2-4 精霊術と踊るルフ
翌日、心音が目を覚ました時には、家の中の様子がすでに慌ただしかった。
何かあったのかと思いつつ、身支度を整えて部屋を出ると、リビングのテーブルで地図を広げていたシェルツと目が合った。
『おや、おはようコト。今日は少し遠くに出かけるよ!』
ここに来てからというもの、毎日がイベントで目白押しである。それも全て心音のためにやってくれていることであるから、何か申し訳なさを感じながらも、心音は頷いた。
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街から出て西、少し離れた位置に山脈地帯がある。街に流れるナービス川の源流もそこから来ている。
精霊術士たちが集まる工房は、その中の一つ〝タイネル山〟の中腹にある。山までの道は整備されており、危険な魔物や野生動物もほとんど居ない。
シェルツと心音の二人は馬車を借り、朝の喧騒が落ち着いた頃に出発した。ティーネも来たがっていたが、今日は通常通り登校日だったようで、悔しそうにしていた。
道すがら、シェルツが心音に精霊術士について説明してくれた。
『精霊術士は、魔法の発現に自分の魔力じゃなくて、魔素を活動源とする精霊の力を利用するんだ。あ、魔素っていうのは自然界に溢れた魔力が風化したもので、通常は生物は利用できなくてね。精霊術士はその魔素を間接的に利用することになるのかな』
心音にとって全くの未知の領域であるが、シェルツの説明の分かり易さもあり、そういうものなのかと理解出来た。
『とはいえ、精霊は基本的に生物に対して無干渉だし、直接魔法の発現を命令することは出来ないんだ。そこで、長年研究を重ねて分かった精霊の性質を基に、目的の術が発現するように誘導してあげるのが精霊術さ』
続けられた説明に、流石に理解力が追いつかないのか心音は首を傾げる。
『ん〜、例えば、暗いところで明かりを付けると、虫が寄ってくるよね? そういった性質を組み合わせて、目的の現象まで導いてあげるって感じかな』
なるほど、大雑把に理解はできた気がして心音は頷く。
『まぁ偉そうに説明していても、その詳しいやり方とかは全く分からないんだけどね』
後頭部を掻きながらはにかむシェルツにつられ、心音も自然と笑顔になる。
何か現状から進展できることが分かればいいのだけれど、と心音は考えながら、残りの道中馬車に揺られていく。根拠はないが「何とかなるでしょ!」の精神である。
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暫くして、馬車が停車する。窓から顔を出してシェルツが言う。
『コト、到着したよ。工房のマスターには連絡してあるから、早速訪問しようか』
馬車から降りた心音の目に飛び込んだのは、門の奥に見える広大な敷地に建つ巨大な木製コテージ。いや、この規模ならもはや工場とすら言えるであろう。
シェルツは門の柱に近づくと、インターホンにも見えるパネルに手をかざす。するとシェルツの手が黄檗色に光り、パネルが反応する。
「今朝連絡致しました、シェルツ・ヴァイシャフトです」
シェルツがパネルに話しかけると、門が左右に開き始めた。原理はよく分からないが、インターホンそのものの機能を持つものであったようである。
『さぁコト、行ってみよう』
シェルツに促され、巨大な建物に少しワクワクしながら心音は敷地内に足を踏み入れた。
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「やぁ〜待っていたよ。精霊術について学びたい子がいるって?」
建物の扉をノックすると、白衣を着たひょろりと背の高い男性が迎えてくれた。三十代後半から四十代前半くらいであろうか、研究者然とした風貌で飄々とした様子であるが、表情には疲労の色が見えた。
『あなたがマスターですね。初めまして、シェルツといいます。父がよろしくお伝え下さいと言っておりました』
「よろしくシェルツ君。私はピッツ。リッツァー君とは旧知でね、今でもよく取引をしているよ。して、シェルツ君、何故対外念話を? そっちの子が例の子かな?」
『はい、彼女が精霊術を学びたい子で、コトといいます。ヒト族の言語が使えないので、対外念話を使っています』
ふむふむ、と品定めするような視線の後、納得顔で頷くピッツ。
