2-11 アーニエ
「ねぇねぇママ! 小さいカニさんがいるよ!」
「あら、素敵じゃない。でもちょっと待っててねアーニエ。川の水を少し採取しなきゃ……」
「おーいママ! やっぱりこっちの岩から魔力分解の反応があるみたいだ!」
「本当? 流石パパ、いい着眼点だったわね!」
夏の日差しが清流を煌めかせ、河原が貫くのは青々しい山間。
一族で魔法研究をしている一家は、一人娘のアーニエが八つになって少しした頃、研究のためヴェアンの自宅を離れ山奥の集落に滞在していた。
父エルダと母アンシェが大自然の中研究に没頭する中、アーニエも気ままに物珍しい自然と触れ合っていた。
「この岩は……火成岩の一種か。この山が休火山になって歴史的にも久しいはずだけど、本当に美しい形で残っているね」
「大自然のエネルギーが魔力にも作用してるのね。これは面白い研究テーマだわ!」
大いに盛り上がる父母を見て、少し離れた位置でアーニエはカニを掲げていた腕を下ろす。
いつも甘やかしてくれるし、愛されている自覚もあるが、やはり研究中の彼らには入り込む隙がないようだ。
しかしそんなアーニエも、ここで一人ぼっちという訳ではなかった。
「あら、アーニエちゃん。可愛いカニさんね」
「レシーお姉ちゃん! そうなの、足とかわさわささせてるのよ!」
山奥は危険な野生動物や低級の魔物も彷徨いている。その為に両親が雇ったのが護衛のための冒険者であった。
三人の冒険者のリーダーである女性冒険者のレシーは、常に携える大きな杖を器用に扱って川の水から水球を作った。
「ほーらアーニエちゃん、何が見えるかなー?」
「んー……あっ! 小さなお魚さんね! あたしまだ捕まえたことないわ!」
水球の中で忙しなく泳ぎ回る小魚に興奮を露わにするアーニエ。特別危険な地域という訳でもないため、護衛の冒険者たちはよくこうしてアーニエと遊んでくれていた。
「川にだって、山にだって、まだまだ色んな生き物がいるわよ〜? 探してみよっか」
「うん、あたし探してみる!」
初夏の平和な一幕。
アーニエにとって、それは暖かで楽しい思い出になるはずだった――――。
集落に滞在して五日。研究のための史料も概ね揃ってきたところのようだ。
「そろそろ荷物を整頓しておいてね」と母に言われ、アーニエは寂しさを感じながら少ない荷物をカバンに詰める。
虫の音が聞こえる月の宵。
貸家の縁側で満月を眺めながら足をブラつかせていると、父母以外の、この場にはいないはずの声が降ってきた。
「お隣いいかしら?」
「……あら、レシーお姉ちゃん? どうしてここに居るの?」
「ちょっとお母さんにお届け物をね。ついでにアーニエちゃんにも挨拶しようかなって」
アーニエの横に腰掛け、縁側から月を見上げながらレシーは何となしに問いかける。
「アーニエちゃんも、やっぱり研究者になりたいのかな?」
「んー、よく分かんないけど、パパとママがやってることは楽しそう! まだあんまり上手じゃないけど、魔法も好きよ!」
「魔法って、面白いよね。アーニエちゃんはどんな魔法が得意なのかな?」
「火の魔法は少しだけ使えるけど……危ないからあまり練習させてもらえないの」
「あら、それなら水の魔法を練習してみたら? 水ならそんなに危なくないし」
レシーが手のひらを掲げると、小さな水球が現れる。ぐにゃりぐにゃりと形を変え、それはひとつの造形に落ち着いた。
「あ! カニさん!」
「ふふ、正解。これだけでもいい練習になるんだよ〜」
アーニエも真似をしようと、両手を掲げてぐぐっと力を入れる。しかし、一向に魔法が発現する兆候は見られなかった。
「ダメ、全然出来ないわ」
「力んじゃダメよ〜。魔法は、想いの力なの。どうしてその現象が起こって、どんな風に作用して、そしてそれがどういうものなのかを感覚的に知っている。色んな〝想い〟が組み合わさって魔法は発現するのよ」
