3
翌朝、朝食の支度をしながらダイニングにあるテレビをつけると、どこかの父子がたくさんの報道陣に囲まれて取材を受けていた。それが誘拐された子どもと代議士だと気付き、クリフォードは事件解決のあまりの早さに驚く。
「あれ、誘拐事件があったんですね。子どもが無事で良かったですねえ」
画面の左上にある『犯人逮捕』の文字を見て、ちょうど起きて来たアーシュレイが嬉しそうに言う。その言葉にクリフォードは思わず驚いてその顔を見詰めた。
(憶えてない……のか)
それはそうだ。その時間、『アーシュレイ』の意識はぐっすりと眠っていたのだから。
「現場近くでN建設会社のクレーン車が作業をしていたらしい。見たことあるか?」
「え?」
車種が特定出来たのはアーシュレイがこのクレーン車を見たことがあったからだとクラウンは言っていた。思い出して問うと、アーシュレイが小さく首を傾げてから笑う。
「クレーン車は見たことありますけど、建設会社まで気にしたことは……。クリフォードさんは?」
もしかしてクレーン車とか好きなんですか、と問われて、クリフォードも首を横に振る。
「そうだよな。普通は憶えてないよな」
思わず笑いながら言うと、アーシュレイが何かに気付いたようにキッチンの方を見た。
「ねえ、何か焦げてる臭いがしませんか?」
「あッ!」
クリフォードは慌ててキッチンに飛び込むと、ガステーブルの火を止めてフライパンの蓋を取る。
「しまった……」
端が焦げ始めたオープンエッグを見て呟くと、アーシュレイが笑いながらやって来て皿を出してくれた。
「おはようございます」
一緒の車で出署すると、さっそく署長がニコニコ顔でやって来た。
「おはよう。昨日はよく眠れたかね?」
署長の言葉にアーシュレイが、はい、と答えてニッコリ微笑む。
「そうかそうか」
署長は気持ち悪いくらいのニコニコ顔で何度も小さく頷くと、ポンとクリフォードの肩を叩いた。
「少しいいかね」
「はあ……」
クリフォードは頷き、チラとアーシュレイを見る。
「見て見て、アッシュ! 綺麗でしょ~? 今、そこの花屋さんで貰ったの」
そこへ、表玄関から入って来たキャサリンが、両手いっぱいの花束をアーシュレイに見せる。
「うわあ、綺麗ですね!」
クリフォードはアーシュレイの相手をキャサリンに任せると、嬉しそうに花束を眺めている相棒を残して署長室へと向かった。
「昨日はご苦労だった」
クリフォードが入って行くと、署長は開口一番そう言って昨夜の労をねぎらった。
「いえ、俺は運転しかしてませんので」
それは本当だ。クリフォードはクラウンを車に乗せて自宅と警察署を往復しただけである。
「いやいや。君のお陰でアーシュレイは久方振りに安眠出来たし、誘拐事件も異例の速さで解決出来た。感謝しとるよ」
相棒を喪ってからのアーシュレイは、ずっと熟睡出来ずにいたらしい。アーシュレイが眠らなければ、クラウンは出て来られない。出て来られなければ、クラウンは任務を遂行することが出来ない。
「それにしても、中央本部から依頼があるなんて珍しいですね」
『珍しい』という言葉は、あくまでも遠慮がちに言った言葉だ。本来であれば、所轄内の事件は自分のところで解決しようとするのが普通である。それは所轄同士の対抗意識でもあったし、ポリスマンとしてのプライドでもあった。すると、レイノルズが自分の椅子に腰を下ろしてこちらを見上げる。