『そうかそうか、よろしくコト君。精霊術士は数が少ない。精霊術を学ぶ学徒は大歓迎だよ』
ははは、と笑いながら、ピッツは握手を求めて手を出した。コトは握手を交わしながら、これから触れる世界への期待と不安、触れた手のひんやりとした冷たさを感じていた。
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『ところで、精霊術について知ってることはあるかね?』
工房内の案内を受ける心音に、ピッツが問いかける。
今まで案内に対し頷いたり、シェルツが代わりにやり取りしていてくれたが、直接会話のできない心音は困ったようにシェルツを見た。
『あ~、すみませんピッツさん。コトは、対外念話も使えないんです』
シェルツが助け舟を出す。ピッツはまるで予想外だったというような表情で問い返す。
『なんと! それは生活に不便だろう。まさか、わざわざこんな所までマイナーな精霊術を学びに来たってことは、魔法自体が使えないのかね?』
シェルツは一応と心音の方を向き回答することへの了解を得て、ピッツに言う。
『えぇ。そして、これは他言無用でお願いしたいのですが……』
一呼吸置いてシェルツは続ける。
『彼女は、魔力自体を持っていません。彩臓に問題があるかあるいは、欠落しています』
『な、なん……と……』
ピッツは、彩臓に欠損があるものがここまで生きながらえているという事実に驚いただけではない。教養の深い彼は、瞬間的にそれが意味する心音の価値やそれを狙う組織、動きうる研究機関の可能性などを思考した。
『なるほど。確かにそんなことは口外できないね。いいのかい? そんなことを私に話してしまって』
『精霊術の手ほどきを受ける以上、いずれは分かってしまうことです』
それに、とシェルツは続ける。
『父さんは、そこまで分かった上でここを紹介してくれました。父さんが信じる人なら、俺も信じてみようと思いまして』
ピッツは顎に手を当て、俯いた。再び顔を上げたその表情は、今までの飄々とした感じから、真面目なものに変わっていた。
『分かった。いずれ、コト君には世間を生きる術が必要であろう。魔法ほど手軽に扱えるものでは無いが、精霊術も修練を積めば生活に使えない訳では無い』
少し空気感が変わった心地をしながら、三人は少し広めの、大小様々な陣の書かれた部屋へ入った。
ピッツは壁際の棚で何やら手提げ籠にものを詰め込むと、心音とシェルツの下へ来て宣言した。
『これから、精霊術を実演して見せよう。簡単なものであるから、手順さえ覚えれば直ぐに真似できるであろう』
そうすると、小さな陣の中に乾燥した木屑、綿毛、赤い木の実を置くと、小鉢の中にまだ残っている木の実をすり潰し、液状になったそれを陣を囲むように垂らした。
『さぁ、少し陣から離れたまえ』
ピッツに従い二人が距離を取ると、彼は裏声で何やら唱え始める。
「ガイ デ フュウ コン ヘ」
一定の声音で紡がれた呪文。心音はそれが440Hzのラの音であると勝手に脳が認識するのを感じていた。
呪文が紡がれて数秒後、綿毛から煙が立ち上がり、たちまち燃え上がり木屑へと燃え移った。
『これが初歩的な精霊術、火の精霊の誘導だ』
おぉ、と感動する二人。こういった事象そのものに慣れていない心音は勿論であるが、シェルツも実際に精霊術を目の当たりにするのは初めてであった。
『さてコト君。君も試しにやってみよう。呪文は覚えたかね?』
心音は小気味よく頷く。
語学が苦手であることは確かであるが、それは意味や文法を理解する能力に自信が無いだけであって、音として入った情報を覚えるのは得意であった。日本で声楽のレッスンを受けていた時も、先生から「もしかしてイタリア語喋れるの?」と驚かれたことがあるくらいである。
先程見た実演を思い出しながら、陣の準備を再現する。
そして、先程聴いた呪文を、ピッツと全く同じ音高・ピッチで紡いだ。
「ガイ デ フュウ コン ヘ」
唱え終わると、緊張した面持ちで陣の中心を見つめる。
そして数秒後、綿毛から煙が立ち上がり始めた。
「「おぉ!」」
思わず感嘆の声を漏らしたシェルツとピッツの目の前で、煙は火となり、燃え盛り始めた。
『素晴らしい! 初めての精霊術を一回で成功させた人を、私はこれまでに見たことが無かったよ!』
嬉しさと驚き、困惑が入り交じった表情で固まる心音の肩を、高揚したピッツがバシバシと叩いた。
