3-5 聖歌隊の少年
聖歌隊の業務は、単純に楽器を吹く、という訳ではもちろんない。決まった形式、儀式の流れを頭に入れなくてはならなかったし、参列者や巡礼者への対応の仕方も学ばなければならない。
とはいえ、心音は音楽に特化して招かれており、基本的には作曲――と言いつつ元の世界の曲を思い出しながら楽譜におこす作業や、自身の演奏技術を磨く訓練に集中することが出来た。
少し困惑したのは、楽譜の書き方が異なっていたことである。一本の線の上に長さを示す記号が置かれ、その上に音の高さを示す文字が書かれていた。
それでは不便と思い――いや、正直に言えば心音自身が困るからなのであるが、五線譜の導入をローリンに進言し、その有用性から採用されることとなった。
聖歌隊員には新しい読み方を勉強する負担をかけることになるが、今後の発展を考えた上ではメリットが上回ると判断されたようである。
音の高さや音同士の関係性が視覚的に分かること、紙面上の限られたスペースで多くの情報を伝えられることの有用性が評価されたみたいだ。
新しい譜面の書き方に、新しい響きがする曲。心音は日々を過ごすごとに、隊員たちから畏敬の眼差しを向けられていった。
しかし、楽器の編成に合わせて編曲してるとはいえ、他人の曲を書き出してるだけなので、なんとなくむず痒い気持ちを感じていた。
その中でも、どうやら素直に良く受け入れられない者が一人いたようである。ある日、ついに彼から直接的な接触を試みてきた。
『おい、新入り。その楽器はどこで手に入れたんだ?』
銀髪の鋭い目付きが特徴の少年から話しかけられる。たしか、ルターヴィレイスを担当していたはずだ。
しかし、随分と不躾な言い様である。それでも、元の世界である種のそういった扱いに慣れていた心音は、どうというふうもなく対応する。
『あ、テンディさん。これは、遠い地にある故郷で、パパから譲り受けたものです。どこで手に入れたかは、ぼくも分からないんですよね〜』
嘘は、言っていない。実際、心音の父親が「ブリティッシュブラスバンドをやってみるなら英国式のコルネットが必要だな!」と言い買ってきたものだし、どこで買ったかは心音も知らない。
『ふん、テキトーなこと言って。楽長は神から授かった楽器とか言っていたが、そんな見たことも聞いたことも無い楽器、悪魔でも憑いてるんじゃないのか?』
『そんなこと言われると、ぼくも怒りますよ? パパは、決してやましい手段で音楽はしません。知らなかったことを受け入れるのは難しいと思いますが、ぼくは、テンディさんとも一緒に音楽を作っていきたいと思っていますよ?』
神を信仰するこの場所で、あまりにすぎる罵倒であった。それでも、対する心音は大人の対応である。
『ぐ……と、とにかく、オレは認めないからな! お前の本性、絶対に暴いてやる!』
三流の捨て台詞を吐いて去るテンディに、どうしたものかと心音は内心ため息をついた。
♪ ♪ ♪
ある日の朝食、心音が食堂で自分の席に着くと、スープに違和感を覚えた。黒い粒がいくつか浮かんでいる。コゲかと思ったが、よく見てみると違うようだ。
「あれ、これ羽虫、かな?」
小さな虫が入っていたようである。不快感は感じるが、取り除けば食べられるし、食べ物は粗末にできない。
心音が羽虫をスプーンで掬って取り除いていると、背後から声がかけられた。
『おやおや新入りさん。お前は虫を食べるのが趣味なのか』
振り返ってみると、テンディであった。心音が注視しないと虫だとわからなかったそれを、背後から眺めただけで言い当てた辺りで、心音は誰の仕業かを察した。
『おはようございます、テンディさん。虫さんが飛び込んでしまうことなんて、よくあります。それだけでスープが食べられないなんて言うのは、勿体ないですよ』
心音は穏便に流そうとする。
しかし、テンディはその態度が気に入らなかったらしい。
『はっ、どこの生まれかもわからないような蛮人は、虫食も厭わないみたいだな。せいぜい羽虫と仲良く戯れてな』
その鋭い目付きで心音を睨むと、テンディは自分の席へと向かった。他の隊員が食堂に入ってきたのも関係しているのか、それ以上は突っかかってこなかった。
心音は、まぁ年頃の少年の可愛いイタズラと流すつもりであったが、この日でイタズラが終わるわけではなかった。
