ぷろろーぐ
※作中に登場する『宵蝉館』という実戦空手流派はフィクション上の産物です。実在しません。
「あれ?」
午後の部になって中学生中国人空手家少女、劉紅が演舞用のマットに上がる姿を眺めていた陸田コウはのんびりとその感想を口にした。
「なんかホンちゃん、背ぇ伸びてない? 三十分前より。二十センチくらい」
もちろんそんなことあるはずがないのはコウにもわかっていた。劉紅はコウよりも小さい、150センチ台の女の子なのである。
しかし、思わず大袈裟に言ってしまうほどに今の劉紅のオーラ(そんなもの)が偉容に見えた。ライバルのオーラが見えるとか、あたしかっけえなとか思いつつ、演舞前にお辞儀する劉紅の姿を目で追う。間もなくショートカットの中国人少女はマットの中央へ、悠然と歩み始めている。
「やっぱ迫力あるなぁ」と、コウは小声で笑い、「殺気とか、そんなの出てるのかな? あたし、今回も負ける負けるぅ。絶対勝てない」歌うように断言した。
東北地方の市立体育館。
同じフロア上で股関節の柔軟をしながらくちゃべるコウに、隣で立っていた同じ道場のタケちゃんコーチが答えてくれた。
「わからないぞ。劉紅が《観空大》の最後で盛大によろけるかも」
柴犬のように素朴な笑顔で前向きなのか後ろ向きな他力本願なのかよくわからないことを言っている。「何それ、あたしのことじゃん」とコウは笑いながら返した。タケちゃんコーチは「お前はよくコケる分、転び方がとても上手い」と誉めてきた。なんだそれ、とコウは両膝を上下させる。
この、ひきしまった筋肉と爽やかな童顔を持った男子大学生とも今週で離ればなれかと思うとコウは微妙に変な気持ちになった。コウはタケちゃんコーチの胸板が好きで、よく胴着の上からベタベタ触っては道場の柳谷師範に「フテイモノ」と拳骨をもらった。太え者? あたしって結構理想的な体型じゃないかなあ、爺ちゃん視力落ちたの? と自分のルックスを特に疑っていなかった女子中学生に「たぶん不貞者だろ」と漢字を教えてくれたのもタケちゃんコーチだ。
そんなフテイモノの陸田コウは、体育館の中央に敷かれた空手マットの方へ細い首を伸ばしながら「おや」と言う。
劉紅がなかなか演技を始めないみたいだ。
隣の中学校に通っていた天才空手家少女は発泡材で組まれたブルーの敷物に立ち、床の方を気にしているように見えた。
すぐにスーツ姿の、型の演舞に点数を付ける審判団の一人が黒靴下でマットに上がってくる。と言うか、コウの道場の柳谷師範だ。そして、近くの空手少年に渇いた雑巾を持ってくるように指示している。
その様子を遠巻きに眺めながらタケちゃんコーチは笑い始めた。
「さっきコウちゃんが《チャタンヤラクーシャンク》やって潰れかけた場所じゃないか」
「なるほど、あたしの汗か」
コウは間延びした台詞で手をパチンと叩いたあと、「南無南無」と拝むかのように両手を合わせ続けた。「どうかあたしの汗がホンちゃんの足を引っ張りますように」と。願い終わらぬうちに空手マットに残った汗粒は地元の男子小学生にゴシゴシ拭き取られてしまう。
「コウちゃんはやっぱり劉紅に勝ちたかったか?」
タケちゃんコーチが隣に腰を下ろしてきた。さっき組手の試合で大暴れしていたわりにはまったく汗臭くなく、前髪もおしゃれでサラサラだ。胴着から覗いた胸板に触りたくなったが、今日は会場にタケちゃんコーチの彼女が来てるらしいので我慢することにした。
彼から尋ねられた言葉にコウはとりあえず、うん、勝ちたかった、と素直にうなずく。
「ママが、今日一位になれたらiPod買ってくれるって、約束したの。はりきってコケちまったけどな。《スーパーリンペイ》にしとけばよかった」
「お前のママさんも厳しいのな」
「ママさんって」
同情するような顔で口にした彼の言葉にコウは「んふふ」と鼻で笑う。その反応を見てタケちゃんコーチも自分の言い方を思い改めたのか照れたように上唇を掻いて、はにかんでいる。向こうでは劉紅が改めてマットに入場し、得意にしている形の名前を凛々しく叫んだところだった。タケちゃんコーチは彼女と関係ない話を続けている。
