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02:紅色の泣き虫

 





 




 翌日。

「いいなぁ、ベニぃ。黒帯なんですね」

「実戦最強、宵蝉館空手道初段の弓槻紅でーす、ヨロリン」

「よろりん」

「百合子の緑帯もかわいいじゃん、ライトグリーン。てゆーか百合子の胴着姿ってのが貴重」

「やめてやめて。小学校からそんな背伸びてないけど、ちょっとツンツルテンですよ。恥ずかしい」

「丈は短めの方がかっこいいって」

「そうかな」

「そうだって。あたしも詰めよっかな」

「ベニ、ベニ、思い切って肩のところ破いちゃえば? ビリビリぃ、って。それでノースリーブの胴着」

「ちょっとちょっと。格ゲーのキャラじゃんか、それ」

 あはは、うふふ、とか生ぬるい談笑しながら女バレと女バスの厚意で相席させてもらった女子更衣室での着替えを終えると、ベニは百合子と一緒に連絡通路を通って第二体育館に向かっていた。

 昨日、ベニを勧誘しにきたあの、人が良さそうな岩顔の上級生は空手道部の主将だったらしく、「まあ見学からでも良いから、また来てくれよ」と言っていたので今日からさっそく顔を出すことにしたのだ。

 部活に行くまでの途中、部室棟をうろついている生徒たちがじろじろと見てきた。 やっぱりこの高校では空手着姿の女子は物珍しいようだ。 

 柔道部らしき生徒たちにいたってはベニたちを見ると「あれ? うちの部?」「あ、違う。たぶん空手着だ」「え、できたんだ、女子の空手」と声を漏らしていた。



     ▽▲



「うひょー! 女子きた女子、花高空手部に女子がキター!」

「しかも空手着! かわいいっすわ!」

「でかしたぁ岩村! 主将らしい仕事したな!」

「これでこの夏の俺たちは勝てる!」

「うわ。……うざ」

 二人が第二体育館へ足を運ぶと、フロアで空手マットを準備していた男子空手部員たちが待ってましたと言わんばかりに大盛り上がりを見せていたため、ベニは苦虫を噛み潰した表情で呟いた。昔から男子との会話が得意じゃないという百合子もヒいてる感じの苦笑で頬を赤くしている。

「落ち着け、お前ら。嬉しいのはわかるが」

 欣喜雀躍としている男子たちの中から前に出てきたのは、昨日ベニが会った主将の人。

 名前は岩村。

 興味無いが憶えてしまった。だって岩顔で岩村なんだもん。

 彼は他の部員の興奮を制した後、主将らしい落ち着き具合で挨拶を始めた。

「よく来てくれたなぁ。初日から胴着なんて、やる気満々じゃないか、二人とも」

 男子部員は見たところ七名。上下とも空手着姿なのは黒帯を締めた岩村くらいで、あとの者は下だけが胴着、上はティーシャツかジャージという楽そうな恰好だ。

 今すぐにでも空手をできる出で立ちのベニと百合子はお互いを顔を見合わせて、すぐにベニは不機嫌な顔を浮かべると、圭角ある口調で岩村に言葉を返す。

「だって、入部しろって言ったのは先輩でしょ?」

 嫌味だとは思う。

 胴着について、お前ら超ノリノリじゃーん、と言われたように聞こえて、ベニは少し気恥ずかしかったのだ。ベニの憎まれ口は自分のペースを上手く保つための防壁のようなものである。それは癖とも言う。

 しかし、岩村主将は鈍感な人なのか、ベニの刺々しさにもまったく表情を変えず、清々しく頷いていた。

「ああ、そうだな。ありがとう。じゃあ、いきなりだが、自己紹介してもらえるか?」

 岩村主将の言葉に男子部員たちがヒューッて感じで声を上げていた。ベニは表情がますます険しくなってしまう。

 憎まれ口が得意でも、まったく人見知りをしないわけではなかった。

 まずはアンタから自己紹介しろよ、と言いたかったがガキっぽいのでやめて、しかたなく岩村の要求を飲むことにした。

「……北中出身の弓槻紅でぇす。初段でぇす。特技は人体を破壊することでぇす」

 大ウケだった。

 事実なんですけど。

 部員たちは手を叩きながら「ベニちゃん、おもろーい」「俺も破壊されてぇ」などと持て囃している。下品な奴ら。今すぐ破壊してあげようか。ベニちゃんって呼ばないでほしい。

 もとより同年代の異性には興味がなく、また、高校の公式戦に出られれば良いだけのベニは部員たちと馴れ合うつもりもなく、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。その後に、百合子も自分のことを紹介し始めている。

「1年C組の船山百合子です。弓槻さんと同じ北中に通ってました。空手は、護身術の役に立てば良いかなと思って、興味を持っているんで、見学からですがよろしくお願いします」

 やはり優等生、ベニとは違い挨拶がしっかりしている。ただ、さすがに入部の動機がダイエットなのは男子相手には秘匿で通すようだ。

 それから、完全にどうでも良い男子部員たちによる寒いテンション任せの自己紹介を聞き流し、最後に温厚な縄文杉みたいな顔の岩村主将が空手部全体の紹介に入っていた。

「今日はまだ一人来てないが、男子部員は全部で八人だ。顧問はいるがまったくの空手初心者で、部活に顔を出すことはない。だから監督はいないと思ってくれ」

 おいおい、我流っすか、とベニは呆れてうすら笑いを浮かべる。ここだけの話、アラサーのシブメン顧問だったら嬉しいなと期待していたのでちょっとガッカリだ。

「目標はまあ、やっぱり全国大会出場だな。個人種目でも団体でも、狙えるところは狙っていきたいと思う」

 ベニは手を挙げた。

「あのぅ、質問して、いいですか?」

「よろしい」

 よろしいって何よ、ギャグ? 眉を潜めつつもベニは気になることを訊く。

「先輩たちって、大会でどのくらいレベルなんですか?」

 ここの男子たちには一切興味ないが、これは一応重要な質問であった。

 ベニが高校で空手部を始める根底にあるのは、内申点の強化。すなわち大会での実績だ。

 理想は全国大会での優勝、最低でも都大会くらいは余裕で優勝しておかないとね(本気)

 そういうわけだから、伝統流派でのてっとり早い稽古相手、男子部員たちの成績に対してベニは関心を寄せたのである。

 ベニの質問に岩村は背筋を伸ばす動作を見せた。

「去年は、都大会の団体組手でベスト8まで行ったぞ」

 うわ、ビミョ。

 ベスト8じゃ内申書に記載されてても全然インパクトが無いじゃん。おまけに団体競技だしさ。まあ、地区大会どまりの弱小部じゃないだけマシなのかな……。

 と、理想が高すぎていまいち反応が悪いベニに、岩村は続けて発表した。

「それと、ここにいないうちのエースが、都大会の個人組手で準優勝して全国大会でもベスト16だ」

「へー」

 よし、そいつボコろう、とベニの中では決定。

「ところで、弓槻と船山、」と岩村主将は話題を次のことに移す。「二人とも経験者だが、やるなら型と組手、どっちを頑張りたい?」

「組手です」

 ベニは即答したが、隣で大人しく立っていた百合子の方は回答に時間を使っていた。「んー」と、笑っているようにも見える口元で眉をしかめていたが、やがて「未定です」と答えていた。

 返答を回収して、岩村主将はハハハと笑いながら首肯する。

「了解した。うちの練習は組手の比重が多いとだけは言っとく。この部で型やるのは俺くらいだ。基礎練以外、型は個人練習で頼む」

 型かあ。

 地味だし、あたしパスかな。

 ベニの型に対するイメージはその程度だ。

 


     ▽▲



「森田瞳、劇部に行っきまーす!」

 放課後になるとタモさんが元気に席を立ち上がっていたので、帰宅部の陸田コウは特に考えもなく邪魔をした。

 後ろからムギュッと抱き締めてみた。

「よぉ、タモさん。俺っちのために演劇部、やめへんか?」

 タモさんはハグされたまま細身をするりと回すと、コウに正面を向けて天真爛漫な笑顔を崩さず謝絶した。「やめへーん」

 コウは駄々をこねた。

「うぇー。あたしと一緒に有閑倶楽部入ってよー。その活動方針はもっぱらあたしと一緒に下校して激しく愛し合うんだぜ。どうだい」

「あぶなっ。いま気持ちが軽く揺れた。うー、でも、ごめんね。おう、よしよし」

 タモさんが子どもをあやすように誤魔化そうとしてきたので、コウは見事に誤魔化された。ただ単に、タモさんが部活で消えちゃう前に密着しときたかっただけある。それから少しの間、ギュウギュウし合っていると、タモさんが逆にコウのことを誘ってきた。

「てか、コウさん、劇部に入らない? 大歓迎なんだけど」

 うひゃひゃひゃ、とコウは抱擁中に身をよじり笑った。

「やめとくー。なんかタモさんにベタベタして邪魔しちゃいそうだし。正直、興味薄いしなぁ」

「あっはっは、それもまたヨシ。万事、楽しけりゃオーケー! 興味でたら言ってね。今日のところはサラバじゃー」

「サラバー。タモさんファイトー」

 爽快に教室を去っていった彼女の背中を見送って、「うんうん、青春しとるなー」とオヤジのような顔で満足したあとお気に入りの、バナナ柄のリュックをひょいっと肩に担いだ。

