八話 気遣い
けたたましく響く、耳障りな目覚ましの音。私は腕だけをだらしなく伸ばし、頭の上の方にあるであろうそれを探りながら止めた。
むくっと体を起こし、ベッドに座ったまましばし呆然とする。寝ぼけ眼を軽くこすり、まだ起き出していない頭も徐々に覚醒し始める。
時間を確認する為に、半目でキョロキョロと辺りを見渡してスマホを探す。見つけたスマホを手に取ると、付いているストラップにふと目が行った。
――そうだ。昨日はこのストラップを見ながら余韻に浸っていたら、そのまま寝ちゃったんだった。
私は再び昨日の出来事を思い出し、ぐでうさストラップを見つめながら朝からニヤニヤしてしまう。
まるで夢のような一時だったけど、夢じゃないんだ。こうして覚えているし、なによりこのストラップがあるのだから。
「一聖くんも、スマホに付けてくれたら嬉しいなぁ」
そんなことを呟きながら、ストラップのうさぎのマスコットを指先で挟んでいじる。
すると、一階のほうから母親の声が聞こえてきた。
「口未子ぉ~! ご飯!」
どうやら朝ごはんのようだ。
私はジャージのまま一階に降り、とりあえず先に顔を洗うのに洗面所へと足を運んだ。
両手で水をすくい、二度ほど顔へとあてがう。寝起きの顔に冷たい水が心地よく、気持ちまで一緒に引き締めてくれるかのよう。
タオルで水分を拭き取り、髪を整える。そして鏡に映る自分の顔を見て、ふと昨日の一聖くんの言葉を思い出した。
――「へ~。菊地さんの笑顔、初めてみたよ。可愛い顔するんだね!」
脳内再生された言葉に促されるように、私は目の前の鏡に向かって笑みを浮かべてみた。
それは明るく楽しそうな、まるで自分とは思えない笑顔。今まで放ったことのない、素敵な表情。
だけどそれは――偽りの顔だ。
この笑顔は私ではなく、奪ってしまったあの店員さんのものなのだから。
顔は紛れもなく私自身だけど、その私は自分じゃないと知っている。
だから……後ろめたい罪悪感が、心を締め付けるのだ。
キッチンには母親が立ち、何かとまだ作業しているようだ。私はダイニングの自分の席に座り、黙々とパンを食べている。斜め向かいには父親が座り、コーヒーを飲みながら新聞とにらめっこだ。
「ふわぁ~。ん、おはよう」
あくびをしながら遅れてやってきたのは私の兄上。『菊地 蓮だ』。私と違って兄は、至極普通の大学生をやっている。普通というのは、頭の方は悪くないようだし、ルックスも悪くないらしい。兄妹だから私にはよく分からないけど、普通に青春を送っているからそういうことだろう。彼女話も何度か聞いたことあったし、ありふれた大学生活を満喫しているようだ。
しかしいくら普通とは言っても、私はそんな兄と、天と地ほどの差があるように感じている。
たまに彼女がどうのこうの言ってるときに、爆ぜろと何度口にしたことか。
これはきっとあれだ。母親と父親のイイ遺伝子だけを兄が全て受け継いで生まれたせいで、後から誕生した私はきっと残りものの遺伝子しか受け継がなかったんだ。うん、きっとそうだ。だから私は普通以下なんだ。
「滅べ」
「え、いきなりなんで!?」
自己解釈した私は冷酷な眼差しを兄へと送り付け、そう一言だけ朝の挨拶を言い放っておいた。
家族揃っての朝食も終わると、私は一息尽きながらスマホを眺めていた。
正確に言うと、誰からも連絡が来ることのないスマホではなく、付いているストラップをだ。
これを見るとどうしても顔が綻んでしまう。一聖くんと過ごした時間、一聖くんの笑顔を思い出してしまうのだ。
「おい、くみ」
すると、そんな私の態度を不思議に思ったのか、兄が声をかけてきた。
「さっきから何ニヤてんだよ」
「帰れ」
ウザったいから一言で突き放した。「え、ここ家なんだけど……」と兄は呟いていたが、聞こえなかったことにしておく。
しかしそこに、不敵な笑みを浮かべる母親が割り込んできた。それも私の気持ちを的確に突いてくるように。
「ふ~ん。あんた、好きな人いるでしょ」
