三話 望んだもの
「菊地さん! 大丈夫!?」
一聖くんはうずくまる私に駆け寄ると、私の背中に左手を添えるようにして顔を覗き込んできた。私は咄嗟に顔を逸らし、一聖くんを背にする。
「……へ、平気」
「平気って……ひどい怪我じゃないか! 急いで病院に行かないと! 先生を呼んでくる!」
私の手と顔を染めている流血を見て慌てたのだろう。だけど私は、一聖くんが先生を呼ぶ為に駆けだそうとする瞬間呼び止めた。
「……本当に平気だから」
私はおもむろに立ち上がり、困惑する一聖くんを尻目に教室の後ろへと足を進めた。
あんなに痛かったはずのに、なぜか今は不思議と痛みを感じなくなっていたのだ。きっと麻痺したんだと思う。だけど痛みが消えたなら、今はそれでいいと思った。
床に投げ捨てられていたスケッチブックを拾い上げると、その腕をいきなり一聖くんに掴み取られた。
「病院は後にするとしても、消毒はしておかないと化膿するかもしれない!」
私は強引に腕を引かれるようにしてその場を後にすることになったのだが、突然のことで思考が追いつかなかった。
怪我をしているとはいえ、まさか一聖くんがまだ私を構ってくるとは思っていなかった。普段は優しい微笑みをしている一聖くんが、私なんかを心配してくれているのか、今は強い眼差しを放って強引に腕を引いているのだ。自分の手が私の血で汚れることなんか躊躇わずに、力強く握っている。
私は目を丸くして、なされるがままに後を付いていくことしか出来なかった。
一番近くにあった女子トイレ前の手洗い場。私はそこで、改めて自分の両手を見ることになった。腕までべっとりと付いた血がその怪我の大きさを物語り、私は背筋を震わせて吐き気を覚えた。
シンクに激しく嘔吐する私の背中を、一聖くんは何も言わずに擦ってくれている。
逆流する胃酸が苦しくて、こんな姿の自分を誰でもない一聖くんに見られるのが辛くて、自然と涙が込み上げてくる。
全開に開けた蛇口から吐き出される大量の水で、バシャバシャと音を立てながら無造作に腕と手を洗う。そして顔にも付いているであろう血を流す為、両手で水をすくい上げては何度も顔を擦った。
ハンカチで顔の水分を拭き取り、濡れた前髪からはポタポタと滴が落ちる。私は一呼吸置き、ゆっくり顔を上げては正面の鏡へと向かい合った。
「――っ!」
条件反射というべきか、私は鏡を見た瞬間に後ろに一歩後ずさった。
「菊地さん? どうしたの?」
私の不可思議な挙動を不審に思ったのか、一聖くんが首を傾げる。私は髪を寄せ集めるかのようにして、右目を覆い隠すように手串で前髪を垂らした。
「ううん……なんでもない。当たり所が悪かっただけみたい」
スケッチブックを脇に抱え、私は逃げるようにしてその場を後にした。一聖くんの呼び止める声が聞こえたけど、私はその足を止めることは出来なかった。
辺りはすっかり暗くなり、目の前には夜間に点灯するライトで照らされたドアノブ。ぎゅっと握り締めて手前に引き、明るい光と見慣れた玄関の景色が広がってくる。変わり映えしないいつもの家の光景なのに、今の私には不思議とそれが落ち着きを与えてくれた。
無造作に靴を脱ぎ捨て、ペタペタと音を立てて二階への階段を上る。
自分の部屋に辿り着き、後ろ手でドアを閉めるとそのまま大きな溜息を尽いた。
肩から抜け落ちるようにリュックを床へと落とし、スケッチブックは勉強机の上にポイ。そして、全身が映る鏡の前へと向かい合う。
本音を言えばウソだと思いたい。学校の手洗い場で見たものが夢かどうか、もう一度確かめる。
無造作に垂れ下がっては右目を覆っている長い前髪をかき上げ、自分の右目へと視線を集中させた。
大怪我をしたはずなのに外傷は一切無く、真っ赤な瞳に中央の瞳孔は金色に輝き、明らかに左目とは異質を放った眼をしていた。
――なに……これ。一体なにが起きたのか分かんない。
自分の右目の異変にしばらく呆然としていたが、私は咄嗟にスマホを取り出すとベッドに腰かけた。ぶつけた影響で何かの病気になったのかもしれない――そう思った私はネットで調べることにしたのだ。
どのくらいの時間スマホとにらめっこしていただろうか。ベッドに寝転がりながら検索を続けていたが、それらしい情報は得られなかった。
「……病院に行くしかないのかなぁ」
スマホを持つ手の力を抜き、諦めるように目を閉じて丸くなる。段々と意識が遠のき、夢の中へと吸い込まれていく。
――……い。――おい。
頭の中に響くような、誰かの声が聞こえた気がした。
丸くなっていた体を起こし、上半身だけで辺りを捉える。そこは一面真っ白で、床や壁なんかもなくて不思議な空間だった。
「……なに、ここ」
「やっと繋がったか」
聞いたことのない男の声。その声がした方へ視線を向けると、モヤにかかったような男の姿があった。顔はよく分からないけど、黒いローブのようなものを着ている気がする。
「……誰ですか? ここは一体」
「俺か? 俺のことはどうでもいい。お前にも分かりやすく言うとすれば、ここはお前の夢の中だ。正確には違うがな」
――え、夢の中? 今まで色んな妄想の夢とか見たことはあるけど、このシチュエーションは初めてかもしれない。
「お前の右目に宿った二つの力は、元々俺のものだ。――剥奪支配系の一つ『幻送ノ魔眼』、身体機能に準ずるものを剥奪することを極意とした瞳術。そしてもう一つは――」
「……は!? え?」
いきなりぶっ飛んだことを言いだす黒の人(?)に、その言葉を遮るように自然と口から擬音が漏れてしまった。説明されたときは一瞬理解が追いつかなかったが、私は自分の口を閉じてすぐに状況を察した。
――あぁ、あれか。選ばれた設定か。ラノベやアニメなんかによくあるやつだ。こういう夢も悪くないかな。特別な力で世界を救っちゃう私~ってのも……うん、アリだ!