 このあとどうしようかな、と考えていたら、教室の隅の机でたむろしていた男子たち三人が顔を向けてきた。

 そのうちの一人、爽やかカットの黒髪に青い眼鏡の鴻池が片手を挙げた。

「よ、ムツダ」

 コウも「よー」と手を挙げ返した。

 机の上にケツを乗せて座っている鴻池は、メタリックブルーの眼鏡の奥からコウのことを見上げるように言った。

「ムツダ、今もう帰り?」

「んだすよー」

「あ、そう。ビリヤード行かない? 俺たち今から行くんだけど」

「いいの?」

「四人の方がゲームしやすいから」

「じゃあ行くー」

 鴻池くん、椙田くん、大久保くん。名前くらいしか知らなかった。あ、鴻池くんとは一昨日に交換したからメアドと番号も知ってるか。

 本当に、その程度だった。

 


     ▽▲



 学校から駅二つほど先にあるビリヤード場に行くと、コウは目を輝かせるようにしてまずは天井から仰いだ。大きな換気扇がゆっくりクルクル回ってるのがアメリカ映画の中のバーみたいで感動的だった。

 慣れた手つきでカラフルなボールを台にセットしながら鴻池が聞いてきた。

「そういや、ムツダ、ルールどれくらい知ってる?」

「ぜんぜん知らねー」

「じゃあ、簡単なのやるか」

 ビリヤードが得意なのは鴻池と、身長が180センチもあるソバカス顔の大久保という二人らしい。ぽっちゃりめの椙田は、コウと同様に初心者だったようで「鎬を削ろうぜ!」という雰囲気では全然なかった。

 鴻池からキュウを手渡されたコウはそれを肩に担いでポーズを取ると彼に言った。

「ほらほら、ジャッキーチェン」

「は?」

「ラッシュアワーの。ビリヤードの棒で戦うんだよ」

 彼は笑いながら首を振った。

「わり、それ観たことない。その変なリュック、向こう置いてこいよ」

「変なってゆーな」

 と、さっきから会話になるのはオシャレ眼鏡の鴻池とだけで、あとの二人はそれを外野から見てて和やかに笑っている感じだった。コウが二人に「ねえねえ、ジャッキー好き?」と訊いても、「いやあ?」「さあ?」「知らない」「ごめんね」と、かなり大人しい対応をされた。別に謝らなくてもいいのに。二人とも鴻池とは普通に笑い合ってるようだし、あたし、ウザがられてるのかな?

「ムツダ、お前さ、その構え、ふざけて……」

「ないから。マジのつもり」

 とりあえずコウはテレビなどで見るイメージをもとに我流で構えてみたが、かなりおかしかったらしい。

 鴻池に少しの手ほどきを受けた後、それから2対2に分かれての簡単な球取りゲームをすることになった。

 ジュークボックスの曲目をコウが見ているうちに、どういう決め方だったのか、いつの間やら鴻池と組むことになっていた。「俺たちはラインの入ったボールをポケットに落とす」と、彼は教えてくれた。



     ▽▲



 マジかよ。

「二年の間山慈恩でーす、どーもどーも」

 と、稽古開始ギリギリで姿を見せたインハイ出場選手らしい二年生部員に自己紹介され、ベニは危うくずっこけそうになった。

 なんだか目の前で間山師範が可愛く笑ってるんですけど。

「あ、聞いてるよね? 間山観空の弟だよ、俺。兄がいつもお世話になってます」

 いえ、こちらこそ。それと七年間、一度も聞いたことないです。こんなにお若い弟さんがいらっしゃるなんて。うふふ、いやだわ、あの人ったら、あたしには何も教えてくださらないんですもの。

 ……という返事が一切口にできないほど驚いているベニは、ただ目を白黒させて立ち尽くすことになった。

 なんて言うか、間山師範の中学生時代はきっとこんな感じ。整った形の童顔、渋くない時点でベニの好みのタイプからは大きく外れるが、しかし笑った時の爽やかさは兄譲りという逸材だった。

 その慈恩先輩は子犬のようにコロコロ笑いながら、五メートル向こうに立っている主将にわざわざ手を振った。いけない、彼が小学生に見えてくる。

「主将ー、アップの後、弓槻さんと組手やって良いっすかー?」

「ああ、いいぞ」と岩村。

「……は?」とベニ。

 間山慈恩という少年高校生は、きょとんとするベニに再び顔を戻し、それから、ぞっとするほどに無邪気な笑顔を浮かべてきた。

「兄さんに頼まれたんだよね。君に高校空手道の厳しさ教えてやれ、ってさ」



     ▽▲



 ビリヤードは簡単なルールなら簡単で、初心者のコウでもかなり楽しめた。

 ボールがポケットに入るたびに「イェーイ」と、味方である鴻池とハイタッチを交わしたり、敵チームの椙田と大久保の番に回ると「外せ外せ外せ」と呪いを送ってみたりしながら何ゲームか楽しんでいるうちにチーム替えもないまま終了時間になった。

 男子たちはスムーズに会計を済ませてしまい、店を出た後にコウがポール・スミスのストライプウォレットを取り出すと鴻池は手を振った。

「いいって、誘ったの俺だし」

「えー、払うよ。しっかり楽しんだ分」

「なら、カラオケ行こうぜ。そっちでおごってよ」

 もちろん快諾した。ビリヤードよりも十八番だし。

 プリキュアメドレーから入ろうかなと頭の中で早速決めていると、しかし、椙田と大久保は帰ると言い出した。

「夜に家族と出掛けるんだ。またね」

「ごめん。俺もちょっと」

「えー」とコウは主に描いてる眉毛をへの字にして「付き合い悪いとリストラするぞ

 コウの冗談に笑いを返すと、二人はあっさりと帰っていった。

 鴻池は吐息を落とした後、尋ねてきた。

「帰るんなら送るけど」

「え? カラオケは?」

「……じゃあ、こっちの方。安いとこあるから」

 地元の人間らしい彼は駅と逆方向に歩き始めた。

 

 

 カラオケ屋につくと、山形の店よりもずっと礼儀正しい接客をする店員に鴻池は「二名、一時間」と伝えてから、コウへと振り返り、「ドリンクバーいる?」と訊いてきたから「いる」と答えた。

 通された部屋は結構狭くて、灰皿が付いていたから無意識にリュックの隠し袋(対、持ち物検査)に手が伸びたが、途中で思い直して止めた。気の利く鴻池がウーロン茶とメロンソーダを持ってきて、メロンソーダの方をコウの前に置いた。狭めの席だったが、彼は隙間を置くように腰を下ろした。

 どちらとも、すぐに歌を入れることはなかった。

「ムツダって何聴くの?」

「プリキュア」

「オタクだなぁ」

「熟れたてフレッシュ、キュアパッション。日曜日の朝に萌え萌え。あと、相葉くん大好きだから嵐は全部買ってる。鴻池くんは何聴くの?」

「レディヘ。レディオヘッド」

「オタクだなー」

「笑わすなよ。聴いたことないだろ、絶対」

「バレたか」

「レディヘを差してオタクはない」

「ロボットアニメかと思った」

「邦楽なら向井秀徳とか。まあ、ムツダのことだから知らないだろうけど」

「ところがムツダは知っている。ナンバガの人っしょ」

「マジ?」

「うん。ママが好きなの」

「お母さん渋いな。ムツダは?」

「結構好き」

「そっか。まあ解散した奴らだしな。俺らの世代で知ってるのは貴重」

「そう? この前イッチーの友達がイギーポップファンクラブ歌ってたよ」

「あ、それ弓槻ベニ、絶対。あいつも仲間」

「ベニ?」

「紅って書いてベニ。ムツダと一緒」

「へー! 紅なんだ。なんか運命感じるな。結婚したい」

「レズか」

「レズだよ」

「まあ、頑張ってオランダに移住してくれ。応援する」

「いやだー、相葉くんと離れたくない」

「どっち。結局」

「ん? そりゃ、基本的に普通っすよ。レズは冗談。半分」

「そう」

 鴻池は鼻をこすった後にデジタル製品の曲目を使い選曲したようだ。すぐに流れ始めた前奏は、コウもよく知っているオリコン上位の有名曲のものだった。

 普通に上手い鴻池の歌が終わると、コウはパチパチと拍手して批評した。

「うまいうまい。声もなんか似てるしね。88点をあげましょう」

 熱唱という感じではなかったが彼の顔は少し赤くなっていた。画面を見つめるようにして言った。

「ムツダ、曲は?」

「おっと、採点マシーンになりきってて忘れてたぜ」

 カラオケ慣れしたコウはパパっとデンモクを操作して曲を入れた。やっぱりプリキュアは止めて、歌いやすい倖田來未にしておいた。

 曲が始まる前に鴻池から青い眼鏡を徴収して、

「プロモのマネ」

 と立ち上がり、存在しない振り付けを捏造しながら歌った。

 途中で鴻池が「歌詞が見えません」と言ったので思わず笑ってしまった。

 コウの曲が終わると、また会話になった。

「キミ、眼鏡、返しなさい。おじさん眼が悪いから」

「ほんと、これ、度がつよー。頭痛のせいで頭イタい」

「もしもギャグじゃなかったらお前ヤバいぞ」

「えー? あ、こうすればいいんだ」

 コウは眼鏡をずり下げた。さっきからボヤけていた視界がようやく定まった。

 依然として眼鏡を奪われている鴻池は目を細くして、不満そうにコウを眺めていた

 素顔の彼は眼鏡がある時よりも幾分大人びた印象の顔立ちに見えたが、本当に目が悪いらしく子どものように訊いてきた。

「なに? どうしたって?」

 コウは眼鏡の両サイドを掴んで上下させた。

「だから、眼鏡を、こう」

「見えねーって」

 しかたなくコウは鴻池に上半身を乗り出し、間近から覗き込むようにズリ下がった眼鏡を見せつけた。

「まったく、世話の焼ける鴻池くんだな」

 と、コウは軽い気持ちで相手を笑うつもりだったのだ。

 しかし、鴻池は顔を酷くしかめた。

 びっくりするほどに表情を変えたため、コウは身を退いて「あ、すまん」と咄嗟に謝った。何がいけなかったのかな、匂いかな、と考えている間にも鴻池は顔を伏せて頭をガリガリと掻いていた。