「依頼と言っても、ウチが渡すのはあくまで『情報』だ。そして、このことは互いの上層部しか知らない」
「上層部しか?」
その言葉にクリフォードは眉をひそめる。レイノルズはその顔をじっと見詰めると、卓上で組み合わせていた手指を一度開いてから組み直した。
「中央本部が依頼して来るのは、あくまで『パームシティ署』にだ。クラウンの存在は中央本部とウチだけの極秘事項なのだよ」
「極秘事項?」
「そうだ」
クリフォードの言葉にレイノルズが頷く。
「それに、これはクラウンから提示された条件でもある。自分が協力する代わりにアーシュレイをここに置いて守って欲しい、そう言ってな」
「守る?」
クリフォードはレイノルズの言葉に再び眉をひそめる。
「アーシュレイは新人の頃からあの調子だったから、他の署でも扱いかねていたようでな」
レイノルズはクリフォードの言葉に再び頷くと、同じように眉を寄せて難しい顔をした。
「敢えて名前を付けるなら『お姫様効果』とでも言おうか。血迷っちまうんだよ、警官どもが」
「血迷う?」
意味を測りかねて問うと、レイノルズがしかつめらしく頷く。
「無意識に守っちまうんだ。一般人ではなく、警官のアーシュレイをな」
そんなバカな、と言おうとしたクリフォードは、しかしすぐに思い出す。アーシュレイの相棒は、もしかしたら彼を守って殉職したのだろうか?
すると、その表情を読み取ったらしいレイノルズが、そうだ、と答えて頷いた。
「アーシュレイの相棒になった警官どもは、みなアーシュレイを守ろうとして負傷しておる。だが、別にアーシュレイが何をしたというわけではない。アーシュレイは普通に捜査に加わっているだけで、相棒の方が勝手に動いちまうんだ。アーシュレイを守ろうとしてな」
レイノルズはそう言うと、警官が警官をだぞ、と呆れたように付け足して、信じられんという風に力無く首を横に振る。
「そこに恋愛感情があったかどうかは知らんが、上層部はかなり頭を痛めていてな。そこで、たらい回しが始まったわけだ。アーシュレイはあまり危険の無い部署に回され、だいたい一年で異動させられた」
「一年……」
クリフォードはレイノルズの言葉を口中で繰り返す。どんな仕事を与えられたのかは知らないが、一年では管轄内の道や店舗を覚えるのがせいぜいだったに違いない。行く先々で厄介者扱いされ、肩身の狭い寂しい思いをしたのではないかと眉を寄せたクリフォードは、その自分の考えにハッと我に返って愕然とした。
「どうやらお前も既に脳を侵されているようだな、クリフォード」
「うッ……」
クリフォードはレイノルズの言葉に思わず唸ると、半ば呆然と視線を落とす。確かに今、自分は完全にアーシュレイを庇護対象として見ていた。
「まあ……彼はまだ若いですし……」
先輩の自分が後輩をカバーするのは至極当然のことである。言い訳のようにそう言うと、レイノルズが、何を言っとるか、と言って眉をヒョイと上げた。
「アーシュレイは確か、お前より一つ年上だぞ」
先輩なんだから敬えよ、と言う言葉に、クリフォードは今度こそ驚いてあんぐりと口を開ける。
「年上ッ?」
どこからどう見てもアーシュレイの容姿は二十歳そこそこにしか見えないが、確かに、先程署長が話した異動歴を考えれば二十歳などであろう筈もなく……。
「もうすぐ……三十?」
(あれのどこがッ? ヒゲすら生えていないのにッ?)
