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 ある日リザレアの様子を水盤で見ていたカシルは、

「地上に行きたい」

 と低い声で言った。

「---------え?」

 アスティは、彼がなんのことを言ったのかわからず、思わず聞き返す。

「リザレアの様子を見たい。水盤ではなく、この目で」

「---------」

 時々下界に降りて墓前の花を取りに行ったり、ミルワと話しに行ったりしていたアスティであったが、カシルが地上に姿を現わしたがらないのは知っていた。生前国王であったカシル、その彼がむやみに地上に現われては、人々が混乱するだろうという思いからであった。

 しかし八十年が経った今、彼がリザレアに降り立ったところでどうというわけではなかろう。水盤ではわからない、交わされる人と人との言葉、生活する呼吸を膚で感じたいと思うのも、無理はなかった。

「行ってみますか」

「ああ」

 そこでふたりは地上の頃と同じような服に着替え、春のリザレアに降り立った。

 砂鎮祭を終えたリザレアは、砂嵐の季節も一段落したようである。

「どこかで食事でもするか」

 懐かしい街並み、昔と変わらない道の造りに微笑しているアスティに、彼は言った。

 酒場に入り、食事と酒を注文すると、人々の話し声が嫌でも耳に入ってくる。そのどれもが、満ち足りた生活に基づいて語られているということが窺える。

「こういうの久しぶりですね」

「八十年ぶりだ」

 そこへ、店の者が食事を運んできた。

「おまちどおさま。・・・あれ、あんたたちリザレアのひとじゃないね」

「ええ。旅の者です」

「それにしちゃどっかで見たことあるなあ」

「人違いだろう。リザレアは初めてだ」

「へえ・・・ま、ごゆっくり」

 そんな会話を交わしてから食事していると、表が騒がしくなった。

「なんだ?」

「・・・あれは罪人の道行きですね」

 ふたりは食べる手を止めて、道に群がる住民の背中を見た。人々は罪人の顔を一目見ようと、殺到しているようである。

「よその国の男がリザレアの女に悪さしたんだよ」

「ひどい話さ」

「顔をめちゃくちゃになるまで殴ったって・・・」

「王様も激怒したっていうよ」

 どうやら罪状は性犯罪のようである。リザレアの性犯罪は、強姦は死刑、その他の刑も流刑や強制労働等、とても重い刑が課せられる。カシルは知らん顔で食事をしていたが、罪人は中央公道を通る時、石を投げ放題で投げられて歩き、刑場で棒叩き百回という裁きのようであった。棒叩きとは、五角形の角ばった棒に鉄を差し込み、それで裸にした罪人の背中を叩くというものである。どんな屈強の男も、十回で音を上げるという重いものであった。

「他の国はどうか知らないけどうちの国は女を大事にするからねえ」

「それは最初の王様のときからそうさ」

 ぴくり、と一瞬、カシルの食べる手が止まった。

「最初の王様は厳しい方だったというけど、同時にとてもお優しいひとでもあったそうだよ」

「そうそう。あの王様のおかげで今のリザレアがあるんだからね」

「井戸の掘り方を教えてくれたのも最初の王様だしねえ」

 決まり悪げに酒を飲む彼の横顔を、アスティは微笑みながら見ていた。人々は幸せそうである。アスティが手洗いから戻ってきた時、道の向こうに見慣れた皮鎧に身を包んだ女たちの姿をみとめた。

「---------」

 勇女軍の隊員であった。

 罪人の道行きが終わって、その後の様子を見張っているのだろう。と、その内の一人と目が合った。アスティは何気ない様子で目をそらしたが、あちらが何かに気づいた。こちらを見て、なにか他の隊員と言い合っている。まずい、と思ってカシルの元へ戻った。すると、驚いたことにその隊員はアスティを追いかけてきた。

