二話 覆したい
帰りのホームルームも終わり、帰宅の為に身支度を整えていると、ふと女子達の声が耳に入って来た。
「一聖くん、私達これからカラオケ行くんだけど、一緒に行かない?」
五人ほどの女子に囲まれているのは、『朝霧 一聖』くん。少し短めの黒髪は自然な感じに整えられていて、制服も崩さずにちゃんと着ている。頭が良くてスポーツも出来るし、誰にでも優しく接する性格から、男子にも女子にも好かれている。
一年生のときは違うクラスだったけど、その時から私は一聖くんのことを知っていた。というよりも、見かけたときは意識して、気付かれない様にチラ見してた。
ある時に、落としたハンカチをたまたま一聖くんが拾ってくれた出来事があって、私は一聖くんを意識するようになったからだ。そんな些細な事でと笑われるかもしれないけど、私にとっては凄く衝撃的だった。他の人には気味悪がられる私のハンカチを拾ってくれて、しかも笑顔で声をかけてくれた。私は小さくありがとうとしか返せなかったけど、高校生になってそれが最初で最後の男子との会話だったから。
取り囲む女子達に、一聖くんは少し困った笑顔を浮かべていた。
「ごめん、放課後は生徒会の仕事があるんだ。僕の分まで楽しんできてもらえるかな」
女子達が名残惜しそうに「えー」と口を揃える中、一聖くんはカバンを持って教室から出て行ったのだった。
二年生になってから一聖くんは生徒会に入り、副生徒会長になった。だから何かと忙しいのはみんな知っていた。だから女子達も、無理には引き止めないようだ。
私はそんな光景を目にして、噴き出しそうな笑いを必死にこらえていた。
――ぷっ! ざまぁ。一聖くんはヒマなお前達と違って、世の為、人の為に忙しいのだよ。見ているだけで十分な私は、勝ち組勝ち組。同じクラスになれてよかったぁ~。二年になってまだ一回も話せてないんだけどね。……圧倒的負け組じゃねーか!
控えめなんてゆるふわな表現じゃ足りない自分の小心さに、私は一つ大きな溜息を尽くと、肩を落としながら帰路に着くことにしたのだった。
昇降口から外に出て歩き出すと、思ったよりも風が強かった。正面からの向かい風で、スカートがぴっちりと張り付いてくる。
――うへ、風つよ……。スカートの後ろはリュックで押さえられるからいいけど、前からの風が強いと張り付いてくるのがウザったい。くすぐったいし、なにより歩きにくい。
風に逆らうように、駅へと向けてその足を進める。ボサボサと巻き上がる髪にウザイと感じながらも、帰宅後の空白の予定を考える。
――帰ったら何しようかなぁ。最近納得のいく美男子が描けるようになってきたから、ショタとイケメンが惹かれ合う漫画でも描いてみよっかなぁ。
一人、妄想に浸りながらニヤけていると、とある重大なことに気が付いた。急いでリュックの紐を肩から外し、中身を乱暴に確認する。そして――、全身から血の気が引くような感覚を覚えて呆然とする。
「スケッチブック忘れた……」
そう呟くやいなや、このまま帰るわけにはいかないと、私は全速力で元来た道を引き返した。
息も途切れ途切れで廊下を走り、自分の教室を目指す。
良い子は廊下を走っちゃいけないというフレーズがふと脳裏をよぎるが、もしも誰かにあれを見られたときの方が大参事だ。
ようやく教室が見えてくると、誰もいませんよーにと祈りながら、走る勢いのまま一気にドアを開け放った。
私の目に飛び込んできたのは誰もいない教室――ではなく、急に開いた扉に反応して、鋭い睨みを効かせてきたマジクソ三姉妹の姿だった。
一番後ろの真ん中、自分の席に座る智美を囲うように、れみと萌が立っている。
「あら~地味子じゃないの。何か忘れ物?」
智美がムカツク微笑みを浮かべながら声をかけてきたが、それどころではない私はそれを無視して自分の席へと足を進めた。
背後でクスクスと笑う三人に嫌悪感を抱きながら、自分の机の中に腕を入れる。
おかしい――。置きっぱなしにしていた教科書類を全て取り出しても、どこにもスケッチブックがない。焦る気持ちを抑えながら、机の中まで覗き込むように探していると、ふと智美の声が響いてきた。嫌味ったらしい、変にゆっくりとした口調で。
「忘れ物って~、もしかしてこれかしらぁ~?」
その声に振り返ると、智美が見覚えのあるスケッチブックを片手に持ち、私に見せつけるかのようにヒラヒラと振っていた。
――私のスケッチブック! 勝手に人の机探るんじゃねーよ! よりにもよってこいつに取られるなんて最悪!