「え、じゃない。お前は自分の置かれた立場を分かっていないようだな。その眼の力はこの星には過ぎたものだ。人間の欲望の強さは知っているんでな。仮にその力が拡散したとあれば、この星は混沌の世界へと変貌するだろう。だからもし奪われるようなことがあれば……その前にお前を”時流し”に合わせてやる」
――え、えぇ……? ちょっと待って良く分かんない。他の人に移るのか知らないけど、その不思議な力が広まったらヤバイっていう意味だよね。それは分かったんだけど、最後の”時流し”って何!?
「……と、”時流し”ってなんですか?」
「時間の流れのみが存在する空間。ただ暗闇が支配する空間で、何も認識することも出来ず認識されることも無い。死ぬことも精神崩壊することも許されない完全なる無の中で、永遠に生き続けることになる。それは、死すらも生ぬるく感じる極刑だ」
その内容を聞いた瞬間、背筋が凍り、全身から汗が噴き出た。そんな死ぬよりも恐ろしいリスクを背負うなんて、ただの女子高生の私には荷が重すぎる。その恐怖だけで死んでしまうかもしれない。
「い、いりません! そんな目に合うかもしれないなら、この眼はお返しします。私、地味しか取柄ないんで! そんな選ばれた勇者とかの器じゃないんで!」
ついさっきまでアリかもと浮かれていた自分を詫びよう。ここに全力の否定を申し出る。
しかし私が断りを入れた直後、黒の人は急に不敵な笑いを零し始めた。
「――ククク。選ばれた? 何をうぬぼれたことを言っている。望んだのは……お前だ。そう都合よく力を消せると思うな」
「え……」
――だめなの!? 私が望んだって……。
そこで私はふと思い出した。そういえば確かに望んでいたかもしれないと。
なんの為に生きているのか分からない、否定がつきまとうくだらない人生。
いつから地味な性格になったのかは分からないけど、きっとやり直せば今とは違った人生になるはずと何度も思ったことがある。
過去には戻れないから、やり直せないことなんか分かってる。だったら変わりたい、違う自分になりたい、こんな人生を……”覆したい”って、心の中で強く思っていたんだ。
「だがその力は永久的にお前に宿り続けるわけじゃない。心の底から力を否定すれば、俺の元に還ってくる。それはお前が死んだときも同じだ」
黒の人は腕を組み、静かにそう口を開いた。
心の底からの否定なんて、自分が望んだことをすぐに捨て去ることなんか出来ないと思う。だから私は、ただ無気力に、自分の気持ちと力を受け入れるかのように小さく呟いた。
「……なにが出来るのか、教えてください」
――……子。――口未子。
徐々に聞き取れる私を呼ぶ声。ゆっくりと瞼を開くと、そこには開け放たドアの前に立つ母親の姿があった。
「帰って来てからずっと寝てたの!? 夕飯も食べないでどうしたの!」
上半身を起こして覚醒した私は、開けっ放しにしていたカーテンから覗き込む窓に、ふと視線を向けて目を細くした。あれからずっと寝ていたようで、差し込む朝の日差しがイヤに眩しい。
「……ちょっと疲れてて」
「もぉ……。ご飯くらいは食べなさいよ?」
無言で頷くと、母親はドアを閉めて立ち去っていった。
私はベッドから降り、両手を天に掲げて大きく伸びをする。
――あぁ、良く寝た良く寝た。なかなか面白い夢も見れたし、これはご飯がおいしくなりそう。でもどこからが夢だったんだろ? 確か……あの一聖くんが私を助けてくれて、それでおしゃべりもした……。うっは! ちょっと待ってこれは夢であってほしくないんだけど! いや、夢の方がいいのかな!? あぁぁぁ! 一聖くんに会った時どういう顔すればいいの私ぃいい!
自分で自分を抱きしめ、一人でキャアキャアする私。ニヤケ面全開で、ボサボサの髪を手串で直しながら鏡へと向かい合う。
だけど、鏡に映る自分の姿を見た瞬間に、私は唖然として凍り付いた。
「夢じゃ……なかった」
そう、鏡に映る私の目はオッドアイになっていた。あれは――、夢ではなかったのだ。