「・・・失礼します」

「---------何か」

 幾分緊張して、アスティは勇女軍の者にこたえる。隊員はアスティをじっと見つめ、

「・・・やっぱり似ています」

「似てる? 誰に?」

「あ、ああ、すみません、私は勇女軍の隊員でアリーナといいます」

「・・・看護部隊なのね」

「え? あ、そうです。すみません、旅のお方とお見受けしますが、リザレアに親類がいたりしますか」

「いいえ、リザレアは初めてよ」

「そうでしたか・・・」

 アリーナと名乗った隊員は当てが外れてがっかりしたようであった。

「いえ、我々がかつて戴いていた総帥の方に、そっくりなのです」

「---------総帥?」

「はい。リザレア参謀---------アスティ様とおっしゃる方です」

「---------どうしてそんなことを知っているの? もう大分昔のひとなんでしょう?」

「それはそうなんですが・・・隊の事務所に、絵があるのです」

「絵?」

「はい、その絵を描いたのは我々の隊員章をデザインした隊員らしいのですが、出来上がった時は、隊の者みながそっくりだと絶賛したそうです」

「---------」

「その絵が評判になって当時は市民が事務所にひっきりなしにやってきてアスティ様を懐かしんだと言われています」

「そう・・・」

「興味深いな。見に行ってみたらどうだ」

 カシルが顔を上げて言ったので、アスティは彼の方を見た。

「隊員が勘違いするほどの絵なら、一見の価値はある」

「・・・じゃあ・・・」

 アリーナの顔がパッと輝いた。

「ご案内します」

「いえ、罪人の道行きの後は道の整備をしなくちゃいけないでしょう。事務所にはひとりで行くから大丈夫よ」

「え、あ、そうだ・・・でも事務所は」

「道ならわかるわ」

 言い置いて、アスティはさっさと行ってしまった。

「あの・・・お名前を聞いてもいいですか」

「---------ブロンシュよ」

 ブロンシュ、とアリーナは口の中でその名を呟いた。そしてふと思い出した、

 ---------あれ? なんでリザレアが初めてなのに私が看護部隊ってわかったんだ?


 勇女軍の事務所は、かつてと変わらない場所にあった。

 大きく開かれた二枚続きの扉、ひっきりなしに動き回る事務の者、行き交う取り締まり局の職員、なにも変わっていない。

 いや、変わったことがひとつだけあった。

 入り口を入って正面の壁の上に、大きな絵が飾ってあるのだ。

「---------」

 それは一人の女が剣を振るっている絵であった。長い、黒い髪を揺らめかし、誰か、これは勇女軍の隊員であろう、その誰かと向かい合って一心に剣を振っている。

「いい絵でしょう」

 絵を見上げて硬直する彼女の横に立った男が、その様子を見て近寄って話しかける。

「え、ええ」

「アスティ様はよくこうして隊員に稽古をつけていたと聞きます。この絵を描いたのは名もない隊員だといいますが、なかなかよくできていると思いませんか」

「---------そうね」

「勇女軍はね、軍隊じゃないんだそうですよ。あくまで戦闘部隊。だから他国のように軍隊の不文律がないんだとか。隊員は現場で自分の判断でものを考えるよう、入隊したら徹底して教え込まれるそうです」

「・・・そう・・・」

「居心地が良くて評判のようですな」

 アスティは微笑んだ。もう行かなくちゃ、と呟きながら、歩き出す。

「入隊希望ではないので?」

「家で子供が待ってるの。それから・・・」

「---------え?」

「ティラよ」

「は?」

「名もない隊員じゃないわ。絵を描いたのはティラという隊員よ」

「? ---------」

 言い置いて、アスティは事務所を出て行った。


 アスティが酒場を出て行って、ひとりで飲んでいたカシルであったが、もう一杯、と酒を注文をして酒を持ってきた店の主人が彼をまじまじと見て言った。

「---------あんた、旅の人かい?」

「ああ」

「リザレアに親戚はいるかね」

「いや、いない。リザレアは初めてだ」

「ふうん・・・それにしちゃどっかで見た顔だな」

「気のせいだろう」

「うーんどうかなあ」

 店の主人はどうかなあどうかなあと頭をひねりながらカウンターに戻って行った。カシルはそれには構わず、酒場の様子を見ながら庶民の暮らしを見ることを楽しんでいた。

 どうやら、三代目の王も良い王のようだ。

 それが自分の子孫だと思うとなんともいえない気持ちになったが、民が選んだのなら間違いはないだろう。それにしても、王家は宮廷魔術師を侯爵家から迎えると決めたらしいが、そうすると侯爵家は代々上位魔導師ということになるのか。魔法院が、それを許したのか。よくも許してくれたものだ。はて、前例を作ったのはもしかしてオレかな。