いや、髭どころか股も脛毛も生えていないかもしれないと考え、クリフォードは昨夜見た、半ズボンから剥き出しになった白い生足を思い出して唸る。
(いや、『あれ』はクラウンか……)
『ずいぶんイイ男だね、クリフォード・ディラン。アーシュレイの好み?』
ほっそりとした肢体をしならせ、猫のような目をして笑うクラウンは、アーシュレイとはまた違う魅力を発散していた。その顔は決して媚びているわけではないのに、アーシュレイがノンセクシュアルでストイックな印象を与えるだけに扇情的で、彼に気のある奴だったら誘われていると錯覚したかもしれない。聖女のように清楚な昼のアーシュレイと、コケティッシュで魅惑的な夜のクラウン。歴代の相棒どもが、その類稀なる魅力にあっという間に魅了されたであろうことは、クリフォードにも簡単に想像出来た。
「クラウンに関することが全て極秘事項なのは承知しました。本人にも言いませんし、もちろん他人にも話しません」
もう退室してもいいかと問うと、レイノルズが渋い顔をして、もう一つある、と答える。
「これは懸案事項なのだがな……」
「はい」
クリフォードが頷くと、レイノルズも同じように頷いて言った。
「アーシュレイを自由に眠らせる方法を見つけて欲しいのだ。クラウンに来る依頼は急を要するものばかりでな。時には夜まで待てない時もある」
「え……麻酔薬を嗅がせるとかですか?」
驚いて尋ねると、レイノルズが、それはダメだ、と言って首を横に振る。
「体は共有だから、麻酔薬を嗅がせればクラウンも眠ってしまう」
きっと試したことがあるのだろう。そう考えてクリフォードは思わず眉根を寄せる。
「じゃあ、どうやって」
尋ねると、だからそれを見つけてくれと言っておる、と言って、レイノルズは大きな溜息をついた。
「クレイも……殉職したアーシュレイの相棒もその方法を探していたのだが、見つけられなかったようでな」
「はあ……」
何年組んでいたのかは知らないが、それなりに気心が知れていたであろう元相棒にも見つけられなかったのでは容易なことではあるまい。
「期待しているぞ、クリフォード・ディラン」
レイノルズの言葉にクリフォードは小さく頷くと、ペコリと頭を下げて退室した。
「あ、クリフォードさん」
一階に戻ると、事務机で呑気にコーヒーを飲んでいたアーシュレイがパッと顔を上げて嬉しそうに微笑む。
「もうお話は終わりですか?」
いそいそと立ち上がって歩いて来るのへ、クリフォードは、ああ、と答えると、事務机の上に放り投げてあったポリスジャンパーを掴んだ。
「午前中はパトロールだったな。パームシティは初めてだから、観光がてらよろしく頼む」
クリフォードの言葉にアーシュレイが再びパアッと笑顔になって、はいッ、と元気よく答える。その天使のような微笑みは、やはりどう見ても自分より年上には見えなかった。
「ここへ来る前はどこで?」
建物の裏手にある職員用の駐車場から愛車を出しながら、クリフォードは何気ない口調で助手席に尋ねる。アーシュレイはナビゲーターのつもりなのか一緒になって後ろや周囲を確認しながら、リスカです、と答えた。
「あそこは大変だったろ。今でもギャングの抗争があるし」
リスカは小さな街だが移民街があり、最近ではヨーロッパから流れて来たギャングが幅を利かせていて、ポリスでも手を焼いている地域だ。
「そうですね。パトロールも重武装でしたし」
クリフォードの言葉に、アーシュレイがシートベルトを締めながら答える。今日の二人の格好はポリスから支給された青色のシャツとズボンとジャンパーだけという、リスカではとても考えられないような軽装だ。パームシティの治安が安定している何よりの証拠である。
「ここの住民はいい人ばかりですよ。きっとあなたも気に入ります」