激しい苛立ちが腹の中をグルグルと渦巻くが、私はそれを悟られない様に下を向きながら、足早にマジクソ三姉妹へと歩み寄る。そして微笑みながら優雅に座っている智美の正面に立ち、ヒラヒラと舞うスケッチブックに無言で手を伸ばした。
だがその瞬間に、智美がスケッチブックを持つ腕を後ろに引き、私は宙を掴む形となった。
「あははは! どんくさ~い。地味な上にどんくさいなんて、自分で恥ずかしくないのかしらぁ?」
あざ笑う智美への怒りを抑えつけるように、私はスカートをぎゅっと握り締めて我慢した。
「……返して」
私が一言そう言い放つと、智美はわざとらしく耳をこちらに向けて、顔の横に手を添えた。
「なぁ~に? 聞こえなぁ~い!」
勘に触るふわっとした言い方。聞こえてるくせに、わざとそんな態度を取って軽くあしらうから腹が立つ。バカにするようなその態度に、自然と私の声にも力が入ってしまう。
「返して! ……ください」
後半は呟くように言い足したのだが、どうやら少し強い口調で言い放ってしまった前半部分が、女王の智美はお気に召さなかったようだ。
智美は微笑みから一転、冷たい眼差しのように目が座り、私をじっと見つめては足を組み出した。
「なにその態度。返して欲しかったら、それ相応の礼儀ってものがあるんじゃない? 土下座しなさいよ」
智美の横にいるれみと萌がクスクスと、固まる私をあざ笑う。
しかし素直に土下座をしない私に痺れを切らしたのか、れみと萌が怒声を浴びせてきた。
「早くやれよノロマ!」
「日が暮れちまうだろ」
正直、土下座なんてまっぴらごめんだ。なんでこんなクソ共に土下座しなきゃいけないのか意味分かんない。そもそも私の物を勝手に盗んだのに、なんで持ち主の私が頭を下げなきゃいけないのか。
下を向いたまま直立不動の私は、次の智美の言動に大きく揺さぶられた。
「へ~。無駄に上手いじゃない」
その言葉に顔を上げると、私は目を丸くしてしまった。そう、こともあろうか智美は、勝手にスケッチブックの中を見ていたのだ。それもあえて私に見せつけるかのように、ペラペラとめくりながら不敵な笑みを向けてくる。
私は下唇を強く噛み締めては、ゆっくりと膝を曲げ、地面に正座する形を取った。そして腰を軽く曲げた瞬間、萌が私の背中に足を乗せて来た。
私は咄嗟に両手を床につき、萌の足で押さえつけられるように土下座することとなった。
「返して……ください」
目の前の床に呟くように、私は智美に命じられるがままに土下座で頼み込んだのだ。
――これで返してもらえる。そしたらすぐに家へ帰ろう。
そう心の中で呟き目を閉じていると、血を沸騰させるような返答が返ってきた。
「い・や・だ」
一字ずつ溜めながら、いつもの微笑みの口調で言い放つ智美の言葉。最初からこいつは、私に土下座させて楽しむのが目的だったんだ。
そう思うと、一気に感情が膨れ上がった。
「返して!!」
背に乗る萌の足を振り払い、勢いよく立ち上がっては智美の持つスケッチブック目掛けて飛びかかった。
「触んじゃねーよ汚ねぇ!」
声を荒げる智美に突き飛ばされ、私は後ろにある机へともたれかかるようにバランスを崩した。飛びかかったことでキレたのか、智美の声が教室中に鳴り響く。
「地味子のくせに、調子に乗んなよ! 空気は空気らしくしてろよ! その気になれば、あんたの人生メチャクチャにしてやることだって出来るんだから! だいたいこんな絵ばっか描いて気持ちわりーんだよ! この絵だって、どうせ一聖くんのこと考えて描いたんでしょ!?」
私に向けられた、スケッチブックのとある1ページ。美男子の横顔の絵がそこには描かれていた。
「知ってるんだからね! あんたがチラチラと一聖くんのこと見てるの。なに? 好きなの? あんたに惚れられても、一聖くんが可愛そうなんだけど。一聖くんの気持ち考えたことあんの? 地味でブスでキモイあんたに言い寄られても、一聖くんが困るに決まってんじゃん。迷惑なんだよ。存在自体が周りに迷惑かけてんの。分かったら一聖くんのこと二度と見るな、そして諦めろ。返事は?」
