プロローグ
悠久の時を越えて
カシルは水盤に映るリザレアの人々の暮らしを見ていた。
彼が地上を去って、八十年が過ぎようとしていた。アスティとの間にもうけた子供たちは冥界に行き、侯爵家は彼の娘の娘が継ぎ、王家は彼の娘の息子を王に迎えた。血というものは争えないのか、と苦々しく思った出来事であった。黒猫は天寿を全うして十八歳で亡くなり、庭の隅に埋められている。
またふたりだけの生活がやってきていた。
「またどこかで猫をもらってくるか」
ヴィセを埋めた時、彼はアスティにそう聞いた。彼女の悲しげな横顔を見て、思わず出た言葉であった。
「・・・いえ・・・どうせ先に死んでしまいますから」
また同じ思いをするのは嫌です、と彼女は弱く笑った。
神として永遠の命を持ち天上界に生きる以上、地上にいた見知った人々の死を見ることは、宿命でもあった。しかしいざその時になると、なんともいえない複雑な悲しみと諦めが襲ってくる。
特に娘が亡くなったときの、アスティの隠そうとしても隠しきれない嘆きようは、傍で見ていても辛かった。アスティはなんでもないように振る舞っていたが、彼女が夜そっと起きだして水盤から侯爵家の墓地を映して見ていることは、カシルも知っていた。知っていて、気がつかないふりをしなければならなかった。息子が逝った時も、アスティは瞳をじっと閉じ、迫りくる衝撃に耐えているようであった。
---------オレはあの子たちを育てたから、何の悔いもない。
彼は思った。
しかし子供たちが幼い頃地上を去ったアスティは、充分子育てをしたという経験がない。 心残りがあるまま逝ってしまったのだ。
しばらくの間、アスティは寂しげに噴水の前でぼうっとしていることが多かった。
地上では、侯爵家から王家の宮廷魔術師を輩出するという動きがあるようだ。それもよかろう、彼は思った。侯爵家はアスティを嫡流とする家である。自分とアスティの子孫が、王家と深い関わりを持って行くのは悪いことではない。あれから預言者がふたり代わり、かつて少年であった預言者は今の預言者のなかに今でも生きている。彼の言葉を信じて後を任せた以上は、侯爵家は王家と共に在り、いつまでも安泰だろう。
そんなことに思いを巡らせていた、ある日のことである。
新しい香茶を淹れようと立ち上がったアスティが、ゆらりとふらついた。
「・・・」
彼女はテーブルの隅につかまって倒れまいとした。
「どうした」
カシルは立ち上がり、側へ寄った。アスティを見ると、いつもより顔色がよくないように思われる。
「大丈夫か」
「ちょっと立ちくらみです」
急に動いたからですね、となんでもないように香茶を淹れるアスティを、彼はじっと見た。その後も観察していたが、特に不調というわけではないようだったので、彼はそのことは忘れてしまった。
その日、戦使族の新しい赤子の祝福に出かけて帰ってきたカシルは、いつものようにアスティに迎えられて部屋へ向かった。
「香茶を淹れますね」
と、茶器を出そうとした彼女の身体が、ぐらりと傾いだ。
「!」
彼は反射的に手を伸ばしてそれを支えた。
「---------」
支えたその身体が、いつもよりも微かに熱くなっているのが感じられた。熱でもあるのか、思った彼は、
「横になったほうがいい」
「これくらい大丈夫です」
アスティは彼の手からするりと抜け出して茶器に手を伸ばし、そしてまたゆら、と揺れた。
「・・・」
カシルはたまりかねたように言った。
「もう我慢できん」
「---------王?」
ひょい、とアスティを抱き上げると、そのまま寝室に連れて行く。
「ルエ! 医者を呼べ」
大声を張り上げた。
戦使族にも竜族にも、医者、というものはいない。どちらの眷属も、病気とは無縁だからである。竜族は怪物どもと戦った折りに負傷するが、大抵は自分たちで互いに手当てをして凌いでいる。そこで、医族という眷属が呼ばれることになった。
医族とは文字の通り医療を生業とする眷属である。天上界には人間も含め多くの眷属が住まう。それらの者たちを治療するのは医族の仕事なのである。
「大袈裟です。医族を呼ぶなんて」
「お前は黙っていろ」
アスティはベッドの上で起き上がっている。間もなく、医族の長という者が青竜宮を訪れた。神格を持つ星天竜を診るというのであれば、長ならばまずもって間違いがないだろうという目論見であろう。
背の低い、しわしわの顔の長は、地上にいた頃の長老たちを彷彿とさせた。
長は、しばらくアスティにいくらかの質問をしたあと、脈をとったり額に手をあてて熱を測ったりしていた。こればかりはカレヴィアと入れ替わるわけにはいかないので、アスティはおとなしく長の問診にこたえた。長は低い声で何事か彼女に告げていたようだ。 カシルは離れたところにいたので、それは聞き取れなかった。
間もなく診察が終わって、入り口まで長を送った彼は訊ねた。
「---------どうですかな、妻の具合は」
長は彼を見上げた。カシルは背の高いほうであったから、ふたりの身長差は大人と子供ほどもあった。
「バーバリュース様・・・」
長の、なにものにも怯まない瞳が彼をひたと見据えた。
「ご懐妊でございますな」
「---------」
なにを言われたのか、わからなかった。
「・・・」
「人間の子供は九か月で産まれるのでしたな。念のため私が担当することにしましょう。 来月検診に伺います。では」
帰っていく長の背中を茫然と見送りながら、彼は言われたことを頭の中で反芻していた。 放心したまま、寝室に向かう。
アスティはベッドの上で彼を待っていた。
「聞きましたか」
