01:東京ランナーズ
たぶん兄貴が使ってたんだろう。
その日、弓槻ベニは入浴を終えて、湿った髪のままリフォームしたての和室に行くと、使うつもりだった家族共用パソコンが既に立ち上がっていた。
ラッキ、とベニは唇を動かして敷かれた座布団に腰を下ろす。短気な性格だから年季の入ったパソコンがノロノロと起動する様を見守っていると非常にイライラしてくるのだ。
起動中のディスプレイにはデスクトップの画面しか表示されていない。ベニが来たのを見計らったかのようにスクリーンセーバー画面に切り替わっている。
すぐにベニは右手で卓上のマウスを小さくズラして元の画面にし、さっそくインターネットブラウザを開いた。特に調べ物があったわけでもなかったが、この時間は母親が刑事ドラマを見るためテレビを独占しているし、ちょっとした暇潰しのつもりである。「げ。」
と、すぐにベニは顔をしかめた。
「……生温かいし」
座っていた座布団がヌクヌクしているのに気付いた。直前にここに尻を置いていた人物が兄貴かと思うと途端に不快な気分が込み上げてくる。特段、兄の弓槻ソウを汚物扱いしているわけでもなかったが、どうしようもない馬鹿だと見下している。あの馬鹿と間接的にでも密着しているかと想像すれば、かなりイヤアな気持ちだった。
受験控えた三年生のくせに座布団ヌルくなるまでサーフィンしてんじゃねえよ馬鹿兄貴、と内心毒づきながら座布団の裏表を逆にする。まあ、未来のベニとて三年生になりたての春から大学受験に勤しんでいる予定などありはしないが。
座布団を裏返すと一枚のメモ用紙がヒラリと舞った。
それを拾い上げるとベニは首をかしげる。
なんじゃこりゃ。
http://xxxxx/xxx
サイトのURLだ。
それにIDとパスワード。
シャープペンで殴り書きされており、結構短かったのでキータッチが不得意なベニでも簡単に打ち込むことができた。てゆーか、何のサイトかも解らないのに打ち込んだ。
十中八九とでも言うか、この走り書きからは兄貴の臭いがプンプンするし。もしもエロサイトに繋がったら父さんにチクろーっと。
そんな軽いノリでベニは拾い物のサイトへと飛んだ。
リンク先は何かの情報掲示板だったらしく、軽くて、すぐにきちんと現れる。
ある意味で、エロサイトよりもいかがわしい代物が表示された。
▽▲
《新入生を勝手に格付けし合う俺たちwiki》
[ENTRY]
・森田瞳(A組)
・陸田紅(A組)
・香里瑞恵(B組)
・佐々木透子(B組)
・船山百合子(C組)
・弓槻紅(C組)
・木村麻子(C組)
・光川舞(D組)
・国沢ほたる(D組)
・塔ヶ崎愛(E組)
(決定済み、編集不可)
更新日4/7
[RANKING]
・恋人にしたい女
・付き合ったら面倒そうな女
・私生活がだらしなそうな女
・口説きやすそうな女
・裏表のギャップが激しそうな女
(編集中)
[BBS]
:相談板
:報告板
:雑談板
…………
……
▽▲
「はぁ?」
ベニはことさらに低い声を漏らす。「なにこれ、さいてー」
これがどういうものか一発で理解してしまった。
ロンブーの番組をパクってどこかのオタク男子どもが花高新入生女子をネタに盛り上がっているようである。
「キモ」
自分の名前までしっかり載ってるから本気でキモかった。個人名を出している時点でネット法?(的な何か)に明らかに違反しているだろう。
それにしても知り合いが意外に多い。同じクラスの木村麻子に、幼馴染みの船山百合子はもちろん、光川や塔ヶ崎とも中学校が一緒だ。明日学校に行ったら報告してやらないと。こんなおぞましいものがオンライン上にあるんですよ、と。とりあえずうちの糞兄貴は百パー加担してそうだから今日中に死刑だ。
自分と同じ「紅」という名前の女の子の名前を見つけて少し気になったが(なんて読むんだろう?)、今はその発見以上にベニは憤慨していたので鼻の穴を膨らませながら卓上のマウスをカチカチと操作する。
サイトのBBSへと飛んだ。
▽▲
[格付け相談板]
――もう全部、森田瞳が一位でいいんでね? あいつだけなんかアイドル級じゃん。性格もいいらしいし。後輩からの情報だから確実。あ、ちょっと天然入ってるらしいとのこと。はぁはぁ瞳たん。
――私見乙。
――私見って言わねーし、馬鹿乙。
――小学校の頃から木村麻子に目を付けてた俺が通りますよっと。
――なんとなく通報しました。
――お前ら馬鹿だな。佐々木透子の草食系爆乳の魅力に気づかないとは。
――女に草食って使うのか?
――光川の顔好きだけど(肉食顔)アイツ背ぇ高すぎ。なんかデートしたら俺へこみそうだわorz
――安心しろ、お前らずっと童貞だ。
――エントリーに俺の彼女追加したいんだけど、いいかな^^
――逝ねし。
――てか、雑談板必要かな?w
(過去ログの適当なあたりから下ってきているベニはこの時、呆れて開いた口が塞がらない状態だった)
――リクタクレナイって誰? ログ漁ってもいねーんだけど。
――陸田紅→おのぼりさん。山形出身らしい。A組行ってギャル探せばたぶんソイツ。特徴はセミロング茶髪でピアスで長身(165くらい)。ギャル系好きな奴には人気が出そうな。性格の方は未知数。たぶん尻軽。
――情報サンクス。あと尻軽は余計だと思う。偏見には気を付けようよ。
――ちなみに読み方はムツダコウな。
――紅タンはぁはぁ。
――透子タンはぁはぁ。
――紅で思い出したけど、弓槻ベニってどうなん? 俺よく知らねーんだけど、誰か情報求む。
――あー。キリっとした感じっつうか硬派な顔? ウルフヘアで合ってるかわからんが、襟足がやたら長い変なショートカット。男より女にモテそう。まあ人によるんじゃね? 俺は同じC組の木村麻子みたいに猫っぽい顔の方が好き。
――麻子タンはぁはぁ。
――なるほ。弓槻ベニは格好いい系と。好きかもしんない。
――いやいやいやいや、弓槻ベニはマジねーよ。つうかなんでエントリーに入ってるわけ? あいつ性格最悪だぞ。ちょっと機嫌悪いとネチネチネチネチいやみ言うし人の携帯壊しても謝らねーし足でテレビのリモコン操作するし箸の使い方きたねーし風呂なげーし、それに顔もなんかサルみてえじゃね? ちなみにあいつと仲の良い百合子ちゃんは癒し系。はぁはぁ。
――お前……、弓槻ベニの関係者だろ?