私の瞳には、涙が溢れそうになっていた。罵倒されて、けなされて、自分自身の存在自体も否定されて。そして――、私は一聖くんに迷惑をかけてるのかなって思ったら、それが悲しくて悲しくてしょうがなかった。
袖で涙を拭いながら小さく肩を震わせていると、突然胸の辺りに衝撃が走った。
「諦めますって言えよ!」
智美がそう言い放ちながら、私を感情的に突き飛ばしたのだ。
「れみと萌もムカツクでしょ。ちょっとこいつやっちゃお」
「うんうん!」
「だねぇ」
智美に誘導されるように、れみは面白そうな笑みを浮かべ、萌は睨みを効かせてくる。そして「諦めろ、諦めろ」と言いながら、三人が交代で私を突き飛ばし始めた。
それからはもうやられるがままに、一番後ろの方から一番前列くらいまで、机や椅子にぶつかりながら突き飛ばされ続けた。
足や腰にぶつかる痛みと、突き飛ばされる時に押される肩や胸が凄く痛い。精神的にも肉体的にも苦痛で、自然と涙がボロボロと溢れ出していた。
丁度萌が突き飛ばした時だろうか、その手に私の涙が付着してしまったようだ。
「うわ、汚ねぇじゃねーかよ! ふざけんなコラ!」
元より低めの萌の声に、更にドスが効いて私は体をビクっと恐怖で震わせた。そして咄嗟に出てしまった一言が、とんでもない事態を引き起こすキッカケとなってしまったのだ。
「ご、ごめんね萌ちゃん……」
「その名前で呼ぶんじゃねーよ!」
今まで一度もマジクソ三姉妹の名前なんて呼んだことがなかった。だから咄嗟に名前で呼んでしまったのだろう。だけど萌に関してはそれはタブーだったのを忘れていた。名前と容姿のギャップがコンプレックスなのか、萌はれみと智美以外に名前で呼ばれることをひどく嫌っていたのだ。
力強く繰り出された蹴り。ヤクザキックとでも言うのであろうか、私は萌の強烈な前蹴りを食らって、後ろに大きく吹き飛んだ。バランスを崩した体が、自然と前へとひねるように向いていく。
一瞬の出来事だったが、それはスローモーションのようにゆっくりと感じた。
流れていく教室の窓際の風景。綺麗に消された黒板が、端から姿を現してくる。徐々に視界は下降を始め、教壇が一面に広がり始める。
そして待ち構えるかのように、目の前には教団の角が――ゆっくりと、ゆっくりと、私の右目に迫ってきたのだった。
「ぎゃぁぁああああああああ! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い! ぅわぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
右目に突如襲い掛かってきた、今まで体験したことのない激しい痛み。ズキズキと激しく脈打つように、まるで燃えるような痛みにさえ感じる。
強烈な痛みと、目が潰れてしまったかもという恐怖から、私は断末魔にも似た叫びを轟かせた。
今まで私が発したことのない声量と叫び声に、さすがの三人もやり過ぎたと感じたのか、驚きを隠せないようだ。
「か、帰ろっ!」
智美の言葉を合図に、まるでその場から逃げ出すような足音が聞こえる。
私は床に丸くなってうずくまり、両手で必死に右目を押さえ続けた。左目からは涙が止まらず、ベットリとした生ぬるい感触が手を伝うが、痛みで動く気すら起きない。
――ひどい……ひどすぎる。なんで私ばっかりこんな目に……。何も悪い事してないのに、どうして!? こんな理不尽な人生もうイヤ! やり直したい、やり直したい。……”覆したい”!
「誰か、誰か……助けてよぉ……」
助けてくれる人なんて誰もいないのに、何かにすがるように、私は自然と本音を零していた。
その時、急に聞き覚えのある声が耳に入って来た。
「……菊地さん?」
私はゆっくりと声のした方へ顔を向け、朧げな瞳でその姿を捉えた。
そこには、開け放たれたドアの前で立ち尽くし、私を見つめる一人の男子の姿があった。
心配そうな面持ちを向ける彼――、一聖くんの姿が。