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ふたりにとって二度目の子育てが始まった。と言っても、はるか昔のことなのでよく覚えていない。しかもアスティはまだ起き上がることが出来ないでいる。竜族の祝福は、彼女が回復するまでおあずけとなった。カシルがいつものように抱いて連れて行けばいい話だが、そうするとアレクサとサラヴィスが青竜宮に残されることになる。それは避けたかった。よく覚えていないとはいえ、産まれたての赤子にはなにが起こるかわからないことくらいは覚えている。
「早く起き上がれるようにならないといけません」
「焦っても仕方ないぞ」
カシルはアスティにスープを飲ませてやりながら言う。
「そういえば昨日ザドキエルが来た。天使たちめ、産まれるのが男か女か、竜か戦使かで賭けをしていたらしい」
「ふふ」
アスティはスープを飲みながら微笑んだ。
「《アスティ》が彼ららしい、と言っております」
「誰が賭けに勝ったのか知りたいものだ」
アスティの食欲は、このところ大分戻ってきた。医族の長がやってきて、まだ産褥が続くが、少ししたら起き上がってもよろしいでしょう、と告げる。その言葉を裏付けるように、三日後には彼女は起き上がれるようになった。そうすれば、もう固形のものも食べられる。それを聞いて、青竜宮の料理人は腕を奮った。
「アベルとミルワのときもこうでしたね」
遠い昔を思い出すように、アスティは言った。
「なかなか起き上がれなくて、母乳も出なくて・・・」
「そうだったな」
カシルも思い出すような目になった。
そればかりではなかった。彼はなんとかアスティと結婚しようと、あの手この手で彼女に結婚を申し込んでいた。毎日会いに行っても、彼女は色よい返事をくれなかった。アスティが頑固なのはよく知っていたが、あんなに頑固だとは思ってもみなかった。
「眷属の者たちから祝いが続々と届いているぞ」
彼は青竜宮に殺到した双眷属の面々を思い出した。状況が状況ゆえに断るわけにもいかず、カシルとルエは殺到する贈り物を部屋に運ぶ作業に追われた。その多くは、身体の衰弱した竜王のために滋養のつく食べ物であった。
「今度は食べられます」
アスティは笑って言った。長い八か月であった。
贈り物のなかには、翼のある赤子のための服も多く含まれていた。翼を持つ子供は初めてのふたりにとっては、有り難い贈り物であった。
「しかし」
「?」
「お前がこんなに大変なのがわかっていたら産んでほしいとは言わなかった」
「---------」
「もう産んだりしなくていいぞ」
アスティはくす、と笑った。
「そんなことはありません。いい経験でした。それに、次の時は天上界に来てから二度目になりますから楽になるはずです。百年に一度くらいなら、いいんじゃないでしょうか」「そうか」
お前がそう言うのならそれでもいいだろう、という言葉を、彼は飲み込んだ。またなにがあるかわからない。子供が産まれることは嬉しいが、そのためにアスティが身体を壊すようでは元も子もない。彼にとってはアスティが健康でいてくれることがなにより大事なのだ。
産褥期の熱が出たり、悪露が続いたりと、アスティの体調は安定しなかった。しかし食欲が戻ったせいで、授乳はできるようになった。乳飲み子との生活は待ったなしである。 授乳はひとり終わればもうひとりにやらねばならないし、時折ふたり同時にということもあった。まだベッドから出られないので、入浴はカシルが担当している。双子をいっぺんに入浴させることはできないので、ひとり終わってそれをアスティが受け取り、またもうひとりを湯に入れるという生活が続いた。
また、夜泣きに備えて、ふたりは双子と共に眠った。そうすれば、アスティも赤子をあやすことができる。
「段々と思い出してきたぞ。眠れない日々を」
カシルはアレクサを抱きながら呟いた。さすがに身体は覚えているようで、抱き方は堂に入ったものだ。アスティが笑いながらサラヴィスに乳をやっている。
このところ、アスティはベッドから出られるようになった。そうすれば、寝室で共に食事をせずとも食堂で食べることができるし、双子の入浴もまとめて出来る。また、竜族の祝福にも出かけられるようになった。産褥期間は終わってはいないが、空を行くだけならば大した運動ではない。アレクサとサラヴィスが子供部屋で寝るようになって、カシルは寝室が元の通りふたりだけのものになってやれやれと思っていた。ベッドは広いが、二人分の大きさでしかない。赤子とはいえ、四人で寝るには狭いのだ。