――どう見ても私怨。
▽▲
ベニはパソコンをそのままにして立ち上がるとリビングに行きテーブルの所で優しい顔した父親に説教なり注意なりを受けていた二つ上の兄、弓槻ソウのコメカミに上段回し蹴りを食らわせた。
とてつもなく派手な音をあげて兄は椅子から転げ落ちた。あちらで刑事ドラマを視聴中の母親が迷惑そうな顔をして振り返り「ちょっとぉ、静かにしてよぉ」
そして、兄と話をしていた父親も胡麻塩っぽい眉毛を下げながら口を開いている。
「こらこら」と優しい声で「どうしたの?」
「お父さん、こいつちょっと借りるから。借りるって言っても返せるかわかんないけど」
スクラップにしてしまうかもしれない――そんなことを思いながらベニは、テーブルの脇で頭を抑えて悶絶している兄の、黒いロングティーシャツの襟を掴むと無理矢理に立たせて歩き出した。そのまま、兄の部屋まで連行する。
ドアを閉めたのと同時に兄は部屋の真ん中で振り返り、真っ赤な顔して怒鳴ってくる。
「いきなり何する!」
ベニは無言で兄のミゾオチに前蹴りを決めた。兄も無言で崩れると、やがて聞き取りにくい、蚊のような悲鳴を漏らし始めて床をのた打ち回っている。少しして悲鳴は明瞭になった。「誰だぁ、誰だぁ、こいつに空手なんか習わせたの!」お前だ、馬鹿野郎、とベニは吐き捨てる。その点だけはベニも兄に感謝しているが、それを上回る怒りが今の身を支配していた。
やがてベニは兄に暴力の理由を伝えた。
「新入生を勝手に格付けし合う俺たちウィキ」
そのタイトルを口にした途端、大袈裟に苦しんでいた兄はピタリと動きを止めて、怯えた感じの情けない顔を床から上に向けてくる。それから彼は慌てて自分のズボンのポケットをまさぐり、まさぐり、最後に財布を取り出して中身も確認をしていた。肩がブルブルと震えだしている。
「無い……お前、ベニ、まさか」
「落ちてたよ、パスワードの紙。ばぁーか。誰が猿だよ?」
ベニはひれ伏している兄の前に屈み、右手を動かした。
――ガスッ。
と音がして、兄は「うぎゃああ」と顔を覆い絶叫した。
コブシを逆さにし、人差し指と小指の一本拳により《眉間》と《人中》という顔面の急所を二つ同時に叩く、これぞ宵蝉流・逆月。出血や骨折をしないわりにめちゃくちゃ痛いのだ。ざまあみろ。
目に涙を滲ませている兄は、苦痛を耐え忍ぶように歯を食い縛った表情をし、実戦派空手使いの妹を睨んできた。
「お前、あのサイトは女子禁制なんだぞ! あと、俺がお前を猿って書き込んだ証拠がどこにある!」
「なに逆ギレしてんの? バッカじゃねえの! だからお前はKYなんだっつうの。身内情報使いすぎて、周りもドン引きしてたじゃんよ!」
「知らねえ! 俺じゃねえ!」
「何が百合子ハァハァよ! あたしの友達に欲情しないでよ。さいってー!」
「黙れ空手ゴリラ! お前は猿じゃなくてゴリラだ! 簡単に手ぇあげやがって。ちゃんと百合子ちゃんには優しくしてんだろうな」
「げえ! お前が百合子ちゃんって言うなぁ! きもきもきもいぃいいい!」
逆上したベニは兵器級の腕を再び動かした。妹との生活ですっかりディフェンス行為に慣れてしまった兄は両腕を巧みに使い、とっさに正中線をガードしている。
馬鹿が。人体にいったいいくつの急所があると思ってるんだ。
右腕はフェイントで、ベニは今度、右足刀による内回し蹴りで馬鹿の頚動脈を高速で打撃した。兄は「かは」と言い横たわった。これは死んだかもしれないけど、知らん。
残念ながら生きていたようである。芋虫のように倒れている兄は悔しそうに言っている。
「空手しか能の無い馬鹿のくせに……」
「あんたなんか勉強できても馬鹿じゃん。だっさー」
「俺の頭なら良い大学行けるからいいんだよ。それで勝ち組だ」
無農薬のモヤシみたいなキモメガネが何を勝ち誇ってるんだか。
「いいの。あたしも空手推薦で行くもん」
とベニは鼻を鳴らして胸を張った。
何を隠そうベニは実戦空手・宵蝉館の中学生チャンピオンなのである。自分の実力には絶対的な自信があるし、全国王者の肩書があれば一流が無理だったとしても中堅体育系大学の推薦は確実に取れるだろう、ってなものだ。成績が悪くたって良いのだ。
てゆーか、危うく本題からズレそうになっているし、一刻も早くこの不届きな兄貴をネット社会から抹殺すると共に実生活の上でも殺さなければ。ベニは兄のことを再度きつく睨み据えた。
しかし、弱いくせに復活の早い兄はすくりと立ち上がるといきなり高らかに笑い始めた。
「推薦? お前が? ベニぃ、お前はやっぱり世間知らずだなぁ」
「……あによ」
兄よ、ではない。何よ、である。舌ったらずなのがベニのネックだ。
兄は爽やかぶっているつもりなのか「はは」と笑い、だっさい赤のカラーフレーム眼鏡をすちゃりと上げた。
いやーーーーーっ。きもーーーーーい! とベニはわざとらしく身震いしてやったが、しかし、何故か勝ち誇ってる兄は相変わらず笑いながら言った。
「高校と大学の競技空手は《伝統派》だ。お前のやってるアングラな実戦空手なんて推薦の役に立たねーよ」
「え?」
何やら理路整然としていそうな発言に、理解が追いつかなったベニは恣意的に首を横に倒し、三年前、妹から「へっぴり腰」と馬鹿にされたことで空手を辞めたがしかし黒帯持ちである弓槻ソウは機嫌良さげに笑っている。
「お前、全空連でもないマイナーなケンカ空手の黒帯しかないだろ。言っとくけどな、伝統空手だとお前なんて白帯の素人だぞ。型の一つも覚えてないだろ? 話なんねーよ、推薦は無理。勉強しなさい」
形勢有利な顔した兄貴が他にも何かを言っていたが、ベニは理解できそうな内容を理解しようと没頭していたので大半を聞き逃してしまった。理解。理解。えーと、つまり。理解。理解。
……駄目。
「お兄ちゃん、もう一回説明して」
▽▲
「えぇ? ソウ先輩が? 私にぃ? はぁはぁしてた?」
学校の休み時間中、腹いせに昨日のことをチクってやると幼馴染みの百合子はのんびりと復唱し、まつ毛を伏せた。顔を赤くして、もじもじ、もじもじ、なんかちょっと嬉しそうだし。
ベニは「しまった」と舌打ちする。