 それから、

「ムツダ、ほんと悪い」

 鴻池は再び顔を挙げてくると、そのまま身体を動かした。

 なんで謝るの? とコウが首をかしげた直後、


「今の、ちょっと可愛かった」


 鴻池にキスされた。

 なるほどだから謝ったのか。



     ▽▲



 正拳突き。

 前屈しての中段逆突き。騎馬立ちしての正拳突き。

 上受け、内受け、外受け。

 前蹴り、蹴込み、足刀、上段回し蹴り、中段回し蹴り。

 刻み、逆突き、中段逆突き、追い突き。

 ワンツー。

 ワンツー。

 あっそれワンツー。

 なんだこんなものか。チョロい。

 と空手部の基本練習に参加してみたベニは早くも思っていた。

 立ち姿勢など、多少勝手が違うところもあるがすぐに覚えられそうだし、実戦派も伝統派も基本動作は似たようなもので、むしろ鍵突きとか肘鉄とか膝蹴り、といった細かい攻撃動作が存在しない分、伝統派の練習の方が味気無く感じるほどだ。ふう、こんな練習じゃ汗もかけないわ、とか言ってみたり。

 実際にはベニも少し身体が暖まって、基礎練が終了したところ。

「はーい、弓槻さん、これ全部付けて。ガッチリ」

 入部初日から先輩とのエキシビションマッチ。

 ほがらかな声と共に間山慈恩が両手に荷物を抱えてニコニコ近寄ってきたのでベニは目眩を感じる、悪い意味で。

「これ面包、これ拳サポーター、これが腹当て。付け方わからなかったら訊いてよ」

「あー、どうも……」

 間山師範と同じ顔に明るい雰囲気というギャップに慣れるまでしばらく苦しみそうだな、と苛みつつ、慈恩先輩が持ってきた防具一式を受け取る。

 平たく言うと頭部を保護するヘッドギアに、拳を保護するグローブと、あとポンポンを守るための腹巻きだった。

 まあ、防具なら宵蝉館のスパー練習でもたまに付けるから着用方法に関しては問題なし。

「あたし別に防具いらないんですけど。邪魔だし」

「ダメ」

 慈恩先輩は笑顔固定のまま眉間にシワを寄せた。

「三点防具の着用は義務だからね。面付きの組手に慣れてもらわないと。空手《部》に入るなら」

「……わかりました」

 渋々とうなずき、ベニは帯を解くと胸を開けてまずは腹当てから巻き始めた。胴着の上から巻いても良かったのだけど、ダサいからイヤ。

 同様に準備をしながら、慈恩先輩が柔らかい声で言っていた。

「それにさ、俺は兄さんみたく上手くないからさ」

 犬の耳を生やせば似合いそうな少年顔が、にっこり言った。

「防具ないと危ないよ、弓槻さん。怪我しちゃうかも」

「は?」

 今の、……ひょっとして挑発ですか?

 あっさり殺気が芽生えちゃうベニが問いただす前に、間山の姓を持つ高校生は向こうに行ってしまった。

 怪我? あたしが?

 ふうん、へえ、ほお。楽しくなるようなこと言ってくれるじゃん。

「ベニぃ?」

 彼と入れ替わりに、胴着姿の百合子が寄ってきた。

 あまり活動的なイメージの湧かない彼女だが、さすがに経験者だけあって先の基礎練習では空手っぽい動きをしておりベニにギャップ萌えを感じさせた百合子は、心配そうな顔を浮かべている。

 あとは面包を頭に被るだけのベニは、その防具をお腹の前に抱えながら友人の様子を笑った。

「あんた、なんて顔してんの」

「だって、相手の先輩、インターハイ選手なんでしょ? 男子と女子だし。怪我しないでよ、ほんと」

「こんな防具もっさり付けさせられて、怪我しようもないから」

「うん」

「ありがと、百合子。あたしが全国大会行く時はマネージャーとして同伴してよ」

「もう、ベニってば」

 豪快な台詞を臆面なく言うベニに、親友は口に手を添えて笑っていたが、しかし眉毛の形はまだまだ心配そうに下っていた。



     ▽▲



 そしてベニは面包を装着して空手マットの上に立つ。

 審判を務めるのは主将の岩村。今は空手着の上から紺色のジャージを羽織っている。

 その他、副審のつもりなのか女好きの男子部員どもが正方形マットの四隅で気ままに腰を下ろし、「ベニちゃーん、がんばれよー」と応援してくれたのでベニはニコやかに彼らをガン無視した。百合子にだけ拳サポーターを付けた手を振っておく。

 面包でベビーフェイスを隠した間山慈恩もマットに上がってくる。

『んじゃ、ルールから覚えよっか。まずは、宵蝉館の空手でおいでよ』  

 面包によってくぐもった声だった。ベニも返す。

『怪我させてもいいなら』

 彼は肩を揺らし、笑い声を漏らしていた。

『怖いなー。弓槻さんは実戦向きの性格なんだ』

「始めるぞ」

 主審役の岩村が一歩前に進んだ。

 お互いに礼。

 対戦する両者が顔を挙げたのを見計らい、岩村主将は片手をすっと挙げて降り下ろした。

 開始の合図を叫ぶ。

「勝負三本……始!」

 ベニはひとまず動かない。

 せっかく防具を付けているのだから様子見として相手に一発打たせてみてもいいかもしれない。この面包ってヤツのせいで視界が慣れないことになってるし。

 開始と同時にステップを刻み始めている間山慈恩の身長は、見たところ170弱。ベニは160強。リーチの差はそれほど恐れることもない。

「……」

 相手はまるでアウトボクサーのように小刻みなステップを踏み、ベニとの間合いを測っている様子。

 この分ならわりと遠い間合いから仕掛けてきそう……と予想してみるベニのスタイルは対称的にステップを踏まないベタ足だった。

 インファイター。

 主な勝利パターンはフックで相手の肋骨にヒビを入れること(15歳、渋い彼氏募集中)

 距離遠いし、ローキックで足から潰してこうかなとベニが考え始めたころに、ようやく間山慈恩の方から仕掛けてきた。

 左足がかすかに動き、

『ォォ、サァ!!』

 気合いの一声。

 それと共に一発。

 それは身体ごとぶつけてくるような、えらく踏み込みの深いジャブだった。

 しかも、速い。

 やや面食らったものの反応したベニは頭を振って敵の左拳をかわすと、攻撃が面包にかすり「チッ」と音が立つ。

 それから、ベニは手加減する気も無いので、わざわざ接近してくれた間山慈恩の肝臓あたりを強く打ってやろうかと企んだ。

 しかし、攻撃後に間山慈恩が正面から身体をぶつけてきたものだから予定は崩れた

『(うざッ)』

 いきなりのクリンチ。

 近距離ではなく超近距離。

 互いに身体を密着させた状態ではロクな打撃を狙えない。ただ、小柄なベニの方がまだ動く余地がある分有利なのだが。

 いったい何を考えてるのか間山弟? と怪訝に思っている間もなく、相手はベニの身体を押し出すようにして自らも後方へと飛んだ。

 そして一声。

『サァ!』

 離れ際、ベニの面包を狙っての右ストレート。あぶなっ。いちいち攻撃が速いのでカウンターを狙う余裕もなく、ベニは頭を下げて回避する。

 そして、ベニが目線を元の高さに戻した時には既に、間山慈恩は遠く離れていた。

 ウザウザウザウザウザ。男なら近いところで打ち合えっつうの。と言ってやりたいところだが、相手のファイトスタイルに難癖を付けるのは空手家として三流なのでグッと我慢し、ベニは右の拳を強く握りこむ。

 まあ、ちょこまかと動くが良いわ、チキン野郎(15歳、以下略)

 一発。

 そう、一発さえ当てれば、ベニは怨敵を確実に流動食ライフに陥れる自信があるのだーかーらー!(あくまで高校の部活動だという意識がひたすらに低い空手少女の図)

 とにかく、ベニの取るべき戦法は決まった。

 防具を装備しているとは言え急所に食らうのはプライドが許さないので、頭部を狙ってきた攻撃だけを正確に捌き、それから接近してきた相手の身体をガードごとフルスイングで叩く。体勢が崩れたところを詰めて、トドメを刺す。これで決まり。これで殺せる。

 さあ来い間山慈恩! 名前がガンダムみたい!

 と、迎撃意識を奮起させたベニだが、厄介なことに、先輩のスピードはかなりのもので、また脅威外としていたリーチについても見くびっていたようだ。

 間山慈恩の次の行動はモーションからすると前蹴り。

 彼は一メートル半あった間合いを踏み込み、ベニの腹部の、保護された部分を正確に狙って蹴り込んできた。

 でも、ベニには見えている。

 先輩男子の前蹴りに対して後ろへは退かず、自らの左腕を回して払い落とした。距離を開けたくはなかった。反撃できなくなるから。

『(あたしの番!)』

 ベニはそう思いながら、前蹴りを凌いだことで隙だらけとなった間山慈恩の脇腹に殺人フックを味合わせてやろうと、一歩、深く踏み込んで――

 かつーん。

 乾いた音が頭の中で響いたようだった。

 正確には、それは、ベニが被った面包に何か硬い物が当たったような音色であり、しかし衝撃はまったくと言っていいほどに無かった。

 直後、審判をしていた岩村主将が吠える。

「待てぇい!」

『あによ……』

 既に必殺の右鍵突き(0.2トン)を繰り出す体勢に入っていたベニは鬱陶しそうに主将を睨んだ。せっかく敵の横腹を殴れるところだったのに。なんで止めんのよ、このイワーク。

 しかも、

「白、上段蹴り、一本!」

 とか言いやがった。



      ▽▲



『はぁあああああ?』とベニ。

 岩村主将は、いつの間にかちゃっかり中央に戻っていた間山慈恩の方へ、ブンッ、と小気味良く振って、ジャッジを唱えたのだ。

 つまり彼の上段蹴りが決まったから、一本あげようね、と。

 ベニは絶句。

 一方、間山慈恩は何やら、頭の上に両手でハート型を作ってガニ股ポーズ。お猿さんの真似だった。うきき。ぶっ殺すぞシブくない方の間山!

