(1)夫
「じゃ、行ってきます」
そう言って妻は旅行に出た。六泊七日、一週間の旅。けっこう長め。
懸賞で国内観光ツアーのチケットが当たったらしい。ただし一名分。もし誰か同行するなら、その場合はもう一名の旅費が基本価格の半額になるとのこと。
生憎、俺は仕事を休めないから一緒には行けない。だから、誰か友達でも誘えばと言ったら、誰かと一緒だと疲れるから、と。結局、妻は一人旅を選んだ。
まあ、妻もたまには羽も伸ばしたいだろう。
我が家の一人娘もようやく成人して、去年から進学先でひとり暮らしをしている。
ローンで買ったこの家には自分ひとり。一週間ぐらいなら、全然平気に暮らせると思う。
何か問題があれば、近所に俺の両親もいるし。大丈夫なはず。
旅行してきていい? と問われたときに、俺の飯はどうするんだ、とか、そんなことを尋ねたらたぶん、妻は旅行を辞めたと思う。
でもそんな拗ねたことを言うより、気持ちよく送り出すほうが、夫としての株が上がることを俺は知っている。
一週間。ちょっとばかり不便な暮らしをするだけで、妻の機嫌がよくなるばかりか、やさしい旦那さんね、とまわりの人に言われるならそっちのほうが絶対に得だ。俺は賢い選択をした。
妻は一週間分の俺の生活費、と言って金を用意していった。これはふだん妻がやりくりしている金額よりは、だいぶ多い。
余裕をもって一週間飲み食いできそうだ。好きなものを食べてやろう。
そうだ、友達と飲みに行ってもいいか。妻が留守ということは、帰宅の時間を気にしなくてもいいし。
いろいろ考えて、わくわくしてきた。
今日は休日だし、さっそく誰かに連絡してみるか、そう、思ったときだった。
玄関の呼び鈴が鳴ったのは。
「はあい」
回覧板か、近所の誰かか。両親か? それとも宅配便?
返事して扉を開けて、俺は首をかしげる。
そこに立っていたのは、きっちりとしたスーツをまとった、長身の男だった。
「青木爽史さんですね?」
「そうですけど」
「わたくし、こういう者でございます」
やけに丁寧な態度の男だった。名刺を取り出し、俺に差し出す。受け取った名刺には、「白井任人」と書かれていた。肩書は……、弁護士……?
「青木さんに少しお話したいことがありまして、お伺いさせていただきました。もし可能でしたら、お時間よろしいでしょうか?」
なんだ。俺は軽く混乱する。
弁護士と話すことなど何もない。何もないはずなのに。
物腰柔らかな印象なのに、メガネの奥の眼光はとても鋭い。
「なんの話ですか?」
もしもこいつがやばい奴なら、家に上がらせたくはない。名刺が本物だとも限らないし、押し売りとかだと嫌だしな。
尋ねた俺に、白井ははっきりと言う。
「奥様の、瓔子さんのことについて、です」
妻の名前を出されて、俺は一瞬息をのむ。
なんだ、なんだろう。心がざわめき立つ。
この男を追い返してはならないと、なぜだか強く感じた。
俺は気がつけば、玄関で体を斜めにして、
「どうぞ」
と、白井を家の中に招いていた。
◆
リビングに通し、ソファーに座ってもらう。
妻がいたなら、お茶でもコーヒーでも用意したのだろうが、俺はそれどころではない。
こいつの正体と、目的を見極めなければ。
話の内容によっては、妻が不在のときでよかったな、と内心思う。
心当たり……みたいなものは、つねにひとつやふたつは誰にでもあるんじゃないかな。
夫婦でもわざわざ伝えない、小さな、秘密。
「恐れ入ります。まず、ですが。私がここに来たのは、奥様からの依頼であることをお伝えします」
「瓔子から?」
俺はますます、腹の奥がギュッとなる気がした。妻が俺の何かに気づいて、弁護士を手配した、などと。ほんと、冗談にしても胃が痛くなる。
「はい。単刀直入に申しますと、瓔子さんはあなたの前からいなくなることを望まれています」
「は?」
思わず聞き返した俺に、白井がうなずく。
「はい。ですから、奥様はあなたに、自分の存在を忘れて欲しいとのことです」
改めて説明されたところで、やはり、わからない。
俺は眉間にしわを寄せる。
「忘れろ、って言われてもな。そんなの、……どうやって。っていうかそれって、俺と別れたい、その、離婚したいとか、そういう話か?」
結婚してから二十年以上たつ。多少のけんかはあったけど、ほとんどだいたい仲良くしていた。夫婦仲は良好だと、俺はずっと思ってた。
お互いの両親も、俺たちの関係には安心してるみたいだったし。一人娘もひねくれることなく育った。
まだまだ定年まではお互い働くつもりだし、なんなら定年後も働くだろうけど。そのうちだんだんどっちもガタがきて、でも、老後もこれまで通り、のんびり、暮らせればって。思っていたのに。
妻は俺に不満があった?
