(4)娘
今日は休日。授業もバイトもない日で、寮の部屋でたまった家事でも片づけようかと思ってたところに、ケータイに着信。
もしも知らない番号からの着信なら、私は電話を取らなかったと思う。
だけど、番号が、ママの電話番号だったから。私は何のためらいもなく電話を受けた。
そして相手がママではなく。まさかの弁護士で。
「お母様のことで話したいことが」なんて言われて。これはきっといわゆる事件とか詐欺とかだと、疑ったのだけど。
電話越しに聞くその人の声がとても心地よくて。私は会ってみたいと思ってしまった。
そして、今である。
◆
大学の女子寮は男性立入禁止。家族以外は訪問も禁止。
ここに引っ越してきたとき。部屋に荷物を運び入れてくれる運送業者さんのことまで、いちいち寮母さんに申請して許可を取らなくちゃいけないのに驚いた。
それをあらかじめ、知っていたのだろう。ママから話を聞いていたのかも。だから、寮の外で会うことを提案された。指定された場所に行ってみれば、なんだか高そうな喫茶店。
「白井さんのお連れ様ですね。ご案内いたします」
店員さんに案内され、向かったのは店の奥の個室。
そこで待っていたのは、スーツ姿の男性だった。椅子に座ってても、背が高いのがわかる。メガネをかけていて、やたらと賢そう。だけど冷たい印象はない。こちらに向けられた視線は、むしろやさしい。
「青木舞生です」
私はぺこりと会釈して、名乗る。
「白井です。ご足労いただきありがとうございます。……と、その前に注文を」
直接聞いても、良い声、だ。私は少し緊張しながら、彼の前の席に座る。
店員さんがメニューを出してくれたので、目を通す。スペシャルパフェにものすごく心惹かれたけど、ここは無難にお茶にしておこう。
「アイスレモンティーで」
「かしこまりました。すぐお持ちします」
店員さんがいなくなり、私は改めて彼と向かい合う。
「ママ……、ええと、青木瓔子のことで、お話って」
◆
白井さんが私に名刺を渡す。名前、肩書。電話で聞いた通りだ。
こういうのって、すぐにしまっちゃだめなんだっけ。学校のビジネス講習で聞いた知識を思い出し、名刺をテーブルに置いて眺める。
私の注文したレモンティーは、店員さんが本当にすぐ持ってきてくれた。
ありがとうございますとお礼を言って、そうして個室にはふたりきり。
白井さんの前にはホットのカップ。黒い液体はきっとコーヒー。
「では、お話させていただきますね。お母様からの伝言です」
そして、白井さんは、ママの壮大な計画を、私に伝えた。
◆
概要は、こうである。
ママは三億、私にくれるらしい。私だけじゃなく、パパと、青木のじーちゃんばーちゃん、それから佐藤のばーちゃんに。それぞれ三億ずつ。
金をやるから、ママのことは忘れろ。だけど元気でいるふりを、他の人にはしろ。
ママはどこかで元気に生きてる。皆も元気に暮らせ。
そんな感じ。
白井さんは話し終えて、私に言う。
「舞生さんは、あまり驚かないんですね」
誰と比べて、なのかな。白井さんはもう、他の皆には説明し終えてたんだろうか。
私はレモンティーをひとくち飲んで、それから白井さんに返事をする。
「ママなら言いそうなことかなって。株もしてるの知ってたし。なんのゲームしてんのって聞いたら、ほんとの株って教えてくれてたから。よくわかんないけど、焦がすなよーって言ったら、それは大丈夫って。そんな儲けてるの知らなかったけど。そっか、儲けてたんだ、すっご」
最初のうちは、ちゃんと敬語で話さなきゃ、って思ってたけど。自分の今の気持ちをそのまま伝えるのには、そういうのはないほうがいい気がした。
タメ口で話しても、白井さんは怒ったりしなさそう、とも思ったし。
そしてその予想は正しかった。
私の話を、白井さんはやさしい表情のまま聞いてくれている。
年齢的には成人してるけど、私は自分がまだ大人ではないと思っている。大人っていうのはもっとちゃんとしている。私はまだぜんぜん、ちゃんとしていないから、大人ではない。
だから、甘えがまだ許される。それがいつまでか見極めた日からが、きっと大人。
「三億はどうやってもらえるの? 銀行振込? 現金?」
「舞生さんの希望する方法で。現金がよければそれで手配します、が。手元に三億あるのは、不安かと思いますので、おすすめできません」
「だよね。うっかり盗まれて終わりとか、間抜けすぎるもんね」
「そういう手続きも、皆さんの意見がまとまり次第、こちらで滞りなくさせていただきます」
私は白井さんの話にいったんうなずいて、それから、ふと思いついたことを尋ねてみる。
「白井さんって、ママの恋人だったりする?」
「瓔子さんとはそういう関係ではないですね」
私の突然の質問に、白井さんは顔色ひとつ変えない。これはきっと、本当のことだろう。
私は大人ではないけど、ちゃんと女の勘みたいなのは働くのだ。
「だよね、白井さん。ママの趣味じゃない」
白井さんはきっちりしすぎている。ママはもっと油断しているような人を好きになることが多かった。俳優でもタレントでも歌手でも。