「この子たちの対はやっぱりお互いなんでしょうか」
ある日、双子を入浴させながらアスティは疑問を口にした。せっけんを受け取りながら、カシルもこたえる。
「そうだな。やはりそうなのではないか。双子だしな」
竜族と戦使族は対となって初めて本来の実力を発揮する。しかし眷属の数が多いため、そう簡単に対の者が見つかるとは限らない。そのため、彼らは日々自分の対の者を探すことに集中して生活している。その中で幸運にも対を見つけられた者だけが、月に数度の怪物退治に赴くのである。
「オレが来るまではお前がひとりで戦っていたのか」
サラヴィスの身体を拭きながら、彼は訊ねた。
「はい。でも私がいれば竜に転身できますから、まだよかった方です。私が現身昇神するまでは、みな竜人と戦使の姿のまま戦っていたといいます。負傷者や死者が後を絶たなかったとか」
だからこそ、それぞれの眷属に王が君臨して、彼らは喜びに狂乱した。カシルは自分が天上界に初めて来た時のことを思い出しながら、そんなことがあればあの熱狂ぶりもわかる、とひとりで納得していた。
産褥期が終わり、アスティの体調も本調子に戻った。このところ、彼女は身体を元に戻そうと、庭でひとり剣の稽古をしている。
「オレも付き合おう」
上半身を脱いで、カシルがやってきた。ふたりで剣の稽古など、地上にいた頃以来のことである。ふたりは時間を忘れて稽古に没頭した。
「カレヴィア様、バーバリュース様。ザドキエル様でございます」
見ると、見慣れた顔が来ている。
「来たな」
カシルは身体を拭きながら部屋に戻って行った。アスティもカレヴィアと代わって中に入る。
「やあ。そろそろ訪ねてもいい頃かと思って」
「賭けには誰が勝ったんだ」
「ミカエルの一人勝ちだ」
「ミカエルまでもが賭けに興じたというのか。呆れた連中じゃ」
カレヴィアが酒を出しながらため息をつく。
「すまんが儂は飲めぬ。身体の主が授乳中ゆえ」
「オレもいい」
「香茶にするか」
「ああ」
「オレひとりで飲むのか。なんだか悪いな」
カレヴィアが香茶を淹れるのに四苦八苦しているのを横目で見ながら、ザドキエルは
「産まれた子を見せてくれ」
と言った。
「こっちだ」
カシルは子供部屋に天使を連れて行った。
「へえ、かわいいな。親に似てなかなか美形じゃないか」
「まだそんなのはわからんさ」
「なんて名前にしたんだ」
「アレクサとセゼラヴィントス、サラヴィスだ」
抱いてみるか、と言われ、天使は緊張した面持ちになった。
「オレがか。ガブリエルみたいに子供を扱うわけじゃないからな。落としたらどうする」「地上にいた頃オレもそう思った。誰にでも最初はある」
ほら、と言われ、ザドキエルは恐る恐るアレクサを抱いている。
「二人とも黒髪に黒い目なんだな」
「ああ。地上にいた頃は娘は金髪だったから、もしかしてと思っていたが産まれてみたら二人とも黒だった」
「金髪なのか。お前たち黒髪じゃないか」
「身体の主の母親が金髪なんだ」
「へえ・・・そんなこともあるんだな」
部屋に戻ると、カレヴィアが苦労して淹れた香茶が茶器に入れられていた。
「味は保証せん。儂はこういうことが嫌いじゃ」
やれやれ、とカシルはその香茶を飲んで、そして固まった。
「味はどうじゃ」
「まずい」
「おいおい」
ザドキエルも一口飲んだが、なんともいえない顔になった。カレヴィアは声を上げて笑った。
「身体の主が教えてくれた通りに淹れたんじゃがのう」
「気持ちの問題だろう」
「そうかもしれぬ」
カレヴィアは意に介していない。ザドキエルが帰って行って、カシルはアスティに言った。
「口直しだ。香茶を淹れてくれ」
「はい」
くすくす笑いながら、アスティはこたえた。
「ちゃんと教えたんですけど・・・」
魔法院でも、香茶を淹れる技術を簡単にマスターする者と、そうでない者がいた。ミルワなどはうまくできない部類に入っていたもので、彼女は苦労してその課程を修了したのである。
夜が来て、湯を浴びる時間になった。以前はカシルが先に入浴し、アスティが後から入っていたものだが、今は双子を先に入浴させてからいつものように湯を浴びるようになった。カシルが湯に入っている間に、アスティが寝かしつけるのである。一度アスティが先に入浴したら湯が熱くて閉口したので、それ以来カシルが先に入ることにしている。
双子の夜泣きは一晩で数度に渡った。
赤子のどちらかが泣くと、まずアスティが起きてあやしに行く。そうすると、彼女が起きる気配でカシルも起きて、必ずと言っていいほどアスティの横にいるのだ。
