十二話 暴れタイガー
壁を背にして座っているその男は、金髪に染めたツンツン頭の短髪、睨まれるだけでも怖いツリ上がった目、そして体中ボロボロとでも言おうか――、よれた服は所々ほつれ、着ている服と体は土で汚れ、そして切ったのであろう口の端からは血を流していた。
呼びかけられた私は蛇に睨まれた蛙よろしく固まり、口を開くことも視線を逸らすことも、それこそ逃げ出すことも出来ずに直立不動を貫くことしか出来ずにいた。
「――い。おいっ!」
数回呼びかけられていたのであろう私はハッと正気を取り戻すと、すぐさま踵を返してその場から逃げ出そうとした。
こんな人気のない路地裏で、悪名高い暴れタイガーに絡まれたら何をされるか分かったもんじゃない。
「待てよお前」
逃げ出そうと一歩踏み出した所で、背後からの圧力の声によりその足が止められた。
私がビクビクと体を震わせながら固まっていると、再び声がかかる。
「喉がカラカラなんだ。何か飲みもん持ってねーか? まだ動けそうにねーんだわ」
――あぁ、なんだ。飲み物か……。
襲われるんじゃないかと冷や汗を流していた私は、安堵の息を尽いて胸を撫で下ろす。
そしてカッと目を見開いては――、逃亡した。もちろん全速力で。
目を血走らせては、決死の覚悟で路地裏を駆け抜ける。追いかけてこないとも分からないので、人生の中で使うであろうフルパワーで走り続ける。口から少しよだれが漏れて、後方へと流れて行くが気にしたら負けだ。
表通りへと出た私は、膝に手を付いて大きく肩で息をし、ボサボサの髪から周囲を見渡した。
「きゃあああああ! 出たぁぁぁっ」
「うわぁぁぁ、貞子だぁぁっ」
「ひぎゃぁぁぁ!」
丁度通りかかっていた通行人達が、私を目にしては各々叫びを上げて逃げ出していく。どうやら幽霊か何かと間違われたようだ。
だがそんなことは今はどうでもいい。あいつらには後で呪いのビデオを送りつけるとして、今は私自身が危ないからもう少し逃げておきたいのだ。
走る、走る、走る私。とうとう体力的に限界が来たので、ゼーハーゼーハーと呼吸を乱しながら立ち止まる。周囲の人達が白い目を向けてはあからさまに避けていくのだが、自分なりにはかなり頑張った方だ。
陸上部だったら余裕で県大会優勝だなとか思いつつ、後ろを振り返ってみると驚愕した。
どうやら蚊ほどの体力しかない非力な私では、思ったよりも距離を稼げていないようだった。全てを出し切ったのに、割に合わないほど路地裏から近いのである。
――はぁはぁ。でも……もう無理、もう走れない。ちょっと休憩。
疲れた私は、丁度近くにあった自販機にてジュースを買うことにした。リュックから財布を取り出し、小銭を入れる前に何を飲むか品定めをする。
その時、ふと脳内にあの男の言葉が甦って来た。
――「喉がカラカラなんだ。何か飲みもん持ってねーか? まだ動けそうにねーんだわ」
ボロボロの体、口から血を流している姿。あんな路地裏で何をしていたのか容易に察しがついた。
そう――、きっとあれはケンカしていたに違いないと。
なんでそんなことをするのかは私には分からないし、分かりたくもない。何を考えているのか分からないけど、ケンカとかするあの不良男子は怖いし、なにより”普通”に生きる私はそっちの世界の住人とは関わりたくないのだ。
だけど――。
自販機に小銭を入れた私は、俯いて小さく口を零す。
「怪我をしてる人を放っておくのは……普通じゃないよね……」
人目の付かない薄暗い路地裏、そこでは体力の回復を待つように、壁を背にして一人座り込む大河の姿があった。
下を向いて、汚れた地面を朧げに見つめていると、ふとその視界に一本のペットボトルが映り込んだ。水の入ったそれを握る手を辿るように、大河はゆっくりと顔を上げる。
その目に映り込んだのは、怖がって逃げてしまったと思っていた口未子の姿があった。しゃがみ込み、大河と同じになるよう目線を合わせている。
「お前……戻ってきたのか?」
きょとんとした面持ちで声をかける大河に、口未子は一つ頷いて返す。
「そうか……わりぃな」
大河は静かにお礼を口にすると、差し出されたペットボトルを受け取っては、豪快に喉を鳴らして一気に飲み干した。
「――っはー! あぁ生き返った!」
瞬く間に全ての水を飲み干した大河は、口からペットボトルを離すやいなや大きく息を吐いた。
するとその時、口未子は無言で大河の口元へとハンカチを当てた。
「――いってぇ……」
「……ごめん。ちょっとだけ我慢してて……」
「……お、おう」
どうやら口未子は、大河の切った口元を手当てしているようだった。
流れている血をなるべく傷口を避けてハンカチで一度拭き取り、ガーゼに消毒液を染み込ませては、優しく丁寧に口元へと添えるように当てている。
その間、大河はむず痒いのか、何もない上の方へと視線を逸らしてはジッと終わるのを待っていた。
口未子は最後に絆創膏を貼ると、無事手当てを終えたようだ。
「……終わり」
口未子はそれだけ口にすると、膝の上に乗せていたハンカチを手に取り立ち上がった。そして踵を返しては、やるべきことはやったとその場を後にしようとした。
だが、口未子が大河へと背中を向けて一歩踏み出した瞬間、大河に腕を掴まれてその足を止めることになった。
「待てよ」
腕を掴まれて引き止められた口未子は、小さくなりながらゆっくりと振り返り、震える声を絞り出した。
「……わ、私……あんまりお金持ってないですよ……」
「ちげーよ!」
小さくなって呟く口未子に、大河はぶっきらぼうに言い放つと、口未子が手に持つハンカチを無造作に奪い取った。
「これ、俺の血で汚れてんだろーが。……洗って返す」
まさかの言葉を言われたのか、口未子は一瞬きょとんとした後に、高速で首を横に振っては全力の否定を現した。
しかし口未子の態度がお気に召さなかったのであろう大河は、その眼差しを鋭くさせては低い声で睨みを効かせた。
「洗って返すって言ってんだろうが。人の好意を踏みにじんのか? テメーは!」
「――ひぃぃぃ」
顔を蒼白させて大きく後ろに仰け反る口未子。「そんな押し売りの好意いりません」と心の中で呟くものの、大河の発する威圧感の前ではもはや断ることが出来ないようだ。
「お前、名前は」
「菊地……く、口未子……」
「学校は」
「せ、青龍高校……」
まさに押し問答を繰り広げていると、大河は高校名を耳にしたところでその目を丸くした。
「お前、俺と同じ学校だったのか。何年だ」
「え、あ、はい。二年……です」
「なんだタメかよ! てっきり中坊か、いっても高一かと思ったぜ! あっははは!」
高らかに笑い声を上げる大河に対し、口未子はその顔を引きつらせていた。
「まぁ、これで返す時にも面倒じゃなさそうだ。後でちゃんと返すから、首を洗って待っててくれ」
どう考えても言葉の使い方を間違っているのに口未子は気付いたが、あえてツッコミをせずに勢いよくお辞儀をしては、逃げ出すように颯爽とその場から駆け出して行ったのだった。
そして一人残った大河は、先ほどまで口未子がいた場所を見つめては小さく呟いた。
「あいつ……変だけど、イイ奴だな」