼じゃ。いかな息子といえど、その唯一無二と同じものにはなれぬ」

「翼の色が決まるとどうなるんだ」

「多分、地水火風のどの氏族になるかが決まるんだろう。ふつうの竜族の子供なら生まれつき氏族は決まっているようなものだが」

「どの氏族なんだろうな」

「さあな。なんにしても、怪我の少ない人生であってほしいと思う。親としてはな」

「全身傷だらけのお主が言うてもなんの説得力もないのう」

 カレヴィアとザドキエルは笑い声を上げた。カシルはサラヴィスの色の変わってきた翼をじっと見つめている。

「そういやあのふたり、まだ子供部屋は一緒なのか」

「そうじゃ。地上での子供たちも、部屋が別れたのは大きゅうなってからじゃった」

「そうなのか」

 天使はカシルを見た。

「ああ。性別が違うとはいえ唯一のきょうだいだ。いつもふたりでいるからな。部屋が別れたのは思春期に入ってからだった」

「着替えとかどうしてたんだ」

「ふつうにしてたさ。お互いの目を気にし出したのは娘が十代に入ってからだ」

「ふーん・・・」

 ザドキエルは絵を描く双子を見つめている。

「みて。ザドキエルをかいたの」

「あげる」

「やあうまいなあ。『白の宮』に持って行ってみんなに見せるよ。ガブリエルなんか感動するだろうな」

 ザドキエルは渡された絵を見て感動している。確かに、天使の普段の仕事からすれば、子供が自分の絵を書くなどという生活とは無縁であろう。

「お前たちを描いた絵なんか沢山あるんだろうな」

「山のようにある」

「それ、どうしたんだ」

「みんなとってあるさ。子供の大切な成長の記録だ」

 地上でもそうだった、そのための部屋を増やしてもらったこともある、とカシルは付け加えた。

「えらいなあ」

「どこの親もみんなそうさ」

 彼はなんでもないことのように笑って見せ、酒を一口飲んだが、その絵のどれもに母が小さく描かれていたことは、とうとう言い出せなかった。地上の子供たちにとって、母はもういない存在であると同時に、いつまでも離れないものであったのだ。子供たちが描く絵を見るたび、彼はもうそこにはいない妻を想ったものだった。

 その夜、香茶を飲みながら、アスティが入浴を終え髪を乾かしているのをぼうっと見つめ、彼はぽつりと言った。

「お前は強いな」

「---------え?」

 アスティが振り向く。

「何か言いました?」

「なんでもない」

 髪を乾かし終えたアスティが櫛を手に取るのを見て、彼は立ち上がった。

「オレがやる」

「---------」

 湯を浴びる前、湯を浴びた後、彼はこう言って彼女の髪を梳く。結婚してからの、ふたりの変わらない習慣。髪を梳いてもらいながら、アスティは色々なことをカシルに話す。 鏡の向こうの彼を見ながら、アスティは生前から変わらない彼の苦悩多き日常を思っていた。本人は何も言わないが、なにもかも放り出して旅に出たいという思いは変わらないはずだ。それを言い出せない気持ちも、痛いほどわかった。

「---------旅に・・・」

「うん?」

「旅に出たいと、今でも思いますか」

 カシルの手が、一瞬止まった。そしてまた何もなかったかのように髪を梳きはじめる。「まあな。しかし眷属の者がいる。アレクサとサラヴィスもいる。旅に出られる身分ではない」

 でも行きたいんでしょう---------言おうとして、アスティは言い出せなかった。言ってもどうにもならないことがよくわかっていたからだ。カシルは髪を梳き終えて、いいぞ、と小さく言った。


 サラヴィスの翼の色は、どうやら赤くなったようである。火の氏族というわけだ。

「ならば母のように炎を吐く竜になるな」

「そうですね」

「ひをはくのー」

「わたしもはいてみたい」

「お前は父のように黒い霧となってサラヴィスを助けるのだ。お前がいないと、サラヴィスは炎を吐くことは出来ない」

「えへん」

「そういえば、お互いに対ってどうやってわかるんでしょう」

「地上にいる時は運命のお告げ所や運命の神殿があったものだが」

「あなたたち、どうやって対ってわかるか教わった?」

「あったとたん、わかるんだって。せんせいはついのせんしがいるからおしえてくれたけど、むねのなかがいっぱいになるくらいなきたくなって、このひとだ、ってわかるんだって」

「そのひのためにさがしてきた、とわかるしゅんかんなんだって」

「ふうん・・・」

 カシルとアスティは顔を見合わせた。

 自分たちが初めて互いに対であると知らされたのは、魔神倒伐の際長老に呼ばれ、呪われた運命と対の善なる運命を持つと教えられたからだ。そして運命のお告げ所で制約を解かれ、運命の神殿で【時】が来るまで簡単には死ねないことを告げられた。

「・・・私たちには、そういう瞬間はありませんでしたね」

「ああ」

 しかし、あの日玉座の間で彼女を初めて見た時から、何かを予感した、とは、彼は言わなかった。また彼女も、同じ瞬間に同じように感じていたとは、とうとう言わなかった。


 日々が目まぐるしく、しかしゆっくりと流れていく。

 ある日、水盤でリザレアの様子を見ていたアスティが、

「・・・あら」

 と声を上げた。カシルが覗くと、手に手を取り合う男女が見つめ合って何事か言っている。その手には祭礼布が巻かれ、大勢の前にいるようだ。

「結婚式ですね」

「ああ」

 カシルの目が遠いものを見るものになった。

 万緑の森の中、花が咲く道を歩く、白い衣装を着たアスティの姿がまざまざと思い出される。段々と近づいてくるその美しい有り様に、こらえきれなくて自分も彼女の方へ歩み出したのを今でも覚えている。

「思い出すな」

 ええ、とこたえたアスティの声が平静を装ったものであったため、水盤を見つめている彼は気が付かなかった、彼女の瞳が、彼と同じ遠い昔、しかし違う過去を振り返っているということを。

「---------」

 アスティは立ち上がり、何気ない様子で双子の様子を見に行った。アレクサは本を読み、サラヴィスは積み木で秘密基地を作っている。それを見て、彼女はため息をついた。

 ---------私という女は、どれだけ過去を根に持つのだろう

 本を読むふりをしながら、アスティは思い出している、あの悲しい一日、たとえようもなく心が慟哭したあの日のことを。

 カシルが地上にいた時、彼は預言封印ののち妃を迎えた。その知らせは、世界が破滅し心細い思いをしていたリザレア国民を沸かせるのに充分なものであった。アスティは何日も何日もかけて鏡に向かい、「おめでとうございます」の一言を泣かずに言う練習をし、失敗しては泣き、もう手の届かなくなってしまった男を想って尚も泣いた。

 結婚式の当日、手を握り合い、誓いの言葉を唱える二人を見ていられず、そっと目を閉じていた。誰にもわからないように。誰にも知られないように。しかし、目を瞑っても言葉を唱える声が聞こえてくる。それが彼のものであって、どれだけ泣き出したい気持ちでいたことだろう。

 泣いてはいけない、耳を塞いでもいけない。そんなことをしたら、周りにわかってしまう、あの方を愛しているということが。---------今この瞬間も恋しい気持ちを抑えられないでいるあの男を想っているということが。

 永遠とも思われる長い時間がようやく過ぎ、式が終わって宴となったとき、アスティは彼に送られた品々を身に着け、正装して出席した。祝いの言葉を述べる時も、自分で鍛造した短剣を贈った時も、とうとうカシルの目すら見ることすらできずに。

 妃となったひとと踊る彼、遠いところに行ってしまった彼を盗み見ては、重い重いため息をつき、警備で忙しいふりをし、宴の途中で私室に戻った。そして魔法院に逃げ込んだのである。