「寝ていらしてください」
「そうはいかん。父親だからな」
そうこうしている内に、双子のもう片方が起きる。そんなことが繰り返された。
百数年ぶりの育児を、ふたりは楽しんでいた。かつては魔法院と王城の往復をしていたが、今はそれすらもしなくていい。人目を憚る必要も、ない。
アレクサとサラヴィスは、アベルとミルワよりはよく眠る赤子であった。地上にいた頃、ふたりは二時間ごとに起こされたものであったが、今は四時間おきに眠れる。
ある日、戦使族に赤子が産まれたというので、カシルが祝福に出かけて行った。
「バーバリュース様、王女と王子はいかがですか」
「子育ては久しぶりだ。忘れていた記憶が戻ってくる。寝られないという記憶がな」
彼は笑いながら言う。
「そうでございましょうとも。こればっかりは竜族も戦使族も変わりはありません」
「どこの家庭も同じだということだ」
途中、街に立ち寄った。母乳で暮らす乳児は鉄分が不足しがちだ、と大図書館の本にはあった。そのため、食事を与える時に鉄分の多いものを食べさせるのがよいという。まだ離乳食を食べる時期ではないので、なにかあるかと思って街に行ったのである。
子供のための店で、掌に収まるほどの鉄の玉が売られていた。湯を沸かす時、これを入れて沸かすと鉄分が水に溶け出るのだという。その鉄の玉を求めて、彼は青竜宮に帰った。
「おかえりなさいませ」
「ふたりはどうしている」
「はい、今日足があるって発見したみたいです」
サラヴィスが手をぶんぶんと振り、それが足にあたり、足をつかんでまじまじと見ていたと話すと、彼は声を上げて笑った。
「そういえば、いつくらいから飛べるようになるんでしょう」
翼はあるが、まだ開いているところを見てはいない。
「今度眷属の者に聞いてみるか」
香茶を飲みながら、カシルは言った。子供を育てたことはあるが、竜と戦使の子供を育てたことはない。誰かに聞くよりほかにないだろう。
「あ、そういえば」
彼は顔を上げた。
「まだ祝福をしていませんね」
「---------」
アスティが双子から目を離してこちらを見ている。
「竜と戦使なら、祝福をしてあげないと」
「---------そうか」
思ってもみないことであった。カシルはアレクサに祝福を施し、サラヴィスの祝福はアスティがした。
「これでよし」
しかし、彼は思った。
「祝福をしないとどうなるんだ」
「乳児の致死率が格段に上がるのです」
「なに」
そのため、ふたりが現身昇神するまで、竜族と戦使族の赤子は三歳までに多量に死亡したらしい。
ある日、大図書館から帰ってくる途中で、彼は拾い物をした。ちょうどよかった、と行き会ったウリエルに押しつけられたのである。
「おかえりなさ・・・」
アスティはカシルをいつものように出迎えて、言葉を切った。
「---------」
「ウリエルが拾ったそうだ」
彼の手の中には仔猫がいた。
「---------また猫ですか」
「動物がいると子供の情緒と性格の安定にいいと説得された」
「・・・それにはまだちょっと早いですね」
「仕方あるまい」
カシルはヴィセを飼っていた頃に持っていた一式を部屋の奥から出してきた。今度の猫は、三毛猫であった。
「名前は何にしましょう」
アスティは心なしか嬉しそうである。彼女は猫にアルという名をつけた。
アルは双子と共に眠り、双子の顔を舐めて過ごした。双子も、アルのひげを引っ張ったり尻尾を掴んだりと抜け目がない。
ふたりはふたりの守護地であるリザレアの様子を見ることも欠かさなかった。侯爵家から王と宮廷魔術師を迎え、リザレアは繁栄しているようである。自分の血筋は王にはしない、と決めたのに、結果としてこうなったことを、カシルは複雑な気持ちで見つめていた。 アスティは何も言わない。子孫は、自分たちの出生のことを知っているのであろうか。 ディヴァの意志と、もう話はしたのだろうか。思いは尽きない。
かつて地上にいた頃、ふたりは日々政務に追われていた。人々を裁き、守り、導くのに、時間はどれだけあっても足りなかった。しかし今天上界にいて、眷属の新しく産まれた赤子に祝福を施したり、たまに起こる他の眷属との小競り合いを仲裁する以外は、到って平和な日常を送っている。本を読み、街や市に行き、食べて、寝て、起きる。求めていた単調な生活をようやく手に入れて、ふたりは満足だった。なにより、誰の目も憚ることなくふたりでいられる。地上にいた頃の良心の痛みや、他人に対する気遣いがいらぬものになって、やっと自由を手に入れたのである。
