第七章 それぞれの自立
第七章 それぞれの自立
五月晴れの空が広がる土曜日。
明宏の部屋からは、生活の匂いがすっかり消えていた。
段ボール箱の山が引っ越し業者のトラックに積み込まれていくのを、和江は玄関先で腕を組んで眺めていた。
手伝いはしない。
これは明宏の引っ越しであり、彼自身の事業だからだ。
「よし、これで最後か」
最後に自分の鞄を持った明宏が、何もない部屋を見回してから降りてきた。
新しい部屋は、会社まで電車で二十分の場所にあるワンルームだ。
家賃、敷金、礼金、そして家具の購入費。
そのすべてを、母から渡された「例の通帳」と、自分の貯金で賄った。
明宏は玄関で靴を履き、和江に向き直った。
「母さん」
「忘れ物はないね」
「うん。……いろいろ、世話になった」
明宏は深く頭を下げた。
一年前、不満たらたらで判子を押した契約書。
あの日の自分を殴ってやりたいと、今の明宏は思う。
この家を出るということは、もう誰も食事を作ってくれないということだ。
風邪を引いても、金がなくて困っても、詐欺師から電話がかかってきても、すべて一人で対処しなければならない。
その恐怖がないわけではない。
だが、今の彼の胸にあるのは、恐怖を上回る不思議な高揚感だった。
「いつでも帰ってきていいなんて、言わないからね」
和江は突き放すように言った。
「盆と正月くらいは顔を見せてもいいけど、泣き言を言いに来るのはナシだよ。あんたの部屋は、もう物置にする予定なんだから」
「わかってるよ。……もう、甘えない」
明宏は顔を上げ、ニカっと笑った。
「俺の人生のスポンサーは、これからは俺だからな」
それは、和江が教え込んだ哲学そのものだった。
和江は満足そうに頷き、短く告げた。
「行きな」
「行ってきます!」
明宏は力強く宣言し、ドアを開けた。
眩しい陽光が玄関に差し込む。
彼は一度も振り返らず、トラックの助手席へと走っていった。
その背中は、一年前よりも、一週間前よりも、一回り大きく見えた。
*
トラックがエンジン音を響かせて走り去っていく。
それが見えなくなるまで見送った後、和江はゆっくりと玄関のドアを閉めた。
カチャリ。
鍵を掛ける音が、いつもより大きく響いた気がした。
リビングに戻ると、圧倒的な静寂が満ちていた。
テレビの音も、息子の足音も、「飯まだ?」という声もない。
寂しさがこみ上げてくるかと思ったが、意外にも和江の心に浮かんだのは、清々しい開放感だった。
「終わった……」
和江は大きく伸びをした。
二十三年。長い長い業務だった。
理不尽な離婚、経済的な困窮、反抗期、そして就職。
数え切れないほどの壁を乗り越え、今日、彼女は「母親業」を定年退職したのだ。
和江はキッチンの冷蔵庫を開け、一番奥に隠してあった高級な缶ビールを取り出した。
昼間から飲むつもりだ。誰に気兼ねすることもない。
プシュッ、と軽快な音が弾ける。
一口飲むと、苦味と共に自由の味が喉を駆け抜けた。
「さて」
和江はリビングのテーブルに置かれた旅行パンフレットを手に取った。
温泉に行こうか。それとも、習い事でも始めようか。
通帳の残高は減ってしまったが、自分の稼ぎはこれからは自分のために使える。
息子は、自分の足で歩き出した。
なら、私も負けてはいられない。
五十三歳。
人生百年時代と考えれば、まだ折り返し地点を過ぎたばかりだ。
「秋山和江の人生は、これからだね」
彼女は誰もいないリビングで、一人、高らかに乾杯をした。
窓の外では、ハナミズキの花が風に揺れ、次の季節の訪れを告げていた。
(完)
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