第一楽章 落とされた世界で
失われていた意識が覚醒する。
夢さえ見ずに熟睡していた時のような感覚。
しかし、身体はその爽快感を感じることはなく、むしろ熱を上げた時のようなダルさが支配している。
「ん……あれ、ここ、どこ? 燃えてる……夢? じゃない、熱い!!」
目覚めた視界に飛び込んできたのは、真っ赤に燃え上がる世界。市街地のようであるが、原型を留めている建物はただの一つもない。
燃え盛る火炎の種となっているのは、おそらく衣服であったもの、建物を構成していたであろう木材、 食用なのか燃料なのか油の類、そして......人型の......
「――――っ!? うぅっ」
込み上げてくる嘔吐感を必死に押し留める。
「何!? なんなの!? 大火災? テロ? 戦争? 訳わかんない誰か教えて……」
混乱する思考。理解力が目の前の景色に追いついていない。確実に感じるのは、全身を襲う熱波と死の気配。
「ここにいちゃダメっぽい。とにかく火から離れなきゃ」
空気で押しつぶされているような倦怠感を感じながら、とにかく安全な場所を探そうと、歩みを進めることにした。
♪ ♪ ♪
しばらく歩いて分かったこと。
どうやら、ここは住んでいた街とは違うようだ。原型を留めていないとはいえ、建物の配置が違うこと、公園などの目印になる広場がないこと、そして街の中ならどこにいても見えていた裏山が見当たらないことから明白であった。さらに言えば、道路がアスファルトではなく、全てレンガなのだ。
「違う街に連れてこられた……? というか、もしかして日本ですらない?」
燃え続ける木製看板に記されている見たことの無い文字を見て、その疑念は強まる。
「外国語は得意じゃないけど、アルファベットでもキリル文字でもないよね? 誘拐されてテロ組織にでも売られたとか?」
冷静さを取り戻してきた思考が、現状をなんとか把握しようと推察を巡らせる。が、正解を導き出すには材料が少なすぎた。
「誰か、生きている人に会いたい……」
その願いは叶わず、街の外れに着くまで、生存者は終ぞ目の前に現れることはなかった。
しばらく歩いた後、目の前に巨大な白い壁が立ち塞がった。
「これ、もしかして城壁? こんなにおっきい門初めて見た」
通れるのか確認しようと近づいてみると、どうやら門は僅かに開いているようだった。
「門番さん……もいないみたい。そうだよね、この状況じゃお仕事どころじゃないよね」
やはり生きた人間に会えなかったことに落胆しつつ、門の隙間に身を滑らせる。
「んしょっと。……わぁ、これはまた酷い」
門の外に広がっていたのは、土が踏み固められた一本道と、視界いっぱいに広がる大草原……であったであろうもの。大自然を表す緑色は一切なく、その全てが茶色く枯れ果てていた。
「枯れているのに原型を留めているってことは、枯れてからまだ間もないってことかな? 除草剤でも撒かれたのかな」
現状を冷静に分析しつつ、そんなに取り乱していない自分にも驚きつつある心音。生存本能が、受け入れられない現実を後回しにしているのだろうか。
「とにかくここにいるのは良くない気がする。早く人のいる場所まで逃げなきゃ」
呼吸を整え、重い足を確実に前へ運び始めた。
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どれだけ歩いただろうか。
持っていた水筒のお茶は全て飲みきった。いつもカバンに忍ばせていたチョコレートの箱も、既に空っぽ。
時計は学校の裏山で最後に確認した五時三十七分で止まったまま。確実に分かるのは、太陽の見えない曇り空の下、二度は夜を越しているということ。
徐々に現実を受け止めつつ、何も頼るもののない現状に不安で泣きながら歩いていたが、もう涙を流す水分すら枯れている。
