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いいね。から好きになる。

作者: 毬藻 闇雪
掲載日:2026/10/20



 一條あかりは、三か月前から小説投稿サイトで小説を書いていた。


 ペンネームは、阿里城壱果(ありじょう いちか)。


 本名を並べ替えただけの、単純なアナグラムだ。


 書いているのは、何の変哲もない恋愛小説。


 日々のときめきを物語に置き換えて、学生の頃に書いていた甘酸っぱい日記のように、毎晩、少しずつ紡いでいた。


 拙い文章。

 拙い物語。


 誰に届くでもない、自分のためだけの小説だった。


 あかりには、恋人も友達もおらず、家族とは離れて暮らしている。

 ペットもいなければ、推しもいない。

 夢中になれるテレビ番組すらなかった。


 仕事から帰り、食事を済ませ、風呂に入る。

 寝る前に少しだけ続きを書いて投稿する。


 判で押したような毎日。


 小説投稿サイトを開設してからの閲覧数は、のべ百八十三件。


 一日数百PVでも底辺と言われる界隈だ。

 私は雑魚中の雑魚だわ、と自虐的にもなる。


 たまに閲覧数が十刻みで増えていても、それが誰かの心に届いた証拠なのかはわからない。


 いいねも、感想もない。


 ――まあ、そんなもんよね。


 風呂に浸かりながら、あかりは苦笑した。

 頭のてっぺんまで、ぬるい湯に潜ってみる。

 このまま溺れ死んだら、困るのは大家さんと、下の住人くらいかしら。


 そんなことを考えて、また笑った。


 それでも、書くのはやめなかった。

 自分の中にあるものを、言葉にしてみたかったから。


 翌朝、ベランダの花に水をやりながら、あかりは昨夜の出来事を思い出していた。


 帰宅途中の電車で出会った男性。


 残業続きに、とどめの生理。腹が痛くて、座りたかった。


 けれど、車内は疲れた顔の乗客でいっぱいだった。

 誰もがスマートフォンに目を落とし、どんよりとした空気が漂っていた。


 視線が合ったところで、自分から席を譲ってほしいとは言えない。


 あかりはドア付近の手すりにつかまり、痛みに耐えていた。

 手を握り締め、爪先で手のひらを刺す。

 腕を摘んで、別の痛みで気を紛らわせる。


 額ににじんだ脂汗をハンカチで拭っていたとき、ふいに男性と目が合った。


 彼は小さく頷き、自分の股間を指さした。


 えっ。変態?


 一瞬、そう思った。

 しかし、彼はすっと立ち上がり、あかりの腕を軽く引いた。


「座ってください。次、降りますから」


 顔が熱くなった。


 あかりは何も言えず、ただ頷いて座席に腰を下ろした。


 座席には、彼のぬくもりが残っていた。


 変態なんて思ってしまって、悪かったな。

 降車する彼の横顔を見送り、小さく頭を下げた。


 彼はホームに降りると、すぐ後ろの車両へ歩いていった。


 ――嘘。私を座らせるために?


 そう考えると、頬が熱くなった。

 女性ホルモンのせいかもしれない。


 あかりは両手で頬を包んだ。


 今日は、あのことを書こう。

 そう思って、朝日を眺めた。


 ……興奮して書いた割には、反応はいまいちだった。


 というか、さっぱり。


 私に小説の才能がないのはわかっていた。

 それでも、書いた。


 そんなある日。

 初めて、作品に「いいね」がついた。


 あかりは画面を二度見した。


 ――誰かが読んでくれた!


