心紡ぎの宿
車は夕焼け空に別れを告げた、夜の空を彩る星々の下で停車しました。この暗い森の僅かな光源となっていた赤い木漏れ日も、既に薄暗い月明かりへと成り代わっている頃合いです。
車が停車するや否や、天狐さんは後部座席の方へと振り向いて言いました。
「ここがワシらの滞在しておる宿、“心紡ぎの宿”じゃ」
ところが辺りを一通り車内から見回してみても、宿どころか建物すら周辺には一つとしてありません。更には建物以外でも、目に映る景色と言えばやけに畝った木々が生い茂っているだけです。
いや、木しか無いと言うのも少し嘘になりますね。何故なら視線の先には一箇所だけ、木すらも生えていない更地の空間が存在していますから。
とは言え一体この場所の何処に、私達が一夜を明かせるような旅館があるんでしょうか。
もしかしてまた騙されちゃったのかな……。そんな疑いの念を抱き始めていた頃合い、その疑いの念を一瞬にして吹き飛ばす事が起こりました。
「ええっ!? 何ですか、これ!」
何が起こったのか説明するとこうです。私達が車から降りた途端、さっきまで何も無いと思っていた場所に、それはそれは柔らかな光を携えた建物が浮かび上がってきたのです。
ええ、この状況を適切に述べるには「浮かび上がってきた」に勝る表現は無いでしょう。
当然、初めは目の錯覚かとも思いました。何せこの木造の建物は、初めからそこには無かったわけですからね。
けれども私の目には、轆轤首さんの目には、その光景がハッキリと映り込んでいました。それもテレビで観た事があるような、如何にも旅館と言った和の造りをした建物の姿が。
天狐さんに散々な扱いを受け続けていた加胡川さん。そんな彼もようやく元気を取り戻したのか、今起こったこの怪現象を私達に説明してくれました。
「この宿は妖怪専用の宿でね。普段は人間が迷い込んでこないように建物自体を隠しているんだよ」
話を聞いていて思った事が一つあります。それはそもそもこんな辺鄙な森へ、人間なんて迷い込んでくるのかって事です。
けど万が一、何も知らない人間がこの森へと迷い込んで来る事があるのなら、確かにこの仕様は必須と言えるのかも知れません。
「にしてもよ、結構しっかりとしたタテモンじゃねぇか」
貴方には今の光景が見えていなかったんですか、とでも問い質したいくらいに轆轤首さんは冷静でした。
まぁ流石は妖怪、こんな事で驚いていてはまだまだみたいな感じですかね。そろそろ私も、皆さんみたいに落ち着いていかなきゃなぁ。
スライド式のドアを開けると、中には煌びやかな光を放つ豪勢な景観が広がっていました。玄関の中心にはそれはもう綺麗な生け花、そして壁にはこれまた見事な景色の絵が飾られていました。
この景色の絵はおそらく、私達も既に目にしている大歩危の渓谷を描いているのでしょうか。繊細な筆使いは素人の私から見ても、凄いの一言では片付けられない程に美しかったです。
キョロキョロとあたりを見回していると、玄関の曲がり角の方から一人の女性が現れました。お上品な雰囲気もさることながら、着物もよく似合われている方です。彼女は天狐さん達を見るや、その場に正座してから軽く頭を下げました。
「お帰りなさいませ天狐様、地狐様」
雰囲気に劣らず、礼儀正しい方です。思わず私も一礼しちゃいましたよ。
しかしよく見ると、彼女の頭には動物の耳のようなものが付いています。やはりこの方も、人間ではなく妖怪みたいです。もしイメージが思い浮かばないのであれば、加胡川さんに付いている狐の耳を丸くしたと思って下さい。
「此奴はこの宿の女将、お初じゃ。因みに此奴もれっきとした妖怪、それも化け狸じゃよ」
「お初と申します。以後お見知り置きを」
化け狸って事は、やはり本質的に妖狐と似たような立ち位置なのでしょうか。