 ようやくベニは怒声を張り上げた。

『待てっつうの! 蹴られたかもしんないけど、あたしノーダメージだし!』

 おそらく、間山慈恩はあの時、払われた前蹴りをそのまま上段回し蹴りに移行させたのだろう。

 器用だとは思うが、そんな踏ん張りの効かない蹴りに威力は生まれない。実戦的ではない。有効打の判定なんておかしい。

 誤審であるとベニは抗議してみたが、しかし判定後は腰に手を当てている岩村主将は首を横に振る。

「ダメージは関係ない。有効な部位に有効なフォームで攻撃を当てればポイントになる。そういうものなんだ」

『だからって一本?』

「上段蹴りは一本、3ポイントと厳密に決まってる」

『あーはいはいそうですか。もういいです。さっさと、続き、始めてください』

 視界の狭くする面包の中で唇を尖らせて、ベニは試合の再開を促した。だいたいこんなもの付けてなきゃさっきのトリックキックも見えてたもん、絶対。おまけに勝負三本ってなんだっつうの、実戦空手じゃ一本勝負だっつうの、なんですか、命が三つある設定ですか、残機数ですか。

 イライラし始めたベニ(残機2)の耳に、ギャラリーをやってるモブども、空手部ヒラ男子どもの声援はいっそう耳障りに感じられた。

「いいよいいよベニちゃんドンマイ!」

「動きキレてるぅ!」

「間山の刻み上段かわす女子なんてヤバヤバっすわ!」

 うるさい、凡夫。端から順に消えてってね。気が散るから。

 あたし、こんなもんじゃないし。

 いくらセコい蹴りでポイントをリードされようとも弓槻ベニの最大の魅力は一・撃・必・殺。

 相手を死に体(再起不能)にしてしまえば良いだけの話だ。そうすれば三本も取る必要は無し。所詮、ハチが何度刺そうが像を殺せないってことをその身に教えてあげる……ア、アフィ、アナ、ア、アフィナリシシーショック? とか絡んでくるとよくわからないですけど。下手な喩えでしたらすみません。

 ……どうでもいいの!

 とにもかくにも、今、ベニの精神的コンディションは最高潮、それこそ中学時代に宵蝉館を制覇した時の闘争心に近づきつつあった。

『弓槻さーん、やりにくい? 続ける?』

 と、間山慈恩に訊かれたら、真っ赤な顔して何度もブンブン頷く。

『別に。大丈夫です』

 そうして、組手は改めて仕切り直される。

 ベニのやる気は満々だった。正真正銘「殺る気」と書くほどにみなぎっていた。まったり行く気だったがもう殺す。ぜひ殺す。

 昨晩、師範である間山関空に珍しく誉めてもらえた通り、ベニは自分に対して絶対的な自信を持って生まれた女の子なのである。誰が相手でも、どんなルールでも、空手という土俵の上で負けるつもりは無い。たとえ、相手が師範の弟だって関係無い。

 15歳、少女の負けん気は強かった。

 だけど、しかし。

「始!」

『先輩どうぞ死んでくださいッ!』

「待てぇ! 待て待て待て! 赤、下段蹴り、反則!」

 いきなりローキックを放ったベニに対して主審の岩村はぐるんぐるんと手を回した

 間山慈恩も、周囲の男子たちも皆、腹を抱えてゲラゲラと爆笑していた。

『反則……どこから、反則?』

 ベニは、少し、ほんの少しだけ萎えそうになった。

 


      ▽▲



 静電気を恐れるように。

 鴻池は一秒も経たずしっとりとした唇を離したが、コウは彼の太股を強くつねった。

「……痛」と鴻池。

「ないよね? そういうの。いきなり」

 さすがに笑顔を失ったコウがじっと睨んで言うと、鴻池は視線を外した。つねられた太股に手を当てて押し黙ってしまった。

 コウは溜め息をつき、「……ごめんね」と、自分からも謝った。

「あたしも悪い。かわいいって、言ってくれて嬉しいです」

 居心地の悪さに帰りたくなったが、それだと鴻池に悪い気がしたので彼の言葉を待った。

 一分ほど沈黙が続いた後に、顔を下げた鴻池の声が聞こえてきた。

「本当、ごめん」

「いいよ」

「別に、お前を、軽そうとか、そういうふうに見てたわけじゃないから」

「いいって。気にすんな」

 コウはぎこちなく笑うと、見るからにヘコんでいる鴻池の肩に軽くパンチした。動揺は自分も確かにしているので、リュックを漁ってラッキーストライクを取り出すと一本くわえてさっさと火を点けた。

 そのあたりで鴻池は顔を挙げた。

 彼が「不良だな」と言ったのでコウはやっと安心することができた。眼鏡は相変わらずお借りしたまんまだ。

「これだけ言いたい」

「んー?」

「キスは勢いだけど。好きだから。ムツダのこと、ちゃんと」

 コウは激しくむせた。

「いや、今日とか、誘って、少し話せたらいいかなって程度だったんだけど。椙田とかにも助けてもらって。でも、駄目だな、俺。思ったより理性弱くてショック。ほんと、キモいことして悪い。やっぱカラオケ代も俺が払うよ」

 咳き込んだせいなのかなんなのか、目元がじんわりとしてしまったコウは、ロクに吸うことなく煙草を擦り消した。

「……いや、キモくないから、ぜんぜん。もう謝らなくていいって。鴻池くんに訊いていい?」

「うん」

「なしてあたし?」

 まだ入学式から一週間分の日数しか終えていない今日、鴻池とは学校でも二、三度の浅い会話を交わしただけだ。メアドは知ってるがメールの交換は未だゼロ。あたしの魅力はまだまだ発揮しきれてないぜ、とでも冗談を言いたくなるほど、寝耳に水の出来事だった。

 鴻池は「んー」と考えた後、

「一目惚れ、つうか? 初日から森田とかと騒いでたじゃん。馬鹿みたく。なんでかわかんないけど、あれ見て、ああ、かわいいな、って思ってた」

「訊いといてごめん。やめて。死ぬ。はずい」

 自分でも赤くなってるとわかる顔を冷やすように、コウはカラオケルームの壁へ額を押し付けてグリグリし始めた。決して悪い意味ではなく、身の毛がよだつほどに恥ずかしかったのだ。

 これまで「コウは馬鹿だなぁ」「ムツダは元気だなぁ」「うるさい女だなぁ」あたしって可愛いよね、可愛いでしょ、と訊いても「はいはい」と、ずっと、そんな感じで扱われ続けてきたためか、鴻池のように真顔で誉められることに耐性が付いていなかったのかもしれない。自分の意外な弱点を今日見つけた。

 オデコで壁を掘ろうとしているコウを見て、鴻池は笑っていた。

「俺さ、小学校の頃から、中学の時も、そんなに女の子を好きとか感じなかったんだけど。案外、変な奴が好みだっただけかもな」

「あたし、ゲテモノっすか」

「いや? 知らない。半端なく可愛いと思うよ。少なくとも俺は」

「んだから真顔でゆうなッ」

 真顔で誉めるのヤメテ! 破裂する、羞恥心とか、そういうものが。

 そろそろ本格的にコウの目に涙が滲んできた時になって、少し疲れた苦笑をした鴻池がすくっと立ち上がった。

「出ようか。道わかんないなら、駅まで送ってけど」

「あー、うん、自信ないかも。お願いします」

「眼鏡は返しなさい」

 告白について返事を聞かない方針でいくらしい鴻池を見て、一瞬コウはホッとしてしまったが、卑怯っぽい考え方だと気付いて少し哀しくなった。かと言って、余計なフォローをするのもどうかと思った。

 眼鏡を返した後、フロントでの会計はコウが払った。そこは意地でも奢るつもりだった。もしも鴻池に払わせてしまうと一時間の室料がキス一回分になってしまいそうで、くだらない事だが、そういうのは嫌に思えた。まだ日は浅いけど、鴻池のことは良い奴だと認めていたからだ。



      ▽▲



 帰り道は紅色の夕焼けだった。

 どちらのペースかわからないけど二人ともゆっくりな足取りで駅へとぼとぼ歩いていた。

「やい、鴻池、やい」

 カラオケ店を出てからコウは久しぶり口を開いた。

「ん、何?」

「春休みから、あたしすっげえモヤモヤしてるんだ。ゲロ吐きそうなくらい」

 事実、昨晩、ランニングから戻った後にコウは胃の中を戻していた。それを知らない鴻池の横顔は、肩を揺らして笑っていた。

「ムツダも大変だな。モヤモヤの原因は?」

 訊かれてもコウは、わずかに逡巡した挙句に答えなかった。

「それは秘密のアッコちゃん」

「あ、そ。なら、解決策は?」

「無い。我慢するだけ」

「忘れちまえば」

 鴻池はそう言った後に「あー、いや」と呟きながら立ち止まった。そこに立つ電柱の、高い所にある標識を見上げるような恰好で呟いていた。

「て、無理だよな。だから悩んでんだもんな」

「いいよ、真面目に考えなくて。鴻池くんの言う通り、そのうち忘れれば済むことだし」

「モヤモヤするとか、愚痴あるなら、ちゃんと森田とかに相談しろよ」

「うん」

 そこで「俺が訊いてやる」とか言わないあたり、鴻池らしいと思いコウは表情を綻ばせた。彼の人となりは今日一日でも充分に知ることができたような気がした。基本的にはクールでも、ところどころで優しかった。だけど最後に暴走しちゃうあたりがかわいい奴。