「百合子、どういうことかわかってんの? ハァハァは絶対やばいって。激ヤバ。性犯罪者の鳴き声だって。あんた夜な夜な汚されてんだよ」
「ちょっと、やめてよベニ」
昔から下ネタを嫌っているお上品なお嬢様は不愉快そうな顔して、向かいの席のベニの肩を手でやんわり押してきた。さっきよりも顔が真っ赤だ。この温室育ち臭の漂う性格がクソ兄貴の琴線に触れるらしい。
ベニは溜め息をついた。
「うちの兄貴って、キモくない?」
空気読めないし。本気うざい。昨夜も、空手のスポーツ推薦を勘違いしていたベニに「バーカ、やーい」とか、お前いくつだ? と指摘したくなるほどしつこくからかってきたし、しまいにベニは血が出るほどに兄をボコボコにした(その時にはベニも半泣きだった)
「うぁあ……」
キモくない?――と百合子に質問してすぐにベニは頭を押さえて項垂れる。
スポーツ推薦使う気満々だったのに……
兄の説明によるとベニがやっている実戦流派は高校競技と関係ないので中学生チャンピオンでもまったく内申点に絡んでこないらしい。
どうやって大学に行こう。普通に勉強してか? イヤじゃあああああ。勉強嫌いじゃあああああ。高校受験ですら血ヘド吐いて自己採点ギリギリのギリだったのにぃいいいい。
中堅進学校、花見坂高校に入学して一週間も経たない今日時分、宵蝉館で空手やりながら青春を謳歌すれば良いだけのはずだった高校生活プランに暗雲が立ち込めて、ベニはいつになく鬱だった。もう死のうかな。ベニは意外とメンタルが脆かった。
「えー? 私はソウ先輩嫌いじゃないけどなぁ」
間の長かった百合子の返事が今戻ってくる。
ああ、その話だったか、と自分から振っといて忘れかけていたベニが気重な顔を挙げる。向かいで大和撫子風のおかっぱ娘は奥ゆかしい微笑を天井へ向けながら、「んー」とベニの兄について思案しているようだ。
「だってね、私が道場通ってた時、ソウ先輩すっごい優しかったよ。私、空手下手っぴだったから他の男の子たちにからかわれたんだけど、ソウ先輩だけ優しかったの」
「あ、そう」
百合子が兄貴と同じ空手道場に通ってたのは小学生の頃の話だ。あの駄目兄貴、まさかそんな早くから百合子に唾をかけてたのか?
うっざ。
まあなんでもいいが、これ以上弓槻ソウの話題を引きずると百合子が奴に対する好感度を高めていきそうな悪い予感がするので、ベニは話を変えることにした。
「百合子って黒帯だっけ?」
「え? 違いますよ。緑帯。五級だったかな? そんなに長くやってなかったからね」「ふぅん。やっぱ型とかやるもんなのかいな」
「てか、組手より型ばっかだったねぇ。《平安》とか、《抜塞大》とかね。なつかしい」
何それ。さっぱわかんね。
空手の動作を演舞化した型。
その存在ならばさすがに知っていたし、見たこともあるが、種類と名前がまったく一致しない。ベニが宵蝉館東京支部の師範から伝授されているのは組手に関する技術ばかりで、ベニも組手以外一切やるつもりはなかった。……昨日までは。
スポーツ推薦計画を有利に進めるためには、大学受験までに公式戦で少しでも色好い成績を残す必要がある。
そのためには、高校部活動の《伝統派空手》とか言う形式の大会に出るしかなさそうだ。
「てなわけで、百合子は部活何やるか決めた?」
「てなわけでってぇ?」
内心を固めたベニがやにわに尋ねると、一応の空手経験者である親友は泣きボクロをかすかに上昇させた。目を細くして、怪訝の表情である。
「帰宅部コースのつもりだったよ。なんですかぁ、ベニぃ? 流れ的に空手部に入ろうって聞こえますよぉ」
イエス。さすがに百合子は聡明だ。
実戦派から伝統派へ。
同じ空手とは言え軽く未知の領域である高校空手に挑戦する上で、やはりベニ自身も心細さを感じていたのかもしれない。要するに仲間が欲しかったのだ。
「いいじゃん。百合子、せっかく帯持ちなんだし、またやってみない?」
「帯持ちでもヘチョいよ、私。ヘチョヘチョです」
「大丈夫だって。花高の運動部自体ヘチョいだろうし。アソビ感覚アソビ感覚」
なんて言うと自分が駄目人間に思えてくる説得の仕方だが、気にしない。いざ空手部に入ると決心したら楽観的になれた。団体戦があるとて空手道は個人競技なのだから、ベニ一人が実力を発揮すればベニ一人で大会を勝ち抜きベニ一人で結果が出せるだろうし、これでも殺人空手の中学チャンピオンだ、多少勝手が違うとてカビくさい伝統空手などすぐにマスターしてくれるわワッハッハ。
他方、百合子は細い顎に指をぴっとり当てて、じっくり考えてるようで、あっさりと言った。
「んー、まぁダイエットになるかなぁ? うん、じゃあ見学してみてから」
ベニは両手をバチンと打ち叩く。
「よっしゃ。盛り上がってきました」
▽▲
次の日。ベニは百合子を連れだって、入学のしおりを頼りに空手道部が練習しているという第二体育館に赴いた。
体操部と共有している体育館の半分、一道場サイズはあるスペースにはそう多くもない胴着姿の男子たちが稽古していた。
しかし、胴着姿の女子は一人として見つからない。
ベニはしおりにもう一度よく目を通してみたが、どこにも「女子空手道部」の文字は存在しなかった。
レ、ミゼラブル。
▽▲
[格付け報告板]
(良識を弁えてお願いします)
――今日、空手部に弓槻紅さんと船山百合子さんがセットで見学に来たので驚きました。弓槻さんは写真で見るより目付き悪いです。こわい目で稽古を睨んできてビビりました。船山さんはほんわか大人しそうでとても良かったです。二人ともすぐに帰ってしまいました。
▽▲
山形生まれ、陸田コウの高校生活はなかなか良好だった。
上京してきて友人が一人もいない状況からのスタートであったが、生まれついての物怖じしない(組手は例外)性格だったので友達と呼べる存在もすぐに作れた。イッチー、みさぽん、もんちゃん、サクラ様にタモさん。みんなメンコイ。
中でもタモさんこと森田瞳は初対面の時に思わずコウが「うひゃー!」と叫んでしまうほどに美少女で、「うぅ、あたしごときが読者モデルなるんだぜ☆とかナマ言ってマジすんませんでした」と誰もいない所で謝罪した。