 それだけで、胸の奥がぽっと温かくなった。


 どんな人だろう。

 興味が湧き、相手のページを訪ねる。

 そこには、歴史小説が並んでいた。


 ……難しそう。


 登場人物の名前からして、覚えられる気がしない。


 あかりは歴史が苦手だった。学生時代から、年号と人名を覚えるだけで頭がいっぱいになる。

 古代の武器、古い言葉遣い、階級や役職名。


 正直、読みたくない。


 けれど、自分の小説を読んでくれた人の作品だ。

 せめて一ページくらいは読もう。

 そう思って読み始めた。


 一ページ読むのに、何十分もかかった。


 人物名を書き出し、知らない言葉を調べ、登場人物の関係を整理する。

 途中でわからなくなり、また最初の行に戻る。


 脳がオーバーヒートしそうだった。


 ようやく読み終えて、自分のホーム画面に戻る。

 また、いいねがついていた。


 ――蒼兎。


 それが、相手の名前だった。


 自己紹介文はない。

 性別も年齢もわからない。


 歴史好きの女性だって多い。

 女性なら、もっと仲良くしてもらえるかな。

 いや、ジャンルが違うから、絡むのは無理か。


 あかりは画面に向かって微笑んだ。


 ――うさぎさん。


 心の中で、勝手にそう呼ぶことにした。


 それから数日、同じことが続いた。


 あかりが投稿する。

 蒼兎が読んでくれる。

 あかりも、蒼兎の歴史小説を読む。


 難しい。

 よくわからない。


 それでも、少しずつ読み進めた。


 ある朝、いつものようにホーム画面を開くと、蒼兎にフォローされていた。


 あかりは、しばらくその文字を眺めていた。


 初めてだった。


 自分の小説を、これからも読みたいと思ってくれた人がいる。

 嬉しくなって、すぐにフォローを返した。


 その朝から、ふたりの間には小さな習慣が生まれた。


 朝、起きてサイトを開く。

 蒼兎の小説を読む。

 いいねを押す。

 自分のページに戻る。

 そこにも、蒼兎のいいねがついている。


 言葉は交わさない。


 けれど、あかりには、それが挨拶のように思えた。


 ――おはよう。


 ある朝、仕事に出る前に蒼兎の小説を開いた。

 半分まで読んだところで、出勤時間が迫ってきた。


 続きが気になる。

 けれど、遅刻するわけにもいかない。

 後ろ髪を引かれる思いで、画面を閉じた。


 帰宅してホーム画面を開くと、いいねが五つついていた。


 全部、蒼兎だった。


 昼間に五ページも読んでくれたらしい。

 あかりは嬉しくなり、慌てて蒼兎のページへ向かった。


 けれど、その日は仕事で疲れていた。

 一ページも読み進められないまま、スマートフォンを持って寝落ちした。




 翌朝。


 歯を磨きながら、あかりは考えた。


 嫌な気持ちにさせたかな。

 五ページも読んでもらったのに、お返しができていない。


 今日はちゃんと読もう。

 そんなことを考えながら会社へ向かった。


 夕方、帰宅してサイトを開く。

 いいねが、ひとつ。


 ――うさぎさん!


