第四章 百万円の電話
その日、和江は久しぶりの有給休暇を取っていた。
午後一時。
溜まっていた家事を片付け、淹れたてのほうじ茶を啜りながら、録画していたドラマを見る。
平日の昼間に家にいるという背徳感が、お茶の香りを一層引き立てていた。
静寂を破ったのは、リビングの固定電話だった。
ジリリリ、ジリリリ。
無機質な呼び出し音が部屋に響き渡る。
和江は眉を少しだけ寄せ、受話器へと手を伸ばした。
「はい、秋山です」
『……あ、母さん? 俺だけど……』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、微かに震える男の声だった。
鼻声で、どこか切羽詰まっている。
「明宏かい? どうしたの、こんな時間に。会社は?」
『いや、それが……ちょっとヤバいことになって』
男は言葉を濁し、嗚咽のような息を漏らした。
『俺、今日、取引先に支払いに行く途中で鞄を置き忘れちゃって……。その中に、会社の小切手が入ってたんだ』
「小切手?」
『うん。すぐに戻ったんだけど、もう鞄がなくて……。今日中に決済できないと、契約違反で会社に損害が出ちゃうんだ。クビになるかもしれない……どうしよう、母さん』
和江の表情から、すうっと温度が消えた。
一年前の就職初日、ネクタイを直してやったあの朝の光景が脳裏をよぎる。
あれから一年。
順調に見えていた息子の、これが本性か。
和江は冷静に問い返す。
「で、いくら足りないんだい」
『ひゃ、百万……。とりあえず百万円あれば、なんとかなるんだ』
「百万」
和江が金額を復唱すると、電話の向こうで気配が変わった。
『ちょっと代わります』
太い、威圧的な男の声が割り込んできた。
『もしもし、お母様ですか? わたくし、上司の宮本と申します。息子さんの不始末については大変遺憾に思っておりましてね』
「はあ」
『本来なら即刻警察に通報し、業務上横領として処理するところですが、息子さんの将来もあります。今日中に補填していただければ、内々に済ませることも可能です。一五時までに、指定の口座へ振り込んでいただけますか?』
宮本と名乗る男は、早口で畳み掛けてきた。
警察。
横領。
将来。
親の不安を煽るキーワードを巧みに散りばめ、思考する時間を与えないようにしている。
普通なら、ここでパニックになり、「息子のために何とかしなければ」と通帳を探し始めるだろう。
だが、秋山和江は違った。
彼女はほうじ茶を一口啜り、ゆっくりと口を開いた。
「それで?」
『……は?』
「百万円払えば、警察沙汰にはしないと仰るんですね」
『ええ、そうです。ですから急いで……』
「お断りします」
和江の声は、氷のように冷徹だった。
電話の向こうで、絶句する気配が伝わってくる。
『い、いや、お母様? 聞こえなかったんですか? 息子さんがクビになるんですよ? 下手をすれば逮捕です。犯罪者になりますよ?』
「結構です。警察でも何でも突き出してください」
『なっ……!?』
「二十三にもなって、会社の金が入った鞄をなくすような間抜けです。そんな社員、会社にとってお荷物でしょう。クビにしていただいて構いません。むしろ、厳しい社会のルールを教えてやってください」
和江は淡々と言い放った。
そこには、息子を案じる慈愛も、動揺も一切ない。
あるのは「自分の尻は自分で拭け」という、岩のように硬い信念だけだった。
『あ、貴女、それでも母親ですか!? 息子が可愛くないんですか!』
宮本の声が裏返り、焦りの色が混じり始める。
「可愛いからこそ言ってるんです」
和江は毅然と返した。
「私が百万払って助けたとして、あの子はまた同じ失敗をするでしょう。親が尻拭いをしてくれると思っているうちは、いつまで経っても子供のままです」
『……狂ってる』
「何とでも。ああ、それから」
和江は、横で青ざめているであろう(と想像する)息子に向かっても言葉を投げかけた。
「聞こえてるね、明宏。金が必要なら、自分でなんとかしなさい。消費者金融でも何でも行って、自分の名前で借りてきなさい。私は一円も出さないし、保証人にもならない」
『まっ、待ってください母さん! 俺、本当に困ってて……!』
再び息子を名乗る男が泣きついてくるが、和江は容赦なく切り捨てた。
「甘えるんじゃないよ!」
リビングに一喝が響いた。
「男なら、自分で撒いた種は自分で刈り取れ! 二度とこんな電話してくるな!」
ガチャンッ!!
和江は受話器を叩きつけるように置いた。
荒くなった息を整え、再び座椅子に腰を下ろす。
心臓が早鐘を打っていたが、それは恐怖からではない。
どうしようもない息子への、煮えくり返るような怒りからだった。
「……馬鹿な子だね、本当に」
和江は冷めかけたお茶を一気に飲み干した。
百万円などという大金、逆立ちしたって今の生活口座には入っていない。
だが、たとえ手元に一億円あったとしても、和江の答えは同じだっただろう。
時計を見る。まだ一時半だ。
和江はふう、と大きく息を吐き、テレビのリモコンを手に取った。
画面の中では、ドラマの主人公が恋に悩んでいる。
和江は日常へと意識を戻そうと努めたが、胸の奥のざわめきだけは、夜まで消えることはなかった。