コウとしても美人を見て緊張するなど初めての経験なので一日目はタモさんの席の半径3メートルあたりで「へいへーい」と盗塁手の真似しての微妙なアプローチ方法になってしまった。しかしそうするとタモさんも笑顔で「へいへーい」と返してくれるので、ルックスだけじゃなく性格とノリまで良いタモさんは物凄いとコウは感心した。
やがてコウがフレッシュプリキュアの物真似にシフトしてみたところ彼女もプリキュアが好きだったようでそこから一気に打ち解けた。
「ねねね、コウさんは部活入るか決めた?」
そんなわけで今日の昼食もタモさんと、あとタモさんとは中学校から仲が良いという水橋サクラ様(雰囲気が《サクラ様》なのだ、なんとなく)と一緒。
タモさんの質問に、婆ちゃんお手製弁当を凝視していたコウは「部活っすか?」と顔を挙げる。
「まだっす。自分、不器用っすから」
などと元ネタが誰か知らないのにいい加減な物真似(なぜか力士風味)をすると再び弁当箱に視線を戻す。コウの母は滅多に弁当を作らない人だった上、先週から一緒に暮らすことになった祖母の丹精込めた日本食は素敵極まった。弁当もまた然り。ちょっと芸術入ってる。ああああああん食べるの勿体無い! でも食べないのも勿体無い! とジレンマと戦うのが日課になりつつあった。
ちなみに。
「うーん、おいしそう。もらうね。いただきマッハ桜井隼人」
「あ、マイスウィートキンピラオブ、ゴボウがッ」
タモさんにオカズをかっさらわれるのもパターン化の傾向を見せている。
食べ物の怨みと言いたいとこだが、卵肌の小顔にぱっちりお目目を乗せたタモさんがキンピラゴボウを美味しそうに頬張っているのを一度でも見てしまうともう無理。完・全・無・罪。
そんな感じでコウはにこにこして箸を持ち、遅まきながら昼食をスタートさせていたが、同席中のサクラ様がタモさんの横奪行為を見咎めたようだった。
「行儀悪いよ、森田」
静かに注意を口にしたサクラ様の眼差しは、変な所に向けられていた。斜め下だ。いつもそのあたりの床を眺めながら静々と喋る彼女の雰囲気はミステリアスだとコウは判断している。透明感と言うか、とても高貴な幽霊のように思えてしまう不思議系の女の子だった。
彼女に粗相を指摘されたタモさんは頭を掻きながら笑って「ソーリー」と謝ってきた。「コウちゃんは昨日からお弁当見てジッとするからさ。ついこう、悪戯心がウズウズしちゃうというか。ほら、コウちゃん、玉子焼きと交換しよ。食べる?」
「食べるー」
キンピラゴボウがタモさんお手製という玉子焼きに化けました。コウはこのままわらしべ長者になれそうな気がした。彼女が箸で差し出してきた玉子焼きにそのままパクっと食いついたコウもよほど行儀が悪いだろう。サクラ様は相変わらず床の方を見ているだけだった。
ダシ巻き味の玉子をモグモグしながらコウは先ほどからの話題を再考するように言葉を漏らす。
「玉子焼き、うまぁい。部活かぁ。どうすっぺなぁ。二人とも何すんのー?」
部活について決めあぐねていたコウが聞き返すと、美少女系・森田瞳はまるで映画(感動巨編)のワンシーンのような笑顔を出し惜しみなく浮かべた。
「ん? あたしはもう演劇部に入部届け出したよ」
「はえー。未来の大女優なんだね」
冷やかすつもりではなかったが、コウの言葉にタモさんは瞳を大きくしながら両手をパタパタ振って否定してきた。
「ないない。どっちかって言うとシナリオ書きたい方だから」
それから彼女は恥ずかしくなったのか、隣の席の相方に矛先を振っている。
「咲良は? 高校でも帰宅組?」
「フリーランス」
とサクラ様は本気なのか推し量れない表情具合で溜め息を漏らし、床をじーっと見ている。
コウはぐいんと椅子の上で上体をそらす。うーうー言いながら天井に顔を向けた。
「そっかそっかー。あたしどうしよー。結婚してえ」
コウの呟きは大半が意味を持たないが、タモさんは律儀に「したいねえ」と笑って、育児相談所のお姉さんのような微笑でちょろっと前傾してきた。
「中学の時は? 何か部活やってたの?」
「帰宅部だよー」
道場で空手ならやってたけど――とコウは口に出したつもりであったが実際はお弁当の煮付けのにんじんを口に運ぶ作業だけで終わった。
にんじんを飲み込んだあとにはタモさんが「帰宅部かぁ。そういやさ、ぜんぜん関係ないんだけど」と昨日やってたお笑い番組の感想を言い出したので、あとは部活の話題が出ることもなく昼休みは終わった。
▽▲
ふうん、へえ。
あの脱色髪のギャルがあたしと同じ紅の字――陸田コウか。うっわー、あたしより頭わるそー、かるそー。紅、にあわねー。
――放課後。
失礼な感想を頭の中でだらだらと流しながらC組在籍の弓槻ベニは、A組の入口に立ち、中学からの友人と軽い談笑していた。ちょっとした用事で立ち寄っただけなのだが、そう言えばと、兄貴が参加しているクソ格付けサイトで見つけた紅という名前の女がA組にいたことを思い出して、それとなく友人に「どいつ?」と尋ねたのである。友人が「あそこ、背が高い茶髪の子だ」と視線で教えてくれたので陸田コウが誰なのかわかった。
茶色と言うより灰色じゃないのか、アレ。
かなり明るい色の頭髪だ。スチームパーマで決まる程度のふわふわ加減。
いかにも校則の緩い私立高校で大量発生しやすそうな典型的なギャルぽかったし、ベニが目を向けた時にはちょうど、中学時代から美少女で有名だった森田瞳とつるんで「ぎゃははははは!」てな感じに馬鹿笑いを放ちつつ手を叩いているし。
バッカみたい。
これがベニの感想の総括である。陸田コウは、いかにも周囲に流されるまま適当に生きているタイプのチャラチャラ系に見えた。そういう奴が、ベニは結構好かなかった。同じ「紅」という名前に対して抱いていた興味も一目で冷めついてしまう。
「良いアルバムあった?」
高校入学前にナンバーガールのCDを半ば無理矢理まとめ貸ししてあげた友人にベニは感想を求めた。昨日メールして、今日返してもらったのである。友人は苦笑して「あんまり聴かなかったなー」と。
崇拝しているバンドの布教に失敗したベニは「えー」と唇を尖らせる。道場の時間まで暇だったので、往生際悪く尋ねてみることにした。ベニは、ベニのベストソングを言う。
