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汗を流し、パジャマ代わりのTシャツとスウェットを着てベッドにもぐり込む。昼間の疲れもあってか、あっという間に睡魔はやって来た。眠りに落ちる間際のその心地良い微睡みの中で、しかし、何かがクリフォードの意識を引っ掻く。その無意識のエマージェンシーコールにクリフォードは一瞬で覚醒すると、素早くベッドから飛び降りて身を隠し、ベッド下に忍ばせてあった拳銃を掴んでまっすぐ戸口へと構えた。
「え……アーシュレイ?」
真っ暗な戸口に立つ人影は確かにアーシュレイのものだが、何かが違う。暗闇でジッと目を凝らして見詰めると、その人影がクスリと笑った。
「初めまして、新しい相棒さん? ええと、クリフォードだっけ?」
その透き通った声音は確かにアーシュレイのものだが、揶揄するような口調は別人だ。では、『コレ』が……。
(アーシュレイの脳内にいる別人格、クラウン・ウィズリー……)
クリフォードが半ば呆然と見詰める中、クラウンが音も無く部屋に入って来る。パジャマ代わりなのか白無地の半袖シャツと短い半ズボンを履いており、剥き出しになった太腿から先は素足だった。すらりと伸びたほっそりとした足は女優かモデルのように綺麗で、その足首の細さに思わず視線を引き寄せられたクリフォードは、ハッと我に返ると銃口を下ろして立ち上がった。
「クラウン・ウィズリーだな。クリフォード・ディランだ。今日からよろしく頼む」
「ふぅん?」
クラウンは口元に冷めた笑みを浮かべながらクリフォードの周りを一周すると、背後から背伸びするようにしてクリフォードの顔を覗き込む。カーテンの隙間からこぼれる僅かな月明かりの中で、その大きな瞳が猫の目のように妖しく輝いた。
「ずいぶんイイ男だね、クリフォード・ディラン。アーシュレイの好み?」
「さあな。でも、アッシュは相棒は欲しくないようなことを言っていたから違うんじゃないか?」
クリフォードは昼間のアーシュレイの言葉を思い出し、他人事のように返す。
「ふぅん?」
クラウンは面白いものでも見つけた子どものように瞳をキラリとさせると、もうアッシュって呼ばせてるんだあ、と言って嘲るように笑った。
「アーシュレイが呼べって言ったの?」
クラウンの言葉に、クリフォードは、いや、と答える。
「キャサリンがそう呼んでたから、俺も呼ぶことにしただけだ」
何か問題はあるかと問うと、クラウンはそれには答えずにニヤリと笑う。
「別にいいんじゃない? 『相棒』らしくてさ」
その声音に皮肉めいたものを感じて眉を寄せたクリフォードは、しかし、全然別のことを思い出してクラウンの顔を見下ろした。
「お前はアッシュのことを知ってるのか?」
署長はアーシュレイは自分が二重人格者だということを知らないと言っていた。尋ねると、途端にクラウンの瞳が嘲るような色を帯びる。
「知ってるよ。あいつもね……ボクのことを知ってる」
「え?」
驚いて問うと、クラウンは口元に皮肉な笑みを浮かべて視線を逸らした。
「知ってるって言うか、気付いてる……今はね」
「今は?」
どういうことかと思って問うと、しかし、クラウンはそれには答えずに、スイとクリフォードから離れて戸口へと向かう。
「仕事だよ、クリフォード。レイノルズから連絡が入った」
「仕事?」
こんな夜中にか、と問うと、クラウンが戸口で振り返ってニッと笑う。
「『こんな夜中』だからだよ、クリフォード。レイノルズから聞いてないの? ボクが動けるのはアーシュレイが眠っている間だけだ。そして、その時間こそが、レイノルズや中央本部が『ボク』に求めている本当の『任務』なんだよ」
クラウンはそう言うと、ベッド脇に突っ立ったままのクリフォードに顎をしゃくった。
「何してるのさ、クリフォード。支度してよ。十分で出るよ」
「俺もか……」
確かにアーシュレイの相棒兼護衛としては、彼を一人で行かせるわけにはいかない。クリフォードは、やれやれ、と呟きながら椅子の背に無造作に掛けてあった服を再び着ると、支給されたばかりの真新しいポリスジャンパーをクローゼットから掴んで部屋を出た。
「今度の仕事は何?」
数時間前に退勤したばかりのパームシティ署に戻る。クラウンは署長室に直行すると、ノックもせずにドアを開けて尋ねた。
「誘拐事件だ。中央本部から依頼が入った」
足音で二人が来たのはわかっていたのか、待ち構えていたらしい署長が即座に答える。
(中央本部から?)