あれから、テンディによる些細な嫌がらせが続いていた。
合奏場の心音の椅子が濡れていたり、
楽譜を書くための紙が無くなっていたり、
心音の部屋の前に供花が添えられていたり、
心音は怒ると言うよりは呆れた印象を持っていたが、特に気にした様子もない心音に、テンディはだんだんと痺れを切らしていった。
そしてある日、事件が起こった。
その日は大聖堂での演奏訓練日。大きな燭台が立ち並ぶそこで、そのうちの一つに、テンディは細工をしていた。心音の近くにそれが倒れてくるように。
重量感のあるそれが目の前に倒れてくるとなると、恐怖を覚えないわけがないだろう。そして、倒れて来たのは神の怒りだ! ということにも出来る。
彼は自身の計画が完璧だと思っていた。
しかし、そんな計画が思い通りに行くわけがなかった。
『はい、演奏を止めてください。コトさん、助言を頂きたいです。少し前で演奏を聴いて頂いてもいいですか?』
『あ、はい、分かりました』
ローリンの指示で、心音が合奏体の前に出ようとする。
椅子を引き、立ち上がって前に踏み出す。
テンディは、焦った。あの仕掛けは、ちょっとした振動で落ちてくるようになっているのだ。このままでは、心音の頭上に落ちる。
『あ、危ない!!』
『……え?』
テンディは思わず飛び出していた。
落下してくる燭台の下から心音を押し飛ばし、そのまま倒れるテンディの足に、燭台が直撃する。
『ぐぁっ……!』
大聖堂の床が、血で染まり始める。呻き声を上げ蹲るテンディに、何事かと聖歌隊一同が取り囲む。
『テンディさん! 大丈夫ですか!?』
起き上がった心音が駆け寄る。左脚の脛辺りが折れ、出血している。
『あぁ、なんということです。今、宮廷治癒士を呼んで……』
『待ってください』
動揺しながらも人を呼んで治療させようとするローリンを、心音が呼び止める。
『ぼくが、やります』
聖歌隊員たちに協力してもらい燭台を避けると、心音は患部を診察し始める。
治癒魔法の基本も、ティーネから教わっている。それだけでなく、プロの治癒士たるティリアからも、その心得について伝授されていた。
患部の様子、出血具合、骨の折れ方、傷の深さ、傷ついた血管や神経はどうなっているか。
簡易的ではあるが、勉強した医学知識をフルに回し、イメージを固めていく。
そうして心音は、一定の音程とリズムを伴って、詠い始める。
「流るる血潮はその身に還り、道から逸れゆく人骨はあるべき姿へ立ち戻る。脈絡を繋ぎ、その身を清めたまへ。『聖癒の光!』」
患部にかざした心音の両手が桜色に輝き、傷が癒えていく。光が収まると、血の染みこそあれど、その脚に怪我の痕跡は残っていなかった。
『まだ、完全に骨はくっついていないはずです。飛んだり走ったりはしないでくださいね?』
心音は心配そうに言う。
周りからは、目の前の出来事に感心する声が飛び交っていた。心音を見る聖歌隊員たちの目が、前より熱い気がする。気にしちゃいけない。
心音はテンディに手を差し出す。
『助けていただいて、ありがとうございました。テンディさんがいなかったら、今頃ぼくぺちゃんこです』
心音は頬を掻きながら笑っていう。
感謝の言葉を伝えられたテンディは俯き、その表情は伺えない。
どうしたのかな? と心音が首を傾げると、テンディがバッと顔を上げた。
『オ、オレの……オレのせいなんだ! これが落ちてきたらお前が怯えるかなって、オレが、オレがそんなことを考えたせいで、もう少しで、取り返しのつかないことに……』
テンディの表情が歪んだ。
透明な雫が大聖堂の床に滴る。
心音は不意をつかれた表情も一瞬、少し温度の高い笑みを浮かべると、テンディを抱きしめた。
『魔が差してしまうことは、誰にでもあります。それでも、テンディさんは身を呈してぼくを庇ってくれました。それは、あなたが優しい心を持っているからです。神は、そんなあなたの心を理解してくれるでしょう』
心音の言葉を受け、テンディは目を見開く。そしてまた顔をくしゃくしゃにすると、声を上げて泣き始めた。
『天使様、天使様であられる……』
背後から聞こえた声に、心音は少し顔を引き攣らせつつ、もうイタズラはやめてくれるかな? と眼前で泣きじゃくる少年に目を落とすのであった。