 双子が食べる様を見ながら、アスティはその時のことを思い出していた。

 それでも、愛する男は重婚の罪を負ってまで自分と共にいてくれた。彼との子供もいた。

 そして死して尚、こうして彼と暮らすことが叶い、そしてまた新しく子供がいるというのに、あの日のことがまだ忘れられないというのか。

 砂漠戦争とあの日のことだけは、私は思いを塗り替えることができないのか---------

 ぼうっとそんなことを考えていた。そのアスティの横顔を見て、カシルは彼女の様子に気が付いていた。アスティがいつからこんな目をしていたのか、覚えがない。せめて何かきっかけ何であったかわかれば、自分としても対処できようものを。

 食事が終わり、子供たちを寝かしつけ、入浴から戻ってきても、彼女はどこか心ここにあらずといった具合である。原因がわからないまでも、カシルはそれをなんとかしたいと思った。

「どうした」

 よって彼は、彼女に訊ねた。地上にいた時から、こうして彼はアスティの心労の防波堤となっていたのだ。

「---------えっ」

「何を考えている」

「・・・」

 アスティは香茶を淹れながら視線を泳がせた。側にいる彼に気取られないように、必死で取り繕っていたというのに。

「---------なんでもありませんわ」

 無理をして笑顔を作っても、彼にはわかってしまう---------彼がその笑顔に安心してなにもせず、なにもしなかったばかりにアスティが自刃しかけたことをきっかけに、彼はアスティの変化に鋭くなった。彼は立ち上がった。

「何かあったな」

 そして歩み寄ると、そっとその肩を抱く。

「・・・」

 どんなに平静を装ってはいても、王にはわかってしまう---------それでも、あのことを言うわけにはいかない。それは、かつての幸せな日々、そして今ある平穏な暮らしを否定することになるから。

「オレの前では無理をするな」

 そしてカシルは彼女を抱き締めた---------強くきつく、息もできないほどに。

「---------」

 アスティは彼にはわからないように、そっとため息をつく。

 ふたりの影は夜の闇の中、しばらくひとつに重なって動かなかった。



 双子は間もなく十歳になろうとしている。あっという間の十年であった。

 庭で木刀で打ち合う娘と息子を見るカシルに、アスティが冷たい果汁を持ってきた。

「大きくなったものだな」

 その果汁を飲みながら、彼は笑みを浮かべて言った。

「はい」

 かつて血縁者を残さないと決めていた自分に、アスティは命懸けで自分の子供を産んでくれた。あの抑えられない想い、空が明るく部屋を照らす夜にその想いを叶えて。

「ありがとうございます」

 双子から目を離さずに、アスティは言った。うん? とそちらを向くと、アスティも彼を見ている。

「産む選択肢を下さって、ありがとうございます。産んでいなかったら、感じられない幸せでした」

 カシルはアスティを見た。黒い瞳が、自分をとらえている。

「礼を言うのはオレのほうだ。お前は二度の妊娠のどちらも大変な思いをしてオレの子供を産んでくれた。アベルは王になり、ミルワは侯爵家を継いだ。その子孫は今もリザレアで人々と共に生きている。そしてこの地の住人になって、また息子と娘が産まれた。これ以上ないくらいの果報者だ、オレは」

 アスティが微笑む---------それを眩しげに見やり、そしてまた打ち合う娘と息子に目をやる。

「カレヴィア様、バーバリュース様。ザドキエル様でございます」

「やあ」

 ルエに案内されて、ザドキエルがやってきた。

「今日はちょっとお願い事があるんだ」

「お願い事?」

 カレヴィアが渡した杯を受け取りながら、カシルは天使に聞き返した。

「なんじゃ。何かあったのか」

「ああ。実は困ったことが起きているんだ」

 酒で口を湿らせながら、ザドキエルは話し始めた。

「実は---------」

 天上界には数は少ないが人間もいる。地上での罪を許され、記憶をなくした者たちである。その人間の、ある夫婦に息子が産まれた。その子供が間もなく十か月を迎えようという時に、夫婦は息子を連れて浜辺に出かけて行った。そして、息子なしで帰ってきたというのである。

「何・・・」

 カシルは身を乗り出した。

「何故だ」

「それがわからないんだ。不審に思った妻の姉という、これは天上界に来てから姉妹の契りを結んだに過ぎない関係の女なんだが、とにかくその姉が『白の宮』に訴えて来たんだ。 天使たちの管轄は地上の人間だが、だからといって天上界の人間の管理に責任がないわけじゃない。彼らは自己統治という形で長や王を持たないが、何かあったときは天使たちに知らされるんだ」

「その姉はなんと言っておる」

「妹の夫が怪しい、あいつがやったに違いない。その夫という男は、短気なことでは有名らしい。妻はいつもびくびくして怯えて暮らしているという」

「それが儂らとなんの関係があるというのじゃ」

 ザドキエルは両手を合わせ、カシルに向かって言った。

「頼む。助けてくれ。天使たちの智恵をもってしても、いなくなった赤ん坊がどこにいるか、なんでそんなことになったのか、そして誰がやったことなのか、皆目わからないんだ」

「---------」

「あんたは地上では国王だった。同時に裁判もやっていたそうじゃないか。だからこの手のことには長けているだろう。な、頼む、この通り」

 頭を下げられて、カシルは困ったようにカレヴィアを見た。

「お主はどうしたい」

「---------オレは・・・」

 彼は言い淀んだ。

「・・・オレが介入していいものなのか、わからん。オレ自身は人間だが、同時に戦使でもある。人間の問題は人間が解決したほうがいいんじゃないのか」

「それができないから頼んでるんだ。もう誰の手にも負えないんだよ」

 弱り果てた様子の彼に、カレヴィアがにまっ、と笑って見せた。

「ほれ、どうする。こうまでされては嫌だとは言えんじゃろう」

「嫌ではないが---------」

 彼は杯を置いた。

「気が進まない。オレの領分ではないような気がする」

「そんなこと言わないでくれよ頼むよ」

 カレヴィアは腕を組んで、にやにや笑って見ているだけである。彼はため息をついた。「---------仕方ないな」

 天使が顔を上げる。

「やってくれるか」

「ここまでされて断ったらオレが悪者ではないか」

「よいよい。縁あって天上界に住んでおるのじゃ。困っている人間を助けるのも、縁だと思ってやってやるのじゃ。身体の主も、助けてやれと言うておる」

「やれやれ」

 カシルは立ち上がった。

「しかし言っておくが食事の時間までには帰るぞ。こう見えて家族がいるのだ」

「願ったり叶ったりだよ。長い時間は取らせない。さあ行こう」

 ザドキエルに連れられて、カシルは『白の宮』に赴いた。ミカエル以下大天使の面々が、集まって頭を抱えているのが遠くからでもわかった。

「来てくれたぞ」

 ザドキエルが言うや、天使たちは口々に自分の考えや推理をカシルに投げかけてきた。 それに圧倒されながらも、彼は手を上げて言った。

「まずは妻と夫を分けた部屋に入れておいてくれ」

「それはもう出来ている。どちらから話を聞く」

「妻だ」

 カシルは言いながら、案内された部屋に向かっていた。

「夫婦を同じ部屋に入れていたら口裏を合わせるぞ」

「大丈夫。抜かりはない」

 扉を開けると、中には小さな机と椅子が二脚あって、その内のひとつに若い女が座っていた。女は顔を上げると、どうやら泣いていたようだ、瞳が濡れつくしている。

「彼は聖戦使バーバリュースだ。神格の霊位を持つ」

「神・・・」

 女は息を飲んで信じられないように彼を見た。なんでそんな大層な男がこんなところに来たのかとでも言いたげだ。

「よい。オレは地上では人間だった。今も、人間の肉体を持つ。同じ人間として腹を割って話してほしい」

 ザドキエルが出て行くと、それを目で追っていた女は扉が閉まるのを確認していたようだ。

「名は何という」

「カリンカです」

「ではカリンカ。話を聞かせてくれ」

 およそ神格を持つとは考えられないくだけた様子のカシルに、カリンカはほっと息をついて、それから説明し始めた。

「天気がいいからネイトを、息子を連れて三人で浜辺に行こうって話になったんです。お弁当を持って行って、それを食べて、そしたらおむつがなくなっていることに気づいて」 カリンカは息子を夫に任せ、近くの店までおむつを買いに行った。息子の月齢のおむつが店頭になくて店員に頼んで在庫を調べてもらったので、買い終えるのに時間がかかった。「戻ったら夫がいないんです。息子が入っていた揺り籠もなくなっていて・・・」

