2-10 ヴェレス
ズシンと重い音、遅れて巻き上がる砂埃。だだっ広い荒野に沈む、足だけで大人の男性ほどの大きさを誇る、象に似た魔物。
その前で仁王立ちするは、長大なハルバードを構えた熊のような大男……と軽やかに扱えそうな槍を握りしめる少年だ。
軍用魔物なのだろう、倒した獲物の額から鈍く輝く魔石を抜き取り、大男は少年に向けてニカッと笑みを浮かべる。
「〝身体強化〟が使いこなせればこれくらいは朝飯前だ! まぁ、コイツはちぃとばかし硬かったから〝武具強化〟も使っちまったがな、ガッハッハ!」
対する少年は、どこか大男にも似た笑みをその表情に映し、瞳を輝かせる。
「すげぇよオヤジ! そいつ、ぐんよう魔物、なんだろ⁉ 六段位冒険者パーティでも苦戦するヤツを一人で伸しちまうなんて、やっぱりヴェアンに〝荒くれヴァルザック〟有り! なんてギルドのねぇちゃんが言ってたのはホントだったんだな!」
「なんだぁ? ヴェレスお前信じちゃいなかったのか? 生意気な奴め!」
「うわっ、あぶねぇよ!」
戯れにヴァルザックと呼ばれる大男が向けたハルバードの一薙ぎを、ヴェレス少年は槍でいなす。そのまま訓練のように打ち合いを始める流れから、それが常であることが伝わる。
ヴェレスはヴェアンの下町で育った。母親はいつも家庭内のあれこれを切り盛りし、少し歳の離れた弟はまだ母親にべったり。そして父親は冒険者ギルドの皆から荒くれヴァルザックなどと呼ばれ、七段位冒険者として名を馳せていた。
強靭な体躯と〝身体強化〟から放たれる荒々しい戦い方から〝荒くれ〟などと呼ばれてはいるが、家庭内での彼は家族思いの優しい父親であった。
ヴェレスはそんな彼に憧れ、歳の頃三つの時には既に槍を構えて戦闘術の指南を受けるようになっていた。
ヴェレスも九回目の誕生日を迎え、弟も赤子ほど手はかからなくなったきた。ヴェレスが冒険者を目指すにあたって、本格的に魔物狩りの指導をしようと狩場に連れ出したヴァルザックが見せたデモンストレーションが、件の象の魔物である。
写し絵のように二人でシャツに染み込んだ汗を絞ると、日が落ち始める前に帰路に着く。
夜は夜行性の魔物や野生動物の領域だ。
「ここらの魔物なら目を瞑ってても敵じゃねぇよ」などと豪語してはいるものの、夜目が効きにくいヒトでは、守るものがあるならば尚更、分が悪い。いくら戦闘能力に絶対的な自信があるヴァルザックとて、愛息子をそんな中に晒したくはなかったのだろう。
「あら、おかえり二人とも! ほら、晩御飯出来てるよ!」
家に帰れば、恰幅の良い母親の元気で暖かい声がすぐに帰ってくる。
家族四人で囲む食卓は、ヴェレスにとって毎日の楽しみの一つであった。
回想してみれば、この頃が一番幸せだったのかもしれない。
その日も、いつもの様にヴェレスは父の引率の下、初段位級相当の野生動物相手に鍛錬をしていた。しかし、上手く型が決まり相手を制圧できたにも関わらず、いつもは飛んでくるはずの父の褒め言葉がこない。
「どうしたんだ、オヤジ? 森の方なんか見て」
不審に思ったヴェレスが動物を解放して父の元に歩み寄れば、ヴァルザックは低い唸り声と共に眉間に皺を寄せ、顔を背けたまま返答を落とす。
「ヴェレス、今日はお終ぇだ。森が普通じゃねぇ、すぐ帰るぞ」
「えー、まだオレ身体動かし足りねぇよ!」
「言うことを聞け。鍛錬ならいつでも連れてきてやっからよ」
怖いもの知らずの父が、危険度の低い地域の、それも高く昇った太陽の下で慎重になるなど珍しい。
それにもまたヴェレスは首を捻るが、どうも尋常ではない父の様子が少し怖くなってきたのか、素直に従うことにした。