双子が離乳の時期となって、アスティが厨房で離乳食を作っている。野菜を一種類ずつ茹でて冷やし、凍らせておくのである。食べる直前、それを調理するのだ。彼女はその作業を料理人に任せず、自分たちでやるのをよしとした。カシルはアスティの切った野菜を茹でて冷やし、型に入れて氷室に入れるという作業を繰り返している。
アレクサとサラヴィスに食べさせてから、自分たちの食事をするという生活が続けられた。
「思い出すな」
「そうですね」
食べながら、ふたりは在りし日のことを思い浮かべている。カシルはアスティの横顔を見ながら思った。
国王という立場に邪魔をされて、まだお前を愛しているとも言えなかった暮らしが嘘のようだ。
かつて彼女を失ったあの失意に満ちた日々は、子供を育てそれに忙殺されることで補われた。そうでもしないと、気が紛れなかった。
「どうやらアレクサも左利きです」
アスティは食べながらアレクサを見て言った。娘は左手で何かを掴んでいる。
「双子あるあるなんでしょうか」
「ミルワも左利きだったな」
彼は地上にいた頃の娘を思い出していた。娘はアスティにそっくりだったが、アレクサも似るのであろうか。そうすると、自分とサラヴィスも似るということになる。アベルとオレも似ているとかつて言われたが、あいつの晩年はどうだったのか。
「さてお風呂の時間ですよ」
アスティがアレクサを抱いて立ち上がったので、彼はハッとした。サラヴィスがおもちゃをテーブルに叩きつけている。
「お前もだ。行くぞ」
サラヴィスを抱き上げて、彼は浴室に向かった。湯を溜めている間に、服を脱がせて準備をするのもいつものことだ。地上にいた頃は魔法院で生活していたため、アベルの入浴はカシルの、ミルワの入浴はアスティの担当であった。そのため、ふたりともそれぞれ息子と娘の身体の洗い方を知らない。
「私男の子の身体の洗い方なんてわかりません。王がやってください」
「オレだって娘の身体に触るのは気がひける。お前がやれ」
そんなわけで、天上界での子供の入浴もそれぞれがすることになった。入浴が終われば、身体を拭いてやって乾燥を防ぐために香油を塗って服を着せ、子供部屋に連れて行くことはかつてと変わりない。その間に新たに浴槽に湯を溜めて、アスティが寝かしつけている間にカシルが湯に入るのである。
「お酒にしますか、香茶にしますか」
「今日は暑い。酒がよかろう」
風呂が終われば、ようやくふたりの時間である。地上にいた時のように、ふたりは一日のことを話し合った。それは、結婚してからずっと、ふたりを分けていた十七年間を除いては、毎日続けられていることであった。百余年が過ぎても、それは変わらなかった。
双子が寝ている間、ふたりは本を読んで時を過ごしている。地上が十番目の月、収穫と狩猟の月であると水盤で見て、かつてその季節に何をしていたかを語り合った。
「そんなに謁見がない時期でしたね」
「砂漠も休眠期に入ろうという頃だからな」
そして、当時のあんなことやこんなことを話し、今はもういない人々に思いを巡らす。 ある日、双子のための着替えを片付けていたアスティは、窓の外を見ているカシルに気が付いた。
「---------」
かつて地上で、こんな目をする彼をよく見た。
何かを思い、その思いを馳せ、しかし同時に諦めにも似た感情を映す瞳は、永遠の憧れを秘めているようでもあった。
旅に出たいのだ、当時のアスティは思った。
カシルは放浪の旅を続けてリザレアに辿り着き、そこで王となった。リザレアの美しい土地を見、その人々の素朴な性格と知り合って、リザレアのために働きたいという気持ちが、旅する暮らしを封印した。以来彼は、自分が自分自身でいられるものを棄ててリザレア国王として職務を全うしてきた。
しかし、一方で気ままな旅の暮らしを忘れたわけではなかった。
偵察と称して王城の外へ出かけていき、たまには誰にも知られないように城を抜け出して、彼はひとときの自由を味わった。もとより、一か所に留まれる気性ではないのである。
そして死したのち、なんの因果か神となって天上界に住まう今、彼は自分のしたいことをしたいようにする自由があるはずである。しかし、眷属の統治がある。それを放棄するわけにはいかないのだ。それに、子供も生まれた。旅に出ることなど、無理であろう。
アスティはため息をつくと、彼に気がつかれないようにそっと部屋に入った。
アレクサに食事を食べさせていたアスティが、身を乗り出した。
「どうした」
「・・・歯が生えています」
