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薬子異聞 六  作者: 一介
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第六話 暗雲

親王の即位により強大な力を得た薬子ではあったが、その足元は思いのほか脆弱であった。

 この世の春はしかし長くは続かなかった。帝は再び病に臥《ふ》せることが多くなった。幼少より神経質な帝ではあらせられたが、国家を動かす責任の重圧は思った以上に帝のお心に負担をかけていた。殊に偉大な先帝の跡を継ぎ、なおかつご自身の理想とする姿に改革を加えようとするお考えは、先帝以来宮廷に勤める勢力には疎んじられた。物事というものは理想通りにはいかないものだ。あちらにぶつかり、こちらで躓(つまづ)きながら、それでも目的地が定まっておれば時間がかかっても何としてでも進んでゆける。先帝はその点で非常に強引だった。治世の終わりに近づいてやっと大臣たちの意見に耳を傾けられたのは記憶に新しい。光仁天皇様の足跡を固めつつ、新たな皇統と新たな都の創設そして征夷(せいい)という、いわば静まった泥の中から伸び出る蓮のようなお仕事をなさった。そしてその皇子である今上帝は、天子となるべくしてお生まれになっている。先帝がおおよそ踏み固められた道として今上帝の目の前に広がっているだけにも見えた。

そのような帝の理想的な改革は疎んじられ、薬子の女官制度改革の進言も寵姫の横暴と捉えられた。彼らは、女官達を遠方からの人質ではなく子を産む道具でもなく、職業として宮中で仕える官として採用する有用さには目もくれないのだった。薬子が採用して姫に仕えるよう命じた安積(あさか)も、もし男に生まれていたならばそれなりの官吏(かんり)になっていただろう。女人というだけでどれほど制約を受けているか。だから今般の改革では夫がいる女人の採用も子を成した女人の採用も認めるようにした。それは女人というだけの理由で埋もれている力を引き出し、発揮する場を設けようとの思いからだ。確かに薬子は「寵愛されて」女官長という位にある。帝の愛を利用していると捉える向きもある。しかし、この改革案は采女という存在をただ優遇しようとして提議しているのではない。帝も、寵愛する薬子の意見だからと盲目的に許可を与えているのでもない。帝はこの改革の内容と意義をよくお分かりだからこそ、薬子の案を承認なさっているのだ。

 しかし、帝の改革は現実には遅々として進まなかった。抵抗勢力は表面上は帝の命に従いつつ、その実只々時間を稼いでいた。未婚の女帝の後継者として遠い血族から細い糸が降りてきたような光仁天皇と、そのあとを継いで父帝の血筋を盤石なものにするため、ある時は力づくで帝位を固めていった先帝。そのお二方に続く今上天皇は、帝になるべくしてお生まれになった。それゆえ権力争いもなければ大臣たちとの意見のすり合わせもなさらない。ご自身の理想と素直な感情のみで政が成り立つ、と、そこに何の疑いもないのだ。


 ご自身の理想と現実の狭間で揺れる帝のお心の起伏は、日が経つにつれ顕著になっていた。宴を開いたかと思えば僧に読経をお求めになる。しかしながら帝たるもの表面上は常に平静を保っていなければならない。帝王としてお育ちになってきた帝は、帝として常に相応しい振る舞いを見せねばならない。朝夕心の揺れをひた隠しにしながら、寝所では薬子にその胸の内を吐き出す。生まれつき当たり前のように全てを手にしている人は、容易に手に入れたものを容易に手放してしまう。欲しいものを手に入れるためにどれほど多くの苦難があるかなど、まるで気に留めることがない。全てが当たり前のように目の前に現れ、面倒なことは消える。帝となってもそれは変わりなかった。変わったのは帝という天下を統べるものとなったにもかかわらず、頑として動かない物事があるという事実を目の当たりにされたことだった。とはいえ、よもやその地位を投げ出すようなことはなさるまい。薬子は、帝を何としてでも帝位に繫ぎとめる必要があった。父種継が果たせなかった野望を私と兄仲成の手で完遂するのだ。帝が他の妃の元には通わず薬子を片時も離さずにいるのを幸いに、昼に夜に薬子は帝を奮い立たせ、時に慰め、その心持ちを保とうと腐心していた。


 しかし四月一日、帝は突然譲位(じょうい)を口に出された。薬子は、いやその場にいた大臣も神野(かみの)親王も、全ての人が息をのんだ。帝位を弟宮に譲る。自らは上皇となり、旧都に戻ると。

先帝が平城の宮から長岡京を経て、ようよう遷られた平安の都を出るとおっしゃる。たしかに、長岡京を復興させて遷都することはないだろう。我が父上が非業の死を遂げたあの地。祖母の新笠さまと御母君を相次いで亡くされたあと、平安の都にお移りになる皇太子妃が急逝なさった地でもある。そして今はご自身のお体の具合もよろしくない。寺の力、僧の力、大仏様のおわす奈良に、数々のご不幸に見舞われる以前のお暮しにお戻りになりたいのか。