「イギーポップ・ファンクラブは? ちゃんと聴いた?」
「あははははは。すまん、ベニ、流し聴きだったから曲名で言われてもわからんよ」
なので、どこまでも往生際の悪いベニはイギーポップファンクラブの前奏を口ずさみ始めた。「ドゥードゥン、ツタタン、ドゥードゥン、ツタタン」。あの曲のイントロからのリフがベニはたまらなく気に入っていた。
しかし、友人にとってはあまり記憶に残らないメロディだったのか、はたまたベニのハミングが下手くそなせいか、相手は「うーん……」と険しい表情をするばかり。恥ずかしくなったベニは顔を赤くして鼻歌と共にナンバガの話題を切り上げることにした。 そのつもりだった。
しかし、微妙な奇跡が発生。
「君ぃわー、家猫・ム・ス・メ・だったぁーん」
ベニは勢いよく背後に振り返った。
誰だ、イギーポップファンクラブを鼻声で歌っているのは、誰だ。何者だ。テンションあがっちゃうだろ。
ギャルが立っていた。
蝶々のピアスを揺らしたギャルが、バナナ柄の子どもっぽいリュックを背負って立っていた。
「ナンバガー、うちのママも好きだよー。ばいばーい、イッチー。イッチーの友達も、ばいばーい」
のんびりニコニコ喋ると長身のギャルは、とととっ、とベニの横を通りすぎていった。
ベニの友人、市川は明るい声で手を振っている。
「おー。ばいばいなー、ムツダ」
▽▲
ムツゴロウさんと大型犬ごっこ。
とか言って放課後にタモさんと少しだけじゃれ合い、やがてタモさんが演劇部に行くと言い出した頃に陸田コウは一人で教室を後にした。
イッチーも今日から陸上部だと言うし、サクラ様にいたっては放課後になった瞬間に忽然と姿を消してしまったし、他にも声をかけてみたけどみんな、部活だ部活だ、と一緒に帰ってくれない。
むっきー。
せっかく東京女子校生になったのに、一人でとぼとぼ帰宅するのに多大なる損失感を持ったコウはプリプリしながら携帯電話を取り出すと脳内のスロットをグルグル回転させた。チーン。めでたく当選した劉紅に電話をかけた。トゥルルルルル。
「あ、もしもし、もっしー? ホンちゃーん? 今から渋谷いかねー?」
ばかやろー、今から部活だ、と乱暴に言われて通話は切られた。なんだ、ホンちゃんも部活なのか。部活無かったら山形から渋谷まで来てくれたのかな?
コウがこちらに越してきてから、リュウ・ホンとは毎日のようにメールのやり取りをしている。相思相愛だ。
ホンちゃんは、当たり前だが進学先の高校で空手道部に入ったらしい。
ホンちゃんがいたらあたしも空手部入るんだけどなぁ――と口をすぼめて携帯電話を閉じた。
しかたがないのでコウは一人で電車に乗り継ぎ、渋谷駅にやって来た。
別に表参道でも新宿でも代官山でも良かったのだが、母が「日曜日に恵比寿行くべさ」とか言ってたので恵比寿じゃない渋谷に来てみた。
うひょー、人すっげー。
象徴的なハチ公像を見つけて「おう、ハチぃ? シャルウィダンス?」とファンに見られたら暴動に繋がりそうなリチャード・ギアの物真似をしつつ、ハチに向けて写メのシャッターを切った。
それから、一人で渋谷に来ても特にやりたいことを持たない自分に気が付いてコウは萎えた。
道わかんねーし。
お金ねーし。
誰も知らねーし。
やりたいことが無かったコウは、やがてハチ公の傍で「くるりんぱ、くるりんぱ」と回り始めた。
ふと思いついたサインだった。
誰か遊ぼうよ。
くるりんぱ、くるりんぱ。石像の近くで回り続けた。こうしていれば、この回転運動に感動なり同情なり共鳴なりした誰かが話しかけてくれるかもしれないと渋谷で一人回り続けた。
くるりんぱ。
くるりんぱ。
陽も暮れかけてから、たまたま見つけたタワーレコードに立ち寄り電気グルーヴのアルバムを衝動買いすると、とぼとぼコウは帰宅した。
▽▲
「おーい、ソウの妹さーん」
――はぁ?
――ソウの妹さぁん?
すこぶる堪に障る呼び方が聞こえ、ベニはガンギレ気味の表情で振り返った。
そろそろ宵蝉館の道場に行かなきゃいけない頃合いだったので帰り支度をし、下駄箱近くの廊下に入ったところで男子生徒に呼び止められたのだ。
坊主頭の、なんか岩みたいな男子だった。
色黒で頬骨とかゴツゴツした感じ。はっきり言って野暮い。ただ、愛想良さげな笑顔は快活な印象を解き放っていた。
兄貴のことを呼び捨てしてたから三年生だろう。また、彼が空手部らしいとの予測は次なる台詞を聞いて立てた。
「全然ソウに似てないな。昨日、空手部に見学来てただろ?」
なにこの人。馴れ馴れしい。ウザっ。と思いながらもベニは一応うなずきを返した。「何か用ですか?」
「ソウも前に空手やってたって言うし。君も経験者?」
てゆーかあたし中学生チャンピオンなんですけど?(アングラ)
自慢したいところだが、相手がどんな用件かもわからないのでベニは「まあ」と無難に答えた。
この後、彼が口にした用件はとてもシンプルだった。
「男子ばかりでビックリしたかもしれないが、良かったら空手部に入ってみないか?」 ベニは刃物型の目を丸くして、首をわずかに前傾させる。
「え。でも、この高校、女子空手部ないんじゃ……」
昨日はそれで酷く落胆したものだ。さよなら指定校推薦こんにちわ未来の参考書漬け(廃人確定コース)という具合に得意の鬱モードに入ったところを百合子に延々マックで慰められることになった。優しい百合子の一案で「同好会、立ててみます?」という話すら持ち上がっている。
そうだよ。部活表一覧には確かに女子空手道部は存在しなかったんだから、彼の言ってることが詐欺交渉のように聞こえた。フカしてんじゃねえっつうの。
にわかに警戒指数を高めるベニが睨む先、老け顔の三年生は朗らかに笑うと仰々しく頷いた。
「うん。女子空手道部は無いよ。ただ、男子空手道部も無いけどね」
「えー」
お兄ちゃん、あんたの級友、なに言ってるかわかりづらいです……
「空手道部だけってこと。他の学校はどうか知らないが、うちは武道系が全部男女共同なのさ。たぶんどこもそうじゃないか」
「はぁ」
言われてみれば中学校の柔道部や剣道部とかそうだったかもしれない。
つまり、何か。あたしの早とちりだったということか?
