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(2)義両親

 眞弓まゆみは、隣にいる夫の鉄冶てつやと顔を見合わせた。これは何かとてつもない詐欺みたいなものなんじゃないか。そう考えないこともなかった。

 目の前には札束の入った封筒がふたつ。眞弓の分と、鉄冶の分。しかもこれは、ふたりが受け取る金額のほんの一部。


 本日午前、突然青木(あおき)家を訪れた、白井しらいという弁護士は、真剣な面持ちでふたりの前に座している。

 鉄冶は、妻から白井に視線を移動すると、滔々と疑問を口にした。


「しかし、こういうものを受け取るとなると。税金のこととかいろいろ、面倒な手続きがあるんじゃないか? 守秘義務があるといっても、どこから話が漏れるかわからない。そしたら、僕たちが秘密にしておいても、瓔子ようこさんのことは、周囲の人に知られてしまわないかなあ」


 白井は、鉄冶の言葉に相槌を打つ。


「ご心配なく。そういった手続きはすべてこちらで行いますので。青木さんにはお手数をおかけすることはございません」


 白井の言葉に、鉄冶は黙る。うつむいた視線の先、湯呑のお茶は、すっかり冷めてしまっている。

 息子の妻に依頼されて、白井はふたりに会いに来た。彼女は自分のことを、皆に忘れて欲しいと望んでいるらしい。そのための手切れ金、口止め料、演技代、一生嘘をつくことへの代償として。ひとり三億ずつ渡したい、と。

 それは鉄冶には到底、理解できないことだった。


 口を閉じた鉄冶と交代で、眞弓は白井に尋ねる。


「瓔子ちゃんは、元気なのね?」


「もちろんです。今もお元気ですし、この先も」


 眞弓は考えていた。

 人生でまとまった金を手に入れるのは、どのようなときか。賭け事が真っ先に思い浮かぶが、その次は保険金。

 死んだらもらえる金は、自分のためには使えない。

 眞弓が死ねば、彼女の金は夫である鉄冶のものになるし、鉄冶が死ねばその金は妻である眞弓のものになる。

 お互いに、お互いがいなくなったらその存在を埋めるのが、保険金だと眞弓は思っていた。

 そして、それをもらえる日は近づくことはあっても、遠ざかることはない気もしていた。


 眞弓は心の中で、義理の娘である瓔子のことを讃える。

 ……瓔子ちゃんはそんなものに頼らずとも、自分の代わりを皆に配れるほどに、がんばったのね。


 他人なのに仲良くしなくてはいけないやっかいな存在、というのが一般的な舅それから姑と、嫁との関係だろう。

 しかし、眞弓は、瓔子がたぶん、自分たちのことを好いてくれていると日々感じていた。それこそ姑の勝手な思い込みだと言われたらそれまでなのだろうけど。

 眞弓は瓔子がいなくなろうとしていることに、寂しい気持ちはある。でも、この先も元気に過ごしてくれるのなら、それでいいのではないかと思う。離れず暮らすのが、家族の条件ではない。


 眞弓はいつしか、自分の気持ちが定まっていることに気づく。

 そして、背筋を伸ばし、白井に宣言する。


「私は瓔子ちゃんの提案通りで大丈夫」


「おい」


 眞弓の隣で鉄冶が戸惑いの声を上げる。

 鉄冶はまだ、迷っていた。白井のことを、信用しきれていないのもある。そして、思い切れないのだ。金で人ひとりの存在を、消してしまうことの非常識さに。


 眞弓は鉄冶の目を見て問う。


「だって三億。それぞれ三億くれるのよ。なんていい嫁なの……って、思わない? これで私たちは安心して老後を暮らせる」


 あなただってそう思っているくせに、と、口にはしないが、気持ちを込めて。

 鉄冶は気まずそうに目をそらす。眞弓の考えが正しいことを示すように。


「結局。主になるのは爽史たかしと瓔子ちゃんの夫婦の問題だし。私たちはそれに従うしかないんじゃない? 私たちが止めたってどうにもならないわよね」


 目をそらした鉄冶に、なおも眞弓は問いかける。

 彼女自身、夫に向かって語りながら、自分の気持ちを確認していた。


「私たちが瓔子ちゃんに期待してたことって何? 爽史が結婚してくれたらいい。孫の顔が見たい。かわいい嫁がいて、うらやましいわって、近所の人とか親戚とか友達に思われたら最高。そういうのってもう、叶ってるものね」


