いいね。から好きになる。
一條あかりは、三か月前から小説投稿サイトで小説を書いていた。
ペンネームは、阿里城壱果。
本名を並べ替えただけの、単純なアナグラムだ。
書いているのは、何の変哲もない恋愛小説。
日々のときめきを物語に置き換えて、学生の頃に書いていた甘酸っぱい日記のように、毎晩、少しずつ紡いでいた。
拙い文章。
拙い物語。
誰に届くでもない、自分のためだけの小説だった。
あかりには、恋人も友達もおらず、家族とは離れて暮らしている。
ペットもいなければ、推しもいない。
夢中になれるテレビ番組すらなかった。
仕事から帰り、食事を済ませ、風呂に入る。
寝る前に少しだけ続きを書いて投稿する。
判で押したような毎日。
小説投稿サイトを開設してからの閲覧数は、のべ百八十三件。
一日数百PVでも底辺と言われる界隈だ。
私は雑魚中の雑魚だわ、と自虐的にもなる。
たまに閲覧数が十刻みで増えていても、それが誰かの心に届いた証拠なのかはわからない。
いいねも、感想もない。
――まあ、そんなもんよね。
風呂に浸かりながら、あかりは苦笑した。
頭のてっぺんまで、ぬるい湯に潜ってみる。
このまま溺れ死んだら、困るのは大家さんと、下の住人くらいかしら。
そんなことを考えて、また笑った。
それでも、書くのはやめなかった。
自分の中にあるものを、言葉にしてみたかったから。
翌朝、ベランダの花に水をやりながら、あかりは昨夜の出来事を思い出していた。
帰宅途中の電車で出会った男性。
残業続きに、とどめの生理。腹が痛くて、座りたかった。
けれど、車内は疲れた顔の乗客でいっぱいだった。
誰もがスマートフォンに目を落とし、どんよりとした空気が漂っていた。
視線が合ったところで、自分から席を譲ってほしいとは言えない。
あかりはドア付近の手すりにつかまり、痛みに耐えていた。
手を握り締め、爪先で手のひらを刺す。
腕を摘んで、別の痛みで気を紛らわせる。
額ににじんだ脂汗をハンカチで拭っていたとき、ふいに男性と目が合った。
彼は小さく頷き、自分の股間を指さした。
えっ。変態?
一瞬、そう思った。
しかし、彼はすっと立ち上がり、あかりの腕を軽く引いた。
「座ってください。次、降りますから」
顔が熱くなった。
あかりは何も言えず、ただ頷いて座席に腰を下ろした。
座席には、彼のぬくもりが残っていた。
変態なんて思ってしまって、悪かったな。
降車する彼の横顔を見送り、小さく頭を下げた。
彼はホームに降りると、すぐ後ろの車両へ歩いていった。
――嘘。私を座らせるために?
そう考えると、頬が熱くなった。
女性ホルモンのせいかもしれない。
あかりは両手で頬を包んだ。
今日は、あのことを書こう。
そう思って、朝日を眺めた。
……興奮して書いた割には、反応はいまいちだった。
というか、さっぱり。
私に小説の才能がないのはわかっていた。
それでも、書いた。
そんなある日。
初めて、作品に「いいね」がついた。
あかりは画面を二度見した。
――誰かが読んでくれた!
それだけで、胸の奥がぽっと温かくなった。
どんな人だろう。
興味が湧き、相手のページを訪ねる。
そこには、歴史小説が並んでいた。
……難しそう。
登場人物の名前からして、覚えられる気がしない。
あかりは歴史が苦手だった。学生時代から、年号と人名を覚えるだけで頭がいっぱいになる。
古代の武器、古い言葉遣い、階級や役職名。
正直、読みたくない。
けれど、自分の小説を読んでくれた人の作品だ。
せめて一ページくらいは読もう。
そう思って読み始めた。
一ページ読むのに、何十分もかかった。
人物名を書き出し、知らない言葉を調べ、登場人物の関係を整理する。
途中でわからなくなり、また最初の行に戻る。
脳がオーバーヒートしそうだった。
ようやく読み終えて、自分のホーム画面に戻る。
また、いいねがついていた。
――蒼兎。
それが、相手の名前だった。
自己紹介文はない。
性別も年齢もわからない。
歴史好きの女性だって多い。
女性なら、もっと仲良くしてもらえるかな。
いや、ジャンルが違うから、絡むのは無理か。
あかりは画面に向かって微笑んだ。
――うさぎさん。
心の中で、勝手にそう呼ぶことにした。
それから数日、同じことが続いた。
あかりが投稿する。
蒼兎が読んでくれる。
あかりも、蒼兎の歴史小説を読む。
難しい。
よくわからない。
それでも、少しずつ読み進めた。
ある朝、いつものようにホーム画面を開くと、蒼兎にフォローされていた。
あかりは、しばらくその文字を眺めていた。
初めてだった。
自分の小説を、これからも読みたいと思ってくれた人がいる。
嬉しくなって、すぐにフォローを返した。
その朝から、ふたりの間には小さな習慣が生まれた。
朝、起きてサイトを開く。
蒼兎の小説を読む。
いいねを押す。
自分のページに戻る。
そこにも、蒼兎のいいねがついている。
言葉は交わさない。
けれど、あかりには、それが挨拶のように思えた。
――おはよう。
ある朝、仕事に出る前に蒼兎の小説を開いた。
半分まで読んだところで、出勤時間が迫ってきた。
続きが気になる。
けれど、遅刻するわけにもいかない。
後ろ髪を引かれる思いで、画面を閉じた。
帰宅してホーム画面を開くと、いいねが五つついていた。
全部、蒼兎だった。
昼間に五ページも読んでくれたらしい。
あかりは嬉しくなり、慌てて蒼兎のページへ向かった。
けれど、その日は仕事で疲れていた。
一ページも読み進められないまま、スマートフォンを持って寝落ちした。
翌朝。
歯を磨きながら、あかりは考えた。
嫌な気持ちにさせたかな。
五ページも読んでもらったのに、お返しができていない。
今日はちゃんと読もう。
そんなことを考えながら会社へ向かった。
夕方、帰宅してサイトを開く。
いいねが、ひとつ。
――うさぎさん!