 半狂乱で浜辺を探したが、息子はいない。そうこうする内に、夫が戻ってきた。

「夫はどこで何をしていた」

「ちょっと用を足しに行ったんだと言っていました。ふたりであちこち探してもいなくて」

 それで、どうしたらいいのかわからずに帰ってきたというわけである。

 カシルはふむ、と小さく言って、

「わかった。夫にも話を聞かなくてはならない。もう少しここで待っていてくれ」

 言い置くと、彼は部屋を出た。ザドキエルが廊下で待っていた。

「どうだい?」

「まだわからん。夫婦両方に話を聞いてみないことには」

 続いて彼は夫が待つ部屋へ通された。

「あの女の姉がオレたちに訴え出たのを知って凄い剣幕で怒ったんだよ。殴りかかろうとしたらしい」

 短気で怒りやすく、すぐに手を上げる夫。彼は思った、嫌な予感がする。

 夫は、カリンカと同じような部屋にいた。彼が名を聞くと、ケニーと名乗った。

「なぜ子供を置いてひとりでどこかへ行った」

「・・・悪かったと思っています。でもどうしても煙草が必要で、それで」

 乳児がいるのに煙草を吸うのか、と彼が眉を寄せた時、ケニーはバン! と机を叩いて怒りを露わにした。

「カリンカの姉って女はオレのことが気に入らないんだ。だからこんなことになるのを待っていて、それで天使たちに訴えたりして・・・」

「落ち着いてくれ。お前が煙草を買いに行ったとき、息子は確かに揺り籠の中にいたのか」

「間違いなくいました。ちょっとのことだし、眠っているから大丈夫だと思って」

「それで戻ってきたらいなくなっていたというわけか」

 カシルはため息混じりで呟いた。言いたいことは山のようにあったが、今はいなくなった息子を探すことを優先しなくてはならない。彼はケニーをそこに残して、廊下に出た。「どうだい何かわかったかい」

「これだけではまだなんとも言えん」

 彼は天使たちに頼んで、息子がいなくなった浜辺一帯を捜索してくれるよう伝えた。また、カリンカと姉妹の契りを結んだという女にも話を聞いた。地上での記憶がない限り、肉親というものがいない天上界で、兄弟姉妹の契りを結ぶことは珍しいことではないのだそうだ。

「ケニーは怒りっぽくて、いつもいらいらしています。手を上げるところを見たことはないけど、妹はいつもびくびくしてる。あいつがなにかしたに違いありません」

「息子にも手を上げていたか」

「いえ、それは見たことはありません」

 彼は腕を組んだ。考えが目まぐるしく頭の中を巡っている。これは、天使たちが浜辺を捜索し終えないことには話にならない---------彼がそんなことを思いながら廊下に出た時、ザドキエルが向こうから走ってきた。

「何か見つかったか」

「それがなにもないんだよ。大天使たちまで出て行って探している」

 彼はカリンカのいる部屋へ行き、もう一度細かいことまで掘り下げて話を聞いた。浜辺に着いた時、太陽はどのあたりの位置にあったか。息子は眠っていたと言ったが、熟睡しているようであったか、それともただの昼寝であったか。どれくらいの時間、息子の側にいなかったか。

 大したことは聞き出せず、カシルはもう一度ケニーの部屋に行った。部屋は、滅茶苦茶に荒らされていた。机がひっくり返り、椅子は倒れ足が折れている。

「お前がやったのか」

「子供がいなくなったってのにこんなところに閉じ込められてるんだぞ!」

 興奮するケニーをなんとか宥めて、彼はカリンカにしたように話を聞いた。煙草を買いに行ったのはどれくらいの間であったか、その店はどれくらい離れているのか、途中、誰かと行き会ったりしていないか。

 思わしい話を聞き出せず、カシルはいらいらした。オレは何故、死んでのちもこんなところで知らない夫婦のいなくなった息子を探す手助けをしているのだ。

 ケニーにもう少しここにいてくれるよう伝えると、彼は天使たちを探した。捜索に行かせてから数時間が経っている。何か出てくればよいのだが。

「だめだ。なにもない。捜索は一旦打ち切りになった」

 これは、今日一日では終わらんな---------彼が疲れたため息をついた時、時を告げる鐘が鳴った。彼は青竜宮へ戻った。

「難しいですね」

「困ったものだ」

 食事をしながら、そんなことをアスティと話す。双子は学校のことでなにやら話し合っていて、そんなことにはお構いなしである。

「いなくなった子供が無事だといいのですが・・・」

「しかしいなくなってから十時間以上が過ぎている。時間が経てば経つほど、生存の可能性は減っていく」

 翌朝もう一度『白の宮』に行き、カリンカに話を聞いた。彼女は『白の宮』で一夜を過ごし、息子を案じて夜も眠れなかった様子である。

「もう何度も言いました。同じようなことを言っても・・・」

「自分では気が付かないことがあるかもしれん。頼む」

 また、彼は同じことを言ってケニーにも話をさせた。若い父親は怒り心頭、我慢ならない様子であったが、カシルがじろりと睨むと煙草を取り出してそれを吸い始めた。

「カリンカが何を言ったか知らないけど、あいつは嘘を言う。自分に都合のいいことをぺらぺらと言ったに違いないんだ」

「何故嘘だとわかる」

「いつもそうなんだ。悪気はない、相手に話を合わせようとしているだけなんだ」

 それが本当なら、彼が聞いた話も嘘が含まれているかもしれない。カシルはカリンカの姉にふたりが結婚するときの話を聞いた。

「嘘っていっても、ちょっとよく見せたくて話を盛っただけです。じゃないとあいつの怒りっぽいのが隠せないから。誰だってひとによく見せようとして小さい嘘はつくものでしょう?」

 そこへ、扉をノックしてザドキエルが顔を出した。手招きしている。

「なんだ」

「あの夫婦を酒場で見たっていう者がいる」

「---------」

 カシルはその目撃者と話をしに行った。

「ああ、覚えてるよ。赤ん坊の入った揺り籠持って酒飲みに来るなんて忘れられないだろ。 大声で言い合いして、男の方はえらく興奮してグラスを叩きつけてたけど」

 だとすれば、カリンカの話は嘘だったということになる。彼はその証言を元に、もう一度ケニーに会いに行った。

「酒場に行ったな?」

「---------」

 彼は気まずそうに黙っていたが、カシルに諭されるとぽつりぽつりと話し始めた。

「夜泣きがひどいんだ。連日連夜眠れなくて・・・」

「それはわかる。オレにも娘と息子がいる」

「それで、ちょっとでも眠れるようにって酒を飲みに行ったんだ。ふたりで。ネイトを置いていくことは出来なかったから、連れて行くしかなかった。浜辺であいつを待ってる間、ほんのちょっと眠ったんだ。そしたら息子がすごい勢いで泣き始めて・・・」