アーシュレイがそう言って、正面に視線を戻してにっこりと微笑む。
「そうか」
どこへ行ってもポリスマンが好かれることはないのだが、それをアーシュレイに説いて聞かせるほど子どもでもない。クリフォードは庁舎の脇を通り抜けると、そのままゆっくり通りに出た。
「リスカには何年?」
パームシティの道路はどこも道幅が広く、歩道もゆったりしているので眺めがいい。気候が穏やかだから道行く人も軽装で、パンフレット片手にそぞろ歩いている観光客に混じって、犬を連れてのんびり散歩したり、ランニング姿でジョギングしている住民の姿も見える。
「一年です」
それらをニコニコと眺めながら、アーシュレイが答える。
「その前は?」
「ブリンゲルです。その前はセントクレオで、その前がバスチオーレで、その前が……」
「みんな一年か?」
レイノルズの言葉を思い出して尋ねると、アーシュレイが、いえ、と言って首を横に振った。
「初めて赴任したノーザンシティには二年いました」
では、この時はまだクラウンは出て来なかったのだろうか。訊きたくても、アーシュレイ本人がその存在を知らないのでは仕方がない。
「その時の相棒は?」
「マーク・ヴァレンチカです」
アーシュレイが窓の外に視線を流しながら答える。
「ああ……」
そいつなら知っている。クリフォードが警察に入ったばかりの頃にバリバリ活躍していて、あっという間に中央本部までのし上がった男だ。ついでに『どんな難事件も一晩で解決する』と謳われていたのを思い出し、クリフォードは、あッ、と声を上げて、慌てて口を閉じた。
「お知り合いですか?」
何も知らないアーシュレイが、突然声を上げたクリフォードをキョトンと見上げて尋ねる。
「いや……直接は知らないが、有名な男だったからな」
クリフォードは咄嗟に誤魔化すと、前を向いて運転に専念するフリをした。
確証は無いが、奴はきっと『クラウン』のお陰で出世したに違いない。だとすると、クラウンは随分前から現れていたということになる。
「マーク・ヴァレンチカとは、その……」
問い掛けたクリフォードは、次の言葉に迷って口を閉じる。いくら整った顔立ちをしていても、アーシュレイは男だ。そのアーシュレイに特別な関係だったのかと問うのはおかしいし、だいいち、もしそうだとしても極々プライベートな事項であって、昨日今日会ったばかりのクリフォードに教える義理はない。
「今でも連絡を取り合ってるのか?」
慌てて差し障りの無い言葉に変えると、アーシュレイがいかにも困ったような顔で苦笑した。
「それが聞いてください。彼ったら、よほど僕のことが心配なのか、未だに署長に僕の様子を聞いてくるみたいなんですよ」
「は?」
クリフォードはアーシュレイの言葉に驚いて隣を見る。
「あッ、信号、信号!」
途端にアーシュレイが慌てて前方を指差して声を上げ、クリフォードは急いでブレーキを踏むと、再び隣を見た。
「マーク・ヴァレンチカが署長に?」
そう言えば、昨夜の依頼も中央本部からだったのを思い出す。
「そういうことか……」
クリフォードは呆れて、思わず小声で呟く。クラウンの力に味を占めたマーク・ヴァレンチカは、未だに何かあると署長を通してクラウンを利用していたのだろう。
「お前に惚れてたとか」
冗談混じりにカマを掛けてみるが、まさか、と言って笑われる。
「彼には綺麗な奥さんがいますよ。可愛い娘さんも二人もいますし」
「そうか」
だが、『クラウン』はどうだっただろうかと考える。クリフォードはアーシュレイの顔から視線を外すと、再び信号が青に変わったのを確認してから発進させた。
「そう言えば、アッシュは俺より年上だったよな。恋人はいるのか?」
これまた極々プライベートな質問だと思ったが何食わぬ顔で尋ねると、あまり気にしない方なのか、アーシュレイがクスリと笑って首を横に振る。