 でも、今の気持ちのままだとコウは、誰とも、どんなに時間をかけても付き合うことなんてしたくない、と決めていた。

 ――恋なんて、無理。だってもったいない。きっと『モヤモヤ』に邪魔されて、物事の感動は半減してしまうんだ――

 実は、とっくの昔から、怪人モヤモヤの正体を知っていた。

「危ないって」

 鴻池にブレザーの肩をクイクイと引っ張られて、コウは自分が路傍に空いたドブに入水しかねない歩行を辿っていたことに気が付いた。

 と言うか、もう片足が半分浮いてる状態。

「おぅっ」

 バランスが危なくなった所で鴻池に腕を掴まれて引き戻された。彼は呆れた顔を浮かべていた。

「ナーバス? 俺の勝手なイメージだけど、ムツダって明るい奴だろ」

 隣にある顔へ、コウは、にへらっと笑い返した。

「ううん。明るくない。怪獣ヘドラよりドロドロ」

「なんかお前、怪我しそうで怖いな。帰りは気を付けろよ」

 鴻池は優しげな感じで微笑んだ。何故かコウの顔は一気に熱を帯びていった。



      ▽▲



 ベニにとってはまるで悪夢のような時間であったとでも言うか。

 フック、反則。

 膝蹴り、反則。

 肘鉄、言うまでもなく反則。

 それだけならばまだ理解可能だが、何故かベニが普通のストレートを打っても普通の上段蹴りを放ってもことごとく「反則」だと言われるし、猿みたいな間山弟には全て避けられるし、相手の攻撃だけがポイントになっていくし。

 なんかあたし、絶対イジメられてるし……

 

 

 最終的に組手の試合は途中でベニがマジで泣き始めたため、男子たちが大慌てして、中止の方向で幕は下ろされた。



      ▽▲



 これにブチギレたのは泣かされた本人ではなく、その友人の百合子である。

「陰険! 最低!」

 試合中にマットの中央で動かなくなったかと思えば急に「…………ひぃぃぃぃぃぃぃん」とマジ泣きを始めた弓槻ベニの面包を外してやり、今はその頭を抱き締めてあげている船山百合子の表情は、普段の温厚な雰囲気とはかけ離れて険悪なものになっていた。隣でベニが彼女の胴着に顔を押し付けてグシグシとしていても構わず先輩たちに怒鳴っている。

「ルールの違いもロクに教えないで、ベニばっかりに反則反則って!」

「いやあ……」

 主に反則を連呼することになってしまった岩村主将は、頭に手を置いて難しい顔をしていた。

「悪かったとは思うが」

「冗談じゃない! ベニだって女の子なんですよ。それに、プライドがスカイツリーよりも高いのに……こんな仕打ち、はっきり言ってイジメです。すごく不愉快」

「……ぅひぃぃぃぃぃん(※慰められたせいで余計に泣けてくる子の声)」

 泣くわ怒るわで忙しいことになっている女子たちに、男子部員のほとんどがオロオロとしていたが、ただ一人、ベニが泣き始めたあたりで「俺、知らねー」とでも言うように口笛吹きながら面包でお手玉をしていた二年の間山慈恩が、ここでようやく口を開いている。

「はーい、俺が主犯でーす。弓槻さんは甘やかすなって言われてるし。兄さんから」

 彼の発言に、ぐすり、ぐすり、と鼻を鳴らしていたベニが充血した目をそっと上げた。「…………師しゃんが?」と七歳児のごとく。

 しゃくりをあげる声に慈恩は首肯して、それから彼は眉間に深い縦筋を作り出した。どうにも兄である間山関空の顔真似であるらしい。

「――挫折は早いうちに味わっとくといい、ってさ。ぶっちゃけ、こっちの空手だと弓槻さんが得意にしてること何一つ役に立たたないから」

 百合子がキッと、長い眉を吊り上げた。

「何一つなんて、そんなこと、あるわけない……です。ベニは凄いんだもん」

 すると慈恩は、格下の弁護士を労る検事のように一笑した。

「まー、動体視力の良さとか、勝負根性の強さってのは武器かもね。でも、もしかしたら、ある意味で素人よりタチが悪いかもよ、弓槻さんの場合?」

 すっかり幼児化しているベニは友人の胸にミンミンと隠れ、百合子は友人を抱きながら先輩に警戒の目を向け、そして間山慈恩は胡散臭いほど陽気で愛らしい笑顔を浮かべた。

「剛腕なんだってね、弓槻さん。試合の組み立てがダメージ中心理論、て言うか肉を切らせて骨を断つ的な? 極真流とか、実戦系は我慢比べなとこあるからしょうがないけど。フルコンに慣れきった人間が高校から空手競技をやるのは、結構きついと思うなー」

 ベリベリ、と両手に付けた拳サポーターのマジックテープをはがしながら慈恩はざらっと説明している。最後に、ほがらな口調を維持したまま言った。

「やめとけば? 向いてないと思うし」

「てめえ間山!」

 と、一斉に二年生へ蹴りを入れたのは主将を除く空手部の男子一同である。

「女の子になんて言い草!」

「お前がいっそヤメロS王子!」

「こいつ絶対ガキの頃に気になる子イジメてたタイプだ!」 

「ベニちゃん気にすんな楽しくやろう!」

「そうだマック行こう!」

 と、仲間たちにガスガスと肩パンをもらっている慈恩は大して堪えていないような顔で苦笑している。「いてて。痛いなぁ。やめてくださいよー、先輩ー」

 そこで岩村主将が「まあまあ、お前ら」と、両手を挙げて自己主張をした。

「確かに酷な事をした。弓槻、すまん」

 彼は頭を下げた後に、こうも付け足した。

「ただ、間山が言うことも一理あるとは思う。実戦派の癖を落とすのには苦労が必要だぞ」

 相変わらずグズっているベニは蚊帳の外で、本人に代わってムッとし、主将に質問するのは船山百合子の役目だった。

「あたしも大して組手知らないんですが」

「む?」

「ベニがちゃんと突きや蹴りを打った時でさえ反則なのは、どうしてなんですか?」

「振り抜き過ぎだ」

 岩村主将は即答した。

 それに慈恩が爽やかスマイルで補足している。

「建前は《寸止め》だからね。引き手、引き足がしっかりしてない攻撃は危険行為なの」

 百合子は溜め息をついた。

 そして彼女は、友人の手を握り、迷子を見つけたデパート嬢のように相手の顔を覗きこんで尋ねる。

「ベニ? どうします、帰ろっか?」

「…………」

 ベニはしばらく俯いて過ごしていたが、やがて百合子の体からすっと離れると踵を返し、そのまま一人で第二体育館を出ていってしまった。一部で「あぁ……」と落胆が漏れていた。

 残された百合子は一度、男子部員たちに首を向けて、

「そういうことなんで、今日のところは帰ります。ご指導、ありがとうございました」

 一時は憤怒を見せたが最後には礼儀正しく頭を下げた下級生に、間山慈恩がヒラヒラと手を振る。

「いえいえー。俺も楽しかったっすよ」

「最後に、いっこ」

 と、百合子は前に進み、岩村主将に間山慈恩と連続で、にわかに彼らの頬を強く平手打ちした。

 ドラマよりもずっと鈍い音が体育館に響き渡り、周囲の男子たちが唖然と口を開ける中、泣きボクロの女の子は冷たい表情で淡々と言う。

「ごめんなさい。あたし、基本的にベニの味方ですから」

 早速赤くなり始めている自分の頬を押さえて、間山慈恩は愉快そうにニッと口元を緩めていた。

「いやあ……君も君でスジが良さそうだね」



      ▽▲



[格付け報告板]


 今日は空手部の練習にB・YとY・Fの二人が参加してくれた。

 諸事情は割愛するが、うちの奴らが二人、Fちゃんの方にビンタ食らっていた。なんか見ていてゾクゾクした。良い意味で。

 あーあ、空手部入ってくんないかなぁ……


[相談板]


――今年の空手部うざいな。手堅く物件集めてやがる。


――森田瞳の演劇部か木村麻子のバスケ部以外は全て負け組ですから。


――嫉妬乙。


――エントリー嬢二人ゲットは美味しいだろ、どう考えても。


――これで後一人、空手部にエントリー嬢が行ったら俺、空手始めるわ。


――俺も俺も。


――お前らw


――あと一人って、もう帰宅部は陸田の紅だけじゃなかったっけ? 確か。


――そうなのか。


――空手部にダブル紅フラグ立った!