カシルも娘を見た。前歯の突端が白く光って姿をのぞかせている。
「ちょっと早いんじゃないのか」
「サラヴィスはどうでしょう」
「どれ」
カシルが見てみても、息子に歯は生えていない。
「アベルとミルワのときはどうでしたっけ」
「覚えていない」
アレクサはなにやらご機嫌な様子でアスティが口に運ぶ食事を食べている。
「歯ーがはーえーたー歯ーがはーえーたー」
歌いながら、アスティは最後の一口を娘に食べさせた。
「もうすぐ一歳です」
「早いものだな」
双子を入浴させながら、ふたりはそんなことを言い合った。サラヴィスが、カシルが街で見つけてきたあひるのおもちゃで遊んでいる。それをアレクサが取ろうとして、サラヴィスがアレクサをたたく。
「こーれ」
アスティがいさめる。
「たたかないの」
「おもちゃは二つ買ってきたのになんで取ろうとするんだ」
「ひとのがよく見えるんじゃないでしょうか」
アレクサを抱き上げて拭きながら、アスティはこたえた。
双子は一歳になって、歩くようになった。
「この子たちの方がアベルとミルワの時よりも早いな」
「そうですね」
一時も目が離せない状態が続いた。ふたりは地上にいた時の息子と娘のことを話しながら、在りし日のことを思い出していた。
「そういえば、眷属の者に聞いたんだが」
アスティはカシルを見上げた。
「竜も戦使も、成人するまでは飛べないそうだ」
「---------成人というと、・・・やはり人間と同じで十八歳でしょうか」
「そこまで聞かなかったな。とにかく成人しないと飛べないと言っていた」
「なのに翼があるなんて邪魔じゃないのかしら」
「慣らすためにあるんだろう。オレはついに慣れなかった」
アスティはふふ、と笑った。
「私もです」
だから今も翼はしまったきりのふたりなのである。
「あうー」
「はーい?」
「ぱおー」
「ぞうさんね。こっちよ」
言葉も早いな、カシルはサラヴィスにおもちゃを渡すアスティを見ながら考えていた。 と、足につかまる何かに、彼は気づいた。アレクサである。
「どうした」
「にゃーにゃー」
「猫か。アスティ、猫のおもちゃはどこだ」
「王、おもちゃではありません。アルです」
「なに?」
彼は娘を見下ろした。
「アルで遊ぶのか」
「アレクサの最近のお気に入りです」
「アルは大丈夫なのか」
「産まれた時から一緒にいますからね。へっちゃらみたいです」
仕方なく、カシルはアルを連れて来た。三毛猫は、遊ぶ相手がいて退屈しないようである。アルの尻尾にじゃれつくアレクサを見ながら、彼は、
「いいのか悪いのかわからん」
と呟いた。
「情操教育にはよさそうですね」
「ウリエルの思惑通りか」
アスティがくすくす笑っている。
「カレヴィア様、バーバリュース様、ザドキエル様でございます」
「やあ、賑やかだな」
ザドキエルが散らかった部屋を見ながらやってきた。
「すまんな。今遊ぶ時間で片付かない」
「子供がいるんならそれが当たり前さ」
カレヴィアが酒を出そうと支度している。
「新しい猫がいるってウリエルに聞いたぞ」
「そうだ。押しつけられたんだ」
「あいつもしばらく飼い主探しに奔走してた」
あんたなら大丈夫だろう、とザドキエルは言って酒を一口飲んだ。アレクサとサラヴィスがその足元へ駆け寄る。
「ん? なんだ」
「遊んでほしいのじゃ」
「オレとか? オレは子供とどう遊ぶかなんて知らないぞ」
「それでいいんだ。知らない人間と遊ぶと新鮮だからな」
ザドキエルはかがんでアレクサを抱き上げた。と、サラヴィスが何事か言って両手を彼に差し出している。
「ん?」
「片方を抱くときはもう片方も抱いてやらんと妬くんだ」
「なんだと」
ザドキエルは目を見開いた。彼は尚も腕を差し出すサラヴィスを見下ろして、うーむと唸っていたが、アレクサを左手に抱き替えて、
「よっ」
という掛け声と共にサラヴィスも抱き上げた。
「お・・・重いな」
「双子を持つ親の宿命だ」
きゃはははは、と笑いながら、サラヴィスがばんばんと天使の顔をたたく。
「こら、たたいてはならん」
「カレヴィアは育児に口出ししないんだな」
「儂の子ではないゆえ」
カレヴィアは知らん顔して酒を飲んでいる。双子も、カレヴィアの方は見ようともしない。
「身体の主との区別はついているのか」
「なんとなくはわかっているようだな。声も違うし」
「ふーん・・・」
ザドキエルは、アスティと話したことはない。だから彼女がどんな声なのかも、どんな表情をするかも知らない。なんとなく、身体の主という女に興味が沸いた。地上では、預言を開くに足る知識を持った人間であったのだ。