「僕、モテないから。恋人ってまだ一度も出来たことないんです」
「へえ?」
それだけの容姿なら選り取り見取りだろうにと思ったが、女にしてみれば、自分より美人の男ではプライドが許さないのかもしれない。
「でも、好きなヤツとかはいたんだろ?」
重ねて尋ねると、アーシュレイはそれには答えずに、スイと窓の外に視線を向けて右前方を指差した。
「そこで曲がってください。右に曲がると海があるんです」
「わかった」
何となく話を逸らされたような気がしたが、クリフォードは言われるままに、その先の交差点を右に曲がる。道はすぐにゆったりとした下り坂に変わり、前方に真っ青な海が現れた。
「ここはいい街だな」
観光都市なだけあって街中には土産物屋や飲食店がたくさん建ち並んでいるが、ちょっと道を外れると閑静な住宅街があり、穏やかなビーチの近くには豪奢なホテルや別荘もある。
「はい。遊びに来るにも住むにもいい所だと思いますよ」
クリフォードの言葉にアーシュレイは答えると、嬉しそうににっこりと微笑んだ。
「クリフォードさんは? 恋人とかいないんですか?」
てっきり話を逸らされたのだと思っていたクリフォードは、逆にアーシュレイに尋ねられて、ちょっと驚きながら、いや、と答える。
「俺も同じだ」
「へえ。クリフォードさん、カッコイイから選り取り見取りだと思うのに」
アーシュレイが、先ほど自分が思ったことと同じことを言う。
「俺の場合は……」
クリフォードはうっかりその理由を言い掛けて、慌てて口を閉じた。
クリフォードは幼い頃から容姿も成績も良かったから、男にも女にもよくモテた。だが、自分から誰かを好きになったことは一度も無い。いや、好きだと認識したことはあったのかもしれないが、自分自身がその感情を許さなかったのだ。
『俺は幸せになってはいけない……』
クリフォードの母親は、幼い頃からクリフォードを虐待していた。世間的には普通の子どもと同じように学校に行き、同じように過ごしていたが、夜になると毎晩理由の無い折檻を受けた。
幼い頃に殉職した父親が、実は自分の本当の父親ではなかったと知ったのは、ジュニアハイスクールに上がる少し前だ。父親はある殺人事件の犯人に射殺されたのだが、その場で同僚に射殺された犯人には家族と呼べるものが無く、妻が家出する際に置き去りにしていった幼い子どもが一人だけいた。それがクリフォードだった。
『俺は幸せになってはいけない……』
そのことを知ってから、クリフォードは毎日、呪文のようにその言葉を胸の内で唱えながら母親の折檻に耐えた。そして、その地獄のような日々は父親の同僚がそのことに気付くまで続いた。
『お前の本当の親が犯罪者だったとしても、お前が罪を犯したわけじゃない。自分を卑下することはないんだ、クリフォード。強く生きろ』
その男はそう言うと、一枚の紙を差し出した。
『お前がもし望むなら、ここへ来い。待っている』
それは警察学校の申込書だった。クリフォードは迷うことなくサインした。暗闇の中で見つけた一条の光にすがるような思いで……。
「『俺の場合は』?」
思わず物思いに沈んでいたクリフォードを、アーシュレイの言葉が引き戻す。クリフォードはハッと我に返ると、海岸沿いに延々と続いている白い道路を見詰めた。
「……こんな商売やってると、いつ死んでもおかしくないからな。そんな気にならなかっただけだ」
クリフォードは少し考えてから、何気ない風を装い、返す。それは半分は嘘だったが、半分は真実だった。
彼を引き取り、虐待し続けた母親は、クリフォードを虐待した後、必ず寝室で泣いていた。犯人が死んでしまったことで、きっと彼女もやり場の無い思いに苦しんでいたのだろう。もしかしたら、罪の無い子供を虐待しているのだという事実にも苦しんでいたのかもしれない。警察学校に入ると告げた時の、驚くというよりはホッとしたような顔を思い出して、クリフォードは我知らず瞳を揺らした。