 ケニーの目に涙が溜まり始めた。

「オレは・・・ネイトを揺すった。何度も何度も揺すったんだ。だってそうでもしないと泣き止まないと思って。それで揺すって揺すって・・・」

「泣かなくなるまで揺すった、ということか」

 カシルはため息をついた。

 廊下に出ると、ウリエルが血相を変えて走ってきた。

「父親が白状したぞ。彼が・・・」

「母親が吐いたよ」

「---------」

「息子を埋めたって場所の地図を描いてる」

 天使たちは総動員でその地図の示すところを探した。

 すると、浜辺で赤ん坊の遺体が埋められているのを発見したという。遺体を解剖するため、医族が呼ばれた。

「愛されていた子供です」

 呼ばれた医族の男は遺体に布をかけながら言った。

「理想的な体重、胃に残った健康的な乳、一緒に包まれていたおもちゃ、かけられていた毛布。それらを総合すると、そうとしか言えない。毒物検査をしますが、多分なにも出ないでしょう」

 カシルはカリンカに話を聞きに行った。

「お前の夫が自分がやったと言っている」

「そんな・・・」

 カリンカは目に涙を浮かべながら身を乗り出した。

「それは違います。私がやったんです。どんなにあやしても息子が寝てくれなくて・・・それで、お風呂に入れたら少しは落ち着くと思って、お風呂に入れたんです。そしたら私、ついうっかりうとうとしちゃって、・・・それで気が付いたら息子は沈んでいました」

 彼は腕を組んだ。

「それで、そのまま息子を揺り籠に入れて、それで三人で浜辺に行こうってことにして」

「では何故今になって息子を埋めた場所を言った?」

「---------」

「真実を知ってほしくて言ったのではないのか」

「それは・・・言えません」

 カシルはため息をついた。

 彼は困りに困って、青竜宮でこの話をアスティに話して聞かせた。

「どちらも相手を庇っていますね」

「そうだ。どちらかが嘘を言っている。しかしなぜそんなことをするのか、皆目見当がつかん」

「子供の遺体から死因はわからなかったんですね」

「そうだ。どこにも不審なことはないと医族が言っている」

「・・・もしかすると・・・」

 アスティは新しい香茶を淹れようとした手を止めて、そして顔を上げた。

「その父親、煙草を吸っていると言っていましたか」

「ああ」

「だとしたら、乳幼児突然死症候群かもしれません」

「なに」

「魔法院では時々ありました。原因もなく、突然死んでしまうんです。睡眠中に亡くなることが多いとされています」

「だとしたら---------」

 カシルは立ち上がった。そして『白の宮』に行くと、そこにいた天使に言って大天使たちを呼んでくるよう頼んだ。

「バーバリュース」

 天使たちはすぐにやってきた。

「どうしたんだいこんな夜中になって」

「あのふたりは何も知らずに互いがやったと思って相手を庇っている」

「なに・・・」

「カリンカとケニーを会わせる」

 そして彼は夫婦を再会させ、相手を庇うふたりを黙らせて言った。

「お前たちの息子の死因は、自然死だ」

「---------」

「そんな・・・」

「時々あるんだそうだ。なにもしていないのに赤ん坊が死んでしまうことが」

「でも」

「医族が解剖して調べたんだ。死因はわからないとな。それが本当なら、カリンカが風呂に沈めたというのもケニーが揺さぶったというのも違うことになる」

 夫婦はお互いの顔を見合った。そしてどちらからともなく泣き出すと、力なく抱き合った。

「やれやれ」

 ザドキエルがため息混じりで言う。

「人騒がせな事件だったな」

「オレは帰るぞ」

「助かったよ。カレヴィアにも身体の主にもよろしく言っておいてくれ」

 アスティは起きて彼を待っていた。酒を飲みながらカシルが事の顛末を話すと、

「・・・そうですか・・・」

 彼女は悲しげに睫毛を伏せた。

「お互いに相手を愛していて、相手がやったと思って庇い、嘘を言った。やり切れませんね」

「もっと早く言ってくれればこんなに話がややこしくならなかったんだ」

「その夫婦はどうなるんでしょう」

「あのふたりはもう充分裁かれた。これから生きて罪を償っていくだろう」

 それにしても、と彼は顔を上げた。

「お前のおかげで助かった。死因がわかったからこその解決だ」

 アスティは微笑んだ。

「王がこのところこの事件のことで悩んでおられたので解決してよかったです」

 彼はあの夫婦に思いを馳せた。

 地上での罪を許され、天上界にいるという。そして天上界でもこのようなことになって、あのふたりはどうするのだろう---------しかし、互いにあれだけ相手を思いやっているのなら、大丈夫だろう。彼は思った。

 静寂が青竜宮に立ちこめている。



「かあさま、レモネードをつくるの」

 ある日、アレクサがアスティを呼び止めて言った。

「レモネード?」

「がっこうでならったの。じぶんたちでのみものをつくって、あついひにみちをあるいているひとにあげて、おかねのべんきょうをするの」

「ははあ・・・」

「おにわのレモンとってもいい?」

「いいわよ。オレンジもあるけど」

 アレクサはサラヴィスと一緒にレモンとオレンジをもぎ始めた。高いところにあるものは、アスティが取った。

 そして厨房から搾り器を持ってくると、ふたりしてレモンとオレンジを搾り始めた。

「なにをやってるんだ」

 カシルが様子を見に来た。

「お金の勉強だそうです」

「うん?」

「魔法院でもやりました。自分たちで果樹園の果物を収穫して、それを使ったお菓子や飲み物を作って外の世界に売りに出るんです。金銭感覚の育成と、外の世界に慣れておくことと、そして見習いたちの貴重な現金収入を担っていたんです」

「お前もやったのか」

「はい」

 その時のことを思い出しているのだろう、アスティは笑顔になってこたえた。

「ミントがあるわよ。レモネードに入れたら?」

「いるー」

 アスティは庭の隅で生えたい放題となっているミントの茂みからそれを収穫してアレクサに渡した。

「できた。とうさま、しろのみやにつれてって」

「『白の宮』まで行くのか」

「うん」

 サラヴィス曰く、今日は暑い。天使たちは喉が渇いて、飲み物を買いに出るだろう。その時に宮の入り口にレモネードとオレンジの果汁が売られていたら、彼らはそれを買うに違いないのだそうだ。

「なかなか商売上手だな」

 アスティはくすくす笑って送り出してくれた。

 『白の宮』に着くと、双子は用意していた椅子と机を設置し、「しぼりたて・レモネードとオレンジ いっぱい どうかにまい」と書いた札を掲げた。

「銅貨二枚か。なるほど」

 その看板をしげしげと見つめて、カシルはうなづいた。銅貨二枚ならこの暑い日、確かに売れるだろう。

「とうさまあっちいってて」

「じゃまじゃま」

「わかったわかった」

 彼は苦笑いしながら夕暮れ時に迎えに来ると言って青竜宮へ帰って行った。

「いかがでした」

「あれなら売れるだろう。しかしたくましいものだな」

 カシルが看板のことを話して聞かせると、アスティはうなづいた。

「その値段なら大丈夫でしょう」

 それからアスティは自分が見習いの時に外の世界に出て行って色々なものを売った話をし始めた。小さい時は果汁だけを売っていたが、次第にそれが果実の焼き菓子になり、せっけんや香油といった複雑な工程で作られるものになった頃、彼女は一年修行に出たという。

「私は早めの一年修行に出たので充分勉強できないまま外の世界に出たんですけど、それでもその経験は役に立ちました。でなかったら世間知らずの小娘が、いいように外の世界の大人に騙されていたかもしれません」

