深井戸
第二夜
深井戸
昔、常陸の国のある村に古い井戸があった。その井戸は村の外れの薄暗い森の中にあり、近づく者は無かった。しかしある年に奇妙な噂が村に広まった。それは夜遅くに、井戸のほうからなにか声が聞こえるというものであった。村の勇敢な若者のひとりが噂を確かめに夜遅くに井戸へと向かった。するとまるで木々のざわめきのようではあったが、声は確かに聞こえた。井戸に近づくと声はよりはっきりとしたものになった。その声は井戸の中から響いてくるものであった。その声は恐ろしい声色である者の名を呼んでいた――誠太郎と。
若者は恐ろしくなり村へと逃げ帰った。
誠太郎は村に夫婦で住む若者だった。誠太郎は真面目な性格ではあったが、ひとつ悪い癖を持っていた。酒癖が悪かったのである。その事で夫婦仲が悪かったのは、事ある度に激しい喧嘩をしていたために周知の事実であった。しかしそれも妻の姿を村で見かけなくなったある日を境にぴたりと止んだのでいたのであった。村の中では妻が出て行ったのだとされていた。
井戸から響く声を聞いた若者は村に帰ってきて、すぐにその事を誠太郎に話した。話を聞いた誠太郎はひどく怯え、顔を真っ青にして家に籠ってしまった。
それから村では度々不気味な事が起こるようになった。夜遅くになると井戸から聞こえていた声が村の中で、それもずるずると何かを引きずるような音を伴って聞こえるようになったのである。朝になって見てみると道にはなにかが這った跡があり、それは誠太郎の家へと続いていた。その事で村の者達は誠太郎にこのような事になる覚えはないかと聞いた。しかし誠太郎は頑なに口を開くことはなかった。村の者達がこの事を寺の和尚に相談すると「誠太郎はなにかに憑かれているのかもしれぬ」と答えた。和尚の口添えもあって誠太郎は井戸の前で払いの儀式をすることになった。その払い儀式とは一晩、和尚と共に経を唱え続けるというものであった。和尚は誠太郎に言った。
「よいか、なにが出てこようとも経を唱えるのを止めてはならぬ。唱えるのを止めたならお主はきっと憑り殺されてしまうだろう」
その言葉に誠太郎は随分とやつれた顔で頷いた。
こうして二人は井戸の前で経を唱え続けた。しかし丑の刻になった時であった。井戸から誠太郎を呼ぶ声が――それに続きなにかが這い――上がってくる音が聞こえたのである。二人は身を固くしながら必死に経を唱え続けた。だがしかし這い上がってくるなにかが井戸の淵に現れるのを見たとき、二人は経を読むのを忘れ、恐ろしさに息をするのも忘れてしまったのである。古井戸から這い上がってきたのは、わずかに腐った肉と髪をはりつけた骸骨であった。骸骨は恐怖に竦む誠太郎に組みつくと、瞬く間に井戸の中へと引きずり込んだのである。和尚は誠太郎の悲鳴を聞いてようやく動くことができた。そして慌てて井戸を覗きこんだが、井戸の底にはただ――深く暗い闇が広がっているばかりであった。
その次の日、井戸を調べることになった、中からでてきたのは女性の着物を着た骸骨だけであった。その着物は出て行ったと思われていた誠太郎の妻のものであった。これを見た村の人々はこう考えてた。誠太郎の妻はおそらく誠太郎に殺され、井戸に投げ込まれたのだろうと。その後も井戸は調べられたが誠太郎はとうとう見つかることはなかった。
この話に書かれた井戸がどこにあるのか、今ではもう分からない。ただこれだけは言えるだろう。今もまだその井戸があるのならその底に広がっているのは深く――暗い闇だけである