「なっ――!」
瞬間、私は頬を染めては口をパクパクとさせた。何も言ってないのに、いきなり図星を突かれたことに驚きを隠せなかった。
「あんたの何年人生の先輩やってると思ってんの。それくらい見るだけで分かるわよ」
さすがは母親か、いやそれ以上の女の勘とでも言うのだろうか。私よりも遥かに長年生きている母親は、もはや仙人の域に達しているのかもしれない。
そんな私達のやり取りで気が付いたのか、兄がウザイほどテンション高めに口を挟んできた。
「くみに好きな人!? マジマジ? それってどんな――」
「黙れ。縦から半分に裂かれたいか」
「え、なにその人間チーズこわい……」
兄とのアホなやり取りをしている間、父親はというと、何がおもしろいのかひたすらに新聞を読んでいた。
母親が一つ溜息をもらすと、おもむろにテーブルへと肘を立てては手の甲に顎を乗せ、真剣な面持ちで私を見つめて来た。
「いい? 口未子。時代の流れと一緒で、男も女も考え方が少しずつ変わっていくの。今の時代、待っているだけの女じゃ置いていかれるわよ。好きな人がいるなら……全部相手に任せるんじゃなくて、自分も何か出来ることをしてみなさい。うまくいってもいかなくても、それは必ず経験になるから。大人になってからでは遅いの。何もしないで自分の殻に閉じこもっていると、あんた絶対後悔するわよ」
母親のその言葉は、正直耳に痛かった。
今までの女としての人生、母親としての人生の中で培ってきたものだろうから、きっとその通りなんだろう。家では普通にしているつもりだけど、それでもやっぱり親だから、私の性格を見抜いているんだ。だから私を押すような言い方をしてきたんだと思う。
「……分かってる」
私はふてくされたように一言返し、自分の部屋へと戻ったのだった。
私はベッドの上で仰向けになり、天井を見つめながら少し考えてみることにした。
変わりたいとは思う、それは本心だ。そもそもこんな自分がイヤだから、こんな人生を変えたいから、その強い想いが魔眼なんてものを手にしたキッカケだし。黒の人が「求めたのはお前だ」って言っていたから、きっと間違いじゃない。
本屋では少しだけ掴めたけど、すぐ逃げちゃったからまだ漠然としてるのが現状だ。
「はぁ……。一聖くんともっと親密になれるようにする為にも、前に進まないとなぁ。本意じゃないけど、あいつに頼んでみるしかないか……」
私は一つ溜息を尽き、重い体を起こして足を運んだのだった。
そう――あの兄に、助言を得る為に。
「蓮にい、相談がある」
私は兄の部屋へと足を踏み入れ、何やら鏡に向かって髪をセットしている兄へと声をかけた。
「ん~? 別にいいけど、ノックぐらいしろよなぁ」
「どうせ入るんだから一緒じゃん」
「プライベートという名のドアくらいはノックしようか」
私は無視して兄のベッドへと腰かけ、兄は作業が終わったのか勉強机の椅子へと腰かけた。
「で、相談って?」
「いい女になりたい」
「は?」
兄はハトが豆鉄砲を食らったように目を丸くし、呆然と口を開け放った。おそらく私の口からこんな言葉が出てくるとは思ってもいなかったのだろう。私自身、こんな話を兄とするのは初めてだ。
「彼女いるから分かるんじゃないかと思って。どうすればいいのか教えて。ちなみに拒否権はない」
「ないの!? 圧倒的一方通行!」
とは言っているものの、兄は腕を組んで考えてはくれてるみたいだ。
「そうだなぁ……。男から見るのと女から見るのでは違うだろうし、いい女っていうのが一概にどういうものかは正直分からない。だけど男から見る、いい女だなって思う部分は確かにある。しかも、人によって好みの女は違えど、その中でも共通する部分が!」
「なになに」
私は上半身を前へと倒し、話に食い入るように聞き耳を立てた。
人によって好みのタイプが違うのは分かる。だけどそれでも共通して男性が注目する部分があると言うなら、それはぜひ聞いておきたい情報だ。