「十五だからな」

 そして一年間外の世界で魔法院では見られない、得られない様々なことを勉強して、リザレアへやってきた。その時はまだ、呪われた運命は彼女を振り回したい放題、悲劇も次次と起きていた頃であった。

 日が暮れて来たので、カシルは双子を迎えに『白の宮』へ向かった。双子は店じまいをしている最中であった。誰か、天使がひとり、サラヴィスと話している。

「やあ君か」

 ウリエルであった。

「君の子供たちだったんだね。どうりで商売上手なはずだよ」

「どうだった」

 彼はアレクサに売れ行きを聞いた。

「だいにんき。みんなかいにきた」

「僕も二杯もらったよ。銅貨四枚なら今日みたいに暑い日は大歓迎さ」

「それはよかった」

 カシルは双子を連れて青竜宮に帰った。夕食の席で、双子はどの天使が何杯買いに来たかを事細かくふたりに話して聞かせた。今日の収入は、アレクサとサラヴィスで山分けである。

「いいお勉強になったわね」

 アスティはやってきたアルを膝に乗せながら笑顔で言った。刺激の少ない天上界だが、なかなかどうして地上と似たようなことができるのは喜ばしいことであった。


 ある日、子供部屋で遊んでいた双子が言い争いをしているな、と思ったらその声がどんどん大きくなっていき、サラヴィスが何か言い、それにアレクサが言い返し、一瞬後、アレクサが泣きながら出てきた。アレクサは母にしがみついた。

「あらあらどうしたの。なにがあったの」

「ぶたれた」

「あら・・・」

 アレクサの頬が赤くなっている。

「どうしてサラヴィスが叩いたりしたのか、心当たりはある? アレクサ」

「・・・」

 アレクサは目に涙を溜めて黙っている。これは肯定の意味だな、と思い、アスティは彼女と視線を同じにさせながら言った。

「何かいけないことを言ってしまったのね。ごめんね、って謝っても、一度言ってしまった言葉を取り返すことはできないの。あなたは謝ればすっきりするかもしれないけど、言われたひとの心と記憶には一生残るわ。言葉に責任を持とうね」

 アレクサがまた泣き出した。娘を抱き締めると、アスティは彼女を庭に連れて行った。 子供部屋からは、何かを乱暴に投げる音が聞こえてくる。カシルはアスティとアレクサの様子を黙って見ていたが、子供部屋に行って部屋の隅でいじけているサラヴィスの元へ座った。

「どうしたサラヴィス」

「・・・」

「アレクサが泣いているぞ」

 息子はこたえない。彼は息子を抱き上げた。

「セゼラヴィントス。女の子の顔を叩いてはならんぞ。それに、泣かせてもいかん。それは一番やってはいけないことのひとつだ」

「・・・」

「アレクサが何か言ったのはわかる。しかしそれでたたくのはいただけないな。そこはぐっと我慢だ」

「・・・」

 膝の上で、息子は黙っている。

「とうさまは」

「うん?」

「とうさまはなかせたことある?」

「あるさ。特に母を泣かせたことは何度もある。その度胸が張り裂けそうになった」

 あの日の書斎での彼女の涙、記憶を失った日々、そして思い出せないほど多く、自分は彼女を泣かせてきた---------彼はそのそれぞれを思い出した。苦いものを噛みしめて、わかっていて尚それを味わっているような顔であった。

「なんかいなかせたの?」

「そうだなあ」

 一回、二回、三回、・・・待てよ。もっとか?

 彼はアレクサと庭で遊ぶアスティの元へ行った。

「アスティ」

「はい?」

「オレはお前を何回泣かせた?」

 アスティは立ち上がってきょとんとしている。瞬きを数回繰り返してから、彼女はゆっくりと言った。

「泣いたことなんてありませんわ」

「---------」

 彼は言葉を失った。

「嘘だ。あの日---------」

「あの日?」

 アスティはアレクサを残して部屋の中に入った。そして、畳んでいたタオルを浴室へ持って行こうとそれを拾った。サラヴィスが入れ違いに庭に出て行く。

「覚えていません」

「何を言う。それに---------」

「百年以上昔のことです。よく覚えていません」

 そう言うと、アスティは彼をひょい、とよけて浴室に行ってしまった。アルがその後をゆっくりとついていく。

「とうさまはかあさまをなんどもなかせたんだって」

「まあ、とうさまったらひどいのね」

 アレクサとサラヴィスは言い合い、それで仲直りしてしまったようだ。ふたりで剣術ごっこを始めた。

 カシルはひとり、茫然と部屋の中に立ち尽くすのみであった。



 ある日、カシルは戦使族の元へ産まれた赤子を祝福するために出かけて行き、そこから帰って行くところであった。

 向こうから天使がやってくるな、と思ったら、それはどうやらザドキエルである。

「やあ」

「どこかへ行くのか」

「あんたに用があって青竜宮へ行こうとしてた」

 ザドキエルは、誰も聞いている者などいないのに声をひそめて彼に言った。

「ちょうどよかったよ。子供には聞かせられない話なんだ」

 そして、カレヴィアの身体の主にもあまり聞かれたくない話だという。ふたりは街の酒場へ行った。

「---------潜入?」

 訝しげなカシルの問い掛けに、天使は重々しい顔でうなづく。

「天上界の人間の女たちが、意に染まぬ売春を強要されているらしいんだ。人間の男をおとりに使いたいんだが、適当に度胸があって見かけのいい男がいないんだよ」

「・・・読めたぞ」

 オレを使おうと言うんだな、と言われ、ザドキエルは両手を合わせた。

「頼むよ。あんた男前だし、度胸もある。女にもてて、それでいて潜入できるだけの度量もある人間なんてそういないんだ」

「娼婦を買いに行くなんてしたくない」

「ふりでいいんだ。ふりだけだ。頼むよ」

「嫌だ」

「娼婦を買ったことくらいあるだろう」

「そりゃああるさ。あるが、今は違う」

「ふりだけだってば」

 返事をしないまま天使と別れて、彼は青竜宮へ戻った。

 言葉少なに香茶を飲む彼に、アスティは不思議そうな顔をしているのみである。

「---------」

 ザドキエルの弱り切った顔が思い浮かべられた。それに、女たちはしたくもない売春を強要されているという。知らなかったのならいざ知れず、知ったとなっては放っておくこともできない。彼は重々しく口を開き、天使に言われた頭の痛い頼まれ事のことをアスティに話して聞かせた。

「いいじゃありませんか助けてあげれば」

「---------」

「困っている人間がいるのだったら見過ごせません」

「しかし娼婦を買わなければならんのだ」

「ふりでいいって言われたんでしょう? 部屋に入って、ふたりだけになったら事に及ばなくたって平気なはずです。私が院生のときなんてミーラが・・・」

 と、アスティがかつての仲間の赤裸々な過去を話し始めたので、カシルは慌ててそれを止めた。

「アスティアスティ」

「はい?」

「子供たちの前だ」

「あら」

 アスティは子供に聞こえていたかと双子の様子を見た。アレクサは紙を切って何か細工をしている。サラヴィスは一心に秘密基地を作っている。話を聞いているようには見えない。

「とにかく、助けてあげればいいじゃないですか」

「しかし・・・」

「王がそんな薄情なこと仰るなんて」

 かつて地上では困っている人々のために率先して動いていたことを言われては、彼としてもザドキエルの頼みを断るわけにはいかなかった。彼は『白の宮』へ赴き、渋々ながら先程の話を承知したと伝えた。

「そうかやってくれるか」

 ザドキエルは彼の手を握って歓喜した。そんなに困っていたのか、とカシルが思うほどに、強い力であった。

「身体の主が助けてやれと言うから来たんだ。嫌々だ」

「そんなことよく許してくれたな」

「地上にいた頃は取り締まり局の長官だったからな。弱い者の話を聞きすぎて、放っておけないんだろう」

 彼は詳しい話を聞くことにした。

 どうやら、どこぞの眷属の者が、人間の女たちの弱みを握って売春を強要しているらしい。人間は天上界では立場が弱いし、それに割合どの眷属と寝ても孕むことは滅多にない。 お誂え向きなのだろう。聞くだに不愉快な話であった。

