2-17 深き淵より叫ぶ
なんだかぼんやりとする。
夢心地から覚醒した心音は目をこすり顔を上げる。その先には魔王が足を組んだ姿勢で階下を望んでいた。
『ほう、覚醒が早いな。根源とまではいかないが、カナデコトの胸の内は覗かせてもらった。ふん、この世の中にあって随分と稀有な思想をしている』
『えと、ありがとうございま……』
少し、驚いた。それは、笑みと言うには小さな、それでも魔王が見せた初めての好意的感情だったからだ。
『何を不思議に思うか。我とて王である前にヒトだ。愉快に思えば笑みの一つも漏らそう』
『わ、いえ、すみませんっ。ぼく失礼なことを……』
『よい、コトから見れば我は得体の知れぬ国の親玉だろう。さて……』
魔王の雰囲気が変わる。柔らかさのあったそれが引き締まったのを感じ、心音も気を引き締める。
『コトの根源に触れることは叶わなかった故、報酬をくれてやることもできなかった。だが、コトの胸の内からは十分な期待を得られた。よって、コトが一番喜ぶモノをくれてやろう』
『一番喜ぶモノ、ですか……?』
想定されていた報酬がどんなものだったのかは検討もつかない。ただ、今こうして別途与えられるとなれば、内面から獲得しうるものではない何かが期待されるのだろうか。そして心音が最も欲するものと言えば、それは元の世界に変えるための――――。
『どうやら勘も鋭いようだな。コトの中身を見て我もよく分かっている、お前がどれだけ元の世界に帰りたいかは、な。よって、その助けになるであろう欠片を分け与える約束をしよう。
――我が古より守りし〝収束魔法〟。
我にも考えがある故今すぐ与えるわけにはいかぬが、魔王が約束を違えることはないということは誓おう』
『古代の魔法、ですか!?』
それは心音にとって願っても止まない知識の結晶。今まで得てきたものと掛け合わさり、それは乗算的に故郷への可能性に近づく。
喜びと驚きでいっぱいいっぱいになっている様子を見て、魔王はクツクツと笑みを零す。
『期待に漏れぬ反応、結構結構。このことは我らだけの秘密とせよ。触れ回られては不都合でな』
『分かりましたっ! 絶対に絶対に守ります!』
思いもよらぬところで、可能性が一気に広がる。心音の熱が冷めるまで、魔王は愉快そうにその様子を眺めていた。
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興奮冷めやり、いつの間にか靄が切り払われていた思考を巡らす。そうだ、皆の様子は――――。
『同胞どもの状態なら心配せずともよい。なに、深淵を覗かせてもらったのだ、少しだけ戻ってくるのに時間がかかっているが――――なるほど常在戦場の意思があると見える、よい仲間たちであるな』
小さな呻きの後、アーニェが身体を起こす。それを追うようにヴェレス、エラーニュも意識を取り戻したようだ。
「あー、頭いた……。思い出したくもないこと無理やり覗かれた気分だわ」
「ああ。でも悪い気はしねぇな」
「その様子ですと、お二人も何か掴んだものがあるようですね」
「アーニエさん! ヴェレスさん! エラーニュさん!」
安心感を声色に変えたような心音の声を受けて、三人は立ち上がって身体の様子を確かめながら反応を返す。
「コトも……ええ、元気そうね」
「つーか、元気すぎねえか? オレはどうもぼんやりするぜ」
「純粋に過去思い出す、というよりはまるで自身のことを客観的に追体験したかのようでした」
やや覚束ない足元も、話しているうちにしっかりとしてくる。彼らの身体に異常はきたしていないようで、心音はそっと胸をなでおろした。
「皆さんも元気そうで良かったですっ。ぼくは、皆さんとはちょっと違う形で魔王様に自分のことを伝えていたみたいで……だから意識がはっきりするのが早かったみたいです」
「なるほどね、あんた普通じゃないものね。なんにせよ、これであたしらのことは魔王様に伝わったのかしら?」
「いや待て、シェルツがまだ起きてねぇ」
周囲に注意を向ける余裕ができ、仲間たちの状態を確認したヴェレスが低い声音を落とす。
声を受け残る椅子に皆が視線を向ければ、そこには苦悶の表情で半ばうなされるような呼吸のシェルツが深く腰掛けていた。
「息が荒いです。放っておけば過呼吸になる可能性は否めませんが……」
「あたしらと同じだとしたら、あまり見たくないものを思い出させられてるんでしょうね」
『えと、大丈夫なんですか……?』
心配そうに見守る冒険者たちを余所に、魔王は冷徹にも退屈そうにも見える表情で語る。
『大丈夫かどうかはそいつ次第だ。何せ、その者が戦っているのは〝今〟なのだからな』
『今、ですか……?』
疑問を返す心音の背後、ゆらりと動いた人影にエラーニュが反応する。
「シェルツさん? お目覚めですか。ですがすぐに立ち上がっては……」
「俺は……ここに居てもいいんだろうか」
「……いったい何を?」
幽鬼のように漂う金髪の剣士。様子がおかしい仲間の姿に、ヴェレスが眉を顰める。
「シェルツお前、何を見た? 戻ってこれたのなら、何かが得られたんじゃねぇのか?」
「何か……? 俺には何もないよ、ヴェレス。君のような強靭な肉体もね」
「どうしちゃったのよ、らしくないわね。いつもの余裕はどこにいったのよ」
「そうだね、俺なんかより遥かに魔法技術に長けたアーニエには分からないかもしれない」
「……精神に異常が見えます。落ち着いてくださいシェルツさん、あなたはわたしたちのまとめ役じゃないですか」
「そもそも俺がみんなと一緒にいたのがおかしかったんだ。何にも秀でていなかったんだから」
自己を蔑む彼の表情は、俯いた先に隠れて分からない。ただ明らかに異常である彼の様子に焦りを滲ませながら、心音が叫ぶように呼びかける。
「シェルツさんは何回もぼくのことを守ってくれました! ぼくにとってシェルツさんはヒーローです!」
「はは、たまたまそこに俺がいただけだよ。ヴェレスやアーニエの方がうまくやれたさ」
ゆらりと持ち上げられた首、ようやく見えたシェルツの瞳は光を失っていた。
その暗い碧眼が、心音は恐ろしく感じてしまった。
自分が大切に思っていた人が、遠くに行ってしまったようで。
しばらく静観を貫いていた魔王が、玉座の上から静かな声を叩き落す。
『シェルツ・ヴァイシャフト、お前に問いをくれてやる。己の目的のために戦う意思はあるか』
『……俺には目的が分からなくなりました。大切なものを守る――今までそれだと思っていたものは、きっと俺がいなくても問題がないだろうから』
『そうか、興覚めだ』
途端、四方から短い悲鳴。
シェルツが跳ね上がるように周りを見渡せば、四人の冒険者たちが金色に光る枷に四肢を縛られていた。