「どんなひとなんだ、身体の主というのは」
「見た目からはわからないほど激しい女じゃ」
「お前に聞いてるんじゃない、バーバリュースに聞いてるんだ」
「オレか」
彼はちょっと考えた。アスティを表わすのになにが適当な言葉なのか、見当もつかない。「・・・」
カレヴィアは面白そうに口元に笑みを浮かべてこちらを見ている。
「穏やかないい女だ」
ぷっとカレヴィアが吹き出した。彼女からしたら、穏やかな、という言葉は一番遠いものであろう。
「それだけか」
「言わん」
「ちぇーっ」
双子が降りたがったのでふたりを下ろし、ザドキエルは頭の後ろに手を組んでカレヴィアを見る。
「穏やかな、なんて言葉はカレヴィアっぽくないな」
「それでよいのじゃ。儂と身体の主は性格が違うからな」
そうなのか、とザドキエルはカシルを見た。彼は黙ってうなづいた。
「面白いな」
ザドキエルはカレヴィアと天使たちのことを話していたが、
「腰が痛くなった。猫を見に来たのにひどい」
そう言って帰って行った。
「さあふたりとも、お片付けですよ」
アスティが双子に呼び掛けると、アレクサは知らん顔、サラヴィスは振り返る。
「アレクサ、片付けよ」
アスティが散らばったおもちゃを拾いながらアレクサに言うと、娘はおもちゃをあらぬ方へ放り投げる。
「こーら」
アスティは次々と片付けをしていく。サラヴィスがその後をついていく。
「お前はこっちだ」
カシルはサラヴィスを抱き上げた。
「わんわんー」
「犬は終わりだ。食事の時間だからな」
「うー」
「こら、髭を引っ張るな」
食堂に着くと、子供用の椅子に座らせて前掛けをつけてやる。地上の時と同じように、二人いる子供にふたりで食べさせる。家族一緒に食べ始めるのはもう少し後になるだろう。
ある日、双子が昼寝をしている間、ふたりで剣の稽古をした。あまりにも子供にかかりきりで自分の時間などない中、それはささやかな褒美ともいえた。
剣と剣がかみ合い、火花が飛び散る。アスティが押し、カシルが払い、ふたりの動きには無駄な動きが一切なかった。響く剣戟の音に刺激されたのだろうか、アレクサが起き上がって窓からそれを見ている。間もなく、サラヴィスも起きてふたりで並んで父母の戦いを見つめている。と、サラヴィスが泣き始めた。アレクサは一心にふたりの動きを見ていて、それにすら気づかないのか、それとも無視しているのか、構おうともしない。
サラヴィスの泣き声に気づいて、ふたりが手を止めた。
「どうしたのなんで泣いてるの」
アスティが抱き上げても、サラヴィスは泣き止まない。カシルが身体を拭きながら近寄ってきた。
「喧嘩でもしてると思ったのか」
「喧嘩なんかしてないわよ。ほら仲良し」
サラヴィスは泣くのをやめてじっと両親を見た。そしてまた泣き出す。
「うーんなんで泣いてるんでしょう」
「わからん。アレクサは平気なようだ」
アレクサは窓に手を張り付けてこちらを見ている。剣をしまいながら、ふたりは部屋の中に入った。サラヴィスはまだ泣いている。
「どれ、父が抱いてやろう」
カシルがアスティと交代すると、疲れて来たのかようやく泣き止んだ。
「アレクサ、なんでそんなに夢中になってるの」
娘はアスティを見上げた。そしてにっこりと笑って両手を差し出す。
「抱っこ? はいはい」
サラヴィスとは正反対に、アレクサはご機嫌である。
ふたりが戦うのを見て、アレクサは夢中になりサラヴィスは泣き出した。
「面白いな」
「双子とはいえ違う個性ですものね」
地上にいた時は、子供の前で剣の稽古などできなかった。政務に追われていたからだ。 そのため、なぜ今双子がこんな反応をするのかがよくわからない。夜ふたりの時間になって、カシルとアスティはそんな話題で盛り上がった。アベルとミルワ、アレクサとサラヴィス、当たり前だが、同じ双子でもこうも違うものか。
「親は同じなんだがなあ」
「将来どんな子供になるんでしょう」
「アベルの時は剣を持つのが早かった。もっとも魔法院で修行を始めていたから驚かなかったが」
「ミルワは魔法の方が得意だったようです」
「あの娘はお前にそっくりだ」
「あら、アベルの四十代だって王とよく似ていました。よく誰にも気が付かれなかったと思います」
「城にはオレの肖像画がないからな」
じっとして動かないなどということは耐えられん、と呟いて、彼は笑った。建国の、初代の国王の絵姿がないのは少し寂しい気がしたが、彼のこんなところも含め、言い伝えられていることだろう。