 彼が苦笑いしていると、店の主人が他の客の食事を片手に持ちつつ近づいてきた。

「そうだ。思い出したよ。あんたお城の絵にそっくりなんだ」

「---------絵だと?」

「そう。前の王様が描いたっていう絵があるんだ。それに似てるんだよ」

 ---------アベルが?

「城に・・・?」

「そうさ。初代国王の墓は参謀閣下のと同じで誰でもいつでも行けるようになってる。そのついででお城の中を見られるのさ。もっとも謁見の待合くらいまでしか立ち入りは許されてないけどね。あんたも行ってみれば? 初代国王の墓はいつも花があるよ」

「・・・」

 彼は沈思した。酒を飲み干して、所在なげに辺りを見回す。アスティはまだ帰ってきそうにもない。

 彼はゆっくりと立ち上がると、誰にも知られないように酒場を後にしていた。


 自分の墓を訪ねるというのもおかしなものだな、と思いながら、彼は案内の標識に従って王城の庭を歩いていた。かつて暮らしていた頃と、大きくは変わっていない。

 初代国王の墓という場所に行ってみた。アスティと違って、ここに来るのは初めてだ。 墓碑には、自分の名とまたの名を流浪王、或いは封印王とだけある。その簡素さに、彼は知らず知らずの内に微笑んでいた。誰が手向けたものか、花が置かれている。

 それから王城の内部へ向かう通路を歩くと、見慣れた城の中に入って行く。そして彼が探していたものは、庭の通路から入ったすぐのところにあった。

「---------」

 座ってくつろいだ様子で本を読む、自分の姿があった。愛しげに本を見る、その視線。 アベルに、こんな姿を見せた覚えとてない。息子はどういう気持ちでこの絵を描いたのだろう。絵の横には、『初代国王・カシルヴァーナ・アリオンⅠ世の休日』とあった。その下には、短く何かが記されている。彼はそれを読もうと近づいた。

『初代国王は、本を愛するひとであった。剣に長け、剣一本でリザレアを大国にしたひとは、しかし本をもよく愛した。私は母と違って国王の書斎に入ることは出来なかったが、きっと彼が本を読む様はこうであったろうと思う。 二代国王・アベル・A・ラーセ』

 ふとひとの声がしたのでそちらへ目を向けると、謁見の待合で裁判を待つ人々が話している。今日は謁見の曜日か。と、誰かが歩いてくる足音がしたので、彼は潮時と見て庭への道に出た。警備の兵士を横目で見て、そこからまっすぐ城下へ向かう。元いた酒場に戻ると、アスティが戻ってくるところであった。

「どこかへ行ってらしたんですか」

「ああ」

 アベルの意外な才能を見たぞ、と彼は呟いた。

「---------え?」

「後で話す」

 帰ろうか---------彼は傾きつつある日を見上げて言った。


 青竜宮へ戻ると、保育所に双子を迎えに行く時間である。天上界の他の住人には、基本的に姿を出さないと決めているアスティであるから、迎えに行くのは専らカシルの担当だ。 彼はずぶぬれになったサラヴィスと、それを呆れたように見つめるアレクサと共に帰ってきた。

「きゃーサラヴィスなんでそんなに濡れてるの」

「水たまりで遊んだそうだ」

「え?」

「あめがふったの。それでみずたまりによこになったの」

「どうして?」

「えー」

 サラヴィスは笑顔になった。

「わかんなーい」

「理解できん」

「男の子ってこんなものなんでしょうか」

「かもな。アベルもそうだった」

 サラヴィスの服を着替えさせながら、アスティは今日はなにがあったのか、なにをしていたのかを聞く。息子は楽しそうに他の眷属の友達と遊んだことを話す。アレクサもやってきてアスティに話を聞いて欲しがる。