 ごく普通に、当たり前に。それが一番難しいことだったりする。なのに、瓔子がこれまでその通りにしてくれたことに、眞弓は感謝する。


「あとは老後の世話をしてほしい? 正直、そんなところよね。爽史だけだと不安だけど、瓔子ちゃんがいてくれたら安心。いつの間にかそう思ってたものね、私たち。でもそれも、お金があれば」


 ……瓔子ちゃんがいなくても、かまわない。


 眞弓は思いついたことを最後まで言おうとしたが、鉄冶ににらまれて途中で口をつぐむ。

 あまりにも人でなしではないか、と、夫に諫められた気がした。でもそれが自分たちふたりの本音だと、眞弓は考えを改める気にはならなかった。


 鉄冶は再び白井に尋ねる。


「本当に詐欺とか。犯罪とか。そういうんじゃないんだろうね?」


「はい。もちろん違います」


 鉄冶の確認は、もう幾度目だろう。そのたび、白井は穏やかに答える。

 名刺の住所も名前も電話番号も、インターネットで検索する限り、白井は「本物」だった。これ以上調べる方法が今はわからない。

 警察に相談するべきか。別の弁護士にか。でも、そんなことをすれば、瓔子の望みは叶えられなくなる。三億、いや、ふたりで六億。それが手に入らなくなる。


 煮え切らない態度の鉄冶に、眞弓は苛立ちを隠しながら語りかける。


「ねえ。瓔子ちゃんがどこかで元気にしてるなら、それでいいんじゃないの? これからのことだって、簡単なこと。私たちは思い込めばいいのよ。瓔子ちゃんは爽史と、あの家にずっと仲良く住んでいる。ただとても仕事が忙しくて、私たちは直接会う機会はなかなかない。だけど爽史に問えば、ああ、瓔子は元気だよ、と答えるはず。ね、今の暮らしと変わりないでしょ?」


「それは、そう、だけど」


「ときどき舞生まいちゃんもうちに来るでしょ。今は県外に出ちゃってるけど。夏休みとか冬休みとかにね。戻ってきたら会えばいい」


 眞弓は孫の名前をちらつかせ、鉄冶を揺さぶった。瓔子がいなくても、孫の舞生に会えなくなるわけではない。

 鉄冶は舞生のことを、とてもかわいがっている。


「ね、また一緒にごはんを食べて。それで十分」


 そこまで話し、眞弓は少し表情を固くする。孫のことを考えると自然と緩んだ頬を、強張らせ、鉄冶に囁く。


「それぞれ三億あれば。どちらが先に死んでも心配ないわよ。助けてくれる人を雇えばいい」


 眞弓も鉄冶も、三億もらったところで残りの人生で使い切れるかどうかわからない。けど、使うあてはある。この先病気になったらどうする、誰が誰の介護をする、どこの施設に入る、入院になれば、ひとり残されたら。そんな心配も金が解決してくれる。

 爽史や瓔子、それから舞生に、ずるずると迷惑をかけるくらいなら、もらった金で自分たちの残りの人生を安心して生きたほうがずっといい。


 鉄冶がひとつ息を吐く。そして観念したように、呟いた。


「そうだな。君が正しい。僕もそれでいい。瓔子ちゃんに甘えよう」


 嫁は家族だけどしょせん他人だ。娘だけど、娘じゃない。二親等だけど遠い二親等。


 鉄冶はぼんやりと、考えた。

 もし爽史が同じ話をしてきたなら、どうしただろう。直接話をしに来いと怒っただろうか。どうだろう。まあそもそも、爽史が皆に三億配ってまで消えたいとか考えるはずもないか、とも思う。仮定の仮定の仮定の話。頭がおかしくなりそうだ。


 ようやく話がまとまった後、眞弓は白井に問う。


「瓔子ちゃんのご実家……、お母様は? 何かおっしゃってました?」


 眞弓の質問に、白井は静かに笑みを返した。


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