兄はじっと私を見つめている。表情を変えず、視線をそらさず、真剣に。
そして溜めに溜めた後、静かに口を開き出した。
「それは……気遣いだ!」
「な、なんだってー! ……って、詳しく教えてプリーズ」
言われた意味は分かる。だけど実際にどういったことをすればいいのかが分からない。
「そうだなぁ……。例えば誰かと一緒に食事にでも行ったとするだろ? そんときに自分が率先して全員分の水を用意するとか、メニューも自分は逆さまに見て相手に正面から見えるようにするとか、水も空っぽになったり少なくなっていたら補充してあげるとかな? そういう小さな部分とか細かい気遣いを、男は気付いていないフリをしながらもちゃんと見てるんだよ。お前、ちゃんと出来てる自信ある?」
そう言えばそんなこと本にも書いてあった。男性は女性が思っているよりも細かいところを見ているって。そしてそこから女性の性格や私生活を予想しているのだとか。
例えば爪が長い女性は家事に無頓着そうとか、靴が汚いと目に映りやすい所にしか気が回らないとか、バッグの中身が物で乱雑していると部屋も汚そうだとか、小さなことからも脳内で色々と結びつかせるらしい。
だけど兄が言った例え話は、私には当てはまらない。
なぜなら――。
「友達いないから食事に行かないし」
「あ……え?」
そう、そもそも一緒に外食する友達なんていないのだ。
――あれ? 待てよ。私、一聖くんと食事した! あの時、私ちゃんと気配り出来てた!? うわー……思い出せない。
すると、兄は流れを変える為に一つ咳払いをし、違う話をし始めた。
「んんっ! じゃあ学校でのパターンにしよう。さっきのはさりげない気遣い編だ。今度はちょっとしたテクニック編」
「うん」
私は一つ頷き、テクニック編なるものの話へと集中する。
「さっきも言ったみたいに、男は小さなことでも細かい優しさ、さりげない気遣いに弱い。そこを利用する! 男子の背後から近寄って、肩とか背中どこでもいいから軽く触れる。振り向いて来たら、さっと手を後ろに隠す。そしたら仕上げだ、自然な微笑みを浮かべてこう言うんだ――”ゴミが付いてたから取っちゃった”。ってな!」
「ゴミがないのに!?」
「そう! ゴミが付いていたらそのまま使えるし、付いてなくてもいいんだ! さりげない優しさと、触れられたことで嬉しくなるからな!」
私は衝撃を受けた。なんてことを思いつく兄だと。それと同時に、無性に試してみたい衝動にも駆られる。
兄いわく、どうやら男性は例え意中の相手ではなくても、女性に触れられると少なからず嬉しいらしい。それは女性から触れられることで、自分のことを拒否していない、受け入れられていると思うようだ。
セクハラという言葉があるように、多くの女性は男性に触れられることに抵抗を感じてしまう。それは私も同じだ。
だけどそのことは男性も十分理解しているようで、それゆえ男性は極力女性に触れないようにと意識しているらしい。だからこそ逆に女性から触れられることによって、その壁が崩れて嬉しく感じるのだと言う。
「よし、だいたい分かったな? 次は本能での気遣い編だ。もし自分の席に座っている男子と話す場面があったとして、お前は立ったまま話すか? それとも近くの椅子に座って話すか?」
「う~ん、多分立ったまま」
男子と話すことなんて無いが、おそらくそのシチュエーションだと私は立ったまま話すだろう。もし勝手に人の席に私が座ったら、「椅子が汚れたから弁償しろ」とか普通に言われかねない。
「はい不正解。正解は、”床にしゃがみ込んで話す”だ。男は女の上目遣いに弱いってのもあるけど、一番は自分よりも女のほうが目線が下にあるっていうのがポイントだな。男は本能的に支配欲が強い。目線が上にあると自然と身構えてしまうのに対し、下にあれば自然と受け入れたくなるんだ。これは男の立場を立ててやるという気遣いだな。さすがにそこまでは男も意識して気が付かないけど、本能的に感じる部分だ」