「オレはどうすればいいんだ」

「あんた空を行くとき以外は翼をしまうだろう。そのまま人間のふりをして、市に行って、娼婦を買ってくれ。怪しい界隈まで案内するから、そこで誰かひとりと部屋に入ってくれるだけでいいんだ。天使が人間の女を買うわけにはいかないからな」

 そこでカシルはザドキエルと共に市へ行き、見るからに怪しい女たちが道を練り歩く通りを歩いた。天使が離れていき、彼はひとりその通りを物欲しげな顔をしながらふらふらとした。

「おにいさん、あたしとどう?」

「あらあたしよ」

 女たちが次々に話しかけてくる。

 強要されていると言ったな。それならば積極的には話しかけてこないはずだ。彼は考えながら女たちを軽くあしらい、樹の影に立ち尽くしてうつむいている女を見つけると、そこまで近づいていく。女は彼の気配で顔を上げた。

「いくらだ」

「・・・三十分で銀貨三枚。一時間で金貨一枚」

 安いな。女の気の進まなそうなのを見ながら、彼はそんな感想を頭に浮かべていた。なるほど、立場の弱い、しかも自分の眷属ではない女を使うのなら相場より安くても構わないというわけか。

「いいだろう」

 アスティが行けと言ったのだ---------彼は痛む良心に言い訳をしながら女と共に裏通りに行った。そこには、通りの一部を木の板で囲った粗末な部屋があった。

 密室で二人きりになって、カシルは簡素なベッドの上に座った。女が服を脱ぎ、彼の足元に膝まづいた。

「やめろ」

 彼は女を立ち上がらせた。驚く女の服を取り上げ、投げてよこす。

「その気はない。話だけしてくれればいい」

 彼はまだ状況が掴めない女を隣に座らせて、どうしてこんなことをしているのか話を聞かせてほしいと言った。女はまだ驚いていたが、彼が女に何もするつもりがないのがわかってきたのか、ぽつりぽつりと話し始めた。

 人間は、天上界では身内というものを持たない。気の通じ合った人間と知り合って兄弟姉妹の契りを結ぶことはあっても、基本的に一人である。ある日知り合った男と愛し合い、やがて結ばれ、その男の子供が出来たとわかると、男はそんなのはご免だと去って行った。

 どうしていいかわからず、誰に頼ればいいのかわからないまま子供を産み、手持ちの金がなくなって、街角に立つようになった。寂しい人間の女を買いたがる眷属は、天上界には腐るほどいる。女は子供を育てながら毎日街に出た。

「そしたらある日知らない眷属の男がお金を貸してくれるって言ってきて」

 その男は自分を抱いた後、決まった金額よりも高い金を彼女に払ったという。そして、毎晩やってきては彼女に優しく接し、破格の金を手渡した。乳飲み子が家で待っている以上、誰かに頼んで面倒を見てもらわねばならない。食費だってかかる。女はずるずると男に金を借り続けた。

「そしたらある日借りたお金をまとめて返せって言われて・・・」

「いきなりか」

「いきなりよ」

 返すあてなどあるはずもなく、女は泣く泣く男の言いなりになった。次の日から、男は客を取る女の稼ぎを奪うようになった。逆らったり何か口答えをすると、容赦なく平手打ちが飛んできた。

「そうか・・・」

 彼は地上でよく聞く類の話をまた聞く羽目になったのを苦々しく思いながら、腕を組んで言った。

「その男の眷属は何だ」

「わかんないわ。でも首に鱗みたいのが生えてる」

 わかった、と言うと、彼は立ち上がった。

「もう帰れ。子供がいるんだろう」

 そして金貨五枚を払うと、そこから立ち去って行った。

 ザドキエルは、道の向こうで待っていた。

「どうだった」

「客引きをしている男の眷属の手がかりを聞いたぞ」

 首に鱗が生えているらしい、と言うと、ザドキエルは少し考えて、

「・・・それは人魚族だな」

 と小さく言った。

「帰ってみんなに知らせるよ。ありがとう」

「礼なら妻に言ってくれ」

 娼婦を助けるためにその娼婦を買うよう勧める妻など聞いたことがない---------彼はぶつぶつ言いながら青竜宮へ帰って行った。

「どうでしたの」

 人助けだけあって、アスティは事の首尾に興味津々である。

「言っておくがなにもしていないぞ」

「そんなことはわかっています」

 彼が女に聞いた話を話して聞かせると、アスティはため息をついた。

「どこにでも悪い男はいるものですね」

「天上界というからにはもっと平和な場所かと思っていたらどうにも違うようだ」

 怪物は出るし、娼婦はいるし、これでは地上と変わらない---------彼がひとりごちると、アスティは笑って言った。

「そこもお気に召している理由なんでしょう」

「そんなことはないぞ」

 やはりアスティには見抜かれている。否定しながらも、彼はそんなことを思っていた。 何の刺激もない、退屈な場所など死んでも嫌だ---------実際死んでいるのだが-------そんなことを平生考えている彼であったから、自分に降りかかってくる無理難題を抜きにして思えば、なかなか天上界というところは彼のお気に入りであった。


 ある日、走り回っていたサラヴィスの翼が何かのはずみで開いた、と思ったら、息子が宙に浮き始めた。

「わあっ」

 アレクサがそれを見上げて歓声を上げる。

「あら」

 アスティがその声に何事かと近寄って来る。

「いいなあサラヴィス飛んでる」

 サラヴィスは声を上げて笑いながら、部屋の中を飛び回っている。しかしなかなか抑制が利かないらしく、あっちへふらふらと飛んで行ってはごん、こっちへ行ってはごん、と頭をぶつけている。

「成人・・・なんでしょうか」

「うむ」

 しかしまだ十一だぞ---------彼はそんなことを考えていた。そういえば、いくつで成人するかまだ眷属の者に聞いていない。

「学校で言ってた。竜は十二、三歳、戦使は十五歳くらいで飛べるようになるんだって」

「それって成人ってこと?」

「うーんわかんない」

「成人ということになれば結婚もできるということだ。十一で結婚を許すことなどできないぞ」

「あ、一度眷属の者が言っていました。成人するのは若い頃だが、結婚を許されるのは十八になってからだと」

「何を以て成人なのかよくわからんな。翼が開いて飛べるようになれば成人なのか、結婚できる年齢になれば成人なのか」

 とにかく、サラヴィスは飛べるようになった。そうすれば彼が友達の家に行くのにそこまで送らなければならないということはなくなることになる。

 ある日、アレクサとサラヴィスを学校に迎えに行ったカシルは、竜人の教師から言いにくそうに言われたことをそのままアスティに伝えた。

「サラヴィスがあるだけの壺を軒並み割ったそうだ」

「あら」

 アレクサはひとり本をを呼んでいる。アスティは屈んで息子と同じ目の高さになると、

「なんでそんなことしたの?」

「・・・割れる音が楽しかったから」

 はあ、とカシルがため息をついたのがわかった。

「もうしちゃだめよ」

「はーい」

「行ってよし」

 解放されると、サラヴィスは走って子供部屋に行ってしまった。

「・・・男の子ですねえ」

「そうだな。理由が馬鹿馬鹿しすぎて怒る気にもならん」

 次の日、彼はまた教師に呼ばれた。息子が喧嘩をしたという。

「---------」

 カシルは頭を抱えたくなった。次から次へと、頭痛がしてくる。

「勝ったの? サラヴィス」

 アスティが息子に聞いている。

「勝った?」

「うん」

「じゃ、いいわよ」

「アスティ」

 カシルの抗議の声をかき消すように、サラヴィスは歓声を上げて行ってしまった。

「やられたらやり返さないと。そして、勝つのも大事です」

「あのなあ」

「私はいつもそうでした。勝つまでやめない」

 彼はアスティの幼い頃を思い浮かべてみた---------勝ち気な、負けず嫌いのアスティ。 剣を持っては誰にもひけをとらず、魔法の学習においてはいつも誰かより先んじていたアスティ。