あかりは、ほっと息をついた。
よかった。
怒ってない。
夕飯もそこそこに、昨夜の続きから読み始めた。
深夜までかかって、どうにか五ページ読み終える。
最後に、いいねを押した。
今日も、挨拶ができた。
あかりはベッドに倒れ込み、そのまま眠ってしまった。
◆ ◆ ◆
夢を見た。
蒼兎と、小説の話をしていた。
顔は見えない。
声もわからない。
それなのに、優しくて穏やかな声が聞こえる気がした。
静かな空間で、安心して過ごしていた。
こんな時間が、ずっと欲しかったのかもしれない。
◆ ◆ ◆
あかりには、友達がいない。
休日に遊びに行く相手もいない。
誰かと連絡を取り合うことも、ほとんどない。
そんな自分に、朝の楽しみができた。
画面の向こうに、毎朝会える人がいる。
それだけで、いつもの景色が少し違って見えた。
休日の午後。
あかりはソファに座り、蒼兎の歴史小説を読んでいた。
登場人物が多い。
名前が難しい。
誰が誰と戦っているのか、途中でわからなくなった。
「……いや、待って。あんた、さっき死んでなかった?」
もちろん、返事はない。
あかりは眉間に皺を寄せ、前のページに戻った。
それでも、読むのをやめようとは思わなかった。
蒼兎の小説だから。
ようやく一ページを読み終え、いいねを押す。
自分のページに戻ると、また、いいねがついていた。
蒼兎だった。
あかりは笑って、また蒼兎のページを開いた。
一ページ読む。
自分のページに戻る。
いいねがついている。
また開く。
まるで、隣に座って一緒に画面を眺めているみたいだった。
「ここ、どういうこと?」
わからないところを指でなぞりながら、あかりは呟いた。
「ねえ、うさぎさん。これ、どういう意味?」
――返事はない。
それでも、蒼兎が隣にいるような気がした。
少し呆れた顔で、あかりの顔を覗き込んでいる。
そんな想像をして、ひとりで照れた。
もし隣にいたら、きっと笑われるだろう。
歴史小説ひとつまともに読めないのか、と。
でも、わからないところを教えてもらえたら嬉しいだろうな。
読み終えたら、お茶でも飲みながら感想を話して。
そんな穏やかな休日があってもいい。
あかりは、また一ページ読み進めた。
画面の向こうにいる人の腕に、抱かれているような気持ちになっていた。
それからも、毎朝の習慣は続いた。
あかりが投稿する。
蒼兎が読んでくれる。
蒼兎が投稿する。
あかりが読む。
ふたりの小説は少しずつ増え、あかりの作品にも、ほかの読者がつくようになった。
フォロワーが増え、感想も届くようになった。
それでも、朝一番に確認するのは蒼兎の名前だった。
いつしか、蒼兎のいいねがついているかどうかで、一日の始まりが変わるようになっていた。
いいねがなかった朝。
仕事が忙しいのかな。
そう思って出勤した。
帰宅しても、なかった。
次の日も、その次の日も、蒼兎のいいねはつかなかった。
――寂しい。
けれど、相手にも生活がある。
毎日読んでもらえることのほうが、よほど不思議だったのだ。
あかりは気にしないことにした。
新しい小説を書いて投稿する。
すると、数時間後にいいねがついた。
蒼兎だった。
あかりは、思わず笑った。
「もう。心配したんだから……」
誰に聞かせるでもなく呟いて、いつものように蒼兎のページを開いた。
その日、あかりは自分の作品の投稿順を間違えた。
第十三話を投稿するつもりが、間違えて第十四話を先に公開してしまったのだ。
すぐに気づいたが、仕事に出る時間だった。
帰宅してから直そう。
そう思って家を出た。
夜、サイトを開くと、蒼兎からいいねがついていた。
あかりは、少し嬉しくなった。
けれど、ふと気づいた。
第十四話には、第十三話を読んでいなければわからない内容が書かれている。
前の話を読んでいなければ、登場人物の行動も会話の意味もつながらない。
なのに、蒼兎はいいねを押していた。
……まあ、たまたまかな。
そう思いながら、蒼兎のページを開いた。
新しい投稿があった。
歴史小説の続きだ。
いつものように読み進めようとして、あかりは少し下へスクロールした。
そこに、読者からのコメントが並んでいた。
「朝イチで読みに来てくれてありがとう!」
「毎朝、同じ時間に一緒に読めて嬉しいです♡」
「まるで恋人みたいですね。明日も待ってます!」