「……すみません」
すると、少しの沈黙を置いてアーシュレイが謝る。
「あ?」
何のことかと思って隣を見ると、アーシュレイは俯き、膝の上で握り合わせた手を見詰めていた。
「何か辛いことを思い出させてしまったみたいで……すみません」
「いや……」
クリフォードはその言葉に内心慌てると、右手で自分の頬を擦る。そんなに悲壮な顔をしていたのだろうかと考えた途端、カアッと頬に血が昇った。
「警官になろうなんて考える奴は、何かしら暗い過去を持ってるもんだ。別に珍しいことじゃないし、気にすることでもない」
そしてそう言うと、赤くなった頬を見られないように左前方に視線を移す。道路の左端には土産物屋が立ち並び、観光客が食い物片手に店をひやかしながら歩いていた。
「おい、あれは何ていう食いものなんだ? 小腹が減ったな」
場の空気を変えようと思って尋ねると、アーシュレイが窓の外を見てからパッと笑顔になる。
「あれは『ウィート』と言って、小麦粉を溶いたものを薄く伸ばして焼いて、パテを挟んだファーストフードです。美味しいですよ」
「いいな。どこで売ってるんだ?」
観光者が持っているのだから、その辺で売っているのだろう。尋ねると、アーシュレイは嬉しそうに身を乗り出して前方を指差した。
「この辺の店ならどこでも売ってますけど、お勧めはジェシカさんのお店です。彼女の作るウィートは絶品ですよ」
「へえ」
クリフォードはアーシュレイのウキウキした声音に、ひょいと眉を上げて笑う。
「美人か?」
からかうように顔を覗き込みながら尋ねると、アーシュレイは、はい、と答えてにっこり微笑んだ。
「まあ、アッシュ! よく来たねえ、元気かい?」
店の前に車を横付けして下りると、前面がオープンになった店の奥から太った女が出て来て嬉しそうに声を張り上げる。女は両手を大きく左右に広げると、豊満な胸にアーシュレイをがっしりと抱き込んだ。
「はい。ジェシカさんもお変わりありませんか?」
アーシュレイはニコニコ顔で問い返すと、後ろを振り返ってクリフォードに紹介する。
「クリフォードさん。ジェシカさんです、キャシーのお母さんの」
「おっと」
てっきりアーシュレイの意中の相手が出て来るのかと思っていたクリフォードは、そう来たか、と内心で苦笑した。
「クリフォードです。昨日からこちらに配属されました」
右手を伸ばして挨拶すると、ミセス・ジェシカがパッと笑顔になってクリフォードの手を両手で掴む。
「じゃあ、あんたがキャシーの言ってた『イケ好かない男』だね?」
「はあ?」
ジェシカの言葉に、クリフォードは目を丸くして問い返す。
「あの子ったら帰って来るなりプンプン怒って、『今度来た奴が凄くイヤな奴でアッシュをイジめるのよ!』って」
「はぁ……」
クリフォードは思わず呆れて、気の抜けたような声を出す。
「『それが滅茶苦茶イイ男だから余計に腹が立つ!』とか何とか」
「はぁ……」
「『あんな男と一つ屋根の下にいたらアッシュがあっという間に喰われちゃうわ!』とも言ってたねえ」
「喰われ……」
これにはさすがに驚いて何か言おうとすると、鳩が豆鉄砲を喰ったようなクリフォードの顔にジェシカがプッと吹き出して笑った。
「なんだ、イイ男じゃないか! 良かったねえ、アッシュ。いい相棒が出来て」
「はい」
ジェシカの屈託の無い言葉に、アーシュレイがにっこり微笑んで頷く。
「クリフォードさんは料理も上手いんですよ。昨日はパスタを作ってくれたんです」
外見とは不似合いな一面をバラされたクリフォードは、思わずウッと唸ると、慌てて顔を逸らして小さく咳払いした。
