7色々と溢れた犬
気がつくと、視界が揺れていた。
一緒にゆらゆらと揺れる己の手を見る限り、
これまでの出来事はどうやら夢ではないらしい。
毛におおわれた獣の前足。
もはや手と呼べなくなってしまった。
転生先は人外らしい。
人外という事には、不服はない。
人外といっても異世界転生においては、沢山の夢とロマンが詰まっている。
平和と自然を愛するエルフ、身体能力に優れ逞しく生きる獣人、
怜悧と恐悦を謳歌する魔人。それに従い人間界に侵攻する魔物。
今まで経験したことのないステータスで、転生ならではの知恵やチートスキルを駆使する。
そんな私の冒険が今、始まる。
かくや犬である。
魔法がつかえるわけでもなく、
爪や牙が異常に発達しているでもなく。
異世界の要素の欠片もない。
ノーマルな犬。
The dog.
お隣さん家の豆太と同じように、普通の犬である。
フリスビーを投げた振りをすると、大喜びで走り去っていく豆太と変わらない存在である。
帰宅時、柵越しにエアフリスビーを探す豆太の尻を眺めてから玄関をあける。
それが私の大学生時代のルーティンであった。
可哀想だからちゃんとフリスビーを投げてやれって?
犬なんて飼っていない私がそんなもの、持っているわけがないだろう。
今思うと、あの時起こった悲劇は
豆太なりの仕返しだったのかもしれない。
アルバイトで貯めた金で、まぁまぁいい自転車を買った。
白いカーボン素材のフレームが流行りだと店員さんに勧められ試乗し、その乗り心地
の気持ちよさに驚いた。
ものによってこんなに違うものかと感動した私は、最後の商品だという店員さんに取り置きの相談をしてアルバイトに励んだ。
それから二か月、とうとう手に入れたこの自転車を友人に見せに行こうと思い立った。
そして、
自転車を一旦家の前に出し、玄関の鍵を閉めに戻った束の間の出来事である。
家の前に豆太がいた。
いつものお気に入りの電柱を通り過ぎ、慣れた動作でひょいと片足を上げた。
よりにもよって、本日デビュー予定である私の白い相棒のすぐ横で。
ちょっと待て。
ほんとに待て、待ってくれ!
声を上げる間もなかった。
中途半端に手を伸ばす事しかできなかった。
私の心の声が聞こえたのか、こちらを振り返った豆柴豆太。
偶然にも、いつものエアフリスビーと同じ姿勢となった私の手を見つめる奴は、
いつも通りの純粋そうな犬顔をしていた。
そしてすっきりしたと言わんばかりに後ろ足で地面を数回掻き、
何事もなかったようにフェンスをくぐり庭へ帰っていった。
青年の乗り心地にも慣れ、豆太との思い出に浸っていると
後回しにしていた直近の問題を思い出してしまった。
私の尊厳に関わる重要な問題である。
この世界で目覚め、ある程度の時間がたった。
時間経過ともに訪れる生理現象の一つ。
そう、尿意である。
まず、犬の用の足し方は豆太のせいで脳裏に焼き付いている。
だが初体験である。きっとぎこちない姿になるだろう。
もしかするとバランスを崩して転んでしまうかもしれない。
そんな姿をこの青年に見られるのは避けたい。
このぼんやりとした彼に無様を晒す事は、己の大切な何かを削られる気がするのである。
意識が戻った事に気付くと、彼は降ろしてくれるだろう。
だが、意識が戻っていたのに黙って運ばれていたと知られるのは少しばつが悪い。
さりげなく今、気が付きました といった様子が無難だ。
思いもしないタイミングでその時は訪れた。
急に彼の脇腹と腕が私の腹を圧迫したのである。
無への開放欲求が急激に満たされていく。
異世界転生開始から数時間、私は無の境地に至った。
読んでいただきありがとうございます。