「あのでも、昨日、女子部員がいなかった理由は?」
いまだに己の展望が掴めずにいる低速思考のベニは、恐る恐る尋ねた。ふぃー、と岩顔の先輩が変な息を漏らす。
「いまはゼロだな。女子部員。ガチで」
「ガチでゼロっすか」
「なんかなぁ、五年前くらいに男子と女子部員が戦争になって、それで女子みんな辞めてしまったらしいんだ」
それは男子の方が悪い、とベニは根拠もなく決めつけながら先輩の話に耳を傾けた。「それ以来ゼロなんだ。やっぱ新しく入学してくる女の子たちも、野郎ばかりでは気後れするらしくてな」
「ふーん」
もともと道場では紅一点のポジションにあるベニには共感のできない話だが、まあ想像はできるかな。たとえば百合子みたいなお嬢様が、男子たちに一人混じって練習してる姿など、ちょっと心配になってくる。
「そういうわけでソウの妹さん、女子部員活性化のためにも入ってくれないか?」
「その呼び方、やめてくれません? 虫酸が……」
「ベニちゃんか?」
「苗字でッ」
青筋立てながら舌打ち挟みながら声を荒げたベニに、名無しの顔面岩男は悪びれる風もなく笑い、手をひらひらと振った。
「すまんすまん。それじゃ弓槻、改めて入部を考えてもらえないかな」
「女子部員が活性化して、男子に何か得があるんですか?」
ベニはわざと意地の悪い質問をした。
大方、空手の素晴らしさを婦女子にも広めるとか大義名分が飛び出しそうな気がするけど、下心丸見えだっつうの。エロが。
まあ、極端な話、仮に自分や百合子が性欲の対象にされかけても易々と報復できる戦闘力には自信があるのでノープロなんだけど。
男子に混じって公式戦への道が拓けるのなら、それだけでベニには充分な入部動機であった。
あえて抉るような類いだった問いに、ただ、しかし岩男さんはひょうきんな顔を浮かべた後すっぱりと答えている。
「ん? だって、女の子と一緒に練習できた方が楽しいだろ。男としては」
はー、そうなんすか、とベニは笑う。下心を隠さない所が逆に好印象だった。
とりあえず「今日は遅れる」と師範に電話を入れることにした。
それから、百合子、今どこにいるかな?
▽▲
『良かったぁ。今、もうまさに、生徒会室で同好会申請のこと聞こうと思ってたの。ギリ、セーフでした。女子空手部作りたいって聞いてたら恥ずかしかったかも』
先ほどのあらましを伝えると、電話先で百合子はふんわり柔軟剤が効いてるような笑い声と共に納得していた。ベニは携帯片手に頭を下げる。
一緒に空手部に入ろうと誘った張本人が何も考えず道場に行こうとしてた頃、百合子は前向きに動いてくれてたらしい。なんていい奴っ。
「ほんッッと、マジごめん!」
『いいっていいって』
「ありがと。百合子、あんたに何があっても、あたし守るから。マフィアだろうとゾンビだろうとマグニチュード10が来ようが絶対に守る。あと百合子が気に入らない奴みんな殺す。ご要望があれば苦しめてから殺す」
『そう? じゃあ守ってね。今そっちに行きます』
通話を終えた携帯をチャック全開のポロバックにしまい、ベニは壁に背中を押し付けた。夕焼けが地面を這っている暗い廊下で、百合子を待ってる間、暇潰しに鼻ずさむイギーポップファンクラブ。
予想していた方角とは逆側からやってきた百合子は、振り返ると案外そばにいて、「何の歌?」と言った。ベニは何故か陸田コウの事を思い出した。
▽▲
山形から送ったコウと母の荷物は、段ボールに梱包されたまま三日間も手付かずにあったが、今日の夕食後に「いい加減、片付けようね」と祖母に言われたのでコウは母と共同で荷ほどきをした。しかしすぐに2003年にあったPRIDE26のビデオを見つけてしまい作業は中断になり、すぐに二人は、相当ボロいテレビデオが置かれた座敷で缶ビール飲みながら藤田対ヒョードルの試合を見直していた。何度見ても残念な内容なので、つい何度も見てしまう。
「あー、藤田ぁ、倒せたよ、そこ。ヒョードル意識飛んでるよ。馬鹿、そこでクリンチさせるなってば。ランデルマンみたくスープレックスしなって! うあー。あーあ」
と母は、無邪気な表情で叱責の声をブラウン管の、数年前に結果が出てる両雄に送っていた。母は格闘技を見る時は日本人を「あー、ほんと弱い、ショボい、つまらない」と辛口方針で見下しながら、しかし熱心に応援する人だった。
対してコウはヒョードルのファン(笑うとかわいいから)で、この直後、不死身のロシアンサンボマスターが日本人プロレスラーにチョークスリーパーを決めて勝利する展開を何度となく見てきたので、母のように罵声は飛ばすことなく、火の点いた煙草をくわえながら細い目で録画映像を眺めていた。どっちかと言うとヒョードルに一分で処刑された小川の試合の方が笑えるから好きだ。ハッスルハッスル。
「ママ」とコウは灰皿にラッキーストライクを押し付けて、よっこいしょっと立ち上がる。「あたし、ちょっと出てく」
「うん、出てけ出てけ」
と、母は右手で二本目の缶ビールのプルタブを立てて、左手の携帯をぱかっと開いている。
コウも携帯で時計を見た。夜九時を回っていた。
「コンビニ行くの、コウ? モナ王買ってきてよ」
「任しときんしゃい。でも、二時間くらい戻んないな」
「えー、あんた彼氏できたの? 連れてきなよ。採点するから」
やだ、辛口だもん、と答えてコウは肩の筋肉を天井に伸ばしながら座敷を出た。
昔、母の妹にあたる叔母が使っていたという子ども部屋に行く。今はコウの部屋だった。
ストレッチパンツとティーシャツに着替えてから洗面所で手早く化粧を落とした後、洗濯かごを持った祖母と会った。
「コウちゃん、どこ行くの?」
「ちょっと走ってくる」
「えらい」
えへへ、と祖母に笑い返し、コウは外に出た。
この春先、晴れた文京区の夜。
風は吹いておらず暑くも寒くもない外へ出たコウは家の前、ゴムで髪を結いながらアキレス腱を適当に伸ばすと、それから屈伸もし、最後に首から下げたソニーウォークマンをシャッフル設定にして、駅の方角へと駆け出した。
しょっぱなからweeeek! だったのでちょっとテンションが上昇した。ランニング中には打ってつけの曲だった。
コウは夜が来ると時折、猛烈に走りたい衝動にかられることがある。
走るのはどちらかと言うと好きではないのに、なんでかわからないが無性に走りたくなる瞬間があって、そういう時のコウは欲求を我慢するのも苦手なので走ることにしている。以前、友達に聞くと似たような習性を持つ子はわりと多かった。みんな男子だったけど。
中学校の頃、大親友だったヨっちゃんと大喧嘩してお互いに無視し合った時とか、タケちゃんコーチが大学空手部の合宿で二週間くらい道場に顔を出さなかった時とか、思えば、コウは心に何か不満が生まれると夜の街に飛び出したい気持ちに襲われることが多かったように思える。
でも、今夜は自分に不満があるのかよくわからなかった。
ただ走りたくなったのは確実だ。単純に、新しく暮らす街の景色に好奇心がそそられただけなのかもしれない。
のちのち苦しくなりそうなペースで腕を振って、コウはセブンイレブンの角を思いついたままに曲がった。
大都市東京と言っても、祖父母の家がある住宅街の景観は山形とそう格差があるようにも見えない。なんというか、普通の日本だった。芸能人はおろか、千鳥足のサラリーマンも裸コートのヘンタイさんも出歩いていない普通の夜道だった。
定期的に建っている街灯に導かれるまま閑静な道路を三十分ほど走り、そのうちコウは立派な遊歩道を伴った公園に出くわした。
住宅地とは違い防犯灯や街路灯の数が激減してるので、マックスで暗い。ウォークマンに流れる曲が『気になる女の子』に変わっていたため「あーはん、ははん」と言いながら公園に進入した。
そこで足を止めると、腰に巻いているポーチからソフトケースとライターを取り出して一服した。別に体力作りのつもりもなかった。
そして、少し歩きながら公園を散策するうちに柵で区切られた池を見つけたコウは、近所迷惑も考えずに一声叫んだのだ。
「あー、やっぱモヤモヤすんなぁー!」
モヤモヤしていた。
そのモヤモヤは正体不明であった。
コウは自分が、自分自身のことを考えるのがとても下手くそな女の子だと思う(自分で女の子とか言っちゃう)
たとえば不機嫌になっている時とか、いったい何の理由で不機嫌になっているのか自分でも理解できずヨっちゃんとかに「なんかイライラしてない?」と指摘されて、初めてコウは「そうかも」と気付かされるケースが何度かあった。
東京にヨっちゃんはいないし、少し自分で冷静に考えてみることにした。
山形の友達と離れたからかな?