「ちょっとスナックみたいか、ママさん。でも、毎回ちゃんと二位取ってるんだから、ご褒美くれてもいいのにな。……て、人んちの事情だな。ごめん」
「優しいねぇ、タケちゃん」
暇潰しだった柔軟を終えて体操座りをしていたコウは、タケちゃんコーチの脇腹に人差し指をぐりぐり押し当てる。
「iPodいらないからさ、タケちゃん、カノジョと別れちゃえよ。あたしと遠距離恋愛でもしようぜ」
「やめろって」
やめろとは、脇腹抉られることなのか、フテイモノの発言に対してなのか、男子大学生は苦い笑顔で堅い身体をよじらせている。
たぶん、後者かな。気さくで男らしい性格のくせに、こういうことではいちいち照れやすいタケちゃんコーチの様子がかわいくて彼はコウのずっとお気に入りだった。あーあー急に東京に行きたくなくなってきた。これが《センチメタル》ってものなのかよ。
思ったままに訊くと、タケちゃんコーチはなんとも言えない笑顔でコウのポニーテールの根本をクイッと引っ張り、コウは「うう」と言い、彼はただ一言。
「センチメンタルだよ」
――「決まった!」という複数の声援が市立体育館に響き渡る。
劉紅は《観空大》のクライマックス、大跳躍までを華麗に決めて、演技を終える所であった。
▽▲
市内、三道場総合空手大会。
個人型、子ども・女子の部。
一位、劉紅(初段)
二位、陸田紅(二段)
以下、略。
▽▲
ついでに言うと劉紅は組手部門でも優勝(圧倒的)だったのだから相当な空手少女と言えた。そのうち空手道がオリンピック種目として定着した将来は全国ニュースで見かけるかもしれない。ちなみに、コウは組手には出場していない。小学生時代、年下の男子に殴られて鼻血を出して以来、どうにも組手は嫌いになってしまった。
市内にある三大空手道場(師範同士がライバルらしい)が春と秋に開いている合同大会にコウが参加するのも今年で最後だ。毎年毎年、ついには代わり映えすることがなかった己の順位を今年も与えられたコウは胴着姿でポッキーをかじりながら二階の小体育館で道場の小学生が持ってきたグラップラ-刃牙を一緒に読んでいたのだが、やがて、そろそろ今大会の大目玉『組手部門・一般』の決勝が始まるので第一体育館に向かおうかと考えた。決勝に臨むのはコウの道場のジャニーズ系だった大学生、タケちゃんコーチだ。コウは勝敗よりも、対戦相手が刃牙の漫画に出てくる夜叉猿(さっき読んでた部分に登場してたゴリラ。超つええ)みたいなマッチョの丸田さんだからタケちゃんコーチの可愛い顔に傷が付かないか心配だった。顔面を保護する面包を装着していても場合によっては前歯が折れたりする組手がコウはやっぱりおっかない。
それでも観客席よりずっと近いフロアで応援しようと思い、コウが一階に降りると、
「お」
ちょうど階段の所に劉紅が立っていた。 150と少ししかないアマリリス(コウはリスの一種だと信じている)みたいな中華少女は、168センチなんて女子中学生にしては背が高いコウのことを見上げてくる。
「……ムツダか」
例によって堅苦しい劉紅の声に、コウは「ちっすー」と軽々しく片手を挙げて返した。
二人は昔からの顔馴染みだが、別に友達ということもない。一緒に遊んだことはないし、両者とも通っている中学校に空手部が無かったので、道場の大会くらいでしか顔を合わせることがなかった。
加えて、劉紅は小動物的な外見に反して真面目で硬派な女の子だったから、ノリで生きているコウとは微妙に会話の相性が悪い。
いい加減なノリで絡まれても劉紅は迷惑しそうなので、コウはいつも通り軽い挨拶だけして第一体育館に行こうとした。すれ違ってから二秒後に、再び劉紅の声が聞こえてきた。
「東京に行くんだってな、ムツダ」
「んー?」
声をかけられると思っていなかったコウは意外に思いつつ立ち止まり振り返る。劉紅の生真面目な瞳がこちらをじっと見つめていた。コウは「いひひ」と笑うと頷いた。
「うん、来週にね。ママの実家に戻ることになったの」
説明すると、そこに立っている天才空手少女は心許ない表情を浮かべる。やがて、
「離婚でもしたのか?」と率直に訊いてきたので、今度のコウは首を横に振る。