「おにんぎょうであそんだの」

「誰と遊んだの?」

「エレーナとアメル」

「どの眷属の子?」

「しらない」

「そうよねえ。わかんないわよねえ」

「わかんないっていわないで」

「ごめんごめん」

 アレクサはひとりで子供部屋で遊び始めた。友達ができる前は互いしか知らなかった双子だが、今は青竜宮で遊ぶのも別々だ。

「見てみろ」

 カシルが窓辺でアスティを手招きするので、何かと思って近寄ると、

「・・・」

 サラヴィスが庭でひとり、泥遊びをしている。全身真っ茶色であった。

「・・・着替えたばっかりなのに・・・」

「中に入る前に身体を洗わないと部屋が泥だらけになるぞ」

 脱力するアスティの横で、カシルは笑いをこらえている。

 その夜、ふたりは香茶を飲みながら今日あったことを話した。

 久しぶりに見たリザレア、自分たちの知っているままのリザレア、知らなかった一面を持ったリザレア。自らの栄華などというものには興味も関心もなかったふたりだが、その自分たちの死後、残された者たちが自分たちの絵を遺していたとは思いもよらなかった。

「時間が経っているから誰にもばれないだろうという目論見は外れたな」

「そうですね」

 アスティはくすくす笑いながら新しい香茶を淹れた。

「でもたまに行ってみると新鮮です。時々ならまた降りて行ってもいいんじゃないでしょうか」

「うむ」

 アベルが書斎に来たことがあるのはただの一度きりであったが、息子はあの時、そんな目で自分を見ていたのか---------カシルはもういない息子への思いを馳せた。

 そしてまたもう一人の息子はと見ると、ベッドの上でひっくり返って眠っている。

 自分が子供を持つとは考えていなかった彼だが、父親もやってみるとなかなかよいではないか---------そんなことを思っていた。そして自分にそうさせてくれた女を見ると、微笑んでこちらを見ている。なんの不満もなかった。