私は白井さんの見た目も声も好みだけど。白井さんからしてみたら、私は依頼主の関係者なわけだから。きっとそういう甘い感情は一切ないんだろうなあ。
まあ、私のことはさておき。
ママに関して言えば、パパのことはどこが好きだかわからなかった。パパの面倒を見るうちに、離れるのもめんどくさくなって、一緒にいるようになったのかもしれない。
その結果が私なので、ママにとっては、私はめんどくさいものの延長みたいな。おまけみたいな。そんな感じだったのかな。
やりたいことはやらせてくれたし、やりたくないことはやらなくていいよって味方になってくれたから。
私にとってはママはとても良いママだったよね。
今度のこれだって。私が嫌だと言えば、ママは帰ってくるのだ。
それからごくふつうにパパと別れて。私にはどうしたい? って聞いてくるのだろう。
一応年齢的には成人してるしなあ。名字だってどっちでもいいし。
この先ずっとママには会えないのか、と思うと寂しいけど。それがママの気持ちなら、叶えてあげたいよね。
今の大学への進学、それからひとり暮らし。寮とはいえ、お金はたくさんかかる。勉強したいならお金のことは心配しなくていいよ、がママの意見。パパの意見は……、そういえば聞いたことなかったけど、たぶんママと一緒だろう。
私もいろいろ調べて、奨学金とか使ったら、あんまり親に迷惑かけることもなく、将来自分で借りた分は返せそうとか、考えてたのにな。
三億あったら勉強し放題。っていうか、将来ちゃんとした会社に入るために勉強してるんなら、もう勉強しなくてよくない? だってちゃんとした会社に入らなくたって、三億あったら、働かなくても生きられそう。
それでいいのかな。ママ、私、ダメ人間になっちゃわないかな。
正しく三億使える大人になるためにも、勉強しといたほうがいいのかもしれないな。
「イイよ、私は別に。ママがそうしたいなら。三億ありがたくいただいて。人生を豊かに暮らすよ」
「ありがとうございます」
「こちらこそありがとうございます。ママのわがままに付き合ってもらって」
「いえ、仕事ですから」
そっか、仕事なら。この先も私はこの人に関わることができるんだ。
ひらめいた私は白井さんに問う。
「白井さん、もし私がこの先困ったら。白井さんに相談するのはアリ?」
「はい。私の勤める事務所には有能なスタッフがおりますので。そちらを紹介させていただきます」
「白井さんを雇うのはムリ?」
さらりとかわそうとした白井さんに、私はなおも尋ねてみる。
「私でないといけない要件なら。ただし報酬が嵩みますが」
報酬、と言われて。私は即座に言葉を投げる。
「三億あげるから」
「舞生さん、それは」
白井さんの表情に、うっすらと戸惑いが浮かんだ。私はそれを見て、勝った、と思う。いや、何と勝負していたのかもよくわからないけど。
「……って、冗談。そんなことしてもママは喜ばないもんね。三億はきっちり私が私のために使う」
「そうしていただけると助かります」
白井さんは安堵したように息をつき、コーヒーカップを手に取った。ごく、と、のどぼとけが動く様子を見てしまい、無駄にドキドキする。
それをごまかすために、白井さんがカップを皿に戻したところで、尋ねてみた。
「皆の答えって、そろったの?」
「そうですね。皆さんに、ご返答いただきました」
「やっぱ私が最後だったんだ」
「はい。瓔子さんからの意見で。舞生さんが一番手強いかも、と、おっしゃってましたので」
白井さんの言葉に、私は思わず笑ってしまう。
「そっか。ママが一番警戒してたのは、私かあ」
「私も一番緊張しました」
「ええ、本当?」
「本当です」
白井さんの目が、メガネ越しに細くなる。
この人は三億出しても手に入らない。けど、似たようなタイプの人なら、この先出会う機会もありそうだ。
私はそのとき思いっきりがんばれるように、ちゃんと大人になりたいと思った。
◆
ママは消えちゃって、どうするんだろう。しばらく旅行かな? 六泊七日の数字がずーっと増えてく感じ。
どこかで偶然会ったりしないよね。私たちのことは監視できても、ママのこれまでの人生で関わった人全員を見張るわけにはいかないから。どっかでニアミスしたりするんじゃない?
ばれないように整形したりすんのかな。ま、わかんないか。髪型とか服装とか違ってたらぜんぜん。私も気づく自信ない。
頭の中でママの顔を思い浮かべる。あ、やばい。もうすでにちょっとぼやけてる。
「ママってどんな顔だったっけ」
こんなことなら写真とか、撮っておけばよかったなって思うのは。感傷的すぎるかな。
しんみりしかけた私に、白井さんが言う。
「舞生さん、似てますよ。瓔子さんに」
「そっか」
私はなんだか恥ずかしくなって、残ったレモンティーをストローですすり上げる。氷がとけて、薄くなって、混ざり切れずに沈殿していたシロップの味。
三億手に入れたって、私はこうやってグラスの底のひとしずくまで飲み干すのをきっとやめない。