署長の言葉にクリフォードは内心で首を捻る。中央本部ということは、クラウンはパームシティ管轄外の犯罪捜査に手を貸しているということになる。それは『管轄』を重視する警察署にとっては異例のことだった。
「攫われたのは代議士の息子だ。いなくなったのは昨日の昼過ぎ。校門の外で待っていたお迎えの運転手が、なかなか出て来ないのを不審に思って学校に問い合わせたらしい。同じ頃に自宅に犯人から電話が来た。安否を確認する為に声を聞かせるよう要求したところ、確かに代議士の息子だったらしい。これが録音テープだ」
署長の説明を聞きながら、クラウンはパソコンの前に座ってヘッドフォンを着ける。
「電話が来た時間は?」
「十五時ちょうどだ」
クラウンは署長の言葉に小さく頷くと、唇に人差し指を当てて『シッ』と黙るようジェスチャーしてから、マウスを動かして再生ボタンを押した。
音声の再生が始まり、画面下部にある白いライン上を緑色の光の帯が左から右へと伸びていく。クラウンは録音テープを最初から最後まで通して聞き終えると、再び最初から再生して途中で止めた。何か気になるものでもあったのか、その部分を何度か繰り返し聞いてから、紙に何かを走り書きして先へと進む。そんな作業を何回か繰り返しながら再び最後までテープを聞き終えたクラウンは、ヘッドフォンを外すと、クルリと椅子を回転させて背後で待っていた署長とクリフォードを振り返った。
「近くでクレーン車の音がした。これが昨日の三時頃にどこで作業していたかを調べれば、すぐに場所は特定出来るよ。持ち主はN建設会社でナンバーは……」
クリフォードはクラウンがスラスラとクレーン車のナンバーを言うのを聞きながら、半ば呆気にとられてその綺麗な顔を見詰める。
「音だけでナンバーまで特定出来るのか?」
不審に思って尋ねると、クラウンはチラとクリフォードを見てから、再び視線を署長に戻した。
「声の反響具合からいくと、大きな倉庫か何かだね。かなりガランとしてるから、今はほとんど使われてないのかもしれない。犯人の人数は三人。外に見張りがいれば別だけど」
「犯人の人数までわかるのか?」
いくら何でも受話器から聞こえてくる音だけで、広い倉庫内にいる人数まではわかるまい。驚いて問うと、クラウンは再びチラとクリフォードを見てから溜息をついた。
「クリフォード・ディラン。君はボクを邪魔する為に配属されて来たの?」
「う……」
クラウンの呆れたような声音に、クリフォードは思わず言葉に詰まって、すまない、と謝る。
「まあまあ。誰だって最初は信じられんさ。ワシだって、こうして毎回目にしていても未だに信じられんのだからな」
署長はそう言うと、さっそく受話器を取ってどこかへ電話をかけた。
「あ、レイノルズです。分析結果が出ました」
クリフォードは署長が誰かにクラウンの言葉を伝えるのを聞きながら、あれこれ尋ねたいのをグッと堪える。その顔を見て、クラウンが小さくプッと吹き出して笑った。
「種明かしをしてあげるよ、クリフォード・ディラン。車種が特定出来たのはね、アーシュレイがこのクレーン車を見たことがあったからだよ」
「アーシュレイが?」
クラウンの言葉にクリフォードは驚いて尋ねる。
「そう。車ってね、特に作業車は使われ方が激しいから、使っているうちにだんだん『個性』が出て来るんだよ。エンジンの音、ギアを入れ替える時の音、キャタピラの軋み、車体の振動音。アーシュレイはそれらを一目見ただけで、またはふと耳に入れただけで、全て憶えてしまうんだよ」
「全て……」
はたしてそんなことが人間に可能なのだろうか。しかも、それを録音テープの小さな音から聞き分けるなど、とても人間業とは思えない。それが本当なら、クラウンもまた。ずば抜けた聴覚の持ち主と言えた。クリフォードは半信半疑で目の前の小さな顔を見詰める。
「まあ、『憶える』って言うと語弊があるんだけどね。なぜなら、憶えようとして憶えてるんじゃなくて、脳が勝手に憶えちゃってるだけなんだから」
クラウンはそう言うと、どう説明したら理解出来るかなあ、と言いながらクリフォードを見返す。
「そう、彼の記憶は『記録フィルム』なんだよ。彼の視覚聴覚から入った情報は全て脳に記録されていて、必要な時だけ欲しい映像を探す。でも、アーシュレイには記憶を検索する能力は無い。その能力があるのはボクだけだ。反対に、ボクの記憶はそのフィルムの中には保存されない。君たちと同じで、印象的な記憶だけが何年か残って、後は時の経過と共に色褪せていってしまうのさ」
何か質問は、と問われて、クリフォードは講義を受ける学生よろしく右手を上げる。
「アーシュレイがインプットで君がアウトプットの役割をしているのはわかった。ところで、その検索結果の信憑性はどのくらいなんだ?」
尋ねると、クラウンは自信満々の顔でニヤリと笑った。
「すぐにわかるよ」
そしてそう言うと、スックと立ち上がって戸口へと向かう。
「また仕事の依頼があったら呼んでよね、レイノルズ。しっかし、ホントに不便だよねえ。アーシュレイが眠らなくちゃ出て来られないなんてさあ」
クラウンの軽口に、レイノルズが小さく頷きながら、そうだな、と返す。事件はいつだって急を要するのだ。夜になるのを待っていては手遅れになることもある。
「必要に応じていつでも交替出来ればいいんだが」
レイノルズがこぼした本音に、クラウンは声を上げて笑うと、じゃあ、と言って軽く手を振りながら署長室を後にした。