あれのせいか、それのせいか、もしかしたらこれのせい、と。その理由になるかならないかもわからない記憶がせりあがってくるのを、外に出さないように飲みこむ。
白井は、動揺を隠しながらもきっと隠しきれていない俺に向かって、ゆっくりと話す。
「離婚とは少し違います。瓔子さんは、自分がいるときと同じように、皆さんに暮らしてほしいそうです」
そう説明されても、納得できない。俺はすかさず問い返す。
「別れないのに、いなくなりたい、自分のことを忘れて、今まで通り暮らせって。そんなことを言ってるのか? 何のために」
白井は至極真面目な表情を崩さない。
「瓔子さんは、もう誰とも関わりたくないそうです。ひとりになりたい、そうおっしゃっていました」
「それは、家族……、俺たちと?」
「ご家族もそうですし、職場の方、ご近所の方、お友達……、とにかく、すべての人に忘れてもらいたいそうです。ああ、消しゴムで自分の存在を消したい、と。そんなふうに例えてましたね」
嫌な予感がした。妻は今一人旅に出たところだ。
「まさか、死ぬ、とか、考えてないだろうな」
妻が命を自分で絶つ……なんてことを考えたら、体が震えた。それだったら止めなければ、と、当たり前のことが思い浮かぶ。
今すぐにでも行動を、と焦る俺とは対照的に、白井は落ち着いた態度のまま。
「いえ。それはないです。瓔子さんは自分で命を絶つことほど、愚かなことはないと言っていました。だからこそ、こうして私に依頼をされたのですから」
白井の言葉に、俺はそれもそうだ、と、納得する。妻はそういう事件や事故の報道が流れるたびに、自分で死ぬなんてもったいないとよく呟いていたから。
妻の命が保証されたとしても、問題の解決はここからだ。
俺は膝の上でぎゅっと両手を握る。
「瓔子は妻だぞ、家族、だ……、さっきまで一緒にいた、のに。そんな、忘れてくれなんて言われて、すぐに忘れられる訳ないだろう」
このリビングの中にだって、妻の気配がたくさんある。ほら、あの時計は妻が選んだものだ。ほら、そこの食器だって。このソファーだって。カーテンも、テレビも。
そこかしこに、妻の記憶が残ってる。
俺はひどく感傷的な気分に陥った。結局、離婚してくれってことなんだろう。回りくどいことを言ったって、そういうことなんだ。
俺は妻に見限られたんだ。捨てられるんだ。
それなら直接俺に言ってこいよと、悔しさがこみ上げ唇を噛む。そのとき。
白井は持っていた黒いビジネスバックから、封筒をひとつ取り出した。
書類の束が入ったようなA4サイズの茶封筒。どさり、と机に置かれると、けっこうな重さだ。
「とりあえず、これは一部分ですが」
そう言って、白井は俺にその封筒の中を確かめるように促す。
俺は恐る恐る、封筒を開いた。
「え、金?」
その中には、札束がみっちりと詰まっていた。
◆
「自分の存在を忘れていただくために、瓔子さんが用意したものです」
俺はドキドキしながら、金を数えた。一センチの札束が、十個ある。……一千万?
どうしてこんな大金が、ぽん、と出てくるのだろう。
俺の毎月のこづかい、何カ月分、いや、何年分……?