どうやら男には支配欲、独占欲なるものが本能的に存在しているらしい。
女性は気を引きたくてわざとそっけない態度を取ったり、あえて他の男の話をしてみたりするけど、そのほとんどは実は逆効果なのだという。
男は嫉妬するとそれがストレスになって、怒りにも変わるのだとか。しかもそれは気持ちを冷めさせ、もうめんどくさいからと投げやりになってしまうみたい。そうなると、気持ちが一気に離れてしまうという。
だから常に女性は一歩引いて、自分はあなただけのものアピールしたほうが、男性のモチベーションは保たれ続けるのだとか。
「よし、次でラスト。言葉の気遣い編だ。お前、家では口悪いけど外でもそうなわけ?」
「んなわけないじゃん。直接口に出して言うのは蓮にいにだけ、光栄に思え」
「へーへー、嬉しくないお言葉ありがたくちょうだい致しますよ~」
「いいから早く教えて」
そして最後の言葉の気遣い編なるものを、兄が語り出す。
「まず、男の前で女らしからぬ言葉を言うのはタブーだな。クソとか、ムカツクとか、殺すとかはもっての他だな。あとは何気なく使ってる言葉。〇〇じゃねーし! とか、ヤベーとかな。女らしい口調、言葉で話すのを心がけてみるといい。そして一番のポイントは、さっきも言ったが、言葉で男としての立場を立てることだ。〇〇くんって凄いとか、尊敬するとか、憧れるとかな。こういうことを言われると、男は弱いんだ」
なるほど。心の中では放送禁止用語とか言っちゃってるけど、口に出すときは丁寧に、女性らしく振舞えるように気を付けないと。だけどそういう人はいずれボロが出るらしいから、より注意が必要だ。
それに言葉で引き立てられるのは女でも嬉しいけど、男には支配欲があるからより喜びを感じるようだ。女性から頼られる存在であることを意識して、それが男の立場として気持ちが高まるらしい。
「と、こんなところだな。男は細かい所まで見てる。それを忘れないで、きちんと気遣い出来るように頑張れよ」
「うん、正直今まで気にして無かった。これからは意識してみる」
聞くものも聞けたし、私はそう言って部屋を後にしようとしたのだが、兄の呼び止める声でその足を止めることとなった。
「ちょーっと待った! そんな妹の成長の為に、とある物を授けて進ぜよう!」
振り返った私が首を傾げていると、兄は財布から一枚のお札を取り出した。
「妹よ、これを授よう。そしてこれを買ってくるのだ」
差し出される一万円と共に、開かれた雑誌のとあるページを見せられた。そこには男性物の服を取り扱っている店の写真と、おすすめのファッションの写真が載っていた。
お金をくれるのかと一瞬喜んだが、どうやら相談に乗ってあげたんだから代わりに買って来いという根端らしい。だから髪をセットしてたのか。
だけどこのお店、どう見ても男性客が中心なのは明らかだ。
「やだ、一人じゃ店に入れない」
「ふっふっふ、それだよ。それこそが目的なのだよ! 一人では入りずらい店にあえて行く! それこそがお前がまずやるべきことなのだ」
「は? 意味分かんない」
何を言っているのか本当に意味が分からなかった。どうせ適当な事言って私を買い物に行かせようとしているに違いない。
「変わろうとしても、なかなかすぐには上手くいかないものだ。それがお前なら尚更の事。自分の事だからよく分かるんじゃないのか? 恥ずかしい、めんどくさい、私にはどうせ無理と、諦めるのが目に見えてる。だから可愛い妹の為に試練を与える。まずお前が一番最初にやらなきゃいけないのは、”踏み出す勇気の一歩”だ。これはその試練なのだよ」
「ぐ……」
確かに兄の言うことは的を得ている。心で変わろうと思うのは簡単だけど、それをいざ実行に移すのは難しい。特に小心者の私には、”踏み出す勇気の一歩”という言葉が重くのしかかってくる。
――これは……私自身の為なんだ!
私は下唇を噛み締め、雑誌の切れ端とお金を受け取った。
そして踵を返し、部屋を後にする。――与えられた試練へと、挑戦する為に。