「あれ。ホンちゃんに言ってなかった? うち、オヤジは小学校の頃にポックリしたんだ。んでね、最近はママも疲れたみてえ。家売って仕事辞めて、しばらくあっちに移るんだと」
「そうか」
「うひゃひゃ」コウが笑う。
「なんだよ、その笑い方」
「ホンちゃん、あたしが居なくなるの淋しいんだね」
「うん。少し」
あっさり返されて、コウは逆に目を丸くする。実は愛されてたのかな。まあ、もしも劉紅に告白されたのなら期間限定でレズに転向してあげてもいいかも。抱き心地良さそうなサイズだしな。そんなことをコウが半分くらい本気で考え始めていると、向かいで劉紅は本音を述懐しているようだった。
「あたしは、ムツダと型を競うの楽しかったぞ。いつか負けそうで、いつも緊張してたと言うか。お前の演技は少し荒っぽいけど、パワーがあって、その、結構、好きだったな」
もしかしたら彼女は相手に感想を伝えるのが苦手なのかもしれない。俯き、耳を赤くしていた。
彼女の様子を見ていて、コウは、なんか、ちょっとキた。
「ねえホンちゃんキスしていいかな? 舌いれちゃう? 付き合おうよ。遠距離恋愛になるけど」
もうレズでもいいや、と思いながらコウが近寄っていくと劉紅は露骨に疎ましげな顔を浮かべている。
「イヤダ。バッカじゃねぇの、お前。下品」
「バカもバカなりに本気なんだって」
と言いつつ、さすがに本気ではないので、コウはチビな中国人の首に素早く腕を回すとマウストゥマウスではなく頬に唇をぎゅっと押し当てた。中学校の修学旅行では仲良し連中と酒盛りして悪酔いして記憶を無くし翌日に女子一同から「このキス魔テロリスト(極右翼)が」とウザがられることになったコウには、この手の行為に対する抵抗感がまったくないのだ。ただ、劉紅が「げッ」と心の底から嫌そうにしていたことは、ややショックだ。おまけに手の甲で拭いもしやがりました。
「ムツダと違う学校で良かった」
「ひっでー」
コウは笑ったあとに、一つ思い付いたことを言う。
「そうだ。ホンちゃん、携帯持っとる? アドくれ」
伝えたあとに、実は劉紅が下げていた右手に最初から携帯電話を持っていたことに気付いた。メタリックピンクで、ソフトバンクの白犬お父さんがくっついてる。彼女はそれを胸のところまで上げて唇を尖らせていた。何やら拗ねたような顔付きに見えた。
「あたしから言おうと思ったんだけどな……」
ちぇ、って感じで言っている。実際に拗ねてるみたいだ。うおお、なんかさっきから個人的に萌えるんですけど。
「ねえねえこの後ホテル行かない? 最後に思い出残そうよ」
「だからバカじゃねえのッ、テメエ」
テメエとか言い出して、小さな劉紅はイライラした顔でコウの脛に回し蹴りを見舞ってくる。普通に痛かった。
「いいからさっさと携帯出せよ、ムツダ。男子の決勝始まんだろ」
「やべえ、そうだった」
決勝でタケちゃんコーチと闘う丸田さんは劉紅と同じ道場なので彼女も試合を気にするとこだろう。ぱぱっと携帯の赤外線機能を起動させたコウは、わざらしく笑い始めた。
「ふっふっふ。オレっちは負けたけどよ、タケちゃんがカタキを討ってくれる予定なんすよ」
なんちて。オタクっぽい口調でコウが赤外線の送受信を終えた頃には、何故か劉紅が頬を赤くしていた。妙に女の子らしい手つきでアドレス交換した携帯を胸元に抱き寄せると彼女は、
「……タケちゃんって、竹久さんだよな?」
わかりやすい反応っすね。
「そだよー。なんだ、ホンちゃん、丸田さん裏切ってタケちゃんファンか」
コウがにやにやしながら突っ込むと、劉紅は渋々といった風に頷き返した。
「だって、かっこいいじゃん。別に、丸田さん裏切るつもりないけど」
「まあ丸田さん腕毛もっさりだしなー。じゃあ一緒にタケちゃん応援して終わったら帰りに三人で3Pみたいな?」
だんだん品の無さがエスカレートしていく自分のジョークセンスに気付いてコウはうっとりした。いいね、この三段オチみたいな進行。高校入ったら下ネタ系のキャラクターで行こうかなと我ながらロクでもない青写真を描きつつ、ストレートなセクハラに劉紅がどんなリアクションを見せるのか期待もしていた。
