4-10 魔人族領への侵攻 後編
「なっ、消えただと⁉」
突如この場に出現した時の逆回しのように、男の姿が掻き消える。その行き先は、魔人族領のある方角から放たれた魔力の奔流が悪寒と共に知らせてきた。
「おいおい、逃げの決断は早い方がいいぜ、将軍!」
「あれは全部あの魔人族が……? あんな規模の魔法どうしろっていうんだ」
夥しい量の水色を溢れさせる男の背後で、大海を彷彿とさせるほどの水が生み出されていく。
左右を崖で挟んだ地形。そこであれほどの量の水が濁流を成して迫ってくるなんてことになれば、全滅は必須である。
決断は急を迫る。
ラネグは大剣を握る拳を固く締め、全軍へ向けて告げた。
「全隊、大至急撤退せよ! アディアの砦に辿り着くまで、馬の足を止めるな!」
命令を下された兵たちは慌てて馬に乗り駆け出す。誰一人として、あれだけの物量を伴った水魔法を防ぎきる案など思い浮かばなかったのだ。
心音たちもその場を離れようと馬の元へ向かおうとして、ふと心音が気がつく。
「ラネグさん、逃げないんですか.......!?」
ラネグは大剣を地に刺したまま、逃げる素振りを見せていなかった。
心音の質問にラネグは片口を上げて落ち着いた声音を吐き出す。
「あれだけの魔法だ。逃げ出したところで、結局全軍が飲み込まれることは避けられぬだろう。しかし、一つだけ助かる可能性があるのだ」
ラネグから緋色の魔力光が溢れ出し、魔法の発現の前兆を匂わせる。
「私が重力魔法で濁流を塞き止めるのだ。時間さえ稼げれば、犠牲は私の命だけで事足りよう」
その身を犠牲にして、味方を救う。
イダが懸念していた未来というのは、まさに今この状況のようなものを指していたのか。
決断を渋っている余裕はない。しかし、心音はどうしてもラネグを見捨てて逃げるなんていうことはしたくなかった。
「ぼくも残ります! 一人なら無理でも、二人なら生きて帰れるかもしれません!」
「バカなこと言ってんじゃないわよコト! あんなものどうしようも無いことだってことは、あたしから水魔法を習ったあんたなら身に染みて分かるでしょう!」
アーニエが怒号をぶつける。
並のヒト族の魔法士が百人集まって再現出来ようかというほどの物量。自身が水魔法を得手としているだけあって、それでも抗える手段が思いつかないことで感じている苛立ちが、余計にアーニエの声を荒げさせた。
しかし、切羽詰まった状況下、厳しい言葉を受けてなお心音はその場を動こうとしなかった。
こうなればテコでも動きそうにない。パーティ皆が焦りを感じ、説得できないのならば担いでいくしかないとヴェレスが足を踏み出したところで、シェルツが皆を右手で制し静かに心音に訊ねた。
「コト、勝算はあるんだね?」
肩下げカバンから魔法陣と精霊術の触媒を取り出しながら、心音は生命力に満ちた瞳でシェルツを見上げる。
「はい。ぼくの全力の精霊術なら、対抗できるかもしれませんっ!」
シェルツはグリント王国で見た、魔人族の女が放った極大の火魔法を相殺した心音の冷却魔法を思い出す。
心音が内包する精霊たちの力なら、或いは魔人族がもつ魔力量に対抗出来るかもしれない。
シェルツはパーティメンバー皆に向けて意志を示す。逃げたところで確証もない、こうなれば徹底的に抗戦するまでである。
「コトが術を発現させてる間、俺たちでコトを守りきるよ。仲間を信じよう。救えるものは全て、救いきろう」
エラーニュが短く嘆息する。
「仕方がありません。どのみち今から馬を走らせたところで逃げ切れる可能性は高くありませんでしたし」
ヴェレスが頭を掻きむしる。
「オレにはアレがとにかくやべぇって事しか分からねえけどよ、コトなら何とかできんだな?」