彼女は、まるで風邪ですねと言われたみたいに平気な顔をしていた。
「・・・ああ」
彼はまだ、真実味をもって報せを迎えられない。
「そういえば最後の月のものがきたのは・・・」
アスティは指を折って日にちを数えている。それを見て、彼はようやくこれは現実なのだと感じることが出来た。
「最後に卵を産んだのは、ずっと前のことでしたね」
「---------」
それは、まだ地上に子供たちがいた頃。アスティはもう子供は地上にいると言って卵を産むことを選択した。そして今の彼女の言葉を聞いて、カシルはまた卵を産むつもりなのか、と思った。
「次はどんな卵なんでしょう」
彼はなにか言おうと口を開けた。が、言葉がうまく見つからない。カシルが言葉に詰まったのに気づいて、アスティは顔を上げた。
「---------王?」
「オレは---------」
彼はやっとのことで言った。
「オレは産んでほしい」
「---------」
アスティは驚いて彼を見た。
「地上に、もう子供たちはいない。ミルワの子供たちはいる。が、オレたちの子供ではない。ヴィセはいなくなってしまった。天上界にオレたちの子供がいても、いいと思う」
「・・・」
アスティは真顔になってその言葉を聞いていた。
「アベルとミルワが産まれる時、ふたりを妊娠中、どちらのときもオレは側にいなかった。 いてやれなかった。知らなかったからだ。しかし今は違う」
「王・・・」
「天上界で生まれたのなら、寿命を迎えなくてすむ。もうあんな思いはしなくてもいい」 カシルはアスティの瞳をじっと見た。
「しかし産むのはお前だ。お前の選択を、オレは尊重する」
「---------」
アスティはうつむいて言われたことを考えていた。
かつて、地上にいた頃。
自分は、二年しか子供たちといられなかった。
たったの二年だ。成長したミルワと時々話すだけで、子育ては父親であるカシルがしたのだ。水盤で逐一その様子を見ていたとはいえ体温を感じられる距離ではなかったため、その寂しさは今でもよく覚えている。
死んで天上界に住まい、なんの因果かまた妊娠した。これは、どういうことなのか。
彼女は顔を上げた。
「---------そこまで仰るのでしたら・・・」
アスティは続けた。
「産むのもいいかもしれません」
地上にいた頃の妊娠中のことは、よく覚えていない。失意のうちに死のうと思っていたからだ。病室の天井と窓の外をいつも見つめていた。今度は、そんな思いはせずにすむだろう。
「でも、《アスティ》がなんと言うでしょう」
「異議は言わせん。元々お前の身体だ」
《アスティ》が彼の暴論に腹立たし気になにか呟くのが感じられたが、それはとても小さく、アスティには聞こえなかった。
星天竜の身体の持ち主が妊娠した、今度は卵ではないらしい、という噂は、天上界をあっという間に駆け巡った。
天使たちに言われたのであろう、ザドキエルが見舞いと称して様子を見にやって来た。「やあ、おめでとうと言うべきかな」
彼は花束を持っていた。
「これお見舞いだ。天使たちから」
「すまんな」
カシルは花を受け取ってカレヴィアに渡した。
「ふん、儂は花なんぞ活けん。あとでやってもらえ」
「カレヴィア、お前はどうするんだ。その、身体の主とは」
「元はと言えば儂の身体ではない。間借りしている者がとやかく言うことはできん」
「竜族の統治はどうするんだ」
「竜の巣に行かねばならない用事がある時は儂が行く。こ奴と共にな」
カレヴィアは指でカシルを示して見せた。
「付き添いなどよいと言うのについてくるのじゃ」
「当たり前だ。どんな輩と出会うかわからん。オレの時は刺された。またそんな奴がいないとも限らない」
「産むときはどうするんだい」
「身体の主が産む。儂はそんなことはせん」
「ふーん・・・」
ザドキエルは腕を組んだ。
「怪物たちの退治はどうする。身重なのに戦ったりしたら危険だろう」
「カレヴィアが存在する、というだけで竜人は転身できる。カレヴィアがいなくとも戦うことは出来る」
「しかし楽しみだな。産まれるのは竜か戦使か、どっちだろうな」
実は天使たちはもうそのことで賭けに興じている---------とは言えなかった。
「さあな。儂らは竜と戦使である前に人間じゃ。ただの人間が産まれるということもある」
「そうか、そういうこともあるのか」
これは帰ってみんなともう一度話し合わないと、賭けは大番狂わせになるぞ、とザドキエルは思った。
「とにかく大事にしろよ」
そう言ってザドキエルは帰っていった。
もらった花を活けるアスティの背中を、カシルは見つめていた。妊娠初期であるため、まだ身体に変化は見られない。
「お前、つわりはあったか」
「え?」
アスティが振り向いた。
「アベルとミルワのときはどうだった」
「そうですね・・・」
花瓶を持ち上げて、彼女は考える。
「---------特になかったです。なにしろ、食べなかったので」
「そうか・・・そうだな」
彼は当時のことを思い出した。あの日、連れられてやってきた病室で、彼女は弱り、痩せ細っていた。子供ができた、という驚きよりも、そちらの衝撃のほうが強かったのを覚えている。アスティの名前のアルヴァとは古代語で太陽のことだが、彼女は名の通りいつも太陽のように輝いていた。その変わりように、当時彼はアスティの絶望を思った。
今彼女を見ると、花を活けた花瓶を窓際に置いている。その姿に、一点の曇りも見られない。
今度こそは良い思い出になるといい。
そしてあの失意の日々の記憶を塗り替えてくれれば、と彼は願った。
しかし、そう容易いことにはならなかったのである。