しみったれた計算は、白井の次のセリフで吹っ飛んだ。
「これは一部です。全額持ち運ぶのは困難でしたのでとりあえず。お渡しするのは三億でどうか、と。瓔子さんからの伝言です」
「さんおく」
俺は目を見開いて呟く。相当な間抜け面だっただろう。突然三億もらえると言われて、わーいと素直に喜べるわけがない。
いや、そもそも。
「なんでそんな金を、瓔子が用意できるんだよ」
夫婦で、お互いの収入は把握していた。その中から家のローンを払い、娘の教育費を払い、税金もろもろ、生活費もろもろ、やりくりして、まあ多少は貯金もできていて、お互いに不満のないようにこづかいも決めていて、それで、暮らしているのだ。
三億なんて大金、と、考えて。真っ先に思いついたこと。
「あいつ、宝くじでも当たったのか!」
ギャンブルはしないが、宝くじならいい、というのが我が家のルール。だからときどき、俺も妻も、運試し程度に購入していた。もちろん俺は今までたいした金額が当たったことはないけれど。
しかし、白井は静かに、俺の予想を否定する。
「いえ。そうではありません。が、これは瓔子さんが、何の不正もなく真っ当に得た利益からのお支払ですので。青木さんは何の心配もなく、受け取ることができます」
「いやいやいや、そんなこと言われてもな……」
怪しすぎる。
怪しむ俺に、白井は、では、と説明を始めた。
「簡単に言いますと、株、ですね。その他それに関連する、いろいろです」
「株」
瓔子がそんなことをしていたとは、知らなかった。
だけど、思い返せばあり得ない話ではない。妻の趣味らしい趣味といえば、パソコン、だ。時間があればパソコンと向かい合っていた。何をやっているのかまでは知らないし、ときどきは音楽なんかも漏れ聞こえてたから、ああ、動画とか、ゲームとか。そういうのを楽しんでるんだろうな、と。
家を建ててからはそれぞれに部屋を用意したから、食事のとき以外は個室でそれぞれの時間を過ごすことが多かった。
俺もひとりでのんびり趣味の時間を持てるほうがよかったし。だからお互い、いちいち、離れてるときに何をしているか、なんてそんな、詮索しなかった。
「株でいくら儲けたんだ?」
「それは、お知らせしないようにと」
「なんでだ」
「今後の関係に悪影響が出そうだから、とのことです」
総額を知れば、俺がもっと吹っ掛けてくるとでも思ったんだろうか。これまで一緒に暮らす間に、妻が俺の性格をそう分析した……、いや、もしかしたら白井の提案かもしれないな。
「三億渡すから、それで忘れろ、ということか。忘れて、今まで通り暮らせ、と」
「瓔子さんの希望は、そういうことになります」
「断ったらどうなる」
「そのときは、正式な手続きで離婚する予定だと」
どちらにしろ、瓔子は俺とはもう一緒にいたくないということか。
俺は少し、腹を据える。
「俺がここで三億受け取るより、そっちのほうが得になるんじゃないか?」
共働きで得た収入は、夫婦の共有財産。別れるときは半分ずつ分け合うことになるのではなかったか。
浅い知識で挑んだ俺に、白井は淡々と答える。
「なお、離婚を選ばれた場合、株の利益については全額、瓔子さんの希望する団体に寄付しますので。青木さんにお渡しする分はない、とのことです」
一瞬舌打ちしそうになったが、なんとか堪えた。
全額寄付、か。瓔子だったらあり得る。嘘や冗談ではなく本気で実行しそうだ。
では半分ずつ分けることになるのは、俺が今把握している、それぞれの貯金、家のローン、あれやこれや。つまり瓔子の株の利益以外。
それらをざっと計算しても、俺の取り分は三億よりははるかに少ない。
損得で考えれば、目の前の男の、そして妻の提案を飲んだほうが得だ。やはり三億、ぽんともらえるのは、桁違いのこと。
俺は迷いながら、白井に伝える。
「すぐには答えられない」
「そうでしょうね」
金はもらえたらうれしい。それは素直にうれしい。だけどそれだけで済むことではない。
俺は金をもらって妻のことを忘れるとしても。俺以外の人間はどうなる。
「この先、ずっと芝居をすることになるんだよな。瓔子がいなくなったことを隠して、元気にしてるんだって芝居を続けるんだろう、一生」
ああ、まるで。こっそりと妻を殺して床下に埋めて。知らないふりをし続ける、そんな感覚。
絶対にいつかバレる。俺は嘘が得意じゃない。身内に尋ねられたら、いつまで隠し通せるか。
それにほかにも心配事はある。
「俺だけなら、三億もあれば一生安心して暮らせるだろう。でも、うちには娘がいる。手がかからなくなったとはいえ、この先どうなるかわからない。助けてやる必要があるかもしれない。それから俺と妻の親たちの、老後もどうなるか。それを全部俺が背負うのは……、正直……、金でどうにかなるんだろうか」
浮かんだ不安をもごもごと呟いていたら、白井が口を開く。
「この先のことをすべて、青木さんが背負うことにはなりません。娘さんにも、ご両親にも。そうですね、瓔子さんの二親等のご関係者さまには、それぞれ同じ話をさせていただきますので」