アーニエが眉間に皺を寄せて言い捨てる。
「あーもう、こうなったら死ぬ時は一緒よ! こんな依頼受けるんじゃなかったわ.......」
心音は魔法陣の上に触媒を並べ終え、パーティ皆の顔を見渡して笑みを浮かべる。
「皆さん、ありがとうございますっ! 絶対に、皆で生きて帰りましょう!」
桜色のレザーケースから銀色に光るコルネットを取り出す。
深く吸った息を一度管の中に通し、軽くリップロールした後に、静かに詠唱を始めた。
「ガイ デ フュウ コン へ」
魔法陣の上に並べられた触媒から色が失われ、火種が生まれる。その火種は瞬く間に大きくなり、等身大ほどの火球となった。
「精霊さん、お願い」
たっぷりと息を吸い込み、コトは銀色の歌口から願いを吹き入れた。
G.プッチーニ作曲
【歌劇「トゥーランドット」より「永遠の命を持つ太陽よ」】
祈るような旋律を始まりとして、コルネット特有の瑞々しいサウンドが山間に響き渡る。
旋律が強くなっていくにつれて、火球は高く上がりその大きさを肥大化させていく。その様はまるで小さな太陽のようであった。
『水には火、と。安直な上に、ヒト族の魔法の出力程度じゃバケツにマッチ棒を突っ込むみたいなものだ』
さも下らないものを見たとでも言うように魔人族の男は呆れてみせると、掲げた手を前方へ投げ出し濁流を走らせる。
『それじゃあ、さようなら。近接戦はそこそこ楽しめたよ』
「させんっ――!」
迫り来る濁流を、ラネグは重力魔法で押しとどめる。まるで見えない壁を押しているかのようにゆっくりと濁流は迫り、幾分かの時間稼ぎにはなりそうだ。
とはいえ、やはり時間稼ぎ程度にしかならないとも言える。
ラネグの魔力量にも限界がある上、確実に濁流は心音たちの元へ迫っていた。
それでも、それこそが生命線となった。
心音が作り出した火球は熱量を増していく。更に音響魔法による二重奏によって発現したもう一つの擬似魔法により、火球を囲むように反射板が展開される。
強烈な熱量が濁流に照射され、見る見るうちにそれを蒸発させていく。
その様子に魔人族の男が隠しきれない動揺を零す。
『なんだと.......ここまでの出力で魔法を発現させられるだなんて、魔人族でも上位のものしか.......。そこのちっこいあんた、ヒト族じゃないな!?』
心音は返答の代わりに、より力強い演奏を響かせる。呼応した火球は更に出力を上げ、反射板の裏側にいる心音たちにまで耐え難い熱量が伝わってきた。
『ちぃ、負けてられるかよ。俺は同族の中でも魔力保有量の多さには定評があるんだ。全力で押し流してやる!』
増していく水量と、蒸発する水量が拮抗する。しかしその拮抗も長くは持たなかった。
元々この規模の水魔法を発現させるのに、殆どの魔力を使っていたのだ。男の魔力は次第に底を尽き、濁流は全て蒸発し尽くされた。
心音が演奏を止め、火球が消える。
両端の崖全体が湿るほどの湿度の中、魔人族の男はよろよろと膝をつき、敗北を宣言する。
『認めたくないが、俺の負けだ。でも分かったろ、たった俺一人であんたらは全力を使い尽くしたんだ。これから仲間が何人もここへ駆けつける。進軍を続けるか逃げるか、勝手にするんだな』
ラネグは魔力の枯渇で荒くなった息を整え、この場に残った心音たちパーティメンバーに目配せする。
言うまでもなく意見は合致し、こちらへ馬を走らせてくる魔人族側の増援から逃げるようにこの場を後にした。
いつもお読みいただきありがとうございます!
ブクマもいただけて、嬉しいです♪
今回登場した楽曲も、今晩音虫のツイッターにアップする予定です。合わせてお楽しみください♪