「こんなに歩いても草原以外見えないだなんて、やっぱり日本じゃないよね。喉乾いたよ、おなか、すいたよ」
いつも楽しそうに笑みを浮かべていた表情も衰弱しきっており、呼吸する息も荒い。
倒れてしまいたいが、そうすると待っているのは現世との別れ。視界を下に向けたまま、重い足を前に出し続けた。
♪ ♪ ♪
更にあれから、どれだけ歩いたのか。一度仮眠をとってから昼夜一巡するだけ歩き、気づけば今まで風の音しか入ってこなかった耳が、懐かしさすら覚える響きを捉える。
「これって、小鳥、のさえずり?」
それが示すのはつまり、生きている自然がそこにあるということ。
はっ、として顔を上げると、いつの間にか目の前に森林が広がっていた。
「森、だ。もしかして、何か食べられるものがあるかも。少なくとも飲水くらいは……」
薄れる意識を奮い立たせ、森の中に足を踏み入れた。
道なき道を往く。幸運にも、森の中は木の実や果物で豊富であった。待望していた食料に、毒の可能性すら意識の端に追いやり飛びつくが、やはりこれも幸運と言うべきか、身体に不調をきたすことは無かった。
「このリンゴっぽいのが一番美味しいかも。カバンに入れとこーっと」
食事をとることで元気が出てきたが、やはり身体は疲労で悲鳴を上げている。
「少し、休めるところが欲しいな。暗くなる前にどこか落ち着けないと。どっかいい所ないかなぁ」
日が暮れてきたようで、木々の下、闇が濃くなりはじめる。
「ギュゥゥゥゥ......」
耳慣れない音が森の中に響く。
お腹の音じゃないよね? と首をかしげつつ周囲を見やると、赤い三つの点が闇の中に浮かんでいる。
心臓が跳ねた。嫌な予感が全身を駆け巡る。
「ギュゥゥゥゥ!!」
途端、赤く目を光らせ額に赤く光る角を持った、人の身の丈ほどはあろうかというネズミのようなものが飛びかかってきた。
「きゃぁぁ!?」
あまりのことに驚いて尻もちをついてしまう。それが幸いし、頭上を巨大ネズミが通り過ぎた。
「いやいやいや、あのサイズはありえないでしょ!!」
跳ね上がった心拍数が全身を強制的に滾らせ、いつのも倍は速いのではないかというくらいの速度で心音は駆け出した。
高速で流れゆく視界。しかし足元は決して良いとは言えず、暗い景色は進む道を惑わせる。そして、身体は既に疲労困憊な上、巨大ネズミの速度は想像以上に早かった。
「ギュヮァァ!!」
「ひぃぃぃぃ!!」
何度も紙一重のところで巨大ネズミの繰り出す爪を躱しながら、森の中を疾走する。どうやら巨大ネズミは直線的な動きしかできないようで、急に進路を変えることで追跡を再開するまでに一瞬間が空くらしい。
この調子ならなんとか逃げ切れるかも? と希望が見えてきたところで――――絶望は真横から現れた。
「ギュゥッッッ!!」
「いっっっっ!?」
巨大ネズミは、確かに背後から追いかけてきていた。もう一体いたのだ。真横からの奇襲に、左肩が鋭利な爪で抉られた。
(痛いっ、熱いっ、あつい、アツい、血が、血がいっぱい出てる!)
溢れる涙で視界をぼやけさせながらも、大量に出たアドレナリンが痛みを隠し、足を前へ回し続けさせる。
木々から飛び出す枝に身体をズタズタにされながら、走り、走り、走り、そして景色が一変する。
暗闇から飛び出した心音が目にしたのは、月に照らされる湖。透明度がかなり高いようであるが、魚の類は見当たらない。湖から半径十メートルほどには木々は生えておらず、若々しい緑の草地が広がっている。月明かりで輝いているように見える湖は、とても神秘的な光景に思えた。
「はっ、ネ、ネズミは?」
慌てて後ろを振り向くと、木々の隙間から覗く六つの赤い点。どうやら、森の中からこちらに出てこようとはしないようだ。
不安は消えない。が、一先ずの危機は乗り越えたことを理解し、湖の傍に腰を落とす。落ち着いたことで力が抜けたようだ。そのまま本能に従い、重い瞼を閉じた。