十三話 借りのハンカチ
過酷な任務を終えた勇敢なる兵士――もとい私は、無事に家へと帰還することが出来た。
部屋着である赤のジャージに着替えて、すぐさまベッドへダイブする。
「あぁぁぁぁぁ……疲れた」
自然と口から零れ出す、疲労の吐息。
ただ服を買って昼食を食べるだけの簡単なお仕事だったはずなのに、予想外な出来事が多過ぎてすでに疲労困憊だ。
ベッドに横になると、体中にのしかかるように一気に疲れがやってきた。それは次第に眠気を誘発させる。
しかし、某ネズミキャラが手招きする私だけの夢の世界へと旅立とうとする時、そんな私を邪魔するかのようにドアを無造作にノックする音が響き渡った。
「くみ、入るぞー!」
どうやら騒音の主は兄のようだ。私が返事もしていないのに、兄は一言告げるなり勝手にドアを開けて部屋に入って来た。
私が部屋に行った時は、”勝手に入るな”的なニュアンスで物申してきたくせに、やってることがさほど変わらないじゃないか。私が完全に寝ていたら、不法侵入で訴えてやるところだ。
「プリン買って来たぁ~?」
何を言い出すのかと思えば、さも当たり前のように、気の抜けた声でそう言い放つ兄。
私はこめかみに激しく筋を浮かべ、顔を合わせずに声だけで一つ答える。
「出てけ。この地球から」
「え……。俺、宇宙飛行士になるの……?」
アホなことを言っている兄はとりあえず無視だ。こんな害虫に構っているほど私はヒマじゃない。今はただ、誰の邪魔も入らない夢という名の安息の地へと赴きたいのだ。
しばらく見ざる聞かざる言わざるを貫き通していると、諦めたのか兄は静かに部屋から出て行ったようだ。
邪魔者が消えたことで私は、落ちるように深い眠りへとついていくのだった――。
暗闇と静寂が支配する中、けたたましい目覚ましの音が私の耳に起床の時間を告げる。
敷き布団に体を擦りながら、ベッドの頭の方にあるであろうそれを目指してズリズリと這い上がる。そして耳障りな騒音を撒き散らす鉄の塊に、華麗なるチョップを叩き込む。
「はぁ……起きるかぁ」
憂鬱を呟き、気だるい体にムチ打って無理矢理にベッドから降りる。
ジャージから制服へ着替え、外出用のリュックから昨日買っていた眼帯と財布を取り出す。
一階へ降りて顔を洗い、右目に眼帯を付けては洗面所の鏡で自分の顔を覗き込んでみる。
――うん、これならバレないかな。
眼帯を付けて魔眼をカモフラージュしたのはいいが、念の為に顔の右側は前髪で隠しておく。
朝食を食べる為にダイニングへと足を運び、すでに食事の準備が出来ているテーブルから椅子を引いて、自分の席であるそこへ腰かけようとした時――私の体に衝撃が走った。
「ひぎゃぁっ――!」
足の先を両手で包み込み、フローリングの床をゴロゴロと転がる私。目には涙が滲んできて、あまりの痛みで言葉に出来ないほど悶え苦しむ。
そう――、テーブルの足に、小指をぶつけてしまったのだ。
「あっひゃひゃひゃ! 朝からなにやってんだよ、バカだなくみはぁ~!」
誰しもが一度は経験するであろう、なぜか五本もある足の指の内、小指だけをぶつけるという不可解な現象。
朝っぱらからそんな不運に巻き込まれた私を、兄は腹を抱えて本気で笑っていた。
まだ痛みが残るので、鋭い眼光だけを放って兄を睨み付ける。
言葉なくとも気迫が伝わったのか、兄は一瞬にして背筋を正すと、何事も無かったかのように食事を続け出した。額から、一筋の汗を垂らして。
私は重い溜息を一つ尽くと、痛い足を引きずりながら席へと着き、静かに朝食を口に運ぶのだった。
「あら? 口未子、どうしたのよそれ」
向かいに座る母が、私の右目へと視線を向けながら声をかけてきた。どうやら眼帯に気が付いたようだ。
「あ、うん。ものもらい」
「えー! ひどくなるようだったら病院行くのよ?」
「分かってる」
華麗に眼帯を取り外し、「この右目には……魔眼を宿しているのだ!」――などとは言える筈もなく、適当にそれらしい事を言ってはごまかすしかなかった。
「ものもらい!? だけど俺は、何もあげないもんね!」
なにが「あげないもんね!」、だ。嘘だと言うのに、いちいち反応してくるクソ兄貴がうざったくてしょうがない。そんなしょうもないことを言いながら、顎を突き出してニヤケ面してくるから余計に腹立たしい。
「あんたからはすでにもらってるよ。ムカツクほどの、”不愉快”をね!」
「あ、うまーい!」
両手の人差し指を私に向けながら、嫌味なほど明るい表情で返す兄。
さすがの私も、顔を引きつらせては拳をわなわなと震わせた。
「なんなら返してあげよっか? 今なら特別サービスで、”顔面が二倍になる魔法”をかけてあげるけど?」
「そ、そろそろ時間だから、行かなくっちゃなー!」
目の前で見せつけられるように震わせている私の拳で察したのか、兄は付けてもいないエア腕時計で時間を確認するフリをしては、逃げるようにダイニングから去って行ったのだった。
電車通学の私は、駅のホームにて電車が来るのを待っていた。比較的田舎の駅なので、ここから乗る人はあまりいないのが救いだ。
程なくして電車がやって来たのだが、停車した瞬間に嫌な予感が走った。
ドアが開き、電車の中に入るとそれは確信へと変わった。
――うっわ! 私の席、取られてるじゃん!