 あかりは、ほっと息をついた。


 よかった。

 怒ってない。


 夕飯もそこそこに、昨夜の続きから読み始めた。

 深夜までかかって、どうにか五ページ読み終える。


 最後に、いいねを押した。

 今日も、挨拶ができた。


 あかりはベッドに倒れ込み、そのまま眠ってしまった。



     ◆ ◆ ◆



 夢を見た。


 蒼兎と、小説の話をしていた。


 顔は見えない。

 声もわからない。


 それなのに、優しくて穏やかな声が聞こえる気がした。


 静かな空間で、安心して過ごしていた。

 こんな時間が、ずっと欲しかったのかもしれない。



     ◆ ◆ ◆




 あかりには、友達がいない。


 休日に遊びに行く相手もいない。

 誰かと連絡を取り合うことも、ほとんどない。


 そんな自分に、朝の楽しみができた。


 画面の向こうに、毎朝会える人がいる。

 それだけで、いつもの景色が少し違って見えた。




 休日の午後。


 あかりはソファに座り、蒼兎の歴史小説を読んでいた。


 登場人物が多い。

 名前が難しい。

 誰が誰と戦っているのか、途中でわからなくなった。


「……いや、待って。あんた、さっき死んでなかった?」


 もちろん、返事はない。

 あかりは眉間に皺を寄せ、前のページに戻った。


 それでも、読むのをやめようとは思わなかった。


 蒼兎の小説だから。


 ようやく一ページを読み終え、いいねを押す。

 自分のページに戻ると、また、いいねがついていた。


 蒼兎だった。


 あかりは笑って、また蒼兎のページを開いた。


 一ページ読む。

 自分のページに戻る。

 いいねがついている。


 また開く。


 まるで、隣に座って一緒に画面を眺めているみたいだった。


「ここ、どういうこと?」


 わからないところを指でなぞりながら、あかりは呟いた。


「ねえ、うさぎさん。これ、どういう意味?」


 ――返事はない。


 それでも、蒼兎が隣にいるような気がした。


 少し呆れた顔で、あかりの顔を覗き込んでいる。

 そんな想像をして、ひとりで照れた。


 もし隣にいたら、きっと笑われるだろう。

 歴史小説ひとつまともに読めないのか、と。


 でも、わからないところを教えてもらえたら嬉しいだろうな。


 読み終えたら、お茶でも飲みながら感想を話して。

 そんな穏やかな休日があってもいい。


 あかりは、また一ページ読み進めた。


 画面の向こうにいる人の腕に、抱かれているような気持ちになっていた。


 それからも、毎朝の習慣は続いた。


 あかりが投稿する。

 蒼兎が読んでくれる。

 蒼兎が投稿する。

 あかりが読む。


 ふたりの小説は少しずつ増え、あかりの作品にも、ほかの読者がつくようになった。


 フォロワーが増え、感想も届くようになった。


 それでも、朝一番に確認するのは蒼兎の名前だった。


 いつしか、蒼兎のいいねがついているかどうかで、一日の始まりが変わるようになっていた。


 いいねがなかった朝。

 仕事が忙しいのかな。

 そう思って出勤した。


 帰宅しても、なかった。


 次の日も、その次の日も、蒼兎のいいねはつかなかった。


 ――寂しい。


 けれど、相手にも生活がある。

 毎日読んでもらえることのほうが、よほど不思議だったのだ。


 あかりは気にしないことにした。


 新しい小説を書いて投稿する。

 すると、数時間後にいいねがついた。


 蒼兎だった。

 あかりは、思わず笑った。


「もう。心配したんだから……」


 誰に聞かせるでもなく呟いて、いつものように蒼兎のページを開いた。




 その日、あかりは自分の作品の投稿順を間違えた。


 第十三話を投稿するつもりが、間違えて第十四話を先に公開してしまったのだ。


 すぐに気づいたが、仕事に出る時間だった。


 帰宅してから直そう。

 そう思って家を出た。


 夜、サイトを開くと、蒼兎からいいねがついていた。


 あかりは、少し嬉しくなった。

 けれど、ふと気づいた。


 第十四話には、第十三話を読んでいなければわからない内容が書かれている。


 前の話を読んでいなければ、登場人物の行動も会話の意味もつながらない。


 なのに、蒼兎はいいねを押していた。


 ……まあ、たまたまかな。


 そう思いながら、蒼兎のページを開いた。


 新しい投稿があった。

 歴史小説の続きだ。


 いつものように読み進めようとして、あかりは少し下へスクロールした。


 そこに、読者からのコメントが並んでいた。


「朝イチで読みに来てくれてありがとう!」

「毎朝、同じ時間に一緒に読めて嬉しいです♡」

「まるで恋人みたいですね。明日も待ってます!」


 あかりの指が止まった。


