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(3)実母

 薄曇りの空が、カーテンの隙間から見えていました。今日の天気予報は何だったかと考えかけて、ああ、今はそういう時間ではない、と頭を少し振りました。

 そうして視線を、年中居間に出しっぱなしのこたつの上に戻します。そこにはお金の入った封筒が置かれています。

 ひとり暮らしの我が家を訪れた人は、私の斜め前にきちんと正座しています。すてきなスーツを着た、背の高い男性です。

 弁護士の白井しらいさん。まるでテレビドラマの弁護士役の俳優が、目の前に現れたかと思いました。

 彼の話を聞けば聞くほど、今の時間が本当なのか嘘なのか。彼の存在が本当なのか嘘なのか。何もかもがわからなくなりそうでした。

 だけどお金は確かに本物でしたから。

 やはり今の時間は現実なのでしょう。


 突然娘に三億あげると言われて、喜ばない親がいるでしょうか。

 突然娘に、だから自分のことは忘れてと言われて、悲しまない親がいるでしょうか。


 私が混乱しているのは、ごく当たり前のことだと思うのです。

 そして少し落ち着けば、すべてが、あの子らしいな、とも思うのです。


「私は瓔子ようこが選んだことなら、それでいいと思います。もともと、離れて暮らしていますし。どこかであの子が元気にしているなら、それでいいです」


「ありがとうございます。では、小由里さゆりさんには同意いただけたということでよろしいですね?」


「はい」


 白井さんに下の名前を呼ばれ、私は年甲斐もなくくすぐったい気持ちになりました。はにかんでしまったのを隠したくて、慌ててうなずきます。


 他の皆がどう答えるかはわかりませんが。私の返事は変わることはないでしょう。

 白井さんに顔を向けたところで、ふと、疑問がわきました。


「瓔子は、好きな人でもできたんでしょうか?」


「いえ、そういうことは、私は伺ってません」


 私の問いに、白井さんは真面目に答えてくれました。

 娘の恋愛事情を、私はほとんど知りません。瓔子がこの人と結婚する、と、爽史たかしさんを連れてきたときも、突然でしたし。

 私はそのとき、瓔子に恋人がいたことすら知りませんでした。

 あの子は自分の気持ちを隠すのがとても上手な子でしたから。

 そして、私が瓔子の気持ちを探るのが下手だったのもあるでしょう。


 瓔子が青木あおき家に嫁いで、もう二十数年になります。いつの間にか、瓔子は私と一緒にこの家で、佐藤瓔子さとうようことして暮らしていた時間より、青木瓔子あおきようことして生きた時間のほうが長くなっているのです。

 あの子の気持ちなど、ますます、わからなくても当然でしょう。

 でも、今回のことは、私はなぜだかとても、腑に落ちたのでした。


「三億あげる……、この、三億という金額を決めたのは、白井さん? それとも瓔子?」


「私も相談は受けましたが、最終的に決定したのは瓔子さんです」


「あの子、自分にそれだけの価値があると思ってたんですね」


 三億が果たして人ひとりの価値として正しい金額かどうかはわかりません。金銭感覚は人それぞれ、実際にもっと稼いでいるような人は、三億ぽっちでは、なんて思うかもしれませんけど。

 長いこと時給いくらの生活をしている私からしてみれば、瓔子はなかなか自分の価値を高く評価したな、と思えるのです。

 私は妙に誇らしい気分でした。

 百万では安すぎる。

 一千万でも足りない。

 じゃあ一億、それでもまだ、だったら三億。

 三億なら、自分がいなくなっても、自分の家族は今と変わらない生活をしてくれるだろう、と。きっと瓔子は計算したのでしょう。


「爽史さんや舞生まいちゃんとは。この先会ってもいいんでしょう?」


「はい。それは皆さんご自由に」


「よかった」


 私は白井さんの答えに安堵しました。

 瓔子は忘れたい存在かもしれませんが、爽史さんも舞生ちゃんも、私にとっては大事な息子と孫ですから。

 本当にときどきでもいいから、会ってくれるといいのですが。お互い三億ずつもらった後では、ごちそうもおこづかいも、ふたりを呼び寄せるエサにはならないかもしれません。

 ああ、でも。こうして瓔子の作った秘密が、ふたりを引き寄せてくれるかもしれません。


「瓔子が消えたことを知っているのは、二親等まで、ですか。ということは、佐藤の親族で瓔子の現状を知るのは私だけになりますね」


「瓔子さんは、個人的に交流のある親戚もいないから、大丈夫だろうとおっしゃってましたが、いかがでしょう?」


「そうですね。大丈夫だと思います。他の親戚が瓔子に直接連絡を取ることはないでしょうし。何かあれば必ず私を通して、になりますから。何とでもごまかせます」


 こちらの親戚が瓔子に用があるのなんて、冠婚葬祭のときぐらいでしょう。顔を出せない理由は「距離」それから「仕事」、このふたつがあれば十分です。


「私もきちんと遺言状を用意しておかないといけませんね。私が死んだせいで、瓔子に迷惑をかけないように。謎の大金があるせいで、ほかの人たちにあれこれ詮索されるのは嫌ですから。……そうだ、白井さん、お手伝いしてくださる?」


「承知しました。そのときはお声がけください。当事務所の信頼のおけるスタッフが対応させていただきます」


「ありがとう」


 瓔子が青木家に嫁いだ時点で、私もあの子に一生頼れないことは覚悟していました。私は私なりに、将来のことを考えて貯えたり用意したりしていたつもりです。それも三億もらってしまえば、また考え直さないといけません。


 結局あの子は究極に、めんどくさがりなのかもしれません。この先の未来、誰かに関わればその最期まで一緒にいることになります。瓔子はそれが怖いから、逃げることにしたのでしょう。

 私が夫を……、瓔子にとっては父親を、亡くしたときのことが、瓔子には大きな傷になっているのでしょう。

 つらいことだって、全部乗り越えて、学んで、吸収して、成長して、それでちゃんとした大人になって……、なんて、そういうこと自体が、瓔子には重荷に感じられるようになったのかもしれません。

 どうなるかなんて、わからないのに。そのときがくれば、どうにだって、なるものなのに。


 瓔子にとっては自由を手に入れることは。皆に三億ずつ配っても安いもの、そう判断したんでしょうね。


 私は再びカーテンの隙間の空に視線をやりました。つられるように、白井さんも一緒に、窓の外を見上げました。


「降りそうな色の空ですね。大丈夫かしら」


 私がため息をつけば、白井さんは答えます。


「いえ、晴れてきましたよ。あちらの方、ほら」


 白井さんに促され、少し体を傾けてみれば、ああ、本当に。

 雲の切れ間から明るい光が差しているのが見えました。


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