 双子がどこで見つけてきたのか木片を振り回して剣術ごっこを始めだした。

「お前たち、やるのならちゃんとやれ」

 カシルは木刀を二振り持ってきてふたりに握らせた。乾いた音が響き渡る。

「きゃー部屋の中でやらないで。王、外でやらせてください」

「ほらお前たち、母が困っているぞ。外だ」

「やあ!」

「とお!」

「外でやってーっ」

 アスティが悲鳴を上げると、双子は木刀をかち合わせながら庭に出て行く。

「やれやれ」

 カシルが外を見ていると、アレクサもサラヴィスも飽きることなく木刀を振り回している。

「怪我しないでしょうか」

「なに、したらしたでその時だ。少々の怪我では死なん」

 カシルにとっては、かつて通った道である。これから何が起きるか、だいたいのことはわかっている。と、アレクサの木刀がサラヴィスの額に命中した。

「あ」

 うわーんと声を上げて、サラヴィスが泣き出した。額からはどくどくと血が出ている。

「あらあら血が出たわねえ」

「ちがでたー」

「痛くない痛くない」

「いたいもーん」

「そうねえ痛いわねえ」

 アスティは傷を見てみた。歴戦の傷を持つ彼女からすれば、どうということはない切り傷であった。

「血がいっぱい出たけどすぐに止まるわね。お薬塗ってあげる」

 アスティはサラヴィスの手を引いて子供部屋に向かった。

「どれアレクサ、今度は父が相手だ。やるか?」

「やるー」

 上に下に、アレクサと打ち合いを始めると、娘はなかなか筋がいい。カン、カンと木刀の音が響く。

「おおなかなかやるな」

「えいっ」

「待て待て。剣には握り方がある。右手でこう持って・・・」

 握らせているところへ、ザドキエルがやってきた。

「やあ剣術の指南かい」

 顔を上げたカシルの額に、アレクサの木刀が直撃した。

「・・・アレクサ」

 彼はじんじんと痛む額が腫れていくのを感じながら娘を見やった。

「卑怯な戦い方をしてはいかん。剣には流儀というものがある」

「ゆだんたいてきー」

「どこでそんな言葉を覚えた」

 彼はアレクサを部屋の中に入れながら、ザドキエルと挨拶を交わした。

「聖戦使も娘にあっちゃあかなわないな」

「同じ戦使だ。将来が楽しみだろう」

「来たかザドキエル」

 カレヴィアが出てきた。その脇から、サラヴィスが走り寄ってきた。

「やあ、おでこをどうしたんだい」

「アレクサにやられたの」

「やんちゃなお姉ちゃんだなあ」

「おやつの時間じゃ」

 カレヴィアに言われて、カシルはああ、とこたえて食堂へ向かう。双子のおやつが置かれているのである。

「相変わらず育児には関与しないんだな」

「それは身体の主の仕事じゃ。儂には竜族の統治がある」

 酒を杯に注ぎながら、カレヴィアはこたえる。

「ガブリエルの保育所に通ってるんだって?」

「うむ。毎日泥だらけになって帰ってくる」

 双子におやつを与えて、カシルが近づいてきた。

「なんで天使が保育所なんてするんだ」

「ガブリエルはすべての子供の守護をするからさ。別の宇宙の星で、受胎告知をしたこともある。本人も子供が好きだしうってつけだろ」

「毎日一日中一緒にいて気が狂わんのかのう」

「そういう話は聞かないな」

「オレは無理だ」

 酒を飲みながら、カシルはため息混じりで言う。

「とてもではないが身体がもたん」

「お前たち体力ならあるはずだろう」

「使う体力がまったく違う。地上でもそうだった」

「ふーん・・・」

 大図書館の本には、カレヴィアの身体の主は上位魔導師であったとあった。上位魔導師といえば、体力の化け物といわれる種族である。そして目の前で酒を飲む男も、身体の主と対であるために同じ修行をこなしたとあった。その男が体力が続かないと言うとは、子供とはそんなに恐ろしい生き物なのか。

「ガブリエルは大丈夫なのかなあ」

「何の話じゃ」

「いやこっちの話」

 ザドキエルは切った林檎を食べながら絵を描く双子を見た。

「大きくなったなあ。もう抱っこなんかできないだろう」

「しておるぞ」

「ああ」

「なに」

 天使は目を見開いた。

「どれくらい重いんだ」

「もう双子はご免だと思うくらいだ」

 彼は笑い声を上げた。

「そうだろうなあ。次の子供の予定はないのかい」

「そういう話にはなっていない」

「出産が大変であったからな。こ奴が心配しておるのじゃ」

「でも地上で一回産んでるんだろう。なんであんなに大変だったんだ?」

「身体の主曰く、一度死んだからだそうだ。死の瞬間、オレたちは身体から出た一滴の血から受肉して現身昇神した。それで身体がまっさらになってしまったと言っていた」

「じゃあ次は楽なんじゃないのか」

「そうだろうが負担は身体の主に行く。そうそう子供を産ませるわけにはいかない」

「ふうん・・・」

「この男は身体の主を大切にしておるからの」

「聞いててこっちが恥ずかしくなるな」

「そうであろう。儂もじゃ」

 カレヴィアとザドキエルは笑い合った。カシルはひとり知らん顔である。

 ザドキエルが帰って行って、食事の時間になった。天使はいつも、家族の時間を邪魔しないような時間にやってきて、同じ理由で時間を見計らって帰って行く。

「かあさま、これぶっころり」

「え?」

「ぶっころり」

「ブロッコリーね」

「ぶっころり」

「みてみておしゃかな」

「お魚ね」

 魚のにおいを嗅ぎつけて、アルがやってきた。アスティは味のついていない部分を選んで、アルに魚を分けてやる。

 三毛猫は、アスティの湯上りに彼女に抱かれにやってくる。アスティはかなり熱い湯に入るため、風呂から上がって熱を冷ますため身体を拭いてしばらく着替えずに座っている。 そうすると、アルがやってきて彼女の腹の上でごろごろ言いながらくつろぐのである。 胸元にあるルビーの鎖をかじっては引っ張るので、よくアスティは、

