何ものでもない
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──何ものでもない
獲物は大勢。
彼は羊の中に隠れたオオカミだった。
牧羊犬も羊飼いもその存在に気づいていなかった。いや、彼らは知っていた。どこかにオオカミが潜んでいることに。だが、それがどこにいるのか、何者なのかについては全く知らなかった。
連続猟奇殺人事件。
羊が殺され続けている事件。オオカミは獲物を生きたまま八つ裂きにし、苦痛を味わわせてから殺している。食べるためではなく、ただ殺すために。殺すために、殺しているのだ。殺人とは本来そういうものだろう? と彼は肩をすくめる。
民間警備企業は渋々と神奈川県警への捜査への参加も許可し、生体認証スキャナーと街頭監視カメラを駆使して、目標を探そうとしていた。だが、どうやってもオオカミは捕まらない。まるで実態の存在しない幽鬼のごとく。
民間警備企業が神奈川県警とともに緘口令を敷いているが、既にネットでは噂になっている。『ねえ、知ってる。お化け殺人鬼の話?』と。噂はゆっくりと広がり、その過程でおどろおどろしいものへと変わっていた。
曰く、『犯人は被害者の肉を食べている』と。
曰く、『犯人は白い服の男で殺される人間にしか見えない』と。
曰く、『夜中の0時にドアのチャイムが鳴っても開けてはいけない。それは連続猟奇殺人事件の犯人が現れた証拠だから』と。
曰く、『犯人は幽霊そのものであり、これは呪いである』と。
本当の犯人は薄ら笑いを浮かべてネットの様々な書き込みを読み、時としてそれを煽っていた。彼にとっては観客の反応は愉快なものだった。
恐怖に震え上がる観客。殺人による恐怖が広がっている。
たが、彼は殺すために殺しているのだ。観客が震えあがるのは楽しいが、そればかりを眺めていても面白くはない。
彼はまた新しい獲物に目を付ける。
12歳ほどの少女。その後ろを歩いていく。
ずっと、ずっと後をつけていき、獲物の自宅を確認する。生体認証スキャナーのない古いマンション。彼は悠々と監視カメラが設置された正面ホールを横切り、少女の入った家を確認する。
そして、ビンゴとばかりに口笛を吹くと、玄関のチャイムを押す。
「はい?」
やはりだ。声紋認証型のドアロックではなく、ただのチャイムだ。
ドアを開けて警戒心もなく、女性が姿を見せる。
彼は女性の腎臓を狙って複数回コンバットナイフを突き立てた。コンバットナイフは在日米軍からの流出品で、ナノマシン加工が施されている。炭素鋼のそれは頑丈で、決して錆びたり、鈍ったりしない。
女性は腎臓を刺されたショックで悲鳴も上げられずに倒れ、出血性ショックで数秒で死に至った。彼は女性の体を家の中に押し込んで、家の中に押し入る。
「お母さん?」
先ほどの少女が姿を見せる。
「こんにちは。お父さんはいるかな?」
彼が尋ねる。
「い、いない……」
「そうか。それはいい」
男はドアをロックし、チェーンキーをかける。
「騒いではいけない。大人しくしておくんだよ。そうすれば何も怖いことはしないからね。さあ、静かに、静かに。しー……っ」
男はナイフから血を滴り落としながら少女に近づく。
「いや──」
「黙れ、クソガキ。今からお前の腹を裂いて、バラバラにしてやる。お前は苦しむだろう。これまで感じたことのない痛みを感じるだろう。そうなるのがお前の運命だ。ここで苦しみ、喘ぎ、そして死ね」
彼はダクトテープで少女の口を塞ぎ、両手を後ろ手に縛りあげる。
それから地獄だった。
全てが終わったあとの現場は肉片と血に塗れ、臓物と汚物が入り交じり異臭を発していた。少女は既に死亡し、虚ろな目が恐怖と苦痛に歪んだまま、虚空を見つめている。
「ああ。最高だ。最高だな。この愉しみは誰にも理解できないだろう。クソガキが、クソあばずれが、惨めに泣きながら死んでいく光景を拝めるなんて素晴らしい光景を間近で見る愉しみは誰にも理解できないだろう」
男はナイフに帯びた血を拭うとそのまま家を出た。
その後、父親が帰宅し、異常に気付き、民間警備企業に連絡。すぐさま民間警備企業の警備員たちが重武装で駆けつけた。
「監視カメラの記録は?」
「何も映っていません」
「畜生。またか」
監視カメラはスタンドアローンで稼働しており、外部からのハッキングは不可能。
つまり犯人は姿が見えない。まさに幽鬼の類であるということだ。
「周囲の生体認証スキャナーと街頭監視カメラを全てチェックしろ。警備犬も使え。今度こそ、なんとしても犯人を捕えるぞ」
今度こそ。
そう、彼らは連続猟奇殺人事件だとこの時点で断定していた。
監視カメラに映らない。目撃者がいない。何の痕跡も残さない。
幽霊のような存在が相手の事件だということだと断定していた。
「捜査の進捗はどうかね?」
そこで民間警備企業の警備員が纏っている都市型デジタル迷彩とは異なる、新型のデジタル迷彩を纏った男が声をかけた。日本情報軍のデジタル迷彩だ。そして、階級章には少佐とある。日本情報軍情報保安部の将校だ。
「今のところはまだ何も。ですが、何故日本情報軍が? ただの連続殺人事件ですよ? それとも狙われているのは国外のスパイとみなされていた人間だとでも?」
「君にそれを知る権利はない。国防に関することだ。君たちは迅速に捜査を進めていればいいのだ。いいか、我々は政府組織としていつでも君たちと神奈川県の契約を破棄させることができるんだ。我々を失望させないようにしたまえ」
「……了解」
そう、日本情報軍情報保安部は民間警備企業の役員のスキャンダルも握っている。彼らはその気になれば民間警備企業と神奈川県が取り交わした契約を破棄に追い込めるだけの能力があるのだ。
だが、そうすることでビッグシックスの一角である大井が日本情報軍を目の仇にし始めないとは限らない。日本情報軍は日本の情報インフラ、いや世界の情報インフラに自由に介入できる能力があるだろう。しかし、大井グループは日本の経済を握っているのだ。日本情報軍が独自の財源を持たず、割り当てられた予算でしか活動できない以上、ビッグシックスである大井にそっぽを向かれ、日本が衰退すれば日本情報軍も衰退する。
実に危ういパワーバランスであることは当事者たちがよく知っている。それでも日本情報軍には捜査を急かす必要があったのだ。
「閣下。はい。安全な回線です。レベル6の軍用防壁で守られております。件の殺人事件の件ですが、まだまだ解決には時間がかかりそうです。閣下が結果を期待されていることは重々承知の上ですが、もうしばらくお待ちください。必ず成果を上げます。では」
日本情報軍情報保安部の将校──大佐は防音措置の取られた神奈川県警の執務室で、日本情報軍少将と現場に派遣した将校から受けた報告について会話していた。土佐大佐の上司に当たる人物と。
しかし、彼自身は分かっていなかった。どうして日本情報軍少将がこのような連続殺人事件に興味を示しているのかは。
そう、クラウン作戦だ。クラウン作戦は極秘作戦。それを知るものは限られる。
『目標は間違いなく勇者だ。臥龍岡凛之助の行方が掴めない以上、先に仕留めたまえ』
「畏まりました、閣下」
そして、土佐大佐は連絡を受けた。
新しい勇者という名の殺人鬼について。
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