しかし、相手はただ呆れた顔をして、
「何言ってんだムツダ。三人で3Pって言葉が重複してるだろ」
「あ、そこすか」
予想外なのがウケて、わはっ、と声を上げると、コウは劉紅に腕を絡ませて第一体育館へ歩き始めた。
今まで知らなかったが、この中国人とは気が合うみたいだ。こんなことならもっと早くいっぱい絡んでおけば良かった。
▽▲
恒例の空手大会が終わり道場の皆と焼肉屋に行った。微妙に陸田コウ送別会のような空気を醸していたので代えってテンションを高めたコウが小学生グループを伴ってプロレスショーのように暴れていると最後でもやっぱり柳谷師範に拳骨を食らった。そこからにわかに物悲しい気持ちになり(たぶん隠れて酒を飲んだせいだろう)ほろりと涙腺が弛み、師範に「ほんとフテイモノですんませんでした」と泣きながら何度も頭を下げて、師範に笑われてしまった。遅れて到着したタケちゃんコーチ(組手部門二連覇のイケメン)の姿を見つけるとすぐに抱きついて、さらに大声でわんわんと泣き始めた。みんな苦笑していた。
会食も終わり、母と一緒にビジネスホテルに戻ると、劉紅からメールが送られてきた。
絵文字も件名もなく、
《空手、続けるん?》
と、簡素な一文。
コウは「ホンちゃんのメール、うける」と真顔で呟きながらベッドの上に胡座をかき、思ったまま、文脈を考えることなく返信を打った。母親が「お風呂入ったら? 汗かいたでしょ。あと焼肉臭い」と言うのでコウは「あたしの汗はフローラル。お先にどうぞー」。「はーい」と母親は浴室に消えていった。メールを打ち終わったので劉紅に返信を送る。
《空手はわかりませーん。東京っぺえイケメン彼氏ほしいっす。タケちゃんみたいにカッケー男児発掘したいっす! そうだな、まずはSoupの読者モデルやろうかなー。コウちゃん絶対そこらの東京ギャルよりカワイイし。いっひっひ》
なんて打つと、一分もかからずまた着信音が鳴る。
《とりあえずウゼエっす。続けなよ、空手》
母親が入浴中なので、そこからしばらくはコウもメールに集中する時間になった。
《ひどいっす! 全然関係ないけど劉紅ってJPhoneみたいだね☆うがーiPodほしぃーなー! 実は今日優勝してたらママが買ってくれるって話だったんじゃ。君に負けたから駄目じゃわ。この、テメエ》
《知るか(笑)なるほど。いつもより気合い入ってると思った。ムツダ、今日すごい動き切れてたしね。決勝型は一百零八やれば良かったのに。てかムツダ、跳躍の着地だけ下手すぎ。奇妙》
《むきぃいいいいい! 師範に、お前のは空手じゃなくてダンスだって言われたの思い出したワラワラ。つうか、ほんと、無理っすね。たとえノーミスでも勝てないってわかってるしね、君には。だから、もう満足したかも。コウちゃん先生の次回作に御期待ください》
《んー、そっか。話変わるけど、ムツダ、いつ出発? 空いてたら見送り行ってあげる》
《おお! ありがとー。来週火曜日の朝9時頃に北米代駅からだぜ。そのまま二人で大阪に駆け落ちしようぜ。いっぱい子ども作ろうぜ☆》
《日時は了解だぜ。たぶん行く。いいな、東京。おやすみ》
▽▲
バスルームから戻ってきた母親は、ベッドに寝そべってポッキーをかじりながらバラエティ番組を観賞していた娘の姿を見つけるなり目を細めている。シャワーを浴びている間に何か思い出したかのような顔だった。
「高校って、空手部あるらしいね」
それだけだった。さっきまで劉紅と交わしていたメールをリフレインするかのような言葉に、少し食傷気味の感覚を抱いたコウは「へえ」と一言返し、ポッキーをもう一袋開ける。
母は「入るの?」と訊いてくる。
娘は「お風呂にはね」と答えた。
「ま、あんたの自由だけど。でも、柳谷先生言ってたんだよね。コウが道場辞めるの残念だーっ、て。酔った勢いかもしれないけど」
「それ酔った勢いだよ、ぜってえ」コウはベッドの上で足をバタバタさせた。「だってあたし、師範にすっげ邪魔者扱いされてたし。やかましい、やめちまえ、フザけるならもう来んな、って」