「やーめーてー」

 と鎖を隠さなくてはならなかった。

 また、アルは物陰に隠れてこちらを窺い、歩き出したすきを見て飛び掛かってくることがある。そうされるとアスティは、

「きゃっ」

 と大袈裟にやられたふりをしなくてはならない。そうしないとアルが拗ねるからである。 くしゅん、とアレクサがくしゃみをした。

「あら・・・風邪かしら」

 アスティはアレクサの額に手をやった。

「熱はあるか」

「うーんあるようなないような」

「保育所で病気をもらったのかもしれんな」

 案の定、アレクサは次の日熱を出した。カシルが眷属の者に話を聞いたところ、竜族と戦使族は病気をしないものだが、それは子供の内に嫌というほど病気をするからなのだという。嫌というほど、と聞いて、カシルは在りし日々を思い出してぞっとした。この歳の子供は、息をするように病気になる。アベルとミルワも、保育所でよく病気をうつされた。 まずミルワが具合が悪くなり、それがアベルにうつり、時には彼自身もその病気をもらうというのが通例であった。子供たちの看病をしながら自分の面倒を見、それでいて王城に帰って国王の政務をこなすには、ひとりでは手に余る仕事であった。

「身体が熱いわねえ。氷でも食べる?」

「んーいるー」

 今は、アスティがいる。

「王、果汁がありますけどいかがですか」

「もらおう」

 アレクサに氷を持って行くアスティを見ながら、カシルは思っていた。

 あの時、もし彼女が自分の代わりに死ななかったら。

 死んだのは自分であったろう。

 そうすれば、アベルとミルワを育てるのはアスティであったはずだ。いや、彼女が自分なしで生きていけたか、甚だ疑問だ。自分で言うのもなんだが、アスティはオレがいないと生きていけない。きっと絶望の内に自ら死ぬことを選んだだろう。

 果汁を飲みながら、そんなことを考えていた。

 サラヴィスを迎えに行くと、ガブリエルに呼び止められた。

「アレクサ熱が出たって?」

「ああ。風邪かな」

「保育所でも流行ってるんだ。サラヴィスも気をつけてくれ」

 気をつけると言っても、うがい手洗いくらいしかないんだけどな、とガブリエルに送り出されて、カシルは息子と共に青竜宮に帰った。

「おかえりなさい」

「ただまー」

「アレクサの具合はどうだ」

「さっきおかゆを少し食べました」

「そうか。じきサラヴィスにもうつるだろう。地上でもそうだった」

「そうでしたね」

 サラヴィスにうがいと手洗いをさせながら、アスティは今日あったことを彼に聞く。息子はたどたどしいながらも懸命に一日を報告する。それが終わると、サラヴィスは子供部屋へ向かった。

「サラヴィス、アレクサは具合が悪いのよ。そっとしておいてあげて」

「おねつー」

「そう、お熱があります。アレクサのところにはいかない」

「いかないー」

「サラヴィス、父と風呂にでも入るか」

「そうしてください。食事の時間まではまだ間があります」

 アスティは洗濯物をたたみ始めている。今が一番忙しい時間だろう。地上にいた頃は政務もこなしていた。魔法院の協力がなかったら、とてもできなかった二重生活であった。 風呂から上がって食事の時間となり、アレクサのいない食卓でサラヴィスは寂しそうである。

「保育所で遊ぶときは別々なのにこういう時は寂しいんだな」

「いつも一緒ですもんね」

 料理人がアレクサのために消化にやさしい食事を作ってくれたので、アスティは子供部屋にそれを持って行った。

「食べられそう?」

「んー」

 アレクサはだるそうだ。額に手をやると、まだ熱い。このままサラヴィスと同じ寝室にいてもいいものだろうか。すると、サラヴィスがびしょびしょになったタオルを持ってやってきた。