降りる側のドアの前――正確には席でも自分のでもないのだが、私の中で勝手に自分専用の指定席と決めていた”いつもの席”なのだ。
今日はあいにく、その場所が他の人に取られていた。
ふと視線を動かすと横並びの座席の一つが空いていたので、私はため息を吐きながら、嫌々ながらにもそこに腰を下ろすことにした。
なぜ嫌々かというと理由がある。
座席に座ると同じ学校の女子はもちろん、他の学校の女子と隣り合わせになるからだ。それだけじゃない、向かい合わせになるのもイヤだから、私はいつもドア側に立って視界には景色を映している。
私を見ているんじゃなくてもどうしても視線が気になってしまうから、気まずいから、極力隅の方で小さくなってしまうのだ。
空気の存在に徹した方が、きっと私には正解なのだろうから――。
二十分ほどガタガタと揺られると、降りるべき終着点へと着いたようだ。
縦二列に並ぶ人込みの中、暗黙の了解だろう――ホームへと続く階段を私も含め規則正しく上って行く。
前後とも人に挟まれる窮屈な瞬間に、狙いすましたかのようにまたしても神のイタズラがやって来た。
「はわっ――!」
咄嗟に出た情けない声と共に、足から抜け落ちた片方のローファー。階段を上っている時にたまに起きる、イラっとする瞬間の一つだ。
――なんでよりにもよってこのタイミングで脱げるかなぁっ!!
靴が抜け落ちた激しい苛立ちと羞恥心が絡み合い、私は顔を熱くしながら小さく頭を何度も下げては、列を一人逆走するハメになった。
勝手に旅立とうとするローファーは、上ってくる人込みの足で蹴られに蹴られて、逆に階段を下って行く。
多くの白い目で包まれる私は、泣きそうになりながらもようやくローファーを手にすることが出来た。
そして気が付くと、私は階段の一番下に立っていた。あれだけいた乗客は全員階段を上って行ったようで、私は結局一番最後になってしまったのだった。
学校へと辿り着いた私は、沈む気持ちのまま教室のドアへと手をかける。開け放ったその先には、朝のホームルーム前にガヤガヤと賑わう見慣れた風景。
月曜日ということもあってか、クラスメートのテンションがやけに高い。各々休日を振り返っては友達同士で談笑を交わしているのだろうが、私にはただの耳障りな騒音にしか成り得なかった。
私は誰にも挨拶をせず、されることもなく、”いつも通り”に真っ直ぐ自分の席へと向かう。
そして机の横にリュックをかけ、小説を取り出しては空気の存在へと移行する。
――今日はツイてないことばっかりだけど……せめて学校は無事に終わればいいなぁ……。
小さな溜息を吐き、そんなささやかな願いを心の中でそっと呟いた。
今日は誰からも認識されないパターンの日のようで、一時間目から四時間目までは何事もなく進んでいた。
しかし――、朝のささやかな願いはそこまでだったようで、神様に通じることもなく簡単に崩れ去ったのだった。
昼休みになったので一人でお弁当を食べているのだが、なんだかいつも以上に教室の中に慌ただしさを感じた。どうやらそれは廊下側に原因があるようで、何があったのか気になる私は、少しだけ顔を向けては横目で状況を捉えた。
瞬間、私は驚き目を丸くさせた。なぜならば、開け放たれたままの教室のドアの向こう――視界に映るそこには、昨日会ったあの男子がいたからだ。
何かを探すかのように、キョロキョロと教室内を見渡すその人は、ふと私に視線を向けるなり急に大声を発し始めた。
「あ、おい! おーい!」
明らかに私を呼んでいるような素振りに、私はビクッと体を震わせては、すぐさま顔を逸らしてお弁当へと向かい直った。
「あ~? 聞こえてねーのかよ。そういや……あいつ耳が遠い感じだったな」
「ちょっといいかな?」
ふと耳に届いた聞き覚えのある声に、私はまたその場へと意識を集中させた。
あの強面の男子――『暴れタイガー』こと夜桜大河の前に、なんと一聖くんが立ち塞がっているではないか。
「あ? なんだテメーは」
「僕は朝霧一聖。君は、夜桜大河くんだね」
「気安く呼んでんじゃねーよ! ぶっ飛ばすぞコラ!」
鋭い目つきを放ち、今にも飛びかかりそうな勢いで睨み付ける大河くん。
だけど一聖くんは物怖じもせずに、その場から動かず真っ直ぐに見つめ返している。
不穏な空気が辺りを包み込み、二人の様子を見守る他の生徒達は固まったまま、皆不安そうな表情を浮かべている。
「そういう発言は控えてくれ。それで……このクラスに何か用でも?」
「俺はただ口未子って奴に会いに来ただけだ! なんか文句あんのか、優等生の坊ちゃんよぉ」