神野皇子は何度も固辞されたが、帝がお許しになるはずもなく、同年十二日ついに神野皇子は即位なさった。上皇となられた帝はその年の十二月、しつらえがまだ整っていないにもかかわらず、平城の旧都にお戻りになった。


 新たに造られた大極殿からは東大寺大仏殿の鴟尾(しび)が煌煌と輝いているのが見える。願いを叶えよう、何も恐れることはないと教え諭す御仏がその中に鎮座されている。旧都に戻られて、上皇は快癒されたかのようだった。そして再び精力的に政務を執り行われるようになった。そう、政を行う朝廷が二つになったのだ。この二朝廷は政務にも民衆にも混乱を招くことになった。新帝の発する詔、そして上皇のそれが対立した。

 大同五年九月六日、上皇は都を再び平城京に戻すという詔《みことのり》を出された。これはどういうことだ。上皇のおわす平城京に都を移したら今上帝はどうなる。大極殿はどなたが政務を行う場所になるのか。後宮は。大臣は。

ところが、驚いたことに神野親王、いや今上帝はその詔を受けてただちに旧都を再び政治の場とするための手続きをお始めになるという。数多くの官吏が平安の都に集められた。兄の仲成も平安の宮殿に向かった。兄帝の突然の譲位により即位なさってからまだ一年と少し。帝は帝の地位を上皇にお戻しになるつもりなのか。桓武帝の遺言では、安殿親王が帝位についた五年後に弟宮の神野親王に帝位をお譲りになるように、とのことだった。その御遺言に今再び従おうとなさるのか。なんにせよ、今上帝が上皇の詔を受けられたということは、薬子には喜ばしい事だった。この奈良の地が再び都になる。そして私はこの地で上皇の一の女人として、正三位の女官長としてこの国の改革に加わる。

上皇の詔に沿って大臣や官吏が平安京に向かっていく。奈良に都を戻すに必要な手続きをするという。上皇に挨拶したのち平安京に向かう大臣達の姿を見て、上皇は仰った。

「伊勢に参る。」

神代の代から即位なされた場合はもちろん、遷都や御結婚などの際には必ず伊勢神宮に参られる。始祖の神武天皇陵にご報告なさるためだ。とすると、この命は還都のご報告に行幸されるということだ。いよいよだ。

上皇の輿は前年の暴風で壊れたため、新たな輿が造られていた。新たな都、再びの都。上皇の輿は以前のものより少し大きくなったように見えた。


 平安京では、上皇の遷都の詔が届くやいなや、今上帝が伊勢・近江・美濃の三関封鎖の命を出した。平城京にいた藤原真夏、文室綿麻呂《ふんやのわたまろ》等、主だった者たちは平安京に召集された。表向きは再び奈良に都を移すに必要な諸々を官僚たちと協議推進するため、という理由だった。が、既に平安京にいた藤原仲成はそのまま留め置かれ、即座に拘束された。そして九月十日、仲成と薬子は官位を剥奪された。


 平城の都では東国に向かう御幸の支度が慌ただしく整えられていた。そして九月十一日、上皇とその御一行は出立の朝を迎えた。この日は多くの官吏と女官達も行幸に付き従った。遷都の詔を伊勢に報告するのである。当然それに相応しい行列であった。ところが、直前になって朝原内親王と大宅内親王二人の妃から同行を取りやめる、との申し出があった。

 薬子は寵姫で典司といっても一女官である。妃である内親王様方がおでましになるなら、その後ろを徒歩で同行することになっただろう。しかしこの行幸に二妃はおいでにならないという。上皇は侍従に命じて上皇の御輿に薬子の席を設けさせた。

なんということだろう。上皇はこの時、位では亡き太皇太后《たいこうたいごう》さまや皇后さまに並び、今上帝の御姉妹でもあられる内親王妃様方より上位の待遇を薬子に与えたのだった。

薬子は上皇の御輿に同輿して朱雀門から羅城門を出た。この大通りを東に進み、都の南東角の五徳池まで進む。その向こうは都の外だ。ここから川口道を通って東方の伊勢神宮へと向かう。およそ五日の行幸となるだろう。伊勢にご報告に参ると、いよいよ薬子は並ぶものない地位と名誉そして権力を手にするのだ。


 早朝出発した行列は順調に進んでいった。添上から東へ。上皇の輿は薬子と二人を載せて通常より緩々とその歩みを進めていった。やがて陽が傾き、行列は今夜の宿泊地に着いた。

都を一歩出ると、そこは田畑が広がるか荒れ野かといったところだ。山々の間を抜けるので、日が落ちるのは都よりもずっと早かった。寺社とその地の豪族に食事寝所の用意をさせて、一行は早々と休むこととした。先ずは一日目。一歩ずつ輝かしい未来が近づいてくる。


 東に連なる山々の隙間から朝日が昇り、朝餉の支度が整うかという頃、都からの緊急の使いが飛び込んできた。


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