「だって、そりゃあんた、不真面目だもん。やめてよ、高校で問題起こすの。先生に呼び出しとか、めんどくさいから」
パールホワイトに輝く似非シルクのようなパジャマに身を包んでいる母親は、肩にかけたハンドタオルで濡れた髪の毛を撫でながら、コウの隣のベッドに腰を下ろして意味不明の溜息をついている。娘の高校生活に対する注意文言にも真剣味が感じられないし、いい加減な性格は母親からの遺伝なんじゃないだろうか、とコウはポッキーをかじりながら考えた。
東京への移転はいささかの切なさを持っているが、コウはこれまで自分を取り巻いてきた環境に不満があるわけでもなく、高校に入ってから尾崎豊のように校舎の窓ガラスを粉砕させる心積もりもない。まあ、先のことなどわからないが。
東京の高校が田舎高校とどう違うのか細かく想像できるわけでもなし。なんだか頭の中がフラフラとしている状態だった。クラスの友達はもちろん、空手道場の仲間と遊んだり、師範に尻を叩かれるまま(セクハラだぞ)型の練習に時間を費やしたり、タケちゃんコーチの試合の応援に行ったり、タケちゃんコーチと街中で会ってそのままプチデートしたり(カノジョさんは迷惑そうにしていた)、そういうのが陸田コウの日常だったわけだけど、東京に移るとそれらが全てリセットされるのだ。
東京には柳谷空手道場は無いし、タケちゃんコーチもいない。
そして、劉紅も。
ぶっちゃけると一度は彼女に勝ってみたかった気もする。たとえiPodがもらえなかったとしても。だって、あの子に勝ってたら「あたしすごい」って思えそうだったから。そういう些細な自己顕示欲はコウの心の中にも存在していた。
まあ、リセットだけど。全部。
どうせリセットになるなら何か新しいことを始めてみたい気もするな、コウはシャワーを浴びた後に考えた。音楽にてんでド素人の美少女が廃部寸前のブラスバンド部に入部して全国大会を目指すとか、東京で出来た友達に恋愛相談されて、でも友達の好きな男子(俗に言う王子系)があたしのことを好きになっちゃったり、その王子系の親友がいけ好かない目つき悪男で第一印象最悪なんだけどあたしは段々彼に惹かれていって……。とか。そんでもって薬物、妊娠、中絶、自殺未遂。ヤクザ。コンクリート。犯罪。白血病。書籍化。
最終的に「東京こえええええ!」っとコウは歯を磨きながら叫んだ。
「東京? 普通よ。ぜんぜん」
と、東京生まれの母親がつまらそうに答えていた。もう家は引き払った後だが彼女にも整理があるらしく、火曜日まではこのビジネスホテルで下宿することになっている。
▽▲
出発の日、火曜日。八時半頃。
春休み中とあってか、午前の北米白駅にはわりとたくさんの人たちが陸田親子の送別に来ていた。
学校ではコウと一番仲が良かったヨっちゃん(物知りで、コウの下ネタの師範)が普段のさっぱり系クールだった相好を崩して「うえええん」と泣いていたので、コウも「うええええん」と泣いた。二人で手を取り合いながら「たまに帰ってきてね」「うん。ヨっちゃんも東京来てね」「大学、東京行くからね」「結婚しようね」「いっぱい子ども作ろうね」と長々語り合っているとタケちゃんコーチもオシャレな服装でやってきた。ちょうど彼は欠伸をしているところで、そこでコウと目が合うとバツが悪そうにし、あの柴犬っぽくなる苦笑を浮かべて「よ」と言っていた。彼は送別に欠伸は失礼だと思っていたのかもしれない、でも、眠いのに来てくれたことがコウには嬉しく思えたので、いつものように大学生の腰元に抱きつくと硬い胸板をシャツの上からベタベタ触った。なぜかヨッちゃんも触っていた。タケちゃんコーチは「オリンピックで会おうぜ」と言って、ちょっと寒いなとコウは思ったが、「おう。スピード社製のビキニ着て待ってるぜ」とノってあげた。タケちゃんコーチは肩をすくめて、コウの襟足を引っ張った。今日のコウはポニーテールをやめて、パーマをかけた茶髪をするりと下ろしていた。
もうすっかり東京モードだ。
▽▲
最後の最後に到着したのは劉紅だ。