大河くんのその言葉に、一聖くんはチラリと私の方へと振り返っては、また視線を前へと戻した。
「文句はないさ。だけど――、意見は言わせてもらう!」
いつにもなく強い口調で言い放つ一聖くん。校内でも有名な不良を前に、真剣な面持ちで対抗している。
「今は昼休み、菊地さんも含めみんな食事の時間を過ごしているんだ。用があるなら後からにしてもらおうか。君の目には、みんなの顔が見えないのかい?」
一聖くんにそう言われた大河くんは、少し睨みを効かせた後、他の生徒達を確認するかのように辺りを見渡した。
怯える顔、戸惑う顔、迷惑そうな顔――多くの表情を浮かべる生徒達の顔を改めて認識したのか、大河くんは一つ大きな舌打ちを放った。
「――ちっ」
そして不機嫌そうな表情を浮かべては、大河くんはその場を後にして行ったのだった。
残った一聖くんは一つ安堵の息を吐くと、振り返っては教室にいる生徒達へと向けて声をかける。
「みんな! 騒がせちゃってすまなかったね。さぁ、お昼にしよう!」
一聖くんの優しい言葉と明るい笑顔に、教室の中にも穏やかさが戻り始める。
一聖くんはそれを確認すると、私に向けて一つウインクを放ち、教室を後にして行ったのだった。
当然、一聖くんからウインクなる至高の祝福を向けられた私は、ただ茫然として頬を染め上げた。
他の生徒達は震え上がって足がすくんでいたのに、一聖くんはあの大河くんを前に堂々と立ち塞がったのだ。
他の生徒達を気遣い、秩序を守り、その正義感と優しさ溢れる一聖くんの姿は、私の目にとても輝いて映っていた。
生徒会の仕事があるのだろう、一聖くんが教室からいなくなるなり、途端に私の陰口が始まっていた。それは大河くんが”私に会いに来た”と言ったフレーズがキッカケで、私を厄介者扱いするといったものだった。
私に隠す気は無いのだろう――「地味子のせいだ」、「地味子がいるから悪い」、「なんで暴れタイガーと関わってるんだよ」とか、好き放題言っているのが聞こえてくる。
だけど私はそれを聞きながらも、あたかも聞こえていないフリを突き通す。あまりに勝手なその理不尽な言い草に、思うところはあるけど聞き流したいのだ。
今はただ――、一聖くんの振舞いの余韻に、浸っていたいから――。
購買スペースの前に立ち並ぶ数台の自販機。その横に設置されたベンチには、ふてくされたように横になる大河の姿があった。
「ちっ――。ハンカチ渡しそびれたじゃねーかよ……」
口未子に告げた”洗って返す”という約束の元、大河は二年のクラスを回っては口未子を探していたのだった。
一聖に阻まれてハンカチを返すことが出来なかった大河は、そのイラ立ちを隠せずにした。
すると、そんなご機嫌斜めの大河の前に、一人の女子生徒の姿が現れた。
「初めましてかしら? 大河くん」
「あ?」
ふいに声をかけられた大河は、不機嫌そのままに声のした方へと顔を向ける。
そこに立っていたのは、腕を組みながら微笑みを浮かべる智美の姿だった。
「誰だテメー」
「私は智美。一つ質問してもいいかしら?」
「俺は今機嫌がわりーんだよ。どっか行け」
大河はそう口にすると、顔を背けて智美に背を向ける。
「大河くん、口未子に会いに来たって言っていたわね。もしかしたら……力になれるかもしれないけど?」
その言葉に大河は目を開き、体を起こしては智美へと向き直る。
智美はそんな大河の姿を目にすると、まるで狙っていたかのように瞳を怪しく輝かせた。
「私、口未子と同じクラスメートなのよ。大河くんはあの子と友達なの?」
「ちげーよ! 俺はただ借りを返したかっただけだ」
「借り?」
「あぁ……まぁ、ちっとあってな。怪我の手当てしてくれたんだよ。ハンカチなんか使うもんだから、洗って返すって約束したんだ」
「ふ~ん……そういうこと」
大河の話に、智美は微笑みを浮かべつつも怪しく目を細める。そして作ったように明るい笑顔を放っては、一つ提案を持ちかけた。
「だったら、私が代わりに返してあげよっか?」
「ほんとか!」
先ほどの件もあり、自分では上手くハンカチを返すことが出来ないと理解しているのか、大河はその提案に強張った顔を緩めた。
「ええ」
「っしゃあ! これで借りを気にしなくて良くなった! 頼んだぜ!」
大げさに喜ぶ大河はハンカチを差し出すと、智美はそれを受け取って笑顔を向ける。
「お安い御用よ」
そして踵を返し、大河を背にしてその場から立ち去る智美。
だが、微笑みを放つその表情は一転する。
意味ありげに口角を上げ、――不敵な笑みを零すのだった。