水盤でリザレアを映すと、地上は今、十一番目の月、花殺しの月のようである。あの砂漠の切るような、乾燥した寒い空気を思い出して、アスティは懐かしげな顔になった。
「時間ができたらまた砂漠を見に行きたいです」
カシルはその横顔を見た。
彼女は、自分と同じくらいあの砂の地を愛していた。今はとてもではないがそんな時間はないが、子育てが落ち着いたらふたりでひっそりと砂漠を訪ねて行ってもいいだろう。
双子が二歳になったある日、戦使族で争いがあったと聞いてカシルが仲裁に出かけて行った。戦いのみ使い、と呼ばれるだけあって、戦使族は血気盛んな若者が多い。他の眷属と争うことは滅多になかったが、同族間では小競り合いなどしょっちゅうのことであった。
長い間、彼は帰って来なかった。食事の時間が近づいてきて、アスティが先に子供たちに食べさせてしまおうかな、と思っていたところへ、カシルが帰ってきた。
「間に合ったか」
「そんなお気づかいはなさらなくてもよかったですのに」
「そうはいかん」
食べながら、彼は眷属の者たちが何で争ったのか話し始めた。
「どこにでもある話だ」
戦使族の美しいことで知られる娘が、ある若者と恋に落ちた。ところが、その娘に横恋慕した若者が別にいて、このふたりに大変な嫉妬をした。そして、恋敵の悪い噂を流したのだという。
「ところが娘のほうが黙っていなかった」
娘は、これを聞いて激怒した。包丁を持ってその男のところへ乗り込んだのである。
「---------」
アスティはぽかんと口を開けた。
「激しい娘さんですね」
「その男の親も飛んできて娘を止めようとしたが、手がつけられなくてオレが呼ばれた」
しかし、眷属の王たる彼が来ても、娘は引き下がろうとしなかった。三人がかりで包丁を取り上げ、娘の気を静め、事情を聞いて、それは男の方が悪い、と厳重注意に到った。「まるで玉座の間で裁判をしているようだった」
と酒を飲みながら言う彼は、地上にいた頃の気苦労を思い出しているのか、疲れているようにも見えた。死して尚、このような面倒事に悩まされるとは、どういうことなのだろうとアスティは思った。
「竜族はそういう争いはないな」
「そうですね・・・おとなしい、とまではいきませんが、穏やかな者たちが多いです」
竜族は竜王が地水火風を司るのに従って四つの部族に分かれている。さらに各氏族が複数の部族に分けられ、無数の氏族が存在する。それが億いるのだ。
「小競り合いがあっても自分たちでなんとかしてしまいます」
「そうであってほしいものだ」
彼がふと傍らのサラヴィスを見やると、息子はアレクサとなにか片言で話している。ふたりは夢中で話し合っているが、それが何と言っているかまでは、明瞭にはわからない。「大図書館の本にあった。双子は自分たちだけの言葉でふたりの世界で話すと」
「だとしたらなにを話しているんでしょう」
アスティはアレクサを見た。娘はやはり、なにかでたらめな言葉でサラヴィスと話している。
「だから言葉も遅いんだそうだ」
「アベルとミルワのときは今頃はふつうに喋ってましたけどね」
双子はこのところ風呂遊びがお気に入りだ。それは、地上にいた時の子供たちと変わらない。放っておくと二時間でも三時間でも遊び続けるのだ。
「お前たち、父が風呂に入れないではないか。終わりだ」
カシルが双子を抱き上げてアスティを呼んだ。
「はーい。あら、ご機嫌ね」
アレクサの身体を拭いていると、きゃははは、と笑う。生前と同じく、寝る前の本を読むのはアスティの担当だ。カシルは湯に浸かりながら、双子に読み聞かせをしているアスティの声を聞いていた。
むかしむかし、あるところにきつねがいました。きつねは、そのひ、おんがくかいをひらくよていでしたので、とてもはりきっていました。おんがくかいには、もりじゅうのどうぶつたちがやってきます。と、きつねはきがつきました。がっきがひとつたりないのです。きつねはあわててがっきをさがしました。でも、さがしてもさがしても、がっきはでてきません。どうしましょう。もうすぐおんがくかいがはじまります。きつねはどうしたらいいのかわからなくなって、そのばにすわりこんでしまいました。そこへやってきたのが、しかのおばさんでした。きつねさん、どうしたの。
と、本を読む声が止まった。双子が寝たのであろう。地上にいた時のことを思い出しながら、彼は湯から上がって身体を拭いた。出て行くと、真っ暗な子供部屋からアスティが出てくるところであった。
「寝たか」