また鍛錬に連れてきてくれる。その約束が果たされることを、この時のヴェレスは微塵も疑ってはいなかったからだ。
翌日、目覚めた時には既に父の姿は無かった。
珍しいことではない。専業冒険者であるヴァルザックは、良い依頼があれば時間を問わず家を空けることが多かった。
しかし、いつも豪快な笑みを絶やさない母が、珍しく眉を曇らせている。
「オフクロ、なんか元気ねぇな?」
「ああ、父ちゃんが出かける前に変なことを言ってねぇ。今日はヴェレスにはオレの武器を磨かせてろ、だって。普段は絶対に自分の武器には触らせないのに」
「ホントか!? やったぜ! オヤジ、カッコイイ武器たくさん持ってるもんな!」
聞くなり嬉々としてヴェレスは作業部屋に向かう。
その姿を見て、母は一層不安を深めた。
「あんた、そこまでしてヴェレスを家から出させたくないってことかい……?」
父は、何日経っても帰ってこなかった。
今までも突発的に二、三日開けることはよくあった。しかし、それ以上の期間、中長期的に家を空ける場合は、必ずどこにどのくらいの間遠征に出るのか言い残して出かけていたのだ。
父が出かけてから、三日ごとに来る休息日を迎えるのも既に八回目。募る不安を抑えきれなくなり、いよいよヴェレスが単身捜索に出ようかと画策し始めた矢先、遂に早朝の自宅の玄関がノックなしに開かれた。
「……オヤジ? オヤジだ!! こんなに長い間どこに行ってたんだよ!! …………オヤジ?」
待ち望んでいた父の姿を見た嬉しさと同時、捲し立てる勢いで詰め寄ったヴェレスの語尾が萎む。
いつも丁寧に磨きあげられていた防具は破損し汚れ、特注の重く硬いハルバードの刃は欠けていた。
「どうしたんだよオヤジ……。〝武具強化〟があればそのハルバードの刃は絶対に欠けることがないって自慢してたじゃねぇか!」
絶対的強者。揺らぐことのないみんなの英雄。
その像が揺らいでることを感じてかどうか、ヴェレスは声を震わせる。
慟哭の前兆にすら感じるそれを受けたヴァルザックは、ヴェレスに目線を落として弱々しい笑みを浮かべた。
「ヴェレス、オレは最強の個を目指していた。けどよ、世界は広ぇなぁ。ヒトには限界っつーもんがあんだな、知らなかったぜ。……ありゃあ、聖典でいう悪魔だ」
そのまま、よろりよろりと自室に向かう父を母が支え、ヴェレスの元から遠ざかっていく。
父に抱いていた神話に似た幻想が崩れていくのを感じると共に、信じていた父が遠ざかっていき帰ってこないことを悟ってしまった。
直観的に感じたそれを、信じたくはなかった。
だから、ヴェレスは幾日も幾日も、強い父の帰還を待った。
されども、父の背中は日を追う事に煤けていき、あの日から握ることが無くなった武器は埃をかぶっていく一方で、鉱業などと言う戦闘技術の要らない力仕事なんて始めてしまった。
「オレは強くなりてぇんだ! 戦い方を教えてくれよ!」
「どうしたんだよオヤジ、いつ鍛錬に連れて行ってくれんだよ!」
「失望したぜ! オレのオヤジはそんなに腑抜けだったのかよ!」
ヴェレスがいくら言葉を浴びせようと、ヴァルザックは笑みを忘れた表情のまま黙々と作業を続けるだけであった。
しつこく迫るヴェレスの態度がヴァルザックの中で嫌悪感として蓄積していくと同時に、父から向けられることの無くなった自身への関心がヴェレスの中で反抗心に繋がる。
親子関係に入った亀裂が広がっていくのは、必然であった。
関係性が修復されないまま、ヴェレスはただ強さを求めて修行を重ねる。そして、単身で初段位級の魔物を複数相手にして苦にならないと感じてきた頃、ようやく冒険者の認定試験を受験し、新しく出会った仲間たちと共に順調に三段位まで上り詰めた。
