第六章 母の本心
詐欺騒動から一週間が過ぎた日曜の夜。
夕食を終え、自室に戻ろうとしていた明宏を、和江が呼び止めた。
「明宏、ちょっと座りなさい」
改まった口調に、明宏は身構えた。
また何か小言を言われるのだろうか、あるいは家賃の値上げだろうか。
恐る恐るダイニングテーブルに戻ると、和江は一冊の通帳と、一本の印鑑をテーブルの上に置いた。
「……何、これ」
「あんたの名義で作っておいた。中を見てみな」
言われるがまま、明宏は通帳を開いた。
記帳された数字の羅列を目にした瞬間、彼の目が大きく見開かれた。
毎月二十五日に入金された、五万円の記録。
それが十二回。
さらに、最後の日付で少し大きな金額が上乗せされており、残高の合計は百万円近くになっていた。
「これ……俺が払った生活費?」
明宏は震える声で尋ねた。
「そうだよ」
和江は湯呑みを両手で包み込みながら、どこか遠くを見るような目をした。
「一円も使っちゃいない。最初から、これはあんたの金だ」
理解が追いつかない。
あんなに冷徹に徴収し、遅延は許さないと凄んでいた金だ。
てっきり母の老後資金か、生活の足しに消えているものだと思っていた。
「ど、どうして……? だって母さん、『タダで住めると思うな』って……」
「そう言わなきゃ、あんたは甘えるだろう?」
和江は苦笑交じりに言った。
「本当ならね、私だって美味しいものを腹一杯食わせてやりたいし、稼いだ給料は全部あんたの好きに使わせてやりたいよ。親なんてのは、みんなそう思ってるもんだ」
それは、初めて聞く母の弱音のような本音だった。
「でも、それじゃあダメなんだ。あんたの父親みたいになっちまう」
和江の脳裏に、元夫の顔が浮かぶ。
優しかったが、弱かった男。
困難に直面するとすぐに誰かの背中に隠れようとした男。
「世の中は厳しい。会社も、他人も、親ほど甘くはない。あんたが一人で立って、雨風を凌げるようになるまでは、私が鬼になるしかなかったんだよ」
和江は通帳に視線を落とした。
「その金は、あんたが一年間、文句を言いながらも歯を食いしばって払った結果だ。言わば、あんたの忍耐と努力の結晶だよ」
そして、和江は真っ直ぐに息子を見た。
「詐欺の電話の時、私は『金は出さない』と言ったね。あれは本心だ。借金の尻拭いに使う金なんて一銭もない」
一呼吸置き、和江は言葉に力を込めた。
「でもね、明宏。あんたが『前に進む』ために使う金なら、いくらだって用意してやるつもりだったんだ」
最後に入金された上乗せ分。
それは和江がコツコツと貯めていた、ささやかな祝い金だったのだろう。
明宏の視界が滲んだ。
母の厳しさ。冷たさ。突き放すような言葉。
そのすべてが、自分を独り立ちさせるための、緻密な計算と、身を切るような我慢の上に成り立っていたのだ。
息子に嫌われることを恐れず、ただ息子の未来だけを案じて演じ続けた「鬼」。
その深い愛情の重みに、明宏は言葉が出なかった。
「……母さん」
「湿っぽいのはよしておくれ」
和江は照れ隠しのように顔を背けた。
「その金で、家を出なさい。敷金礼金、家具家電を揃えても十分足りるはずだ」
それは、実質的な「追い出し」宣言だった。
しかし、今の明宏には、それが母からの最高の卒業証書であることが痛いほど分かった。
「……うん」
明宏は通帳を強く握りしめた。
「ありがとう。……ありがとう、母さん」
何度も頭を下げる息子を見て、和江は満足そうに、ほんの少しだけ目を細めた。
「礼には及ばないよ。さあ、もう寝なさい。明日も仕事だろう」
明宏が部屋に戻った後、和江は一人、リビングに残った。
手元から通帳がなくなったテーブルは、少しだけ広く、そして寒々しく感じられた。
寂しくないと言えば嘘になる。
けれど、これでいい。
鳥はいつか巣立つものだ。
翼を鍛えずに空へ放り出すことこそが、親の罪なのだから。
「……せいせいするね」
和江は誰にも聞こえない声で強がりを言った。
その目尻には、光るものが一筋だけ浮かんでいたが、彼女は乱暴に指で拭い去った。