――何が面白いのかわからん。


――陸田紅は空手ってガラじゃないな。


――空手ギャル……すごく、ビミョーな新ジャンルです。




――そんなお前らに朗報。


『《陸田紅、山形、空手》で検索かけてみな。…………笑うぜ?』




      ▽▲



 ついには鴻池との間にある空気を曖昧にしながら、駅で彼と別れたコウは電車に乗った。

 やはり、肩が楽になったのを感じて、逆に気分は重たくなった。はあ、やれやれ。どうしよう。自分の中で整理も付いていないうちに、新しいタイプの怪人モヤモヤまでやってきて、コウは少してんてこ舞いの状態だった。

 ただ、同じモヤモヤでも、こっちの方はまったく嫌ではなかったけど――

 鴻池にキスされた今日は木曜日。

 金曜日なら良かった。

 週末の猶予をもらえるのなら、コウは鴻池と月曜日のクラスで顔を合わせても平気で接する自信があった。電車に乗っている今も、徐々にドキムネは収まりつつあるのだから、今夜あたり寝る時にでもまた恥ずかしくなるかもしれないけど、たぶん土日を挟めば完璧に落ち着く事ができるはずだったのに。

 おまけに、初代・怪人モヤモヤの方は一向に手強かった。

 何せ、コウは《そいつ》を見てはいけないのだ。もしも、怪人モヤモヤの、赤いマントが揺れる背中を指差してしまったら、きっとコウは泣き出してしまう……そんな確信があった。

 だからコウは吊革をギュッと握りしめた。そして、たまたま車窓に「BOOKS」という看板を見つけると、次に停車した駅で迷わず降りた。

 急に漫画が読みたくなったのだ。

 底抜けに明るい奴が良い。



      ▽▲



 知らない駅でコウは勘を頼りに歩くと、ほどほどに大きい本屋はすぐに見つけることができた。

 表の看板に背中を預けると携帯電話を取り出して山形のヨッちゃんに電話をかけた。何か面白い漫画は無いかと訊いた。漫画通のヨッちゃんは最近のお勧めをいくつか挙げたあとに『コーさん、お前なんか声やべえよ。元気ねーべ?』と突っ込んで来たので、まあな、と答えてコウは笑った。

 三十分ほど関係ないこと話してコウは旧友との通話を終えた。

 そして本屋に入ろうとした時、入り口で気になる二人組を見つけて足を止めた。

 コウが通う花見坂高校のブレザー服を着た女の子たちで、しかも一人は見覚えのある顔だ。

「……あ」

 と、手動のガラスドアに手をかける所だった彼女も、近くに立つコウの存在に気付いて首を回してきた。

 そうしてコウは、わずかな間、友だちを連れた彼女、弓槻ベニと静かに視線を交わし続けた。

「ちぃっす。ベニやん」

 名前だけは知っていたので、基本的に人見知りと言う繊細さとは無縁のコウは片手をひょいっと挙げてみた。

 生まれつきなのかもしれないが不機嫌そうな顔立ちをした弓槻ベニは、書店の入り口に佇み、片方の眉をかすかに上げる。「は。ベニやん?」

 彼女は、男性用ワックスで無造作スタイルにセットしたような髪型が自然と似合っており、中背だけど、丈詰めスカートから長く伸びた股下は細くも健康的、コウはそこに一番驚いた。なんだこの美脚。

「ベニ、お友達?」

 と、脚タレ、もとい弓槻ベニの、友人らしいボブカットの上品そうな女の子が相方の方へ首をかしげていた。

 コウは笑いながら手を上下させる。

「あ。こっちが一方的に知ってるだけでしたー。ごめん」

「……陸田紅さん、でしょ」

「おお?」

 弓槻ベニの方からボソリと、自分の名前が聞こえてきてコウは目を真ん丸くした。あたし名前教えたっけ? と、お脳の記憶を掘り返してみたけど、そんなことはなかった。

「アンタのクラスの市川に聞いた。同じ名前だって。それだけ」

 おお、イッチーにか、とコウは納得した。

「あと、ベニやんとかやめて。ウザい」

 虫の居所が極悪な位置にあるっぽい面持ちでコウに釘を刺すと、弓槻ベニはガラス戸を押して店内に消えていった。

 こええ。

 その後、お友達の人は苦笑いを浮かべつつ「ごめんなさい」と、コウの方へ両手を合わせた。会釈もしてきた。

「あの子、イライラしてて。八つ当たりだと思いますから」

 フォローを済ませると彼女も弓槻ベニを追って店内へ。

 未だ一人、店外に立つコウは腕組みをすると神妙な顔で独りごちた。

「あるよねー、イライラ、モヤモヤ。わかる。すっげえわかる」

 うんうん言いながら本屋のドアを押し開けた。



      ▽▲



 …………うぜえ。

 先ほど空手部で辱しめられて、ただでさえ普段の倍以上に人相が悪くなっているベニの殺意は、今は主に本屋で偶然に出会ってしまった陸田コウに向けられることになった。

 と、言うのも、

「へー! じゃあ二人ともこの駅住んでんだ」

「うん、小中高って一緒だったよ。でもクラス被ること少なかったけど」

「幼馴染みなんだねー。もう互いに性感帯知り尽くしてる的な?」

「ん、と……コウちゃん、そういうの、あたし苦手」

「あ、マジすまん。百合ちゃんはそっち系NGか。了解了解。うわ、本当に顔赤いし、やべ、かっわいー!」

「うー、なんでだろ……。一応、興味はあるんですよ? でも、人に聞かされると妙に恥ずかしくて……暑」

「むっつりだ。言葉責めしたくなんねワハハ」

「無理無理。鼻血出ちゃいますって」

 何。

 なんなの。

 なんで後ろの方に陸田コウくっついて来てんの? しかも百合子と良い感じに打ち解けてるんじゃねえし……

 あの、神様って日替わり?

 今日の神様は弓槻ベニを生理的に嫌ってる気がしてならないんですけど。

 と、まあ。

 十分前からそんな状況が始まっており、機嫌最悪のベニは実に様々な細かい箇所に目がいって、その都度、やり場の無い憎悪が募る募る。

 例えば、今いる雑誌コーナー、購読中のminiを読んでいたベニは、そっちで陸田コウがsoupを手に取ってるのをチラ見して「てめぇはPopTeenだろッ」と何故かムカついた。向こうで百合子がターザンを読んでるのも意味不明だが、それは許す。


 あー、死にたい。


 と、虚ろな目で雑誌をパラパラめくっているだけで、まるで読んでいないベニの状態だったが、しかし、わりとあっさり瓦解するものであったり。

「ベニやんベニやん」

 おもむろに陸田コウが雑誌のバッと大きく開いてきたので、ガン無視態勢を決め込んでいたベニも思わずそちらを見てしまった。

 陸田コウはページの中の特集モデルを指差して、

「このアリスって子、ベニやんに似てない? きりっとした目とか」

 ちょっと和みかけた。

 や、やだぁ。

 あたしってばそんなハーフっぽい顔してる? てゆーか、モデルを掴んで似てるなんて初めて言われたけど、何さ、尋常じゃなく嬉しいじゃない。何さ。

 と、ガン無視態勢の方はあっさりと瓦解してしまった。

「ベニやんはエクステとか付ける人? すげぇ似合いそー」

「……中学の時に一回。微妙だったけど」

 ベニが(お慈悲で)答えてあげると背が高い陸田コウは、自分のウェーブヘアーをふわっと持ち上げてニコニコしている。

「そうなのかー。あたし土日にママと恵比寿行く予定だったからさ、付けてくるかも。似合うかなー?」

「あんた髪の色明るいから、絶対浮くって」

「あ、そっか。うげぇ、しまった。まるで自分が見えてねえや」

 今度は見るからにしょんぼりとしている。

 改めて向き合ってみると、陸田コウはかなり感情表現が顕著なタイプなのに、飾ってないと言うか、不思議と嘘臭さが伝わってこない。自然体でこれなら中身は相当な馬鹿だろう。ただ、ベニとは違い邪気とか少なそうだ、うらやましい。

 数分前まで高かった警戒心も、ほぐれつつあるベニがいて、ついには自分からも会話を始めていた。

「ナンバガ好きなんだって? 陸田さんのママ」

「んだじゅ。よく知ってんなぁ。スパイー?」

「いや……、だってあんた、自分で言ってたでしょ。昨日」

「んだじゅー?」

「何それ。オタク言葉?」

「山形弁だじゅ。使い方はノリだじゅ」

 ああ、そう言えば田舎の出身だったかと、ベニは格付けサイトで見た情報を思い出した。上手い具合に垢抜けてるもんだからすっぽりと忘れてた。

 今日会った時から明け透けと浮かべている陸田コウの笑顔を見ながら、こいつ、悩みなんて少しも無さそうだな、と少々呆れてしまう。いや、憧れたのかもしれない。



     ▽▲



 それから、和気藹々ではまったくないが、書店で陸田コウと毒にも薬にもならない話をしていたら、どこかに消えていた百合子が戻ってくる。

「ねぇ、ベニ、これ買おう。一緒に」

 と言って、彼女が差し出したるは文庫サイズのルールブックであり、隣にいた陸田コウが「オウ、カラテー」と外人っぽく言っている。

 まさかベニは、それを見た瞬間に自分が鳥肌を立てると思っていなかった。ゾワワワワワ。キ、キモい! なんかその本キモい!