放課後にタモさんたちが部活で構ってくれないからかな?
空手の道場辞めちゃったからかな?
なんだかどれも外れてはいないけど、正解という気もしなかった……
高校生活はやっぱり楽しそうな予感に満ち溢れているし、放課後に寂しいのならコウも部活に入ればいいだけの話だ。道場のみんなが恋しいのなら夏休みを使って会いに行こう。ホンちゃんとも毎日メールをしている。
じゃあ、このモヤモヤはなんだっぺ。
どうしたら解消されるんスか。
さっそく考えるのが面倒くさくなったコウは短くなったラッキーストライクをポケット灰皿に入れて、もういっちょ。「モヤモヤーモッヤー!」
と叫び、さらに、
「ああああああ!」モヤモヤから逃げ切るんじゃあああああああ、と大声上げながら、灯も落ちた公園を全速力で疾走する。
あっさり燃料切れになり帰りはゼエゼエと歩いて家に向かった。母に頼まれたモナ王は買うのを忘れてしまった。
▽▲
この日の夕方ころ、仲良しの百合子と一緒に高校空手部に入ることにしたベニは早速、子どもの頃から通っている宵蝉館東京支部の師範、間山にその旨を伝えた。
「なるほど、伝統空手をやるのか」
チリチリした短髪で、引き締まった体躯は色黒、そんでもってダメージ加工デニムみたいに良い感じに傷んだ胴着に身を包んだ三十代の間山師範は逆に胡散臭く感じるくらい空手家っぽいシブメンだ。夢は虎殺しらしい。でも猫科が好きだから諦めてるらしい。おまけに絶滅危惧種だし、トラ。
「反対しないでよ、師範。あたし推薦で行くから。大学」
異流派の空手に取り組む上で、まずベニは稽古前に師範に報告してみる。
すると、間山師範は胴着に手を入れて胸元の肌をポリポリ掻き(似合いすぎ)、ベニに言った。
「いや、好きにすればいいが」
「えー、冷たーい」
眉をしかめて唇を尖らせて、普段よりずっと甘い声を出したベニに、間山師範は横目をジロリと送ってきた。
「反対すれば良いのか? どっちだ」
「好きにしろって言い方が冷たい。十年間もこのマイナー流派にいてあげたのに。紅一点なのに」
「なんだ、弓槻はうちを辞めたかったのか」
揚げ足を取られたような問い返しに、ベニは「い」と呻いた。他人に感情を読み取らせない間山師範の眼差しに見据えられ、なんであたしってば憎まれ口デフォルトで叩いちゃう性格なんだろうとベニは後悔する。この道場を辞める気はまったくなかった。
「いや、そうじゃないけど……」
「はっきり言え。高校で空手部に入るんだろ」
「うん。……押忍」
「道場は、辞めたいのか、続けるのか?」
だんだん叱られている気分になってきたベニは赤くなった顔で俯き、小声で答えた。ただ、開いた口が小さすぎて発音が変。「おしゅ、続けましゅ……」
「聞こえない。別に叱ってるわけじゃない。弓槻がやりたいようにしろ」
「だから、続けるってば!」
そうか、と答えただけで間山師範は、両の内腿にそれぞれ足の裏を打ち付けて胴着を鳴らすと、雑居ビル内の道場スペースに集った門下生たちに稽古開始を言い渡していた。門下生たちはみんな筋肉隆々として勇ましく、中にはタトゥーを掘っていたりして、経済大国日本の景観をカンペキ崩しそうな荒くれ者風が多かった。
ベニがただ一人女の子で未成年。
稽古前に愚痴愚痴し始めた。
師範、冷たい。
沖縄で全国大会優勝した時も誉めてくれなかったし、その大会で顔パン(反則)もらって鼻血出たのに心配そうにしてくれなかったし七歳の時からいるのに頭を撫でてくれたことなんて一度たりともないし、そもそも年に数回くらいしか笑うことがない。そのくせ、稽古中にキレるとマジホラー。
ベニが女の子でも、優しく接してくれる瞬間など無いに等しい。「しはん、あたし、誕生日なの」「11歳か」「うん」「そうか」「そうだよ」「……」……終わりかよ! って感じだ。いつも。
師範、あたし女子校生になったんスよ。
もうちょっとさぁ、デレデレしても良くない? 鼻の下伸びてこねーもんなのソコ? この体重で何気にブラC後半あるっつうの。シルエット良い感じに膨らんでるっつうの。あれか。Dか。Dの壁か。グラビアみたいな嘘乳じゃないと胸と認めないタイプなのか。
まあ、一向に冷たい間山師範の気を惹こうと七年間も頑張っている自分は案外ドMなのかも、って時々思う。
こんな痛い稽古さんざん続けてきたわけだし……と言いつつ、
「うがぁ、ベニちゃん、力抜いてくれ……」
「あ、ごめん」
もっぱら相手が痛がるのだった。
基礎練の一つ、二人一組の打ち込み稽古でベニと組んでいたコワメンのオッサン(36歳、高級クラブの警備員。スキンヘッド)がベニに殴られた胸を押さえてうずくまる。
ベニは道場仲間からよく『漫画パンチ』と呼ばれていた。
まるで漫画のように尋常ではないパンチ力とキック力を持っているせいだ。いったいどこで進化を間違えたのか自分でも不明。家系図を辿れば是害坊くらいは眠っているかもしれない。
おかげで宵蝉館が開く組手大会の子どもの部(顔面への打撃を禁止したフルコンルール)では敵なし。腹パン一発で相手が簡単に沈むので、ベニ以外は全員が男の子だった大会でも余裕で優勝することができた。以来、間山師範からは「出ても意味がない」と道場大会に出場させてもらえなくなってしまった。強すぎるって罪。
▽▲
黙祷ぅ!
