前幕 序章 始まりの世界
彼は人通りもまばらな街を歩いていた。
他の地域ではもう夏になるというのに、その街の空は雪の気配を孕んでどんよりと重く曇っていた。人にも木々にも容赦なく吹きつける風は冷たく鋭かった。白く積もる雪はすねが簡単に埋まるほど深く、どの家の屋根にも綿入り頭巾を被っているかのようにのしかかっていた。
光が弱いせいであまり濃くはならない自身の影にちらりと落ちてきたその白に、彼は顔を上げた。
雲はとうとう己の重さに耐えきれずに雪を降らせ始めたのだ。
彼は立ち止まり、周囲を見渡した。
黄土色の煉瓦に黒い屋根を冠する家は、この地域によくみられる何の変哲もない様式だ。
ただ、元々豪雪など降りもしない地域であるがゆえに、屋根は雪を落とすことなくその黒色は屋根のふちにわずかに見られるだけであった。
彼は再び歩き始めた。より雪深い方へと。
しばらく歩くと、通りに直接面するように立ち並んでいた集合住宅は減り、塀の内側に庭を持つ邸宅へと変わっていった。
彼は目的地へと向かう。町の中心部から少しずれた位置にある邸宅だ。
すでに雪は膝をかすめるほどに深くなり、吹きつける風はキンキンと肌を切るように冷たかった。
その家は周囲と特段差があるわけでもなく、塀と鉄格子の門があり、庭は他と変わらず雪で真っ白だった。しかし、特に冷気に包まれているように感じた。
彼は鉄格子の門のノブに手を伸ばす。しかしそれに触れる寸前に、横から声をかけられた。
「やめておけ、若いの」
彼は横を向き、声の主を見た。その人物は初老の男性であった。
「その家はいわく付きだ」
「いわく付き、ですか?」
彼は男性に尋ねる。
老人は鉄格子の門のその先、建物を見つめながら話した。
「五十年前まで、この家はどこにでもある裕福の部類に入る家だった。
ただ…春先のことだったか、突然この家から人の出入りが無くなった。そして、この家を中心に地域全体が冷え、冬が戻ってきたように雪が降った。
夏だろうと風は冷たかったし、秋になっても木々は実りをつけなかった。その年を境に、徐々にこの地域は痩せていった。
それから数年間、国の学者や報道官がこの現象の謎を突き止めるべく幾度となく派遣されたが、それらはすべて徒労に終わった」
老人は寒そうに身震いをして、深いため息と白い息を吐き出した。
「…帰ってこんかったよ、誰一人としてな。
庭に入った途端凍り付く者もいたし、屋敷の中まで到達できた者も、出て来とらんのだ。
お前さんはまだ若かろう。若者を失うことは恐ろしいことだ。この街も、若者は失望して出ていった者と、無謀にもこの鉄格子の向こうに入っていった者だけしかいなかった。
当然、街はすぐに廃れた。生き物もろくに住めなくなったがために姿かたちはあの頃のままだというのは、ひどい皮肉だとは思うがな」
彼は老人の言葉を聞いて、少し考えた後に言った。
「俺は、ここ以外に居場所がないように思えるんです。凍り付いてしまうならば、それでもいい。もうどこにも行けないんです」
老人は何か言いたそうにしていたが、諦めたように首を振り、「お前さんは無謀な若者の部類だったか…忠告はした、それでも行くというなら止めはせん」と言って去っていった。
彼は去っていく老人の背中に「ありがとう、心配してくれて」と投げかけた。吹雪き出した天候で届いたかはわからないが。
彼はふたたび鉄格子の門に向いた。この先に、何があるのだろうか。全く分からないままに、彼は鉄格子に触れた。
かなり昔から練りに練った作品です。
拙い物語構成ではありますが、かなりいろいろ詰め込んだので楽しんでもらえると幸いです。