その頃には家庭内で会話を交わすことも無くなった父子。しかし、とある拍子に両者は激しくぶつかり合うこととなった。
きっかけは、ヴェレスが〝凪の森〟付近の掃討依頼を受けたと母に話したことだった。
何故それが父の不興を買ったのかは分からない。ただ分かるのは、出立しようとするヴェレスの前に、錆び付いたハルバードを構えてまで立ち塞がるほどの威圧を父が放っていることであった。
「……どういうつもりだ、オヤジ。今更扱えもしねぇ武器なんて構えてよ」
「〝凪の森〟には近づくな。オマエ程度じゃ尻尾を巻いて逃げることしかできねぇよ」
「あぁ? あの辺は精々二段位級の魔物がウロついてる程度だろうが。オレはもう三段位だぜ!?」
「たかが三段位、だろう」
ヴェレスの額に青筋が浮かぶ。
相手は父親。七段位冒険者。しかしそれは〝元〟だ。
――武器構えてんなら、そういう意思はあんだな?
怒りのまま、叫び声とともにヴェレスは父ヴァルザックに峰打ちを仕掛ける。
相手は数年で急激に老け込んだ引退冒険者。
残る理性で力を抑え、手心を加えつつも一撃でケリをつけるつもりだった。
――――だからこそ、次の瞬間に己の目で空を見上げている状況が理解できなかった。
「ほらな。オマエは老兵相手でもそのザマだ」
力は抑えた。しかし、型にはキチンとハマっていたし、的確に隙を突いたはずだ。
焦りと恥ずかしさ、それを隠す更なる怒り。
本気で組み伏せる。その意識で再びヴェレスは父に飛びかかった。
……まるで、児戯として戯れる親子のようであった。
それほどまでに圧倒的な力量差。
まだ三段位に昇段したばかり。それでもヴェレスは冒険者ギルドでも一目置かれる新進気鋭の戦士であった。戦術は甘い、しかし戦闘センスだけなら四段位、いや五段位にも劣らないだろう、とも。
何度目か分からない転倒の後、ヴェレスは悔しさからきたものか、とめどない慟哭に襲われる。
――――いいや、今回想してみれば、あの時は気が付かなかった絡み合う感情が思い起こされる。
立ち上がらないヴェレスを虚ろな目で見下ろし、その場を去る父の背中。
そこに感じたのは、果たして父に敵わない悔しさだけだったろうか。
否、その悔しさは父が感じたであろう無念を偲ぶ思いも重なってはいなかったか。
衰えて尚、最強の一角であった実力を残している父。そんな父が引退を決意せざるを得なかった出来事とはなんだったのか。
聖典でいう悪魔。父はそう言っていた。
個として他の追随を許さない最強の戦士の心を折るほどの敵がいたのだろうか。
父はパーティを組まなかった。軍の小隊がいくつか集まって対処するような巨大種ですら、一人で沈めたという伝説すらある。
……そうか、父は個としての限界を感じたのだ。
己一人が強くあっても対処できない巨悪を感じたのだ。
ならば、父が最強の個であったことは揺るがない。オレ(・・)が憧れた最強の戦士であることは、今でも変わっていないのだ。
――だったら、オレが目指すところも変わらねぇじゃねぇか。
最強を超え、仲間と共に最強となる。
決意の直後、魔王に誘われた自身の根源から浮上していく感覚。
同時に、ヴェレスは自身が既に持っていたはずの力を掴み直す感覚を得る。
それは、在りし日の父の背中から感じた最強の個。〝身体強化〟の極意と、〝武具強化〟の正しい在り方。
根源からもたらされた〝戦う力〟を得て、ヴェレスは徐々に意識を取り戻していった。
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