シェルツも嬉しそうに手を叩き、やったねと声をかける。
『君は素晴らしく精霊術の才能に長けていると見た! さぁさぁ色々と実習してみようか!』
実演前までの泰然とした様子からは打って変わってハイテンションとなったピッツにより、あらゆる精霊術の基礎を叩き込まれる運びとなった。
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五日ほどかけて、一通りの精霊術の基礎、いくつかの応用を学んだ。シェルツは状況報告も兼ねて一度街へ戻ったが、心音は泊まり込みで修練に励んでいた。そして最終日、ピッツは最後の仕上げとばかりに、街から戻ったシェルツと心音に告げる。
『実習中に説明した通り、精霊術は精霊が豊富に存在する場所でないと十分に効果を発揮できない。そこで、精霊術士と名乗るものは皆どこでも精霊術が行使出来るように、手持ちの道具に精霊を住まわせている』
そう言ってピッツは首から下げた金属製のペンダントを見せた。中心に嵌め込まれた石が綺麗に輝いている。
『精霊は金属や鉱物を好む。しかし魔素は好んでも純度の高い魔力は嫌う。故に、生物の生息が少ない鉱山から取れた素材を加工したものをよく使うのだが……』
そこまで言って、心音に向き合う。
『何か、条件に適当な道具はあるかね? 常に持ち歩くのだから愛着のあるものが良い』
実際問題そんなに都合よく条件に合うものを持っている者は少なく、一応とばかりに聞いただけである。
しかしシェルツには覚えがあったようだ。
『コト、あの金属製の楽器は?』
森でその音を聴いた際、興味深さで楽器を観察してみたが、熊ネズミを追い払う力があるのに魔法的な力を感じなかったのを思い出したのだ。
心音は少し躊躇しながら、レザーケースからコルネットを取り出す。愛機であるそれを、得体の知れないものの住処にするには、少し抵抗があったのだ。
『ほぅ、見たことの無い工芸品だ。楽器、と言ったかね? 見事な造形美だ。さぞ高名な品なのであろう』
ピッツはしげしげとコルネットを観察した後、よし、と顔を上げた。
『魔力の気配も全くない、いやはやどこで手に入れた鉱物で鍛え上げられたのか。精霊の住処にピッタリだ。早速、精霊付与の儀を執り行おう』
付いてきたまえ、と足早に部屋を去るピッツに、二人は慌てて後を追った。
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案内された先は工房の中庭であろうか、小さな森林がそこにあった。自然豊かな空間で、空気がすっと肺に染み渡るようであった。
『精霊たちが、飛び交っている』
シェルツが思わず呟く。精霊術の発現もしていないのに目視で感じるその感覚は、街では有り得ない光景であった。
『精霊が好む空間を演出しているからね。こここそがこの工房の真髄だよ』
感動するシェルツを余所に、魔法的な存在に未だ慣れていない心音は、精霊の存在をハッキリとは感じきれていなかった。
少し困惑する心音に、シェルツが思い出したように言った。
『そうだ、楽器の音を聴かせてよ。そしたら、コトにも感じられるかも』
ティーネから、心音の演奏に精霊が反応していた、という話を聞いていたことが頭を過ぎったのだ。
よく分からないまま、それに従い心音は楽器を構える。何を吹こうかと少し悩み、意を決して息を吹き込む。
グルック作曲【精霊の踊り】
歌劇オルフェオとエウリディーチェの第二幕で演奏されるこの曲は、天国の野原で精霊たちが踊る場面を表現している。
精霊の存在は薄々と感じている心音は、ピッツとシェルツの会話を聞いて、この曲がピッタリだと思ったのだ。
空間に広がる優しい音色。大自然に語りかけるようなコルネットの甘い囁きが飛び交い、次第にそれは視覚として現れ始める。
「……!」
心音は演奏は続けたまま、目を丸くする。
森林が、世界がキラキラと輝き始めたのだ。
高濃度の魔力や魔素、そして活性化した精霊の存在は、五感に影響を与えることがある。魔法的な感覚を持たない心音にも分かるくらいに活性化した精霊の存在は、明確に視覚情報として現れていた。
演奏を終えた心音に、シェルツが声をかける。
『精霊たちはやっぱりコトの演奏がお気に入りみたいだね。どう? こんなに綺麗な存在なんだ、少し警戒も薄れたかな?』