言われてみれば確かに、妖怪屋敷でも山城町の妖怪として化け狸が紹介されていましたっけ。つまりお初さんは天狐さん達と違って、元よりこの地域に暮らしていた妖怪って事になりますね。山城町に着いて結構な時間が経ちましたが、ようやく現地の妖怪に出会えましたよ。
「ところで天狐様、この方達は?」
まぁそんな反応をするのも無理はないと思います。だって天狐さんと加胡川さんが帰って来たと思っていたのに、よく見れば知らない人まで居るんですからね。
首を傾げたままクエスチョンマークを浮かべているお初さんに、天狐さんは少し照れ臭そうな顔をして言いました。それも目線を合わせず、下を向いたままで。
「ワシのゆ、友人じゃよ。今日は一日泊まっていく」
初老の老女の姿をしたあなたがそれをやりますか……。とは言えその姿も、単に天狐さんが他人との距離を取っているが為の姿です。ここは大目に見ておきますか。ちょっと私、今のは上から目線ですね。
あ、そうそう。そう言えば何故天狐さんがこんな反応をしたのか、まだ話していませんでしたね。でもあんまり事細かに話しちゃうと天狐さんが可哀想なので、あえて手短に話しておく事にしましょう。
それは私が天狐さんの友達になりたいと言う意思を示した、すぐ後の事でした。
『よ、よいぞ。ならばお、お主の友達になってやる』
口ではそう言っていましたが、あの時の天狐さんの動揺の仕方は尋常ではありませんでしたよ。そりゃあ今まで友達と言う友達が居なかった彼女ですから、例え私みたいなちんちくりんに「友達になろう」と言われても、相当嬉しかったんだと思います。
とは言えこれで、轆轤首さん以外の友達が出来たって事ですよね。何だか妖怪の友達ってだけで胸が踊りますよ。
とまぁ、こんな感じで説明したところで話を戻しますね。
少し嬉しそうな天狐さんの顔を見たお初さんは、何処か申し訳なさそうな表情で視線を下へと下ろしました。一体どうしたんだろう、そう思ったのも束の間、彼女はすぐに顔を上げて口を開きました。
「非常に申し上げ難いんですが、ただ今部屋の方がかなり埋まっていまして……。空き部屋の方も、一部屋だけしかご用意出来ないんですよ」
私は何故、お初さんそんな事を言うのかと疑問に思いました。ですが少し考えてみてからなるほど、そう言う事かと納得しました。
天狐さん達の部屋を除いても一部屋あると言うのに、何故お初さんは問題があるような口ぶりをしたのか。それは彼女が、私も一人としてカウントしてくれていたからです。
まさか私みたいな市松人形を、轆轤首さん達と同じ一人としてカウントしてもらえるなんて……。やっぱり妖怪の宿は懐が広いなぁ。
けれどこのままでは向こうにも迷惑が掛かると言うもの。なのでワガママを言わず、現状を受け入れるとしましょう。
轆轤首さんとアイコンタクトをすると、私はお初さんにこう伝えました。
「大丈夫ですよ。私、この方とは一緒の部屋に泊まりますので」
「ああ。元々予約も無しに来てたんだ、部屋が空いてるってだけでもラッキーだぜ」
それを聞いて安心したのか、お初さんはまた不安げな表情から出会った時の優しい表情へと戻しました。
よっぽどこの人は私達の事を気に掛けてくれていたのでしょう。ここまでお客に気を配る事が出来るなんて、流石は宿の女将です。
「本当によろしいですか?」
「おうよ、だからあんま気にすんなよ」
轆轤首さんはお初さんに右親指を立てました。
「ありがとうございます。では、部屋の方へと案内させて頂きますね」
そう言うとお初さんは正座の姿勢から立ち上がって、私達を各部屋へと案内し始めました。
ところでここの旅館は、どうやら玄関で靴をスリッパへと履き替えるみたいです。
各々スリッパへと履き替えていく皆さん。ですけど私はサイズの合うスリッパが無い為に裸足、とまではいきませんけど白足袋のままでした。
当然と言えば当然なんですが、ここでまたしてもお初さんは申し訳なさそうな表情を向けてきました。もうそんな顔、しないで下さいよぉ。