「へええ?」
案の定、ジェシカは目を丸くしてクリフォードの顔を覗き込むと、楽しそうにニカッと笑う。
「じゃあさ、ウチの娘の婿に来とくれよ! まったくさあ、もう三十を過ぎたってのに、まーだ独り身でさあ!」
確かにキャサリンは美人だが、あんなに気が強くてはなかなか貰い手はあるまい。思わず苦笑しながら、考えときます、と返すと、アーシュレイが不意にクリフォードの袖をツンと引いた。
「ジェシカさん。クリフォードさんがウィートを食べてみたいそうなんですけど、焼いてくださいますか?」
アーシュレイの言葉に、ジェシカが嬉しそうに『あいよ!』と答える。
「ウチのを食べたら他所じゃ食べられなくなっちゃうよ、旦那。なんたってウチのウィートは世界一だからねえ!」
そしてそう言うと、腕まくりしながら店の奥にあるキッチンスペースへと向かった。
「そりゃあ楽しみだ」
のんびり店内を見回しながら待っていると、やがて焼きたてのウィートが出て来る。ウィートは甘くないクレープ生地に野菜や薄いハンバーグを挟んだもので、独特のソースがいい味を出していた。
「うん、旨い!」
クリフォードはウィートを一口頬張って破顔すると、礼を言って車に乗り込む。
「今度は夜においでよ、旦那。夕食をご馳走するからさ!」
ミセス・ジェシカはそう言うと、沿道に立っていつまでも手を振ってくれた。
「元気な女性だな」
ハンドル片手にウィートを頬張りながら言うと、アーシュレイも口をモグモグさせながら、はい、と答える。
「キャシーが十五歳の時に旦那さんが銃で撃たれて、それからは女手一つで土産物屋をしながらキャシーを育てて来たのだそうです。とても強くて優しい女性です。尊敬しています」
「そうか……」
『警官になろうなんて考える奴は、何かしら暗い過去を持ってるもんだ』
そう言ったのは、他でもない自分である。一般市民が銃で撃たれて死ぬことは、アメリカでは決して珍しいことではない。だが、被害者の名前しか出て来ないニュースの陰で、たくさんの人間が大切な者を失い、人生を狂わされて泣いている。そして、そんな遺族の中には、自分のような人間を少しでも減らしたくて警官に志願する者も少なくない。きっとキャサリンもその一人だったのだろう。
「旨かったな」
クリフォードは食べ終えたウィートの包み紙をクシャリと手の中で潰しながら言う。
「はい。ジェシカさんのウィートは世界一ですから」
アーシュレイはにっこり笑って答えると、嬉しそうに微笑んだ。
「おい、クリフォード」
昼間の天使はどこへやら。自室の机で報告書を書いていたクリフォードは、自分の名前を呼ぶ声に戸口を振り返る。
「クラウンか。元気か?」
簡単な挨拶を返して再び机に向き直ると、クラウンはツカツカと部屋に入って来てクリフォードの手元を覗き込んだ。
「何してるんだ?」
尋ねられて、クリフォードは、報告書、と答える。
「今日のパトロールの報告を書いてるんだ」
クリフォードの言葉に、途端にクラウンがバカにしたようにフンと鼻を鳴らす。
「こんな田舎町、報告することなんか何も無いだろうに」
「そうでもないさ」
クリフォードは思わず笑むと、再び書類に視線を落とした。
「穏やかないい町だな、ここは」
報告書の続きを書きながら言うと、クラウンがつまらなそうにフンと鼻を鳴らして体を起こす。
「シケた町だ」
そしてそう言うと、こんなとこどこがイイんだか、とブツブツ呟いた。まるで反抗期の子どものようなその言葉に、クリフォードは思わず笑みを浮かべて、そうか、と返す。
「ここに留まることにしたのは、アーシュレイがこの町を気に入ったからか?」