「これー」

「なあに」

「ひえひえ」

「ああ、冷やすのね。ありがと」

 アスティはタオルを絞って水気を切り、アレクサの額に乗せた。

「これは、別々に寝させることはできんな」

「そうですね」

 双子を寝かしつけて、ふたりの時間となった。

 よくもこんなに長い間一緒にいて、飽きないものだと思う。八十年だ。そして、これからもそれ以上の時を共に過ごすのだ。

 かつて、地上にいた頃。

 結婚するまで、ふたりは互いの想いを抑えて毎日を共にしていた。途中、カシルは自分の心を殺して妃まで迎えた。永遠とも言える長い間、ふたりは共にいたいと言うことも、それを叶えることもできなかったのだ。

 その時の反動のようにこうしていられるというのなら、あの日々も無駄ではなかった、そう、彼女を失った失意の十七年間ですらも。

 アスティを腕に迎えてその頭を脇に置きながら、カシルは眠りにつきながらそんなことを思った。

 二日後、サラヴィスが熱を出した。アレクサの熱はまだ下がらない。カシルは保育所に行ってガブリエルにそのことを伝えた。

「ああーやっぱり。今日はこれで十人目だ」

「お前たちは大丈夫なのか。天使も風邪をひくのか」

「そりゃひくさ。でも慣れてるからな、子供が風邪をひいてもうつらない」

「そんなものか」

「そんなものさ」

 帰る途中、市で果物を求めた。熱がある時、果実を食べたら少しは冷たくてよかろうと思ってのことである。

「おかえりなさいませ」

「ふたりはどうだ」

「アレクサは少し熱が下がりましたがまだ起きていいほどではありません。だるいようですし」

「お前はどうだ」

「え?」

「アベルとミルワのときはお前にもうつった」

「そうですね・・・」

 アスティは思案する顔になった。

「・・・神になっても病気はするんでしょうか」

「現身昇神というからには、肉体を持っているからな。霊位は神だが身体は人間だ」

「じゃあやっぱりうつるかな?」

 まるで他人事である。カシルは買ってきた梨をアスティに渡すと、子供部屋を窺った。 いつもは賑やかな声が聞こえてくるはずが、今日は到って静かである。

「さすがに静かだな」

 彼に梨を出しながら、アスティもうなづいた。

「食欲がないみたいなのが心配で・・・」

「梨なら食べるかな」

 ふたりは子供部屋に向かった。

「サラヴィス、梨食べられそう?」

「うー」

 サラヴィスは赤い顔をしている。

「ちょっと食べてみない?」

 サラヴィスは梨を一口食べて、それから二口食べると、後は目を閉じてしまった。

「アレクサ、梨だ。食べられるか」

「うん」

「だいぶ熱が下がったな」

「さがった」

 アレクサは梨を完食した。この分なら、明日には起きられるだろう。その晩の食事は、アレクサが出て来てサラヴィスが寝ているというかたちになった。

「なかなか家族が揃わないな」

「熱が早く下がってくれるといいんですけど」

 寝室でそんなことを語り合う。

 結局、サラヴィスの熱は五日間続いた。アレクサはその間に治ったが、保育所に行こうとはしなかった。ひとりで遊んで時々子供部屋に行ってサラヴィスの様子を見て、また遊びに興じるといった具合であった。

 カシルは双子の面倒を見ながらも、地上の様子を窺うのも忘れなかった。自分が生涯を捧げたリザレア、愛する砂の土地のことは、一時たりとも忘れない。

 自分の子孫でもある今の国王が、王城のあの絵を見ている。

 何を思っているのだろう。自分の出生を、知っているのだろうか。水盤を見るだけでは、そこまではわからない。神ならばひとの心くらい読めようが、自分がそうされたらと思うと、まだ試す気にはならない。と、水盤のなかの国王が顔を上げて笑顔になった。そちらを見やると、ミルワの面影を持つ女と話している。きっと姉か妹、今の宮廷魔術師であろう。ふたりはしばらく黙って自分の絵を見上げていたが、やがて玉座の間へ入って行った。



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