心音は、ゆっくりと頷いた。
超常的な存在を目の当たりにして驚きつつも、この五日間の経験を思い出し、この子達とならずっと一緒でもいいかも、と思えてきたのである。
『いい音を奏でるね。とても興味深い。さ、こっちだ』
ピッツに導かれ、二人は森の中心へと進んだ。
まさに精霊たちの楽園とも言えるその場所の中心には、複雑な陣が敷いてあった。
『さぁ、その陣の中心にそれを置きたまえ』
心音は暫くその中心を見つめた後、意を決したように楽器を置いた。
『では、コト君は中心から少しだけ離れて、膝をついて祈りの姿勢を』
大きな陣である。中心から少し離れるが、十分に陣の中に収まっているその場所で、心音は片膝をついた。
『精霊付与の儀を執り行う。その間決して音を立てないよう』
ピッツはそう言うと、儼乎たる様子で呪文を呟き始めた。祝詞のようなそれは小さな声で、シェルツは全く聞き取れなかったが、集中力を高めた心音の耳には確かに届いていた。言葉の意味は微塵も分からない。ただ、それは美しくまるで音楽のようであった。
次第に、森林のざわめきが大きくなる。
空気のように遍在する煌めきが、集まって一つの本流となっていく。それはどんどんと勢いを増し、大きくなった輝きは指向性を持ち始め、陣の周りを回転し始めたそれは徐々に中心へ向かい――――
――――心音ごと中心を包み込んだ。
『なっ……!! コト君!!』
どうやら想定していた事態とは違った現象が起きたらしく、思わず儀式を中断してしまうピッツ。
事の異常を察したのか、シェルツも慌てて駆け寄ろうとする。しかし精霊の奔流は激しく、近寄るどころか目を開けているのも難しかった。
数秒だろうか数分だろうか、感覚が狂うような空気の中、ようやく目の前の事象が落ち着き、光の中から祈りの姿勢を保ったままの心音が姿を現す。
『コトッ!! 大丈夫!?』
すぐさま駆け寄るシェルツの後ろで、ピッツはどこか呆然としている。
「こんな現象、今まで聞いたことも無い……。魔力を嫌う精霊は持ち主を避けて道具のみに……いや、そういう事なのか……?」
呆けた顔で思考を垂れ流しにしているピッツを後ろに、駆けつけたシェルツは心音の肩を揺する。
『コト? ……コト?』
心音はゆっくりと目を開け、ハッとしたように顔を上げた。周りを見渡し、何が行われていたかを思い出した様子で、シェルツの方を向いた。
『よかった、無事みたいだね』
シェルツは深く安堵のため息を付くが、次の瞬間起きる異変に再び固まることとなる。
『……凄い光だったなぁ。なんか、あったかい感覚がする』
心音の口が動き、小さく独り言を言ったようである。勿論その日本語はシェルツに伝わるわけがない。しかし、その意味は確かに伝わっていたのだ。
『……え? 今のコト? コト、対外念話使ってるの?』
それに対して、心音は首を傾げて呟く。
『対外念話? ぼくが?』
シェルツのもしかして、は確信に変わった。
『ちょっと、ピッツさん! コトが対外念話を! って聞いてます?』
シェルツが振り返ると、ピッツはブツブツと呟きながら近づいてきていた。
「彩臓を持たず魔力を持たない純粋な身体だったから精霊が好んだのか? しかしあれ程純度の高い工芸品を目の前にそれでもヒトの身体に宿るとは。そして魔力を持たないものが対外念話だと? 自分の身体を触媒に、精霊を介して魔法と見分けのつかない精霊術を行使している? しかしそんな事例は……」
俯いて向かってきたピッツに、ぶつかりそうになったシェルツは慌てて手を肩に突き出して止める。
『おおっと、すまない考え込んでいた。精霊術の歴史は長いが、こんな事象は今まで確認されていなかったんだ』
事のイラギュラーさに、ようやく心音も事態を認識し始める。
『もしかして、ぼくの言葉が通じてるんですか? ぼくの中に精霊がいるんですか?』
心音の可愛らしい声がシェルツの鼓膜を揺らす。新鮮な気分である。
『そうみたいだよ、コト。なんだか不思議な感覚だけど、これからは会話も出来るみたいだね』
ははは、と思わず笑みがこぼれる。シェルツにとって、だんだんとこの異常事態が愉快に思えてきた。
心音にとっても思わぬ進展である。じわじわと楽しさが込み上げてきて、シェルツと一緒に笑い始めた。
森林に響く笑い声を背景にピッツは、これは新しい時代を目の当たりにしたかもしれない、と嬉しそうにひとりごちた。