 彼はため息をついた。

「お前がそれでいいのならオレはもう何も言わん」

 アスティは笑顔になった。サラヴィスは子供部屋で本を読んでいる。

「本が好きならよしとしないと」

「そうだな」

 仕方なくカシルはそう返事をする。そして自分の子供時代に思いを馳せた。血にまみれた、戦いの日々。およそ自分の子供たちのような幼少期とはかけ離れた世界であった。まともな生活をさせてやれるだけましか、彼はそう思っていた。

 


 青竜宮は、そう部屋数があるわけではない。

 最初はアスティがカレヴィアとしてひとりで住んでいたので、噴水の部屋とその奥にある寝室、地上から花を持って帰るための部屋、あとは図書室があるのみで、到って小さな住まいであったのだ。そこへ、カシルがバーバリュースとして共に住むことになり、図書室は大きくなったが部屋の数はそう変わったわけではなかった。

 しかし、庭は広い。

 生前緑を愛したアスティは、天上界でもまた緑を側に置いた。広大な庭園はザドキエルが昼寝に来るほど大きく、花に溢れ、小川まで流れている。双子にとって恰好の遊び場所であることは言うを待たなかった。

「母様、お庭でご飯食べたい」

「いいわよ」

 アレクサに言われて、アスティはその支度をし始めた。アルも一緒についていこうとしているのか、側で彼女を見ている。

「お庭でなにしてたの?」

「葉っぱを川に流してた」

 サラヴィスは最近、庭の茂みの奥に本格的な秘密基地を作るのに凝っている。誰も来ちゃだめ、彼は家族にそう伝達した。

 サラヴィスを呼んでくるようアレクサに言い、アスティはカシルを呼びに行った。今日は学校は休み、地上では週末である。

「母様、今度友達の家に泊まりに行ってもいい?」

 昼食を食べながら、そんな話題になった。

「いいわよ。なんてお家の子?」

「ジェシーの家」

「ご両親はなんていう名前?」

「えーと」

「今度聞いておこう」

「それなら、私の友達もここでお泊りしたいって言ってる。いい?」

「いいとも」

 アレクサが小さく歓声を上げた。

「そうすると部屋を増やすことになりますね」

「いや、子供部屋に一緒に寝たがるだろう。ベッドを追加すればいい」

 なるほど、とアスティはうなづいた。子育てに関しては、カシルのほうが一日の長がある。

 結局サラヴィスの友達もアレクサの友達と同じ日に泊まることになって、その日の青竜宮の賑わいは筆舌に尽くせないほどのものであった。

 十人の子供が走り乱れ、庭でかくれんぼをしていたかと思えば小川で遊び、そうかと思えば作りかけの秘密基地を見せたりと、まったくもって混沌の一言である。

 親たちは眷属の王たるふたりの住まいに自分たちの子供が泊まりに行くと聞いて恐縮していたが、

「なに、オレたちもここへ帰ってくればただの親だ。気を遣わなくていい」

 と言われればそれに従うしかない。

 大混乱の夕食を終え、何時間にもわたる入浴が済み、カシルがようやく一息ついたとき、日付は変わろうとしていた。彼はくたくたになった身体を横たえ、しばらく動けなかった。

「アベルとミルワの小さい頃を思い出します」

 アスティが浴室から戻ってきた。

「そうだな」

「住居の壁が落書きだらけになって、消すこともできないのでそのままにしておきましたね」

「そんなこともあった」

 彼は起き上がってアスティの髪を梳きはじめる。鏡の中で、アスティは笑っている。

「侯爵家から宮廷魔術師を輩出するというのでミルワの子供たちは魔法院に通っているらしい。そうすると、あの住居も使われていることになるな」

「落書きもそのままなんでしょうか」

「今度見てみるか」

 子供部屋から歓声が聞こえてくる。明日は学校がないので、子供たちは夜更かしのしたい放題である。

「あれは当分寝ないな」

「子供は元気ですからね」

 やれやれ---------彼はそっと息をつく。今日は寝られるかな。

 次の日の夕暮れ、子供たちが帰って行って、ふたりは片付けに追われた。双子もそれを手伝って、家族総出で大掃除である。

「父様母様、ありがと」

「またお泊りしたい」

「今度は遊びに行けるといいわね」

 食卓でそんなことを話し合う。それを見ながら、カシルは感慨に耽っていた。

 ---------アベルとミルワの時は、お前はいなかった。

 だから彼は、父親と同時に母親業もしなくてはならなかった。不慣れな彼に、子供は容赦なかった。

 しかしこうしてまた子供を持ち、家族でこんなたわいもないことを話せる日が来たのなら、かつての苦悩もそう悪いものではない---------彼はそんな風に思った。


 十二歳になって、アレクサが飛べるようになった。

 これでカシルは毎日の送り迎えから解放されることになる。

「学校の帰りに街に行ってもいい?」

「いいけど帰りが遅くならないようにしてね」

 この年頃になると、学校から家に直帰というわけにもいかないのだろう。街で市で、したいことが山のようにあるのだ。

 ある日、ザドキエルが訪ねてきた。

「やあ」

「お前か。ちょうど子供たちはまだ帰っては来ぬ。静かじゃろう」

 カレヴィアが酒を出しながらそんなことを言う。

「実は今日は頼みがあって来たんだ」

「またか。今度は何じゃ」

 嫌な予感がする---------カシルがそう思うのと同時に、ザドキエルは彼に向かって両手を合わせて見せた。やはりか。

「---------嫌だ」

「まだ何も言ってないじゃないか」

「どうせまた天使にはできないことをしてくれと言うんだろう」

「その通りなんだ。頼むよ弱り果ててるんだ」

「話を聞くだけでもよかろう」

 カレヴィアが言うので、彼は渋々ながら天使の話を聞いた。

 彼の話はこうだった。

 街の一角にある宿で、男が殺された。全裸でベッドに縛られ、口にはタオルが詰め込まれていたという。

「また娼婦がらみか」

「それがどうも違うんだよ」

 解剖したところ、その男は鈍器で強姦されていたというのである。彼は絶句した。

「---------つまり・・・」

「ああ。後ろからやられたってことだ」

「男色か。天上界にもそんなのがおるのじゃのう」

 カレヴィアはお構いなしでからからと笑っている。リザレアの歓楽街には豊富な種類の娼館があって、あらゆる女を抱けることでも頓に有名だが、男娼が多いことでも知られていた。