「い、今すぐ燃やしてしまえ。そんなお遊び空手の本」

「気分良くないのはわかるけど。ベニ、まずはルール、覚えよ?」

 優しい口調で提案する百合子から、ベニはしかめっ面をプイリと背けた。

「いい。いらないって」

「どうして」

「空手部入るのやめる」

「逃げるんだ」

 ぎょっとしてベニは顔の正面を友人に戻した。

「どうして、そんなこと言うわけ? ひどくない? ひどいと思う……」

 傷付いたことを主張してみたベニだが、しかし百合子お嬢様は泣きボクロをちっとも動かすことはなかった。冷静な表情で言ってくる。

「甘えないでね。あたし、真面目に話してるんだもん」

「…………」

 隊長、不利な状況であります。

 理由はよくわからないけど、百合子さん、軽くキレてらっしゃいます。

 ベニもよく怒っているが、逆に他人から怒られるのはすごく苦手であった。だって怖いもん。今の場合、ベニは百合子に対して何の不満も持っていないため言い返すにもパワーが足りないし、又、百合子と口喧嘩なんかして嫌われてしまうのは嫌だった。

「……百合子ヤダ。見捨てないで」

「そういう話は、今してないんだけどなぁ」

 いつもの牙も剥けずに畏縮し始めたベニに、口調はずっとおっとりしている百合子は渋い笑顔を浮かべている。彼女はブレザーの上から自分のお腹をポンポン叩いた。

「ベニの自由だと思いますよ。でも、あたしは空手部に入るね。昨日、そう決めたし、あたしには辞める理由が無いもの。ダイエットしたいのは結構マジだからね」

「なになに百合ちゃん、隠れお肉プニプニ? あたしと同盟組む?」

 と、全力で馴れ馴れしい陸田コウに背後から抱きつかれた百合子は「きゃー、やめてーッ」と冗談っぽく笑っている。

 ベニは呆然と立ち尽くしていた。なんか、うち、仲間外れみたいやん……と関西弁で呟いてみたが、到底誰にも聞ききとれない程度の声量だった。

 ヒドイ。

 今日という一日はどこかヒドイ。高校の空手道は漫画パンチ禁止の安全第一みたいなお遊びルールだし、その空手部の連中からは陰険なイジメに遭って笑い者にされるし、おまけに、味方だと思っていた百合子までもが敵(空手部)に寝返るなんて。

 なんでこんな惨めな想いばかり続くのだろう。

「ねえベニ、悔しくないかな?」

 意識が泥沼化しかけていると、後ろにギャルを背負った恰好の百合子が真面目な顔で言った。

「あたしは悔しいよ。ベニが空手に向いてないなんて言われて。そんなことないもの。ちょっとルールが違っても、ベニは強いんだって見返してよ。これ、あたしの希望です」

 じーん。

 としてベニはきゅうっと唇を結んだ。今さっき、百合子が裏切ったとか、みみっちいことに思考力を費やしていた自分が情けなくなって涙腺がじくじくと痛みだす。だけど空気を読まずに陸田コウが「仲人、必要っすか?」と水を差してくれたおかげで涙は一瞬にして引いた。ある意味で感謝。

 ――「じゃあ、入る」とベニはあっさり言うことができた。

「百合子の希望なら断れないし」

 素直じゃない。我ながら。



      ▽▲



「吐くかも」

 いきなり、書店のフロアで陸田コウがお腹を抱えてうずくまったのは、ベニが百合子と一緒にレジで空手のルールブックを買った少し後、ついでだからと雑誌コーナーに戻り伝統派空手道の月刊誌を立ち読みしていた時。若い世代の空手家特集で、1ページを占領していたベニと同い年である少女の名前が目について「これ、なんて読むんだ?」と話題にしていたら、途中で陸田コウが物騒な予告をして沈没したのだ。

 ベニは驚き、すぐさま陸田コウの正面にしゃがみこむと具合を尋ねた。

「ちょっとッ。陸田さん、大丈夫?」

「マジでゲロしそう」

 ひぃっ。

 陸田コウは口元を手で隠し、結構つらそうにしていた。ちゃらんぽらんとしたギャル娘の顔色は青ざめてるようにも見える。ずっと元気そうだったのに、実は体調が悪いのを我慢していたのだろうか。

 百合子の心配そうな声が聞こえてくる。

「ここ、トイレ無いよ。隣がドトールだけど、行きます?」

「もう、平気」

 すくっと立ち上がった長身の陸田コウ。

 しかし、グラリと盛大によろけたためベニがその身体を受け止めた。決定的に気分が悪そうな彼女はベニのブレザー服に顔面を押しつけモゴモゴしている。

「ごめぇん、立ち眩み…………て、ベニやん、細いのに、なんで、こんな……嘘だろ?」

「揉むなっつうの。あんた、ぜんぜん平気に見えないんですけど」

 向かいでは百合子が、鞄から携帯電話を取り出した。

「今、家にお母さんいると思うし、車で送りますよ? コウちゃんち、駅どこ?」

 緩慢に頭を振りつつ陸田コウは、ベニからよろよろ離れた。

「いい。ありがとね。ちょっと、寝不足なだけっす。君たちは空手の練習がんばって」

 と言うのでベニは溜め息をついた。

「空手関係ないっしょ、今。せっかくだから乗せてもらえばいいじゃん。百合子んち、ハマーだよ。陸田さん乗ったことある? とゆーか山形にハマーある?」

「失礼だよ、ベニ」

「ジョークじゃん」

「あと、お母さんはハマー使わないよ。あれは遠出用だもん」

「だったら何さ。アウディ?」

「知らない。教えない」

 お嬢様がヘソを曲げる気配がしたのでベニは突っ込むのをやめて、口数が少なくなっている陸田コウの方に目を向ける。

 またもや口を押さえて、苦しそうにしていた。

 胃が痙攣でもしたのか、一度肩を跳ねさせて、ぎゅっと瞑って堪える目元には涙が滲んでいるようだし、うーん、やばいでしょ、明らかに。

 本格的に吐くかも。


 ドトール! ドトール!


 とりあえず送るのは後回しにして休ませた方が良いと判断が一致したベニと百合子は迅速かつ静穏な進行で陸田コウを喫茶店に移動させた。

 セーフ。ぎりぎり。ガチで。

 陸田コウがオエーっと限界を迎えたのは、ベニたちが彼女をドトールの化粧室へ連れ込んだ直後であった。必死で我慢してくれていたのかも。

 甲斐甲斐しい百合子に背中を擦られ、それでようやく落ち着いたのか、トイレから出た後、四人席のソファ側で横にさせて、今は静かにしている。

 百合子の母親に連絡を取って、高級車で迎えに来てもらえることになった。ただ、先方の都合で三十分ほど時間がかかるのだそうだ。

 病人連れとは言え、タダ席に居座るのも後ろめたいので、ベニはカウンターでドリンクを注文してくることにした。

「百合子、陸田さんをヨロシク。何飲む?」

「ホットのカフェモカ、M。ありがとベニ、お願いします」

「そんなん飲むから太ん…………りょーかい」

「最後まで言えば良いじゃない」

「陸田さんわッ? 飲みたい物!」

 失言を聞き逃さなかった百合子が浮かべる笑顔から逃れるようにベニが訊くと、こっちに尻を向けて寝ている茶髪娘は元気が足りない声を十五秒後に返してきた。

「エスプレッソぉ」

「胃を破壊する気かよ。オレンジジュースにしとくからね」

「愛してるよぅ……」

 ツッコミ待ちだったらしい。体調悪いくせに陽気な奴だと感心した。

 それから、ベニが三人分のドリンクをトレイに乗せてカウンターから戻ってきても陸田コウは未だにアザラシのような恰好でダウンしている。

 ベニが届けたオレンジジュースにも起き上がる素振りを見せず、彼女は寝てしまったのかなと思っていると、約五分経って声が聞こえてきた。

「写真で見ると、キっツイなぁ……」

 意味不明。

「どうしたの、コウちゃん?」

 百合子が反応すると、陸田コウは寝返って顔を向けてきた。

 今まで、泣いていたらしい、目と鼻が真っ赤だ。

「見苦しいの見せちゃってさぁ、ごめんよ。超感謝」

 表情だけは平静としていて、第一印象のノリノリギャルとはまた違った雰囲気で言葉を漏らしていて、ちょっと色っぽいなと思いつつベニは右手をヒラヒラさせる。

「具合悪いんなら、しかたないでしょ」

 何故か百合子が笑った。

「ベニが優しいこと言ってる。コウちゃん、好かれてるよ。気を付けた方がいいね」

「は。何それムカつく。意味わかんない」

 ベニは頬の筋肉がビクビク痙攣しているのを感じながら、恥ずかしいこと言う幼馴染みを睨み付けていると、「くす」というふうな吐息が耳に。席で寝ている陸田コウは子どものような顔で笑っていた。

「あたしも、ベニやんと百合ちゃん好きだよ。今日、二人に会えてラッキーだな。迷惑かけちまったけど」

「あっそ」と、ベニはカフェラテアイスのストローに口を付けた。なんか耳のあたりが重点的に熱くてキモい。

「はーあ」

 陸田コウはようやくソファからゆっくり起きると、今度はオレンジジュースを寄せてテーブル上に身体を投げ出した。

 会話もなく、百合子と静かに様子を見守っていると、やがて陸田コウは再び泣き始めていた。

 すごくヘンな泣き方だった。両腕はまったく使わずに「うー」と呻き、涙を流しながら卓上で顔をゴロゴロと転がしているのだ。普段のベニなら露骨に嫌な表情を浮かべてヒいている所だが、今回に限って、ベニも二時間前に醜態を晒していたため、少し、同調してしまう。

「なんか、すげぇマイってんなぁ、あたし」

 それからオレンジジュースをズイーとコップ半分くらい吸い上げ、赤い目尻を拭った。

「ゲロったついでに、二人にかなりウザいこと吐くけど、いいかな。イヤダっつっても漏らしちゃうけど」

 ベニと百合子は一度顔を見合わせ、双方、頷いた。

「うん、いいよ。吐いちゃえ吐いちゃえ」

「あたしはウザかったらウザいって言うけどね」

「ワハハ。やっぱ好きだなぁ。やさしー」

 陸田コウは静かに涙を流しながら笑うと、身体を悪くするほどに溜め込んでいたという一つの後悔を長く語り始めた。



      ▽▲



「二人には意味不明かもだけど、ただの独り言だから。あたし、山形で、ダンスみたいなのしてたの」

「――あたしね、最低なんです。対戦相手のこと馬鹿にした」

「大会で、わざと演技を失敗してたの。本気でやって負けるの怖かったから、わざと最後に転んで点数下げてた。だって、あの子には絶対勝てないってわかってたから。ほんとバカ。死ねばいいのに」

「いつか、その子に勝てるんだって思ってた。地元一緒だし、大会は毎年あるから。そう思って、自信が付くまで練習して、絶対に勝てるって思った時に本気でやろうと思ってたの。いつでも挑戦できる、いつか、いつか……って。逃げてた。最後の最後まで、正々堂々負けようともしないで、言い訳ばっか作ってきた人間があたしです」