 さらに下へ。

「今日も来てくれてありがとう。蒼兎さんのおかげで、朝が楽しみです!」


 また下へ。

「おはようございます。今日も一緒に読めて幸せです♡」


 別の名前。

 お礼。

 感謝の言葉。


 どれも、見覚えのある気持ちだった。


 朝イチで読みに来てくれてありがとう。

 毎朝、同じ時間に一緒に読めて嬉しい。


 まるで恋人みたい。


 あかりは画面を見つめたまま、動けなくなった。


 自分だけだと思っていた。

 自分だけが、蒼兎と特別な朝を過ごしているのだと。

 自分だけが、蒼兎の小説を読みながら、隣にいるような気持ちになっていたのだと。


 なのに。


「…………なんだ、これ」


 声が漏れた。


 蒼兎は、みんなに同じようにいいねを押していたのだろうか。

 みんなに、同じように朝の挨拶をしていたのだろうか。


 もしかしたら、あの五つのいいねも、誰かに押して回っていたついでだったのかもしれない。


 あかりは、もう一度コメントを見た。


「……ナンパしてただけ?」

 思わず笑ってしまった。


 いや、ナンパかどうかはわからない。

 蒼兎は、ただ交流が好きなだけかもしれない。


 誰にでも親切で、誰の作品も応援する。

 そういう人なのかもしれない。


 でも。

 自分だけが特別だと思っていた。


 ひとりきりの休日に、難しい歴史小説を読みながら、画面の向こうの人に抱かれているような気持ちになった。


 あれは、自分だけの秘密だった。


 蒼兎は知らない。


 自分がどれだけ必死に読んでいたのかも、どれだけ朝のいいねを楽しみにしていたのかも。


 あかりは、ふうっと息を吐いた。


「……まあ、いっか」


 蒼兎が誰にいいねを押そうと、誰と朝の挨拶をしようと自由だ。


 自分も、蒼兎のことを勝手に特別な人だと思っていただけなのだから。


 そもそも、一度も話したことがない。

 知っているのは、名前と小説だけ。

 顔も、声も、年齢も、何も知らない。


 それなのに、恋人みたいな気分になっていたなんて。


「私も大概だわ……」

 あかりは笑った。


 そして、蒼兎の小説を開いた。


 やっぱり難しい。

 相変わらず、登場人物の名前が覚えられない。


 それでも、面白いところは面白かった。

 いいねを押して、自分のページに戻る。


 新しいいいねが、ひとつ。

 蒼兎だった。


 あかりは、しばらくその名前を見つめた。


 それから、小さく笑った。


「……ほんと、マメやねぇ」


 画面の向こうで、蒼兎がどんな顔をしているのかはわからない。


 きっと今も、誰かの小説を読んでいるのだろう。

 あかりも、自分の小説を書き始めた。


 明日の朝、蒼兎が読みに来るかもしれない。

 来ないかもしれない。


 どちらでもいい。


 あの頃、誰も読んでくれなかった小説を、あかりはひとりで書いていた。


 今は、読んでくれる人がいる。

 それだけで、十分だった。


 ……ただ、次に蒼兎からいいねがついたら。


 少しくらい、焦らしてやろうと思う。

 明日の朝は、すぐには読みに行かない。


 ……たぶん。笑




     ★★★




 その夜。


 あかりの作品に、見慣れない名前からいいねがついた。


 BLACKCAT。


 プロフィールを開いてみたが、詳しいことは何もわからない。


 その代わり、メッセージが届いていた。

『小説おもしろいです。また読みに来ますね』


 あかりは、画面を見つめた。

 そして、くすっと笑った。


「……ふふ。いらっしゃいませ」


 今度は、どんな人だろう。


 また明日も読みに来てくれるのかな。

 どんな小説を書く人なのかな。


 想像は膨らみかけた。


 あかりは、そこでいったんスマートフォンを置く。


 まずは、自分の小説の続きを書こう。

 画面の向こうには、まだ知らない誰かがいる。


 いいね、ひとつぶんの距離で。





【あとがき】


 本作はフィクションです。登場人物や出来事は創作であり、実在の人物・団体とは関係ありません。



 過剰妄想から、短編小説を書きたくなりました。



 お名前(ペンネーム)は、ご本人様から許可を取っておりませんので伏せますが、日々の交流から、こんなお話が生まれました。


 勝手に妄想を膨らませてしまい、なんだか申し訳ありません(笑)。


 その方たちをモデルにしたお話ではありませんが、ひらめきのきっかけをいただきました。

 この場をお借りして、御礼申し上げます。


 もちろん、実在の人物や出来事を描いたものではなく、フィクションです!



 読んでくださるみなさまへ。

 感謝を込めて♡




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