「分かったわ! いっぱい勉強して、練習してみる!」
「いい子いい子。アーニエちゃんはきっといい研究者になれるよ」
レシーはアーニエの頭を優しく撫でると、ゆっくり立ち上がる。
「それじゃ、私はそろそろ帰るよ。アーニエちゃん、良い夢をね」
「うん、バイバイお姉ちゃん」
去りゆく冒険者を、アーニエは笑顔で見送る。
そんな少女の背後、眩いほどの満月が、ゆっくりと暗雲に飲み込まれるのを感じることもなく……。
ザーッ、という聞いたことがあるはずの、それでいて覚えのない規模の音。そして、ドタドタと屋内を走り回る音。
翌朝の目覚めは、騒がしさの中にあった。
「パパ! そろそろアーニエを起こしてきて!」
張り上げられた母の声が聞こえたと思えば、ガラリと部屋の引き戸が引かれる。
「アーニエ、起きてたか! とんでもない大雨だ、高台の集会所に避難するぞ!」
父は部屋に入るなりテキパキと荷物をまとめ、元々綺麗に整頓されていたアーニエのカバンにそれを詰めると、まだぼんやりとしているアーニエごとそれを背負った。
「ママー! 準備できたよ!」
「はーい! こっちもバッチリよ!」
表に出れば、整えられた大荷物を母が念動力で身に纏わせていた。
「魔力量にも限界があるわ。急ぎ足で行くわよ!」
滝のような雨に打たれ、そう遠くはない集会所に向けて行軍を始めた。
川は氾濫し、雨に打ち落とされたヤマモモは潰れている。
上手く見通せない視界の中、この雨が普通でないことをアーニエは肌で感じる。
普段は駆け足で数分もかからない集会所にたどり着いたのは、体感その四倍は過ぎた頃であった。
集会所の玄関で全身の雨水を絞っていると、駆け足で男性が一人やって来る。
「ああみなさん、無事でしたか! 護衛依頼中ですから真っ先に伺うべきでしたが、集会所の補強で手一杯で……いやはや、すみません」
「いえいえ冒険者さん。この大雨ですから、魔法による補強がないと集会所の安全性も危うかったでしょう。ありがとうございます」
頭を下げる男性冒険者に、エルダは労いの言葉をかける。
交代で魔法行使をしていたのだろうか、集会所の中を見ればもう一人の男性冒険者から放たれる魔力光が天井を覆っていた。
アーニエは集会所の中をキョロキョロと見回し、男性冒険者に焦りの滲む声をぶつける。
「ねぇ! レシーお姉ちゃんは!?」
「おや、アーニエちゃん。大丈夫だよ、レシーは今逃げ遅れた人を助けに行っているんだ。彼女は俺たちの中で一番強いから、心配は要らないよ」
すると丁度、今アーニエたちが入ってきた引き戸が開かれ、水を滴らせた男女数名が入ってきた。彼らを庇護するように最後尾に立つのは、この集落にいる冒険者の最後の一人であるレシーだ。
「モウル、この人たちを暖めてあげて! 出来るだけ雨は弾いてきたけど、体温の低下が著しいわ!」
「承知した! さ、みなさん靴を脱いでこちらへ」
今しがたアーニエの両親と話していたモウルと呼ばれた男性冒険者が集会所の中心部に被救助者を誘導する。そこには部屋を暖めるためのものか、魔法で発現させられた火球が浮いていた。
それを見届けて再び集会所を去ろうとするレシーを、アーニエは慌てて呼び止める。
「レシーお姉ちゃん! 外は危ないわ、行っちゃダメよ!」
レシーは声に応じて振り向き、アーニエの姿を確認するなり口元を緩める。ゆっくりと声の主の元に歩み寄れば、目線の位置を合わせて優しく諭す。
「まだこの避難所に来れてない人が三人いるの。大丈夫よ、お姉ちゃんはこれでも五段位冒険者って言うすごい冒険者なんだから。すぐに逃げ遅れた人を助けて戻ってくるわ」
アーニエの頭をふわりと撫でると、レシーは出入り口に向かい、魔力光を纏って風のように去って行った。
彼女の実力を疑っているわけではない。それなのに、どこかざわつく心を抑えられないまま、アーニエは扉の向こうから目を外すことができなかった。