「それなのに……、その子、劉紅は言ったの。お前の演技、好きだったよって……それが、それがね……、すごく嬉しくて、感激しちゃって、顔とか痛いくらい鳥肌が立った」

「でも、同時にさ、そん時になって、初めて後悔した。今さら、ベストの演技で負けたいと思った。もう手遅れ。遅ぇよバカ。五日連続で夢に見るのもザマアミロだよ」

「あたしには、劉紅がくれた優しい言葉を素直に喜ぶ資格が無いの」

「おかしいんだ。今は、何してても頭のどこかでモヤモヤしてる」


「逃げるのがこんなに悔しいって、知らなかった」



 やがて、迎えに来た百合子の母親ふくよかが運転していたのは落ち着いたオレンジ色を身に纏うステーションワゴン、アウディではなくBMWだった。三人の女子高生が高級車の後部座席に乗り込む時、百合子が何故か恥ずかしそうな表情でベニへと振り返り、わざわざ言い訳をしていた。

「これ、中古車だからね」

 車上に移り、未だ少し体調が悪そうにしていた陸田コウはそれでも笑顔で「嵐だと誰が好きー?」と、どーでもいーことを訊いてくる程度には元気そうである。空元気かもしれないけど。

 ベニは「いない」と答え、百合子は結構考えた後に二宮くんを選んでいた。陸田コウは「そっかそっかー。あたし相葉くんだなー」と満足そうにしていた。そして、しばらくすると彼女は、百合子の肩に頭を預けて短い眠りにつき始めた。

 ベニは思った。

 この女、神経が太いのか繊細なのかよくわかんない。



     ▽▲



「なあ、陸田紅さんって、お前と話する?」

 夕食時、食卓を囲んでいる兄貴もといエロメガネに質問されることになったベニは、一瞬、シカトしようか悩んだがコロッケを一つ食べ終わる頃には考えが変わった。

 無視しようにも、出てきた名前があまりにもタイムリー。

 うちのエロ兄貴がどうして陸田コウに興味を持つ? ああ、エロだからか。百合子の次は陸田コウにも目を付けたか、このエロサピエンス。おお、イヤダイヤダ。

 内心では悪態を蠢かせつつ、しかしそこに居る父と母が雑言に口煩いため、ベニはイイ子ぶって兄に普通の返事をしてあげた。 

「まあ、ちょっとはね。話するようになったよ。いかにも、チョリ~ッスって言いだしそうな子。でも山形出身なんだって。まあ、いい子だと思うよ」

「お前さ、空手部に入ったじゃん」

「は?」

 いとも簡単に、ベニの眉間はビキっと実際の音を立てて引き締まった。母親に「ベニ、顔」と注意されたがイラついてしまったものはしかたがない。

 陸田コウはどこに行ったの? せっかく可愛い妹が話題に乗ってあげたんだから、もうちょっと上手く会話しろよ、メガネ。

 金輪際見下す覚悟を決めている兄貴にスルーされた上、会話の主導権を握られているとあっては果てしなくムカつくものだ。

 会話をブツ切りにされた仕返しと言わんばかりに、ベニの態度は急速に冷めつく。

「あんたに関係無いでしょ」

「や、そうだけどな」

 兄は、父親が観ている野球中継に視線を移しながら味噌汁を一口啜ると、またベニに顔を戻して「ニコ」と笑顔を浮かべた。普段よりも、ずっと、優しげに。

 きゅん。

 とはしなかった。まったく。

「お兄ちゃんその顔きもい」

 素直に感想を伝えると兄は笑顔を潜め、一転して不機嫌そうに口を尖らせた。

「うるさいなぁ」

 ベニは母親が食器を下げに席を立ったことを横目で確認しつつ、さらに毒舌を滑らせる。

「怒んないでね。お兄ちゃんのことが大切だから言ってあげるんだよ。うん。マジきもい。ぜんぜん爽やかじゃない。一生涯笑わない方いいね。みんな君から離れてく」

 さすがにそこまでいくと大袈裟だと自分でもわかっているが、冴えない兄を口撃ないし攻撃するのはベニにとってストレス解消法の一種なので罪悪感など皆無。あー、こいつが兄でほんと良かったー、ズタボロにこき下ろしやすい人が近くにいて良かったー。小学校低学年の頃は空手を習っていた兄を友達に自慢していたような記憶もあるが、いつの間にだろう、こういう付き合い方しか出来なくなっていた。

 妹の毒舌を浴びたソウは、しばらく「んー……」と渋い目つきを向けてきたが、ある時に性懲りもなくまたニコリとした。

「まあ、いいや。俺、機嫌がいいんだよ。許してやる」

「知らねーし」

 しかも「許してやる」とかスゲー上から目線だし。何様だっつうの。

 言っとくけど、家族体系における年功序列的ヒエラルキーなんてあたしの知るところじゃないんだからねっ、いや、言わないけど。ちなみに今の呪文みたいなフレーズは中学時代に市川から伝授されたものだからベニにも意味の説明は不可能。よくもまあ、あの優等生である市川や百合子と同じ高校に自分が通えたものだ、と、当時全面的に家庭教師を勤めてくれた目の前にいるメガネくんの功績を意図的に忘失しているベニは、どうでもよさげに訊いた。

「何かイイ事あったわけ? 今週のマガジンの表紙が北乃きい、とか」

「俺はそんなセコい男じゃない。違うって。もっと夢のあることだよ」

 はあ? 夢。とか、寒々しいことを嘯きながら兄貴は笑顔のまま腕を組み、すっかり落ち着いた食卓に深く座り直すとフンフン鼻を鳴らしている。

「俺もなぁ、今年はもう受験勉強に励まねば思うとなんだか憂鬱だったけど。楽しみって案外簡単に見つかるもんだな。ベニが妹で良かったよ。マジでさ」

 なにこいつ。

「……あのさ、お兄ちゃん。そろそろ死ぬの? 白血病? 助からない? 世界の中心でメガネー、って叫んであげようか。誰も助けないであげてくださーい」

「ベニ、」と、穏やかな声が聞こえて、見れば父が少し怒った表情をこちらの方へ。「そういう冗談を言ったらダメ」

 う。やべえ。調子に乗っていろいろ言い過ぎたか。

 兄とは真逆に、父親のことはきちんと尊敬しているベニは皆目反抗心無く「ごめんなさい」と呟いて、父が再びテレビの方へ顔を戻したのを見計らい、兄に無音で「イー、だ」てな具合に歯を向いた。イー、ダと言うとずいぶん愛らしく聞こえるが、ベニはあらん限りの憎悪(逆恨み)を表現してみせたつもりである。しかし、どうにも今日の兄は余裕だか慈愛に満ち溢れているらしく、苦笑して肩をすくめるだけだった。

「とりあえずな、ベニに話があるんだ」

「あによ」

「うん。陸田紅さんって、空手部入る気無いのか?」

 ベニはきょとんとした。

「は。空手部? なんでさ」

「いや、まあ、何か辞めた理由とかあるのかもしれないけど。単に入ってないだけだったらベニの方でさ、上手い具合に誘ってみてよ。そこは《紅繋がり》ってことで」

「待って待って。かなり意味わかんない」

「なんだぁ、ベニ。もしかして陸田さんのこと知らないのか?」

 赤いフレームだろうが「博士くん」とでも呼びたくなるほど軟弱な顔した兄はのんびりした調子で眼鏡を押し上げた。

「男子の一部で結構話題になってるんだよ。動画共有サイトに、たまたま陸田さんの中学時代の映像があってな。あの子、黒帯だぞ?」

「えー。うそだよ」

 とてもではないが、にわかに信じられない。

 あんな、髪染めて化粧してピアスぶら下げゲラゲラ笑ってはオエーとゲロ吐くルンルンしたギャルが折り目正しく胴着を身に纏っている姿を即座に想像できるほどベニの右脳は優秀じゃない。

 それに、今日、本人から中学時代の話を聞かされたばかりだ。

「だって、陸田さん言ってたよ、今日、中学時代はダンスやってたって」

「え。おかしいな。マジか、それ?」

「あ、いや……ダンスみたいなこと……だったかもしんない」

 ベニはもごもごと言いながら目線を泳がせると、兄はパチンと指を弾いた。

「オーケー、納得。確かにダンスっちゃダンスか。山形大会の動画で、陸田さんがやってたのは《型》だし」

「型? ねえ、その動画って、今見れんの?」

「おー、見れる見れる。ファイル落としたからiPodでも見れる。やー、すごい。俺も昔は型の方が好きだったんだけど、次元が違うな。陸田さん、たぶん、そこらの高校生よりもずっと上手いぜ。パソコンで見るか、せっかくだし」

 片付いた食器を積み重ねつつ楽しそうに語ると彼は、「ごっそさん」と腰を上げた。

「あー、今年の空手部は楽しそうだ。俺も入部してりゃ良かった。まあ、代わりに可愛い妹の青春見守りますか」

「なにヒトリゴト言ってんの。きもい。ついでにあたしの皿も片付けてよ」

 兄に下げ物を押し付けるとベニは立ち上り、さっさとパソコンを起動させるために和室へと向かった。

 (陸田コウも空手家か……)

 もしそうだとすると、ちょっと嬉しいかも、と感じてしまい自然と頬が緩んでいく心地になった。微妙な友達と部活を共にしても微妙でしかないが、きっと陸田コウはベニとって微妙ではない相性を持った女の子だったのだろう。

 夕方のドトールで、陸田コウが悩みを吐き出して泣いていた時、ベニは「めんどくせえ」「馬鹿みたい」とウンザリするのと同時に、間違いなく、彼女に何か優しいことを言ってあげたい気持ちが心のどこかにあった。ついには何も言えなかったけど。

 明日、陸田コウに話かける口実ができたかもしれない。




 

 

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