神前に礼!
正面に礼!
「お疲れしゃあーっしたぁ!」
と、今夜も道場での稽古は終了したので、ベニはミットや防具を収納している用具室で着替えることにした。その前に「ベニちゃん、車で送ってこか?」と新車を買ったらしい関西人に誘われたので、「やだ」とキッパリことわっておく。
異性交際歴まったくもってゼロのベニは基本的に男に対して潔癖だった。ホイホイ車に乗るとヤられるとさえ疑っている。まあ、実際に襲われても怖くないけど。でも車で男と二人きりってのは、ちょっと……
ただ、
「弓槻、ちょっと残れ」
と今夜、間山師範に言われた時には素直だった。彼に居残りを言い渡されるなんてこれまでの記憶に無い出来事だが、もしかすると帰りに車で送ってくれるかもしれない。だったら超乗るんですけど。
「着替えなくていい。空手の話だ。裸足で聞け」
そのような指示までされたので何故かベニは、一昔前に偶然、空手着姿の女性がパッケージでセクシーポーズしている兄貴のコレクションズDVDを発見してしまい鳥肌を立てた日のことを思い出した。タイトルが『密着! タチ稽古3時間!』……あの時は空手辞めようか一瞬迷った。ああもうあのエロ眼鏡、何回殺してやろう。
道場の真ん中。
向き合い、今にも立稽古が始まりそうなベニと間山師範の位置取り。
宵蝉館のコワメンズがおいおい帰り出した頃、間山師範はいつものように淡々と口を開いた。
「お前に、伝えておくことがある」
なんかもう駄目。このナンチュラルに格ゲーに登場しそうな雰囲気にあたし弱い。と、軽くドキドキしながら、ベニは師範の用件が何なのかを待ち望んで、彼の唇を特に凝視してみたが、
「お前は、俺からするとつまらない弟子だ。非常にな」
「……あの、泣いていいかな?」
ベニは崩れかかった。なにそれ、超いらねーカミングアウト。七年越しでそんなこと、壮絶に聞きたくなかったんですけど。
「弓槻、宵蝉館の秘訓を言ってみろ」
「人体破壊」
正直どうかなって思う。
「ああ、人体の破壊だ。神経、筋肉、間接における痛覚、拒否反応、破壊をもってして科学的に人体を制する。即死性、即効性の高い急所への攻撃。うちの空手とはそういうもので、稽古は全て実戦的な相手の打倒、つまり《殺し》を想定している。宵蝉館はルールや礼節、精神的なものをあまり重視はしない」
だから公言されることはない秘訓。
聞いた話、宵蝉館の入門・破門における厳しさは他の民間道場の比にならないとか。実はめちゃくちゃ物騒な流派だったりする。
「だが、弓槻、お前の打撃は生まれつき質が高い。同年代なら、相手が防御しようがお構い無しだ」
格ゲーに出そうなのは自分の方だったか。
だって体質(?)なんだからしょうがないじゃん。
「……師範、もしかして、あたし、破門の展開?」
話の意図が見えずベニは不安になったが、「違う」と彼は首を横に振った。
「高校部活道の空手がどういうものか知っているか?」
「んー、まあ……実戦じゃなくて伝統重視系のお堅い流派的な、危なくない感じの」
言ってて自分でも認識が曖昧すぎることに気付いた。「~系の~的な~感じの」って完全にニュアンスオンリー。
でも大外れではなかったようで、間山師範は生真面目な表情を首肯させている。
「伝統派空手の組手では厳密なルールの中で試合する。武道の精神を通してのスポーツと言っても良い。実戦流派とはかなり趣きが異なる」
そして間山師範はベニの兄とまったく同じことを言い始めた。
「たぶんな、お前が大学に行きたいなら、空手部で結果出すよりも真面目に勉強した方が堅実だぞ。絶対に」
ムカついた。
決めつけないでよ。
師範はあたしがどんだけ勉強できない子か知らないからそんなこと言えるんだって!(単に勉強嫌いなだけ)
「あ、師範。もしかして、あたしが宵蝉館から浮気するのに嫉妬? 実はさぁ、そうなんでしょー」
「ただし、根拠がなくても自信に溢れてる所がお前の長所だと思う」
うわーん無視られたぁー!
危うくフラストレーションがはち切れそうになったけど。
「努力が成果に繋がるのはどの分野も変わらないからな。応援はするつもりだ。部活に関しても、遠慮なく相談してくれよ」
間山師範が、流れ星並みにレア値が高い優しい言葉と、さらには笑顔まで浮かべていたのでベニはコロリと落ちた。うん、するする、相談、しまくり。むしろ空手と関係無い相談までしちゃう勢い。
残念ながら彼の話はそこで終了らしい。
「つまらんことで時間を取らせて悪かった。帰っていいぞ」
と言われたので、「この雰囲気は攻めれる」と思ったベニはさっそく腕を後ろに絡ませてモジモジし始めた。
「あのね、師範、そのね。最近、帰りの電車で痴漢に遭うんだ。恐いから、く、車で送って欲しい……かも」
これは……やった本人すら恐ろしくなるほどに絶妙な演技でしたね、ねえ、解説のベニさん? ――はい、実況のベニさん、今のは、普段凛としている武道少女がふとした瞬間に見せる弱々しさを巧みに織り込んできた完璧なツンデレです。これに庇護欲を沸き立てない男はガチでゲイですね、ガチゲイ。
つまり間山関空という空手家はゲイかもしれない……
車で送って、と頼んだ後の彼は、はっきりと迷惑そうな、険しい表情を浮かべていた。
「痴漢? ……弓槻、なんのために空手やってるんだ。情けない」
グッサァ! と刺さったところに、もう一発。
「それと、もう高校生だろ。軽率に男の車に乗ろうとするな、馬鹿もん」
軽率って。
そんな。
ゲイゲイゲイ。
ゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイゲイ。
ほんとゲイ。ゲイゲイゲイ。
壊れた目付きで機械のように唱えながらベニは駅までの道のり走って過ごした。
電車に乗ってから、本当に誰かの手が尻を触ってきたが、速攻で急所を蹴り上げて再起不能にすると、何事も無かったかのように再び「ゲイゲイゲイ」と繰り返し始める。