あかりの指が止まった。
さらに下へ。
「今日も来てくれてありがとう。蒼兎さんのおかげで、朝が楽しみです!」
また下へ。
「おはようございます。今日も一緒に読めて幸せです♡」
別の名前。
お礼。
感謝の言葉。
どれも、見覚えのある気持ちだった。
朝イチで読みに来てくれてありがとう。
毎朝、同じ時間に一緒に読めて嬉しい。
まるで恋人みたい。
あかりは画面を見つめたまま、動けなくなった。
自分だけだと思っていた。
自分だけが、蒼兎と特別な朝を過ごしているのだと。
自分だけが、蒼兎の小説を読みながら、隣にいるような気持ちになっていたのだと。
なのに。
「…………なんだ、これ」
声が漏れた。
蒼兎は、みんなに同じようにいいねを押していたのだろうか。
みんなに、同じように朝の挨拶をしていたのだろうか。
もしかしたら、あの五つのいいねも、誰かに押して回っていたついでだったのかもしれない。
あかりは、もう一度コメントを見た。
「……ナンパしてただけ?」
思わず笑ってしまった。
いや、ナンパかどうかはわからない。
蒼兎は、ただ交流が好きなだけかもしれない。
誰にでも親切で、誰の作品も応援する。
そういう人なのかもしれない。
でも。
自分だけが特別だと思っていた。
ひとりきりの休日に、難しい歴史小説を読みながら、画面の向こうの人に抱かれているような気持ちになった。
あれは、自分だけの秘密だった。
蒼兎は知らない。
自分がどれだけ必死に読んでいたのかも、どれだけ朝のいいねを楽しみにしていたのかも。
あかりは、ふうっと息を吐いた。
「……まあ、いっか」
蒼兎が誰にいいねを押そうと、誰と朝の挨拶をしようと自由だ。
自分も、蒼兎のことを勝手に特別な人だと思っていただけなのだから。
そもそも、一度も話したことがない。
知っているのは、名前と小説だけ。
顔も、声も、年齢も、何も知らない。
それなのに、恋人みたいな気分になっていたなんて。
「私も大概だわ……」
あかりは笑った。
そして、蒼兎の小説を開いた。
やっぱり難しい。
相変わらず、登場人物の名前が覚えられない。
それでも、面白いところは面白かった。
いいねを押して、自分のページに戻る。
新しいいいねが、ひとつ。
蒼兎だった。
あかりは、しばらくその名前を見つめた。
それから、小さく笑った。
「……ほんと、マメやねぇ」
画面の向こうで、蒼兎がどんな顔をしているのかはわからない。
きっと今も、誰かの小説を読んでいるのだろう。
あかりも、自分の小説を書き始めた。
明日の朝、蒼兎が読みに来るかもしれない。
来ないかもしれない。
どちらでもいい。
あの頃、誰も読んでくれなかった小説を、あかりはひとりで書いていた。
今は、読んでくれる人がいる。
それだけで、十分だった。
……ただ、次に蒼兎からいいねがついたら。
少しくらい、焦らしてやろうと思う。
明日の朝は、すぐには読みに行かない。
……たぶん。笑
★★★
その夜。
あかりの作品に、見慣れない名前からいいねがついた。
BLACKCAT。
プロフィールを開いてみたが、詳しいことは何もわからない。
その代わり、メッセージが届いていた。
『小説おもしろいです。また読みに来ますね』
あかりは、画面を見つめた。
そして、くすっと笑った。
「……ふふ。いらっしゃいませ」
今度は、どんな人だろう。
また明日も読みに来てくれるのかな。
どんな小説を書く人なのかな。
想像は膨らみかけた。
あかりは、そこでいったんスマートフォンを置く。
まずは、自分の小説の続きを書こう。
画面の向こうには、まだ知らない誰かがいる。
いいね、ひとつぶんの距離で。
【あとがき】
本作はフィクションです。登場人物や出来事は創作であり、実在の人物・団体とは関係ありません。
過剰妄想から、短編小説を書きたくなりました。
お名前は、ご本人様から許可を取っておりませんので伏せますが、日々の交流から、こんなお話が生まれました。
勝手に妄想を膨らませてしまい、なんだか申し訳ありません(笑)。
その方たちをモデルにしたお話ではありませんが、ひらめきのきっかけをいただきました。
この場をお借りして、御礼申し上げます。
もちろん、実在の人物や出来事を描いたものではなく、フィクションです!
読んでくださるみなさまへ。
感謝を込めて♡




