4-13 凪
静かにさざめく深緑。
まるでそこだけ切り取って額縁におさめたように、外界の騒動を知らない森林。
王都ヴェアンからの〝次元転移〟の先に広がった〝凪の森〟は、あの日のまま変わらぬ姿で風に揺られていた。
普段は立ち入る人がいない森であるから、遊歩道が整備されているわけでもない。あの春にシェルツたちが受けた依頼の原因たる魔物たちが残した獣道が、吸い込まれるように森の奥へ伸びている。
もはやほとんど痕跡が消えかけているその獣道を、心音たちは再び踏みしめる。
あの時もこの道を通ったはずだね、と記憶を辿るシェルツを信じ、冒険者五人は再び凪の森へ身を投じた。
「やっぱり、ここじゃ上手く魔法が作用しないわね」
索敵の魔法を走らせようと手を伸ばしていたアーニエが、確認するように呟く。それに同調するように、シェルツも額にかざしていた手を下ろした。
「〝視覚強化〟ですら維持が難しいね。あの時よりも魔法の阻害効果は強まっているみたいだ。印は残しているけれど、遭難には気をつけなきゃね」
木々に線上の切り傷を残しながら、できる限り直線的に歩みを進める。
馬車で進むことが出来たあの頃と比べ随分と道は狭くなったが、記憶にある限り以前と同じ経路を辿っているはずだ。
それを証明するように、間もなくして拓けた土地に抜け出した。
「おお、懐かしいじゃねぇか。ここで拠点を設営していたら、シェルツがコトを連れてきたんだ。あん時のコトは、まだ言葉が話せなかったんだったな!」
「〝対外念話〟も使えなかったですしねっ。代わりに演奏をお届けしました」
「見たことない服に、初めて見る楽器。シェルツがとんでもない厄介事を持ってきたんじゃないかって思ったわよ」
「シェルツさんのお人好しが今この時に繋がっていると思えば、実に感慨深いですね」
思い出話に僅かな花を添え、一息。シェルツは太陽の向きで方角を合わせ、心音と記憶をすり合わせる。
「たしかコトと一緒にこの広場に戻ったのは、大きめの岩がある……南の方角だったよね。その先、コトが一人で魔物から逃げてきた方角――不思議な力を持つ湖の方角は分かるかな?」
「えっと、必死だったので定かではないんですけど……その場まで行けばもしかしたら思い出すかもですっ」
「頼むわよ、コトの記憶頼りなんだから」
心音とシェルツが初めて出会った場所。そこまではシェルツの記憶を頼りに進んでいく。その先は自身の記憶が鍵を握っていることに心音がそわそわしていると、そう時間はかからずにその場所まで辿り着いてしまった。
「木々の配置、熊ネズミの骨、ここで間違いないね」
「ここでぼくは間一髪のところでシェルツさんに助けられて……」
風と共に現れたブロンド色の髪に、宝石のような碧眼。正に命の危険から救ってくれたその剣士との鮮烈な出会いを思い出し、胸が高鳴る。
思えば、自身の気持ちはその時にはもう……。
その先を考えている時ではない。
心音は首をぶんぶんと横に振り辺りを見渡す。
命からがら駆け抜けた森の景色など、当時は注視する余裕は無かった。
自身の記憶が頼りなのに、このままでは力になれない――。
責任感と焦燥感が胸中で渦巻き始めたところで、心音はふと異質さに気がつく。その正体を特定すべく、草木を分けその異物に手を伸ばせば――。
「……あっ! これ、ぼくが食べたチョコレートの箱です!」
赤いパッケージに印刷されたチョコレートの写真。記される文字は英字と日本語。この世界ではあり得ないその異物を手に取り、もはや遥か昔に感じるあの頃の記憶を想起する。
「そっか、ぼくはこっちから走ってきてたみたい」
状況証拠が脆気な記憶を補強してくれる。何かに導かれるように歩み始めた心音に追従し、冒険者五人は再び森林内を分け進んだ。
幾分か歩き、感じてくるのは風の気配。森の外から流入するものなのか、或いは拓けた土地がこの先にあるのか。
その答えは、昼下がりの陽光と共に心音たちを照らし出した。
「見つけました! あの時の湖ですっ」
湖面が揺れることも無い、静謐な湖。鬱蒼とした森林の中にあって、陽の光を受け反射するそこは神秘的な空気すら感じる。
アーニエが手のひらを上に向け少し、首を横に振る。
「……こりゃすごいわね。魔法の発現がこれっぽっちもできないだなんて」
広い湖畔を見渡し、心音は当時を回想する。
森に自生していた果物をかじり、一時の安寧を得たこの場所。湖水を傷口にかけたら楽になったのは、今思えば魔物の爪を伝って蝕んでいた魔力が浄化されたからなのだろう。
「さて、この湖が持つ魔力分解の作用が何によるものなのかを調査しないとね」
シェルツがそう言い湖に近づくと、心音の中から飛び出した大精霊がそれを制止する。
『少し待つのじゃ、ヒトの子よ。この意志らにしばらくの時間をくれまいか』
『ちょっとこの至上たちも困惑していてね。この気配はまさか……』
大精霊二柱の動きが止まり、何かに集中している素振りを見せる。その内容は常人には知り得ないことであるが、精霊の機微に聡い心音だけは感覚として捉えることができた。
(あ、大精霊さんたち、ここに住んでる精霊さんたちとお話ししてるんだ。この森で得られる魔素の質、どうしてここに集まっているのか、何に集っているのか。その名は……?)