親に車で送ってもらったらしく、白いワンボックスカーから降りた背の低い中国人少女は、上は花柄のシャツ、下はグレイのショートパンツにモスグリーンのレギンスとボーイッシュな私服に身を包んでおり、何を考えているのかわからない真顔でこちらに歩いてきた。
そして、
「じゃあな」
と一言目で言ったのでコウは吹き出してしまった。劉紅はとても不愉快そうにしていたが、肩をすくめるとコウの胸に勢いの弱い正拳を当ててきた。
「ムツダさ、そんなに空手好きじゃなかった?」
コウは空を向くようにして思案した。首をかしげて答える。
「ん、そうかもね。道場は好きだったよ」
「まあ、そういう人もいるか。昨日も言ったけど、お前いなくなるの残念だよ。ライバル、って言うとガキっぽいけど。実際、地元の大会だと敵はムツダだけだったし。あー、今度からすげえテンション下がりそう」
「わっはっは。結婚しよう」
「そういやムツダ、全国大会とかも全然出てこなかったけど、なんでなん?」
そんなことを訊いてくる。ゼンコクタイカイ? ああ、全国大会か、と一瞬遅れてコウは目を丸くした。
「なんでって。なして出るの、あたしが? そんなの無理無理ぃ」
意味わかんなーい、とコウがけらけら笑うと、どうしてか劉紅は呆れた目付きで肩を顕著に落とした。
「あ、そう……。お前って結構暗い奴なのな」
「え、そう?」
暗いなんて言われたのは生まれて初めてである。表情の意味もわからなくなってきたし、微妙に彼女との会話も噛み合っていない気がする。道場に通っていて全国大会なんてフレーズを意識したことはまったくなかった。
詳しく尋ねてみたい気も起きたが、もう間もなく出発の時刻なので別れの挨拶をするしかない。
「東京遊びに来ることあったら言ってね。案内したげる」
「もう東京人気取りかよ」
鼻で笑った後に、劉紅は「元気でな」と握手を求めてきた。コウは握り返しながら、(格好いいと言うか、古風と言うか)やっぱり劉紅は人と少し変わっている女の子だなと思った。
▽▲
「ママぁ、うちの道場って全国大会なんて行かなかったよね?」
コウがそういうことを尋ねたのは、すでに山形県を抜けて新潟県を新幹線で通っている頃になってだ。
隣の席、コウと一緒にDSでぷよぷよ対戦をしていた母親は、いかにも「何言ってんのアンタ?」という感じで、外行きの化粧を施した顔をぐるんと回してくる。
「普通にあったって。一回だけコウも参加しに行ったから」
「うっそ。それいつ」
「えっと……、うん、確か小学校二年生の時だね。あんた行った先でゲロ吐いて出場しないまま戻ってきたのね。で、その次の年はパパが死んじゃったでしょー? 三回目の時は、あんた、ありゃないわ。そうです、ちょうど全空連の予選大会の日程って、コウの誕生日と一緒で、誕生日だから行きたくなぁーいってあんた言ったから柳谷先生マジギレしたんだった。なら、行かんでイイ! みたいなね。ほんとなんで、こんな子に育っちゃったのやら」
母は他人事のようにキャキャキャと笑っていた。いや、他人事なのか。
言われてみれば、小学生五年生の時にどこかの大会に行く行かないだので柳谷先生にしこたま怒鳴られた記憶はある。あれが全国大会だったのね。なんであったか、確か、友達との誕生日パーティ(カラオケ耐久戦)を優先したんだった、ような?
「だから柳谷先生も、大会に出たくなったら自分から言えって伝えたそうなんだけど、結局コウは出る機会無かったね。まあ、急に東京戻ることにしたあたしも悪いんだけどさ。ごめんね」
謝罪するものの母は気に病んだ様子もなく「おりゃ」と言った。急造三連鎖のジャブがベストのタイミングでコウの連鎖用の山を埋めてしまい、もうどうしようもなく負けた。油断したと言え、ぷよぷよの上手い母である。彼女はDSを持ちつつ、にやっとした横目を娘に向けてきた。
「ま、好きに生きなよ」
「そうしてる」
ぶすっとした顔で答えたコウは次の試合で十連鎖を決めてリベンジを果たした。
新幹線が関東地方に入る頃にはどちらともなくゲームに飽きて、一時間ほどコウは寝て過ごした。
目覚めて、手のひらで瞼を縦に擦り、車窓に目をやると「ここ、東京?」と呟いた。
母が「うん」と答えた瞬間に陸田コウは東京の人になった。