慰霊
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──慰霊
2045年8月6日
照りつける太陽の光が熱い。
直樹は新宿駅慰霊公園を訪れていた。翌日の鏡花と同じように。
「母さん、兄さん。俺は今日も元気だよ」
彼は慰霊碑に向けて手を合わせると、犠牲者の安らかな眠りを祈った。
犠牲者の中には直樹の母と兄も含まれていた。
15年前。ここで1500名の人々が軍用高性能爆薬とカラシニコフの放つ7.62x39ミリ弾の犠牲になった。直樹の母と兄もこの駅で犠牲になった。死体はかろうじて判別できるまでに破損していたと父は語っている。
無慈悲に奪われた命。
その数の恐怖した日本国民は日本情報軍による情報統制と監視社会を、民間警備企業の台頭を許容した。直樹もその象徴である民間警備企業の装甲車と生体認証スキャナーや街頭監視カメラを見たばかりだ。
そろそろ丁度15年前となり、大規模な慰霊集会が予定されている。その警備のために動員された民間警備企業が下水道から何まで対テロのチェックを行っているのだ。
本来ならばそれは警察の仕事だった。
警察が会場を警備し、警察が市民を守り、警察が死者のために祈る犠牲者に寄り添うはずだった。だが、もうそれはあり得ない。新宿区は他の自治体に先駆けて民間警備企業と契約し、新しい秩序を受け入れたのである。
新しい秩序。新しい秩序。新しい秩序!
直樹が警察官を目指したのは、やはり母と弟がテロの犠牲になったからだった。
彼は必死になって勉強し、東大法学部に入学し、それからも必死に勉強してキャリア組として警察官になった。
だが、その時には世界は変貌していた。
日本情報軍による支配は警察にまで及び、日本情報軍情報保安部の将校が我が物顔で警察の中を闊歩する。対テロ作戦も、防諜も、全てが日本情報軍の管轄するところとなった。公安警察はその権力を失っていた。
直樹は警察庁の公安警備局警備企画課に存在する公安警察の組織に所属していたが、かつての威光はなく、日本情報軍の後塵を拝するだけだった。
では、日本情報軍に入ればよかったではないかと思うかもしれない。
しかし、直樹の父もノンキャリア組の公安警察の捜査官で、かつての──話せる範囲の──活躍について聞かされていた。だから、直樹は父と兄をテロで失った時に、警察官になることを選んだのである。
それに、だ。
どうして軍が警察のやることに口出しすることが許容されているのだ?
本来ならば日本の治安を守るのは警察であるべきだ。日本情報軍が、軍が、それに口出しするなど、戒厳令下でもなければ認められないはずだ。
だが、人々は受け入れてしまった。
軍が堂々と日常生活を監視し、情報を統制する社会を。
それより最悪なのは民間警備企業ともいえる。営利目的の治安維持組織。
ビッグシックスの息のかかったその民間警備企業は警察を蹴り出し、これまた我が物顔で警察業務を始めた。重装備の歩兵部隊。輸送ヘリ、攻撃ヘリ、ドローン、装甲車、機関銃、自動小銃。そういうもので武装した“新しいモデルの警察”は、テロの恐怖に怯える人心を利用して規模を拡大した。
結果的に従来の警察の規模は縮小した。
対テロ作戦も何もかも日本情報軍と民間警備企業がやってしまうと豪語しているのだ。国もそれを認めている。警察に味方はおらず、敵ばかりが増えた。
それでも警察はできることをしようとした。
直樹の公安警察としてのキャリアの大部分は対テロに費やされた。それは彼の望んだことであり、彼は多言語を操り、テロリストのネットワークについて中国やアメリカのカウンターパートと意見交わし、その生涯を日本国をテロから守るために費やそうとした。
だが、公安警察がいくら情報を入手しても、いくら捜査に当たっても、日本情報軍の動きの方が素早かった。軍事組織と文民組織の速度を比べれば、それは即応力で軍が上回るのは当然だと言えた。誰もが最初はそう思っていた。
そうやって諦めようとしていたとき、盗聴の事実が明らかになった。
警察庁のあちこちに盗聴器が見つかったのだ。もちろん、公にはされなかったし、何なら盗聴器は撤去されなかった。盗聴器を仕掛けていたのは、日本情報軍情報保安部だったからだ。彼らは徹底的に警察を監視していたのだ。
出し抜かれていた理由が分かった時、誰もが怒りに浸った。
相手が正当な手続きを踏んで出し抜いていたならば諦めもついただろう。しかし、日本情報軍は警察を盗聴し、そうやって情報を手に入れ、警察を出し抜いていたのだ。警察はいいように利用されていたのである。
それからは流石の直樹たちもやる気を失った。
日本情報軍は警察からの情報が途絶えてもスコアを上げている。明らかにはされていないが彼らは敵対的な情報組織をコントロールし、虚偽の情報を与え、敵が偽の情報しか得られない状況を作り上げていた。
あれからテロはローンウルフ型テロリストが起こしたものを除いて大規模なものは起きていない。それらは全てこの日本情報軍と民間警備企業による支配のためなのか、あるいは別の理由なのかは分からなかった。
ひとつ言えるのは警察は新宿駅のテロを防げなかったが、日本情報軍と民間警備企業は新宿駅のようなヘマをしていないということ。それだけだ。
このまま俺たちは軍が戒厳令下のように闊歩する世界で存在意義を失っていくのかという諦めにも似た感情を直樹は抱いていた。
だが、情報は急に変わった。
直樹の手に奇妙な模様の刻印が現れたのだ。
直樹は警察の医者に診てもらったところ、そこからすぐに警察庁次長からの呼び出しがかかった。奇妙なことを感じながら、直樹は次長のオフィスを訪れた。
「百鬼直樹君だね。座りたまえ」
次長は席を勧め、直樹は椅子に腰かけた。
「率直に話そう。君は今の警察の在り方を良しとするか?」
「……日本情報軍式の忠誠度テストですか?」
「いいや。この部屋に盗聴器はない。隠しカメラもだ。全て掃除させた。一時的にではあるが、この部屋の内部の会話が日本情報軍に漏洩することはない」
次長はそう言って室内を見渡す。
「では、私も率直にお話します。私は今の警察の在り方は間違っていると思います。変えられるものならば変えたいとも。私は警察官が地域の住民と交わり、そして地域の住民を犯罪の脅威から、テロの脅威から守る世界こそが理想だと考えています。軍や民間警備企業ではなく」
直樹は率直にそう話した。
「それが可能であるとしたら、君はどうする?」
「何を犠牲にすればいいのですか?」
真っ先に浮かんだのは警察が日本情報軍に逆らう上で必要になる犠牲だった。
「幾人かの日本人の命だ。5名から7名程度。それらを殺せば、我々は我々が警察らしくあるために必要な地位を取り戻すことができる。今の日本情報軍による日本国という名の監獄を破壊することができる」
それから聞かされたのはにわかには信じられない話だった。
「本当なのですか?」
「事実だ。君の手の甲の刻印がそれを示している。やってみせたまえ、百鬼直樹君。君の手腕に警察組織の未来がかかっている」
次長はそう言って直樹を見つめた。
「お引き受けしましょう。我々が警察としてあるために」
「ああ」
そして、作戦は動き始めた。
「母さん、兄さん。俺は警察官としてやってはいけないことをする。国民に対する裏切りだ。だが、そうしなければならないんだ。分かってくれ。それでは安らかに」
直樹は慰霊碑に向けて一礼すると、そこを立ち去った。
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