「はい。寝たと思って起き上がると途端に目を覚ましてしまうので油断できません」
カシルは声を上げて笑った。
アスティが出した酒を飲みながら、彼は庭に目をやった。彼女が浴室から戻ってくると、「地上ではそろそろ年末だな」
「決算の時期ですね」
ミルワは産まれた息子に、兄の名をつけた。それが王となった。アベルⅡ世というわけだ。どんな国王なのだろう、そのアベルは、ミルワに似たのだろうか、それとも同じ名を持つ伯父に似たのだろうか。水盤で見てみても、どちらに似ているかはわからない。
「寒かろうな」
「もうすぐ魚氷の月です。雪も降ります」
天上界では、雪は滅多に降らない。
「子供たちに雪を見せてやりたいものだ」
「もう少ししたらレズンド辺りまで連れて行きましょうか。人間のふりをして厚着をすれば翼は隠れます」
自分たちのことを知っている者たちは、今はもう地上にはいない。だから、人目を憚る必要はない。
「それはいい。なるべく多くのことを経験させてやりたい」
大した変化という変化のない天上界では、刺激も少ない。アレクサとサラヴィスに翼がなければ、地上に連れて行って遊ばせてやりたいものであった。
「その内アベルとミルワみたいに木刀で遊び始めるんじゃないでしょうか」
「多いに有り得る。あのふたりのときは大変だった」
ふたりで木刀で打ち合って、そのあまりの激しさに危険を感じた父が止めようとした時、木刀がその向う脛を思い切り直撃したところを、アスティは水盤に映して見ている。
「痛そうでしたね」
「痛かった。目から火が出るかと思った」
ふたりは笑い合った。
「地上にいた頃は魔法院の保育所がありましたが、天上界にもそういうところってあるんでしょうか」
「天使たちに聞いてみるか」
「社会性を身に着けるには、やはり同じ歳の他の子供たちと一緒にいるほうがいいと思います」
地上で年が明けて、魚氷の月となった。アスティは双子にあるだけの服を着せ、翼を隠してカシルと共に地上の北の王国へ降り立った。
初めて見る雪に、子供たちは興奮を隠せず、雪だらけになって一日遊んだ。日が落ちて、寒さがいよいよ厳しくなってきても、自分たちで作った雪山から下りてこようとしなかった。
「ほら帰るわよ」
「やーん」
「風邪ひいちゃう」
「待てよ、竜と戦使は病気などしないと聞いたが子供はどうなんだ」
「そういえばどうなんでしょう。免疫とか」
「今度眷属の者たちに聞いてみるとするか」
「もっとあそぶー」
「また今度」
帰りたくなくて暴れる双子を無理矢理抱えて、ふたりは青竜宮に戻った。
「ほらこんなに冷たいお手てして。お風呂に入りましょうねー」
アスティが浴室に湯を溜めに行った。カシルは双子の服を脱がせながら、ふたりが興奮して今日の冒険のことを話すのに任せている。
「えとねーえとねーまんまるにしたの」
「まんまるなげたの」
「雪合戦か。それはいい。しかし今は風呂だ」
「やーん」
「嫌ではない」
大分重くなってきた双子を両腕に抱えて浴室に向かうと、アスティが手を広げて待っている。
「アレクサ手が冷たい。しもやけになっちゃわよ」
「しもやけー」
「サラヴィスも鼻が真っ赤だ」
「まっかー」
双子の風呂が終わると、食事の時間である。アレクサとサラヴィスは雪山で遊んだことがよほど楽しかったのか、食べながらまだそのことを話している。たどたどしくも夢中になって話す様は、なんともいえず微笑ましいものであった。
天使たちに聞いたところ、天上界にもあらゆる眷属の子供たちが集まって社会性を学ぶ場所があるという。人間に竜に戦使に、医族からはてはカゲロウ族まで、色々な能力を持つ子供が一同に会するというのである。
「そこに通わせましょうか」
「そうだな。他の眷属のことを知るいい機会だ」
アレクサとサラヴィスが三歳になる頃を見計らって、ふたりは天上界の保育所とも呼べるその施設に双子を通わせることになった。子供たちの面倒を見るのは、ガブリエル以下天使の面々である。
「そんなこともするんだな」
カシルがガブリエルに感心したように言うと、稲穂を思わせる金の髪を揺らめかしてガブリエルはこたえた。
「子供はオレの担当さ。小さい子ならオレに任せてくれ」
「それは頼もしいな」
アベルとミルワが魔法院の保育所に通っていった日のことを思い出しながら、彼は青竜宮に帰った。
育児をしていた間は自分の時間など無いに等しかったが、これで日中の時間は手が空いた。本を読んだり古代語の勉強をしたり、或いは眷属の者の祝福に出かけたりして、ふたりは日々を過ごした。
時はゆっくりと移っていった。