閻魔(やま)のはなし
一夜
閻魔のはなし
ずっと以前のこと、岩手郡のある山を深い夜分に越す二人の若者の姿があったそうだ。二人の若者は、山の麓にある村の人々から、その山の夜は特には危険だからと止められたのにも関わらず、先を急いでいた。夜の山は常に危険ではあるが、二人にはどうしても急がねばならない理由があった。
――実はこの二人、近くの町の屋敷から財宝を盗みだした盗人であった。
盗人の一人、名は作朗といったが、彼はその山の様子に恐れを抱いていた。作朗は盗人である。夜の闇の中で仕事をすることも少なくなかったが、この山の夜はどうにも不気味で仕方なかった。
それは月光すら通さぬ樹木の葉の重なりや葉同士が擦れ囁く音が原因であったが、作朗の気に掛かっていたのは山の麓で人々に聞かされた話であった。
人々が話すところに寄ればこの山の夜は閻魔の神のものだという。閻魔は昼間は人々を守るが、夜には自らの領域を侵すものを許さないという。昔から夜の山に入ったものは帰らなかった事が多いそうだ。
作朗は盗人である。人々の信心を恐れては仕事はできない。だが――作朗は不意に自分の背後に気配を感じた。最初は動物のものかと思っていたが、気配はいつまでも消えなかった。ひたひたとついてくる。
作朗は徐々にその気配に悪寒を覚えた。その気配は確かに自分たちを――見ていると感じたからだ。そして視線の圧力は徐々に強くなっていくように思えた。
作朗は気配の正体を確かめたくなったが、振り向く事はどうしても躊躇われた。
作朗は耐えかねて、その事をもう一人の盗人に話した。盗みの相棒は実に豪胆であった。彼は作朗に笑って言った。
「そんなものは気のせいだろう」
相棒の声は作朗を安心させた。しかし不安は完全には無くなりはしなかった。すると相棒は言った。
「なら俺が後ろを振り向こう。暫し何もなければ問題はなかろう。その時は必ず返事をしよう」
相棒は振り返った。振り返って暫くは返事はあった。
「おーい」
「おーい」
お互いに返事を返しあった。だが不意に強い風が吹いた。その風は妙に生温かく肌に絡み付くような不気味さがあった。なにかが背後の闇にいる作朗はそう確信した。作朗の体はぞっと震え出し、冷たい戦慄を覚えた。
「おーい」
堪らず作朗は相棒を呼んだが返事はない。次の瞬間には――鋭い悲鳴ばかりが辺りに響いた。作朗はもはや激しい恐れに身を任せ、走りだすことしかできなかった。
作朗は次の日の朝には山を降りる事ができた。何処をどのようにして降りてきたのかは、皆目覚えてはいなかった。ただ自分が恐ろしい目にあった事だけを覚えていた。その顔にはまるで生気というものがなかった。その後、作朗は奉行に自ら出頭した。
作朗の相棒の捜索は行われたが、見つかったのは血にまみれた着物と草履だけであった。
「元々山とは閻魔から生まれた言葉である。即ち山とは生と死を司るひとつ異界である」――日本のこの物語の作者はそう締めくくっている。
私がに山に入る時、不意に恐れを抱く時がある。深い自然に包まれた山には、人には踏み込めぬ領域があるような気がするからだ。
――成る程、確かに山は人にとっての異界かもしれない。