自分の能力をエサにすれば、マーク・ヴァレンチカはどんな条件でも呑んだだろう。そしてアーシュレイは安住の地を手に入れ、弱小だったパームシティ署は中央本部と対等に渡り合えるだけのカードを手に入れた。そう考えてみれば、アーシュレイの自宅は一介の警官が住むには豪奢過ぎるし、あの大きな警察庁舎もこんな田舎町には不釣り合いなほど立派過ぎる。きっとあれらも中央本部からの貢ぎ物に違いなかった。
「お前……マーク・ヴァレンチカとは、その……」
深い関係だったのかと問おうとしたクリフォードは、自分をまっすぐ見詰める大きな澄んだ瞳とぶつかり、慌てて言葉を探す。
「その……同じ寝室で寝てたのか?」
出来るだけソフトな言葉を選んで尋ねると、クラウンはキョトンと目を丸くして、なんで、と尋ねた。
「あいつは結婚してたから、家は別だったけど?」
クラウンはそう言うと、すぐに付け加える。
「てか、クレイと組むまでは誰とも一緒に住んだことはなかったな」
「そうか。俺はてっきり……」
クリフォードは言い掛け、ゴホンと軽く咳払いする。
「すまない。立ち入ったことを訊いた」
己の無粋を謝ると、クラウンは特に気にした風もなく、別にいいよ、と言いながら、逆に揶揄するような顔でクリフォードの瞳を覗き込んだ。
「何? アーシュレイに惚れたの?」
「はっ?」
クラウンの突然の言葉に、クリフォードは驚いて目を丸くする。
「別にいいよ。今までの相棒もみんなそうだったから」
クラウンはそう言うと、口角を横に引いて薄く笑った。
「アーシュレイはボクと違って素直で『イイ子ちゃん』だからね。みんな、すぐに好きになるのさ」
皮肉るようなその言い方に、クリフォードは思わず笑みをこぼす。
「お前は素直で『イイ子ちゃん』じゃないのか?」
からかうように尋ねると、途端にクラウンはムゥと唇を尖らせた。
「どうせボクはアーシュレイみたいに可愛くないよ! どこがいいのさ、あんなドジでノロマでお人好しなだけの、な~んにも出来ない迷惑男!」
クラウンの容赦ない物言いに、クリフォードは苦笑する。
「なんだ、アーシュレイのことが嫌いなのか?」
尋ねると、クラウンは、嫌いだよ、と答えて体を起こした。
「あいつのせいでクレイは死んだ……あいつが殺したんだ」
「クレイ? 前の相棒のか。先週殉職した」
レイノルズの言葉を思い出して問うと、クラウンがグッと唇を引き結んで顔を背ける。
「クレイはアーシュレイを庇って死んだんだ……」
「『見た』のか?」
アーシュレイの記憶の中からクレイが撃たれた時の映像を探し出して見たのかと思い、尋ねると、しかしクラウンは顔を背けたまま、いや、と答えた。
「暗くて視界が利かなかった。でも、音は聞こえた。犯人を威嚇するクレイの声と、銃声と、そして何かが落ちる音……。約束したのに、クレイはボクとの約束よりアーシュレイを選んだんだ……」
「約束?」
それは何かと尋ねたが、クラウンはそれには答えずに震える息で呟く。
「あんな奴、放っておけば良かったのに……!」
吐き捨てるような言葉にクリフォードは小さく溜息をつくと、書き掛けの書類を伏せてペンを置いた。
「アーシュレイは相棒だったんだ。助けるのは当然だし、俺だってそうするだろう。頭で考えてのことじゃない。きっと体が勝手に動いちまったんだ。許してやれ」
それがどんな約束だったのかは知らないが、もう死んでしまった者を責めたところで仕方がない。宥めるように言うと、クラウンはキッと目尻を赤くしてクリフォードを睨んでから、スイと視線を逸らした。
「今日は『依頼』は無しだ……さっきレイノルズから連絡があった」
クラウンはそう言うと、クリフォードに背を向けて戸口に向かう。
「部屋にいる……」
先程までの強い口調とは裏腹の沈んだ声音に、クリフォードは思わずその背中を目で追う。そして、華奢な後ろ姿が暗い廊下に出て行くのを見送ると、小さく溜息をこぼして再び報告書に向き直った。