精霊同士の意思疎通は余りに高速で、断片しか捉えることが出来ない。ただ、この湖に住まう何かを中心に精霊たちが巡っているということは理解出来た。
概ねの情報交換は終わったのか、いつもの様子を取り戻したハインゲルが心音に意思を伝える。
『少し、場を騒がしくするよ。キミたちに危害は加わらないと思うから、じっとしていてね』
ハインゲルが全身の毛を逆立てると、湖全体を囲む雷の輪が出現する。それはバチバチと紫電を走らせ、エネルギーを高め勢力を強めていき――――
『やっぱり来たね。まだ知らぬ存在よ』
雷が瞬間で残敗する。そしていつの間にか湖の中心に出現していた白い毛玉……タンポポの綿毛のようなそれが、小さく鳴くような意思を発する。
『(ゆっくりしずかな……このもり……みだすのは……だれ?)』
無色、中性、無垢。
限りなく印象が揃いその意思に対し、ヴェデンが言葉を返す。
『眠りを妨げてしまいすまぬの。じゃが、この意思らと同じ気配を持つお前さんには問わねばならぬのじゃ。ここに住まうようになったのは、いつからじゃ?』
しばらくの沈黙。そしてそれを破るのは、変わらず静かな意思。
『(ここでは……ときのながれはちいさなもの……うまれたときのきおくは……あわみたいにはかない)』
『……ふむ、どうやら大精霊として生まれてから日が浅いと見える。ここ数年で自我が芽生えたといったところじゃろうか』
ハインゲルが割って入る。
『少しこの至上も焦っていてね、すぐにでもキミの力を借りたい。この世界を助けるためなんだ、ついてきてくれるかい?』
『(この心が……てだすけするりゆうは……なに? この心は……このもりのへいあんだけが……たいせつ)』
『そうかい、それなら実力行――――』
『(この心はみとめず)』
ハインゲルの魔法発現の気配が上がった途端、冒険者たちと大精霊二柱が地に伏す。
急に力が抜けた四肢に困惑しながらも、ウェデンは言葉を絞る。
『よもやこれほどまでとはの。魔力の働きを制限するばかりか魔素の発露すら阻害しうることは先のやり取りで掴めてはいたが……これでは魔力や魔素に身体制御を依存する者はもはや太刀打ちできまい』
『くっ……俺も立ち上がることすら辛い。みんなは大丈夫――?』
シェルツは息を飲む。
ヒトも、大精霊も、誰もが活動を許されないこの場で、たった一人毅然と立つ姿があった。
その少女は、ゆっくりと楽器を構えて優しく桜色の髪を揺らす。
『大丈夫だよ、こわくないから。ぼくたちは、あなたと友達になりに来たんだから』
――そうか、コトは生命活動を彩臓に依存しないから。
そう合点するシェルツの目の前で、心音はゆっくりたっぷりと呼気を肺に取り込み、歌口から想いを注ぎ込み朝顔を震わせた。
J.S.バッハ作曲【G線上のアリア】
奏でられるメロディは、ヴァイオリンで最も豊かな音色が鳴るG線だけで演奏が可能である美しい響き。
静謐な湖畔にビロードのようなコルネットの音が響き渡り、木々がそれを反響させる。
自然と呼吸が落ち着くようなゆったりとした流れに、湖の主も怒気を沈めていく。
『(ふしぎなねいろ、ふしぎなひと。この心とおなじあたたかさを、あなたからかんじる)』
呼び寄せられるように、湖の主は心音に近づいていく。そしてじっと心音のことを見つめるように静止した後、どこか柔らかさを感じる意思を心音に伝えた。
『(あなたのなかの、るふたちは、あなたのことがだいすきなのね)』
そして、ふよふよと心音の周りを深い一周、再び心音の正面に戻れば、無垢な想いを伝えてきた。
『(この心も、ついていっていい? あなたのいきかたを、ちかくでみさせて)』
『うん、一緒においで!』
頷き返した心音の中に、毛玉が吸い込まれていく。そして心音の中から、少し大切そうに想いを伝える。
『(この心になまえをつけて。あなたとともにあるために)』
『名前、名前かあ。ん〜と、あなたは凪の森で静かに生まれた大精霊さんだから……なぎさ。ナギサって呼ぶね!』
『(ナギサ。この心は、ナギサ)』
名前を受け、存在としての確かさを強める。そして自身の中の一部となった瞬間、心音はその力の全容を感覚的に理解した。
(そっか、ナギサが持つ力は単純に魔力や魔素を阻害するだけじゃなくて、この力は――――)
理解すると共に、世界を救うための確かな力であると確信する。
希望と気概に満ちた瞳を振りまき、心音は仲間たちに宣言した。
「きっとヨシュカ王を止めることが出来ます! ヴェアンに帰りましょう!」
得た力の情報を仲間と共有し、その後次元転移の魔法回路を構築する。この先は正真正銘の最終決戦である。旅で得た全てを胸に、音たちは次元転移の門へと飛び込んだ。
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