俺は白井の言葉に驚く。
「俺に三億渡すことを、皆に言うのか?」
俺が三億持っている。そんなことを言ったら、皆が俺に頼るようになるじゃないか。いや、頼られるのは嫌ではないが。妻の存在を三億で消去した自分を、家族は「許す」のだろうか。
しかし、一瞬焦った俺に、白井は相変わらずのポーカーフェイスで言葉を足した。
「おひとり、三億ずつです」
「は?」
「ですから。青木さんに三億、娘さんに三億、青木さんのご両親それぞれに三億ずつ、瓔子さんのご両親……、は、お母様だけですが、そちらに三億」
え。瓔子、いったいいくら稼いでたんだ。
俺はぽかんと、口を開いてしまう。
妻には、ちっともそんな、大金があるような様子はなかった。今朝だって、冷蔵庫に残っていた三割引きで買った賞味期限間近のウインナーを、食べとかないと、って、料理して、片づけてった。そんな、節約が趣味というか、当たり前になってるような女だ。身の回りのものだって、なにひとつ高級なものなど置いてない。新しい何かを買うことも欲しがることもなくて。
ああそうだ、今回の旅行。これが久しぶりの贅沢だった。
けれど実際には、大金を得ていたのか。皆に渡す予定の金額ですでに十五億になる。それがすべてではないはずだ。この白井という弁護士を雇うのにも相当金がいるのでは? 税金や手続きにかかる費用、それでもだいぶ持っていかれる。瓔子自身にもいくらかはさすがに残しているだろう。ああ、考えたところで途方もない。
俺はようやく口を閉じ、そして息もつばも一緒にのんだ。
呆ける俺に、白井は淡々と、更に条件を説明した。
「ただし、全員が了承してくださらないと。今回の話はなかったことに」
「なかったことって……、そのときはどうなるんだ」
「そのときは。ですから。ふつうに離婚です」
「ふつう」
「瓔子さんが旅行の間に、答えを決めてください。私は皆さんのところへ、順番にお話に伺いますので。何かありましたら名刺の番号にご連絡ください」
白井はそう話すと、ソファーから立ち上がる。
そして思い出したように、俺を見下ろし付け足した。
「あ、そうでした。瓔子さん、一人旅を思いっきり楽しみたいそうなので。連絡は取らないようにと。ご無事なのは保証します」
それから白井は深々と頭を下げて、帰って行った。
しん、と静かなリビングで。壁掛け時計がかちかちと針を鳴らす。
妻が買った時計だ。
失敗だったね、けっこう針の音うるさい。と、顔をしかめて残念がる瓔子を思い出す。
俺はのどがひどく乾いていることに気づいて、冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。これだって、あいつが昨日の夜に沸かして冷やしてったやつだ。ペットボトルのお茶を買うのもったいなくない? とか言って。俺はそれでいいと思うのに。
そんなことしながら、株でがっぽり稼いでたのか。
知らなかった。
いや、知ろうとも、しなかった、のか?
二十年も一緒にいたのに。夫婦なのに。好きになって、結婚したはずだったのに。
◆
ひとりになって考えた。誰かに相談するとか、そんな気持ちにはならなかった。
いまごろ、白井はうちの両親に三億の話をしているんだろうか。両親は常識人だから、驚いているだろうな。
置いて行った一千万を机に並べて、本物だなあ、と確認する。
三億だったらこれの三十倍。机に並べきれるだろうか。はみ出すかな。それだけの金が、俺のものになるのか。……すごいな。
だいたい、俺の人生があと、長く見積もっても五十年ぐらいだ。それで、その間に、宝くじに当たる確率って結局ほとんどゼロだよな。
定年までずーっと真面目に働いても、今の仕事では三億は稼げない。退職金もらって、それでそのあと、って考えても無理だ。だいたい、稼いだ金が全部俺のものになるわけじゃないし。
……三億か。
家のローンが残り二十年分。それを払ってしまっても、手元には二億数千万残る。
娘の教育費だってよく考えたら、娘が三億もらうんなら、そっちで払わせればいい。
親の老後の心配も、それぞれもらった三億でどうにでもしてもらえるだろうし。よく耳にする、老後の資金ひとり二千万必要とかそんなの、あっさり超えてるから余裕だな。俺の老後も安泰だ。結局金か。
これだけ金があったら、好きなことができるな。派手なことをしなければ、遊んで暮らせるかもしれない。
今の仕事もやめてしまおうか。こんな大金があるのに、小銭を稼ぎ続けて何になる。
そう考えて、ハッと気づいた。
いや、でも。それはだめか。俺は、今まで通りの暮らしを続けなくては。
妻がさもいるかのように演じなくてはならない。
周囲の人には気づかれないように。妻がいなくなったことも。俺が三億手に入れたことも。
俺はいつしか時間を忘れて、どうやってこの先妻がいなくなったことを隠して生きていくかを考えていた。
妻がどうやったら自分の元に戻ってくるのか、考えを改めてくれるのか。そんなことはほとんど、考えなかった。
それは妻の思惑通り。
俺の頭の中で、妻の存在は三億に置き換わっていた。