「世の中には女がいいという男もいれば男がいいという男もいる。それに、男のためだけに娼館があるのは不公平だ。女も満たされる場でなければ」

 という国王の鶴の一声で、娼館が次々に建てられたという。

「へえ・・・」

 酒を飲みながら、ザドキエルは感心したように言った。

「進んでるなあ」

「他国にはなかなかない施設じゃと言うて男女ともに訪れる者がひっきりなしであった。 そのせいで取り締まり局は二十四時間稼働せねばならなかったのじゃが」

 身体の主の苦労を思い出しながらカレヴィアは続けた。

「殺された男も男娼であったのか」

「それがどうやら違うんだ。持ち物から身元が判明した」

 男には、妻も子供もいたというのである。

 天使たちはその男の妻という女を呼び出した。

「驚いたことに、夫の性的指向を知っていたって言うんだ」

「両刀というわけか」

 彼は珍しくもなさそうに言った。地上ではよくあることだ。

「『夫が男が好きなのは知っていた。だが、殺されるようなひとではなかった』と言うんだよ」

 嫌な予感がしてきた。

「そしたらまた男がその界隈で殺されたんだ。同じように、全裸でベッドに縛られていて、口にはタオルが詰められていた。強姦もされていた」

 その男が、それらしい酒場である若い男と話し、その若者と消えていったのを見た者がいるという。

「読めたぞ」

 彼は言った。

「オレに行けと言うんだろう」

 カレヴィアが愉快そうに笑った。

「頼むよ。あんたは女にももてるが男にももてるタイプだ。殺人となったらほっとけないし、天上界にいる人間の男の誰にも頼めないんだ」

「だからと言ってオレに言うのは筋違いだ」

「そう言わずに」

 カシルは面白そうにそのやりとりを聞いているカレヴィアをちらりと見た。

「殺人となれば聞かぬふりはできない、と身体の主は言うておる」

 アスティの正義感の強いのもこういう時困る---------彼は重々しいため息をついた。

「やってくれるか」

「本心は嫌だが、身体の主がやれと言っている。選択肢はない」

 何と言っても殺人である。しかも憎悪犯罪であろうことは、殺された男たちの様子からしてもよくわかった。

「地上にいた時もそんな痴情がらみの事件がありましたけど、殺人はありませんでした」 天使が帰って行って、アスティはそんなことを思い出していた。取り締まり局の仕事は、それらの事件を紐解き、人々の話を聞き、時に裁判に持ち込むことであった。

「女を漁ったことはあるが男は初めてだ」

「なかなかできない経験じゃないですか」

 アスティがにこにことして言っていると、子供たちの声が聞こえた。帰宅の時間である。「子供たちには内緒だぞ」

「わかってますわ」

 アスティは双子を出迎えながらそう返事をする。

 まったく、眷属の王が聞いて呆れる。これでは地上にいた時と変わらないではないか。 いや、地上にいた時はこんなことはしなかったな。あれより悪いということか?

 彼がそんなことを考えている内、夜は更けていった。

 男色の男たちが好んで集まり、出会いのために使っている酒場に連れられて、カシルはその似顔絵を見つめていた。金髪に青い目、人を馬鹿にしたような笑み、口元のほくろ。「これがその若者か。言っておくがオレがそいつの好みじゃないかもしれないんだぞ」

「殺された男たちの雰囲気と似てるからな。大丈夫だろう」

 ザドキエルに見送られて、彼は苦虫を噛みつぶしたような顔で酒場へ出かけて行った。

 なにが大丈夫だ、慈愛の天使が聞いてあきれる---------心の中で毒づきながら中へ入ると、酒場は男たちで溢れていた。若い頃、それと知らずに同じような場所へ迷い込み、暗闇に連れて行かれて無理矢理事に及ばれそうになったことを思い出しながら、彼はカウンターへ近づいて酒を頼んだ。周囲の男たちの、舐めるような視線が絡み合う。

 酒を飲みながら、無関心を装いつつ彼は件の若者を目で探した。金髪に青い目、口元のほくろ。話しかけてくる男たちを躱し、酒を飲みながら長い時間、彼は男を物色するふりをして若者を探した。今日は来ないのではないか、そんな風に思い、これは一旦家に帰ろう、と杯を置いた時、その手の上に白い手が重なった。

「---------」

 顔を上げると、金髪の若者がそこにいた。青い、湖のような瞳。

「僕と遊ばない?」

 その笑み、口元のほくろ。彼は黙ってその手を握り返した。

「出ようよ」

 若者に手を引かれ、カシルは酒場を出た。天使たちが物陰から見張っているはずだ。

 しばらくなんでもないことを話しながら歩き、街の一角にある宿へ着く。部屋に入り、若者が腕を絡めてくる。誘うような目線、近づいてくる唇。反射的に、彼は顔を背けた。

「あれ、どうしたの」

「妻がいる」

 へえ、と若者が面白そうに笑った。

「この前知り合ったひともそうだったよ。子供は?」

「二人」

 何気ない風を装って窓の外を見ていた彼は気が付かなかった、若者の口元に、一瞬だが憎悪の笑みが浮かんだことを。

「そうなんだ。奥さんはこのこと知ってるの?」

「知っている」

 若者はけらけらと笑った。

「寛大なひとだね。じゃあこんなことしてるのも知ってる?」

 ふわり、若者の腕が首にまわされ、顔が近づいてくる。彼の青い瞳が、自分をじっと見ている。

「刺激的なことしようよ。もっといいこと教えてあげる」

「この前知り合った男っていうのはどんな奴なんだ」

 ベッドに腰掛けながら、若者はまた笑った。

「もうやきもち? 会ったこともない男に嫉妬するなんて」

「どうやって楽しんだのか聞かせてくれ」

「簡単だよ。こうやって」

 若者の腕が彼の手首を掴んだ。そのまま、若者はカシルを横たわらせる。そして目にもとまらぬ早さで彼の両腕を縛り上げると、若者が足首を持ち上げる。

「縛って・・・」

 青い瞳が、嘲笑するように揺れている。と、若者が鞄から何かを取り出した。長い、円形の棒だ。

「これを突っ込むんだよ!」

「ザドキエル!」

 彼は叫んだ。同時に、扉がバン! と乱暴に開けられた。若者がハッとして振り返ると、天使たちがなだれ込んでくる。

「動くな!」

 やれやれ---------カシルはため息をついた。なんて様だ。

「バーバリュース無事か?」

「ああ。早くほどいてくれ。ひどい目に遭った」

 オレは帰る---------彼はそそくさと宿を出て行った。

 後日、ザドキエルが報告のために立ち寄り、若者の話を聞かせてくれた。

「自分と同じ男色の者が憎かったそうだ。そんな男たちが平安に暮らしているのが許せなかったと」

「同族嫌悪か。はた迷惑な話じゃのう」

「もうご免だぞ。これきりだ」

 若者の、あの青い瞳が近づいてきたことを思い出す。男性特有の、あの骨ばった手の感触。彼はぞっとした。

「オレは女のほうがいい」

 ザドキエルが帰って行って、彼は片づけをしているアスティの後ろから彼女を抱き締めた。アスティは肩越しに振り向いて微笑む。

「もっと言うとお前がいい」

「大活躍でしたね」

 カシルが両手両足を縛られて貞操の危機であったことまで、ザドキエルは話していった。 カレヴィアはげらげら笑っていたが、アスティはどうなんだ、彼は思った。

「王になにもなくてよかったです」

「もうしない」

「そうしてください。人助けで自分がひどい目に遭ったら元も子もありません」

 腕の中でアスティがこちらを振り向く。

「もうしないって約束してください。私も勧めません」

「約束する」

 彼はアスティを力いっぱい抱き締めた。強くきつく、息もできないほどに。

「ただいまー」

 子供たちが帰ってきた。彼はアスティを離さない。

「あらおかえりなさい」

 未だ彼にすっぽりと包まれたまま、アスティは子供たちを出迎えた。

「あれー? なにしてるの」

「母様父様と仲良し」

「ちょっと忙しいのよ」

 あっち行ってて、とアスティは手を払って双子を追い出した。

「ひどい母親だな」

 カシルは呟いた。

「王あっての子供たちです。まずは王が最優先ですから」

 それはよかった---------彼は安心したように囁くと、アスティを解放した。

「香茶が入っています」

「うむ」

 そしてふたりは何事もなかったかのようにいつもの香茶を飲む---------この日常を愛おしむように、愛でるように。



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